第5話 人違いという地獄
「……おい」
弁護士の佐伯が漏らした声は、震えていた。
彼は私の免許証と、テーブルの上の「証拠写真」を何度も見比べている。
額から脂汗が滲み出て、ポタリと書類の上に落ちた。
「どうかしましたか、佐伯先生? 早くその女に認めさせてくださいよ!」
カオルさんが苛立ちを露わにする。
しかし、佐伯は真っ青な顔で首を横に振った。
「ち、違う……」
「は? 何が?」
「別人だ……。骨格レベルで違う。これは『三上ヒカリ』ではない」
その言葉は、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。
「な……何言ってるのよ! 興信所が撮ったのよ!?」
「よく見ろ! 写真の女の身長だ!」
佐伯が突然、金切り声を上げて写真を指差した。
「夫のトモヤ氏の身長は175センチ。写真の女は10センチのヒールを履いて、彼と耳の位置がほぼ同じだ。つまり、推定身長は165センチ前後……」
佐伯は私を指差した。
「だが、目の前の三上ヒカリはどう見ても155センチ前後しかない! ヒールを履いても届かない高さだ! それに、この写真の女の手……指が長い。三上さんの手とは形がまるで違う!」
カオルさんがハッとして、私の手元を見た。
私は呆然と自分の手を見つめ返す。
確かに、写真に写っている女性の手はスラリとしていて、マニキュアが塗られている。
爪も伸ばしたことのない私の手とは、似ても似つかない。
「じゃ、じゃあ……誰なのよ」
カオルさんの声が震え始めた。
「夫は『三上ヒカリの部屋』に通っていたって言ったのよ。ここは間違いなくこの女の部屋じゃない!」
「そ、そうだ! 部屋は合っている! 夫がここだと言ったんだ!」
佐伯が叫ぶ。溺れる者が藁をも掴むような必死さで、私に詰め寄った。
謝罪の言葉なんて、一言もなかった。
あるのは、自分のミスを揉み消したいという浅ましい保身だけだ。
「おい三上! お前、合鍵を誰に渡した!」
「え……?」
「とぼけるな! お前じゃないなら、別の誰かが合鍵を使ってこの部屋をラブホテル代わりに使っていたってことだ! 管理不行き届きでお前にも責任があるんだぞ!」
耳を疑った。
いきなり部屋に乗り込んで、犯人扱いして、退職に追い込んでおきながら、「お前にも責任がある」?
ふざけるな。
叫び出したいほどの怒りが湧き上がるはずなのに、あまりの理不尽さに感情が追いつかない。
「合鍵なんて……誰にも……」
「よく思い出せ! 家族は!? 友人は!? 男を連れ込みそうな派手な女に心当たりはないのか!?」
派手な女。
写真の中の、茶髪で、スタイルの良い後ろ姿。
香水の匂い。
――ヒカリちゃん。認めて謝っちゃったほうがいいの。
――お金のことなら、私たちがなんとかしてあげるから。
脳裏に、あの日の義姉アヤさんの言葉が蘇る。
そして、もっと前の記憶。
『ヒカリ、あんた仕事忙しいんでしょ。たまには掃除しに行ってあげるわよ』
半年ほど前、母が強引に合鍵を持って行ったことがあった。
そして数日後、『お母さんから預かってきたわー』と言って、鍵を返しに来たのは――アヤさんだった。
あの日、アヤさんは鍵を持ったまま、数時間私の部屋にいた。
合鍵を作る時間なんて、いくらでもあったはずだ。
「……あ」
全身の血が逆流するような感覚。
まさか。嘘だ。
だって、あんなに優しかったのに。
家族の中で唯一、私を庇ってくれたのに。
でも、もし、あれが「庇っていた」のではなく、「自分の罪を私になすりつけようとしていた」のだとしたら?
私に罪を認めさせれば、彼女は無傷でいられる。
だから、「お金は出す」と言ったのか。身代わりへの手切れ金として。
「思い出したのか!? 誰だ、言え!」
佐伯が私の肩を掴んで揺さぶる。
私は彼の手を振り払う気力もなく、ただ乾いた笑い声を漏らした。
「……は、はは」
滑稽だ。あまりにも滑稽だ。
私は、自分を陥れた真犯人を「唯一の味方」だと信じて縋り付いていたなんて。
会社をクビになり、親に勘当され、死にたいとまで思ったこの一週間。
そのすべての元凶が、実家でぬくぬくと「良き妻」を演じている。
涙は出なかった。
その代わりに、腹の底からドス黒く、冷たい炎が燃え上がった。
「三上さん! 黙っていないで答えなさい!」
カオルさんが叫ぶ。
私はゆっくりと顔を上げた。
「……案内します」
「は?」
「その『犯人』がいる場所に。今すぐ」
私は立ち上がった。
もう、恐怖はない。
あるのは、このふざけた茶番を終わらせなければならないという、冷徹な使命感だけだった。
「行きましょう。私の実家へ」




