第4話 弁護士の来訪
ドアを開けた瞬間、甘ったるい香水の匂いが鼻をついた。濃厚な薔薇のような、むせ返るような香り。
私の狭い玄関に、不釣り合いなほど華やかな女性と、スーツ姿の男が立っていた。
「あなたが三上ヒカリ?」
女性――藤堂カオルさんが、私を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見下ろす。
その目には、隠しきれない軽蔑と憎悪が渦巻いていた。
私は小さく頷くことしかできなかった。
「……上がらせてもらいますよ」
返事も待たずに、カオルさんは靴を脱ぎ捨て、ズカズカと部屋の中へ入ってきた。
男――弁護士の佐伯もそれに続く。
6畳1間の私の部屋は、数日間の引きこもり生活で荒れ放題だった。飲みかけのペットボトル、散乱したティッシュ。
「うわ、汚い部屋……。やっぱり、人間性が表れてるわね」
「奥さん、落ち着いてください。感情的にならず、事務的に済ませましょう」
佐伯弁護士は冷静さを装っているが、私を見る目は冷ややかだ。
まるで汚物を見るような目で、部屋の真ん中にある小さなローテーブルに鞄を置いた。
「座ってください」
自分の部屋なのに、私は命令されるがまま、二人の対面に正座した。
心臓の音がうるさい。喉が渇いて張り付く。
「単刀直入に言います。これが示談書の案です」
佐伯弁護士が書類を広げる。
「慰謝料は請求通り300万円。これを支払えば、裁判は起こしません。職場やご実家へのこれ以上の接触も控えます」
「……払えません」
「は?」
「払えませんし、認められません。私は、本当に……やってないんです」
私の蚊の鳴くような反論に、カオルさんが激昂してテーブルを叩いた。
「まだ嘘つくの!? 往生際が悪すぎるわよ! 主人は認めたのよ!」
「え……?」
「主人は自白したの。『三上ヒカリ』のマンションに通っていたって! 合鍵も持っていたって! それでもまだシラを切るつもり!?」
頭を殴られたような衝撃だった。
相手の旦那さんが、認めた?
私の名前を? 私の部屋を?
どういうこと? 私はその人の顔も知らないのに。
「そんな……嘘です。私、その人のことなんて……」
「いい加減にしなさいよ!」
カオルさんが立ち上がりかけ、佐伯弁護士がそれを手で制する。
彼は深いため息をつくと、鞄から別の封筒を取り出した。
「口で言っても無駄なようですね。興信所の報告書があります」
バサリ、と数枚の写真が目の前に放り出された。
私は震える手でそれを拾い上げる。
写っていたのは、私の住むアパートの入り口だ。
夜の闇に紛れて、一人の男性が入っていく。SNSで見たあの人、藤堂トモヤだ。
そして、その隣には――。
「……え?」
男性に寄り添うように歩く、茶髪の女性の後ろ姿。
服装は派手なワンピースで、ヒールの高い靴を履いている。
二人は親密そうに体を寄せ合い、慣れた手つきで『私の部屋のオートロック』を開けていた。
「これ……私じゃありません」
私は写真を指差して訴えた。
「私は黒髪です。こんな派手な服も持っていません。背だって、この人はヒールを履いて男性と同じくらいありますけど、私は……」
「髪型なんて美容院に行けば変わるでしょう。服も着替えればいい。そんな子供騙しの言い訳が通用すると思っているんですか」
佐伯弁護士は鼻で笑った。全く取り合ってくれない。
彼らにとって、私は「嘘つきの不倫女」というカテゴリーに分類されていて、何を言っても「悪あがき」にしか聞こえないのだ。
「いいですか、三上さん。夫のトモヤ氏も『ヒカリの部屋に行った』と白状しています。証拠は揃っているんです。これ以上ゴネるなら、徹底的にやりますよ」
佐伯弁護士の言葉は、鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。
もう、ダメだ。
誰も信じてくれない。証拠まで捏造されているような状況で、私一人で何ができるというのか。
「……とにかく、本人確認をします。形式的なことですが」
佐伯弁護士が苛立ったように言った。
「運転免許証か何か、身分証を出してください」
私はロボットのように立ち上がり、バッグから財布を取り出した。
免許証を抜き出し、テーブルの上に置く。
佐伯弁護士はそれを無造作に手に取り、手元の資料と見比べ始めた。
「三上ヒカリ。昭和……住所も一致……」
事務的に読み上げていた彼の言葉が、ふと止まった。
1秒、2秒。
沈黙が落ちる。
佐伯弁護士は、免許証の顔写真と、目の前にいる私を交互に見た。
そして、テーブルの上の「興信所の写真(茶髪の女)」へと視線を移す。
免許証の中の私は、黒髪で、化粧っ気のない地味な顔をしている。
今の私も、数日間の憔悴でさらにやつれているが、基本的には免許証と同じだ。
一方、写真の中の女は、後ろ姿や横顔だけでもわかるほど華やかで、自信に満ちたオーラを放っている。
「……おい」
佐伯弁護士の眉間の皺が深くなった。
彼はもう一度、興信所の報告書をめくった。
――夫が「部屋」を自白したため、調査員はその部屋に入る女を詳しく確認せず、「対象者」として撮影しただけだったとしたら?
目の前にいるのは、どう見ても『地味で真面目そうな、今の今まで部屋に引きこもっていた女』だ。
ウィッグやメイクで変えられるレベルを超えた、骨格や雰囲気の決定的な「違い」。
「どうかしましたか、佐伯先生?」
カオルさんが怪訝そうに尋ねる。
佐伯弁護士は、困惑したように私を凝視したまま、呟いた。
「……いや、何かがおかしい」
その瞬間、彼が纏っていた「正義の代理人」としての鉄壁の余裕が、ガラガラと崩れ始めた。




