第7話 暴かれる本当の不倫
ファンシーな着信音が、凍りついたリビングに鳴り響く。
兄のリョウタは、震える手でアヤさんのバッグを掴み、乱暴にスマホを引きずり出した。
画面には『トモヤさん(会社)』の文字。
明らかに偽装された登録名だ。
「……出ろよ」
兄が低い声で唸る。しかし、アヤさんは真っ青な顔で首を振るだけだ。
業を煮やした兄は、自ら通話ボタンを押し、スマホを耳に当てた。いや、全員に聞こえるようにスピーカーモードにした。
『……もしもし? アヤ? ごめん、バレた……』
カオルさんのスマホ越しに聞こえる、男の情けない声。
それは、この場にいる全員にとって、動かぬ証拠(死刑宣告)となった。
「ふざけるなッ!!」
兄が絶叫し、スマホを床に叩きつけた。
バキッ、という破砕音と共に、電子音が途切れる。
「どういうことだ! 説明しろ!」
兄がアヤさんに詰め寄り、その肩を激しく揺さぶる。
アヤさんはされるがままになっていたが、ふと、その身体から力が抜けた。
そして。
「……あーあ。壊れちゃった」
アヤさんは、壊れたスマホを見下ろして、ケラケラと笑い出した。
その笑い声は、いつもの上品なものではなく、どこか壊れた、下品な響きを帯びていた。
「なに笑ってるんだ! 俺という夫がいながら、なんでだ!」
「だってェ、リョウタさん、つまんないんだもん」
アヤさんは顔を上げ、蔑むような目で兄を見た。
そこにはもう、しとやかな「良き妻」の仮面は欠片も残っていなかった。
「エリート公務員の妻っていう肩書きは気に入ってたけどさあ。あなたは堅物で、話してても退屈だし。夜だって下手くそだし」
「なっ……!」
「刺激が欲しかったのよ。トモヤさんは顔も良いし、話も面白いし。都合よく遊べる相手だったの」
悪びれる様子もなく、淡々と語るアヤさん。
そのふてぶてしい態度に、私は寒気すら覚えた。
この人は、最初から私たち家族を……兄を「便利な道具」としか見ていなかったのだ。
「……じゃあ、なんで私なの」
私は乾いた喉で問いかけた。
「遊ぶだけなら勝手にすればいい。どうして鍵を使って、私に罪をなすりつけたの?」
「バレそうになったからに決まってるじゃない」
アヤさんは面倒くさそうに私を見た。
「あのね、ヒカリちゃん。誰かを生贄にしなきゃいけなかったの。リョウタさんは私のATMだし、お義父さんたちは世間体のガードとして必要でしょ? でもヒカリちゃんは?」
彼女は小首を傾げ、残酷な事実を口にした。
「ヒカリちゃんは、この家族の中で一番『どうでもいい存在』でしょ?」
心臓を素手で握りつぶされたような気がした。
「地味で、独身で、冴えない事務員。ヒカリちゃんが不倫したってことにすれば、みんな『あの子ならやりかねない』って思う。誰も真剣に庇わない。私の計算通りよ」
アヤさんは勝ち誇ったように家族を見回した。
「実際その通りになったじゃない。お義父さんもお義母さんも、リョウタさんも。誰一人ヒカリちゃんの言葉を信じなかった。私の可愛い嘘の方を信じて、実の娘を追い出したんでしょ?」
父も、母も、兄も、何も言い返せなかった。
その沈黙こそが、肯定だった。
ああ、そうだ。
この女の言う通りだ。私は、この家族にとって「守る価値のない人間」だったのだ。
「……ふざけるんじゃないわよ!」
私の代わりに叫んだのは、カオルさんだった。
彼女はツカツカとアヤさんに歩み寄ると、その頬を力任せに引っぱたいた。
パァンッ!!
乾いた音がリビングに響く。アヤさんの顔が弾かれたように横を向く。
「私の家庭を……よくも泥足で踏み荒らしてくれたわね!」
「何よ! あんたの旦那が誘ってきたんでしょ!」
アヤさんも負けじとカオルさんの髪を掴む。
取っ組み合いの喧嘩が始まった。皿が落ち、グラスが割れる。
「やめて! 近所に聞こえるでしょ!」
「警察は呼ぶな! 家の恥だ、やめさせろ!」
母と父が慌てふためいて叫ぶ。
こんな状況になっても、彼らが気にするのは「近所の目」と「世間体」だけ。
誰ひとりとして、私に謝ろうとはしない。
目の前で繰り広げられる地獄絵図。
けれど不思議と、私の心は凪いだ海のように静かだった。
かつて私を縛り付けていた「家族への期待」や「情」といった鎖が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「……行くぞ」
呆然と立ち尽くしていた佐伯弁護士に声をかける。
「え、あ、ああ……」
「気が済むまで殴り合えばいいわ」
私は、修羅場の中心にいる家族たちに背を向けた。
「待て、ヒカリ!」
兄が呼び止める声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
「私はもう他人だから。関係ないわ」
そう言い放ち、私はリビングを出た。
背後で響く怒号と悲鳴が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。
壊れていく。
私の人生を壊そうとした彼らが、今、自ら崩壊していく。
「……ざまあみろ」
夜風の吹き込む玄関を出た時、私は誰に聞かせるでもなく、小さくそう呟いた。




