第3話 誰も信じてくれない
どうやって自分のアパートまで戻ってきたのか、記憶が定かではない。
気づけば私は、電気もつけない暗い部屋の隅で、膝を抱えて震えていた。
時計の針は深夜2時を回っている。
昨日までは、ここは私にとって唯一の安らげる場所だった。
けれど今は、孤独を閉じ込める冷たい箱のように感じる。
テーブルの上には、持ち帰ったクシャクシャの内容証明と、退職届の控え。
これらが存在する限り、私はもう「普通の三上ヒカリ」には戻れないのだと、無慈悲に突きつけてくる。
「……寒い」
暖房をつける気力もなく、私は服を着たまま布団に潜り込んだ。
目を閉じると、母の怒鳴り声や、兄の冷徹な目、そしてアヤさんの「認めちゃいなよ」という言葉が、呪詛のように脳内を駆け巡った。
***
それから3日が過ぎた。
私は部屋から一歩も出られずにいた。
カーテンの隙間から外を見ると、道を歩く人々が全員、私のことを噂しているような気がして怖いのだ。
「あいつが不倫女だ」「会社をクビになった恥知らずだ」と。
スマホは、不気味なほど沈黙を守っている。
家族からの連絡はあれ以来、一度もない。
試しに兄へメッセージを送ってみたが、既読すらつかなかった。
ブロックされたのだと気づいた時、私の心の中で何かがプツリと切れた。
――相手は、どんな人なんだろう。
ふと、そんな衝動に駆られた。
私はスマホの検索窓に、『藤堂トモヤ』という名前を打ち込んだ。
珍しい名前ではないけれど、地域の情報と組み合わせれば、特定するのは難しくなかった。
数分後、一つのSNSアカウントに行き着いた。
『トモヤ&カオルの日常記録』
プロフィール画像には、笑顔の男女が寄り添って写っている。
少しふっくらとした優しそうな男性と、キリッとした美人の女性。
最新の投稿は1ヶ月前。
『結婚記念日のディナー』というタイトルで、幸せそうなツーショット写真がアップされていた。
「……誰?」
画面の中の男性を凝視する。
知らない。見たこともない。
街ですれ違った記憶すらない、完全な赤の他人だ。
それなのに、私はこの男性と不倫をして、家庭を壊したことになっている。
「嘘だ……こんなの、何かの間違いだ」
指先が震えて、スマホを取り落としそうになる。
私はこの人の連絡先も知らないし、声も聞いたことがない。
なのに、会社は私をクビにした。
親も、兄も、義姉さんも、みんな「お前がやった」と言った。弁護士だって証拠があると言っている。
――記憶喪失? 二重人格?
私の知らない私が、夜な夜なあの男の腕に抱かれていたというの?
そうでなければ説明がつかない。世界中が嘘をついているのでなければ、私が狂っているのだ。
鏡を見るのが怖かった。
そこに映るやつれた女が、とんでもない嘘つきの犯罪者に見えてくる。
正気が、音を立てて削り取られていく。
***
備蓄していたパンも底をつき、空腹と絶望で意識が朦朧としていた時だった。
『ピンポーン』
静寂を切り裂くチャイムの音に、私は跳び上がった。
心臓が破裂しそうになる。
誰? 集金?
それとも、家族が迎えに来てくれたの?
息を潜めて、ドアの向こうの気配を伺う。
しかし、訪問者は帰ろうとしない。
再びチャイムが鳴り、続いてドアをノックする音が響いた。
「三上ヒカリさん。いらっしゃるのはわかっています」
低く、冷たい男の声。
そして、聞き覚えのある名前が告げられた。
「弁護士の佐伯です。通知人の藤堂カオルさんと一緒に来ています。……出てきていただけますか」
血の気が引いた。
敵が、本丸に乗り込んできた。
ここには私を守る壁も、味方もいない。
居留守を使おうか。
でも、そんなことをすれば、さらに立場が悪くなるだけかもしれない。
逃げ場なんて、最初からなかったのだ。
「……もう、いいや」
ふっと、力が抜けた。
殺されるなら、それでもいい。この終わりのない恐怖と孤独から解放されるなら、なんだっていい。
私はふらつく足で立ち上がり、玄関へと向かった。
震える手で鍵を開け、ドアノブを回す。
ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは、SNSで見た通りの冷ややかな美女と、怜悧な目をしたスーツ姿の男だった。




