乳母の記憶
アンジェラは、その玉を手にヴァルヴァラの居間へと飛び込んだ。
ヴァルヴァラは、正面の寝椅子で眠っている。
アイーシャが、顔を上げて言った。
「どうした?何か見付かったか。」
アンジェラは、頷いて玉を出した。
「これを!アナスターシャの母のサーシャの記憶ぞ!これが残っておったのだ!」
「ええ?!」
エフィムもダリヤも声を上げる。
その声に、ヴァルヴァラが目を開けた。
「…なんぞ?何かあったか。」
アンジェラは、頷いて玉を差し出した。
「ヴァルヴァラ様、アナスターシャの母のサーシャの記憶の玉でございます!これで、ヴァレーリア様の赤子の頃からの記憶が全て見られまする!」
ヴァルヴァラは、目を見開く。
「…確かにサーシャは母上の乳母であったし、赤子の頃から知っておろう。ならば見ようぞ。サーシャは仙術にかなり詳しいはずだし、そんな書を調べるよりも余程情報があるのではないのか。」
アンジェラは、何度も頷いた。
「はい、もしかしたら、ヴァレーリア様さえ知らなんだ、膜の術の解き方を知っておったのもしれませぬし。」
ヴァルヴァラは、その玉に手を翳した。
「皆で確認しよう。さあ、これへ。」
皆が集まって行って、テーブルの上に置いたその玉の上に手を翳す。
そうして、サーシャの記憶を見た。
ヴァレーリアに関する事、と限定して読み進めると、サーシャはヴァレーリアらしき赤子を抱いて、必死に逃げていた。
遠く、どこかの軍神達が気を放っているのが分かる。
そこは結界外で、サーシャはヴァレーリアを抱き締めて地下の暗い洞穴の、奥深くへと降りて行った。
「ヴァレーリア様、お泣きにならないでくださいませね。」サーシャは言う。「泣き声を伝って軍神達が参ります。ヴァレーリア様の事は誰も知らぬとレイティア様は仰っておりましたが、わからぬので…御身は、何より大切なものなのです。」
ヴァレーリアは、分かっているのかいないのか、ただ黙ってサーシャの顔を見つめている。
その瞳は無垢で、それは愛らしい赤子だった。
こうして見ると、確かにヴァルヴァラに似ていた。
サーシャは、ただただそこに潜んで、嵐が過ぎ去るのを待っているようだった。
ここから、しばらく離れておいた方が良いかも知れない。
サーシャは思って、北へと進んだ。
あまり北へ進むとベンガルの結界があるので、それ以上は行けないが、しかしベンガルの結界近くまで行けば、あの軍神達は追ってこないだろうと思われた。
そこへ、アクサナによく似た女神が甲冑姿で飛んで来た。
「サーシャ!探したぞ、レイティア様より主を助けよと言われて。レイティア様はあれらと心中なさるおつもりのようで、ヴァレーリア様だけでも守れと仰せだ。他も別ルートからすぐに合流して参る。とにかく、我らはベンガルの近くで潜んで、過ぎ去るのを待とう。」
サーシャは、ホッとして頷いた。
「アイリーン!良かった、我一人でどうしたら良いのかと思うておったのだ。とにかく、この辺りに小屋でも建てるか…それとも、地下に石で?」
アイリーンは、頷いた。
「地下が良い。地上でいたら目立ってベンガルの軍神に見つかる可能性があるゆえ。仮住まいを作ろう。我がやる。主はヴァレーリア様を抱いておれ。」
アイリーンは、サクサクと地下へと降りて、目ぼしい場所はないかと探し始めた。
サーシャは、ホッとしてヴァレーリアを抱きしめたのだった。
それから、さっさと地下にとりあえずの部屋を一つ作ったアイリーンが呼びに来て、サーシャはヴァレーリアを抱いてそちらに移った。
アイリーンがすぐに逃げ出した仲間を集めて来てそこへ連れて来て、そこからヴァレーリアを育てるための備品などもすぐに揃って行った。
そこはとりあえずの住まいであったが、こんな狭い場所で育てるのは良くないと、できる限り多くの部屋を作り、服はあちこちから調達して来て何とか王族らしくヴァレーリアを育てる体制は整った。
アイリーンはその頃実は身籠っていて、ヴァレーリアとそう歳も変わらないアクサナはそこで誕生した。
そうしているうちに、城ではエラストが王に据えられ、落ち着いた様になって来た。
アイリーンが密かに城へと戻り、そこで残っていた仲間の軍神と渡りをつけて、そこからは潤沢に何でも手に入るようになったので、生活は楽になった。
ヴァレーリアは活発な子供だった。
数年違いのアクサナと共に、小さな剣を振るって遊びの中で立ち合いの技術を学んで行った。
ヴァレーリアが自分でいろいろできるようになった時、サーシャはヴァレーリアを終生守るための手がもっと要ると判断し、計画的に子を作った。
それが、アナスターシャだった。
他の軍神達も次々と子を産み、その頃アイーシャとダリヤも生まれた。
生まれた子達には英才教育を施し、育って来たら城へ仕えてヴァレーリアの情報収集の、助けになるようにと考えた。
そんな中で、百歳を過ぎた今では外へアクサナと共に出掛ける事が多くなっていたヴァレーリアが、戻って来たのだが表情が暗い。
サーシャは、ヴァレーリアに訪ねた。
「ヴァレーリア様、何かございましたか。お顔の色が優れぬのでは。」
しかしヴァレーリアは、首を振った。
「…別に何もない。」と、サーシャを見上げた。「サーシャ、我はどうしてもいつか城へ戻らねばならぬか。」
サーシャは、驚いた顔をした。
「もちろん、いつまでもこのようにはぐれの神のような生活をされるような御血筋ではありませぬゆえ。ヴァレーリア様は正当な王家の御血筋。我らの女王になられる運命なのでございますから。」
ヴァレーリアは、視線を落とした。
「…そうだの。主らはそのために我を育てておるのだものな。」
サーシャは、戸惑って言った。
「ヴァレーリア様?誠に何かおありになったのでは。どうなさったのですか?」
ヴァレーリアは、首を振った。
「何も無い。我は部屋へ帰る。一人にせよ。」
そうして、ヴァレーリアは戻ってしまった。
絶対に何かあった。
サーシャは、いつも共に居る、アクサナに話を聞こうとアイリーンとアクサナの部屋へと向かった。
部屋を訪ねると、アイリーンとアクサナは甲冑の脱いだ寛いだ様で居た。
しかし、アイリーンの顔は何やら険しい。
サーシャは、言った。
「…ヴァレーリア様のご様子がおかしいゆえ、アクサナに話を聞きに参ったのだ。」
アイリーンは、サーシャを見た。
「…今アクサナからその事について聞いておったところよ。しばらく、外へ行くのを制限した方が良いやも知れぬぞ。」
サーシャは、脇の椅子に座りながら、深刻な顔をした。
「…何かあったか。」
アイリーンは、頷いた。
「アクサナが申すには、ヴァレーリア様はお一人になりたいと仰り、しばらく離れて控えていたらしいのだ。こやつの責務はヴァレーリア様の護衛であるので、遠く見守ってついて参ったらしい。その折、ヴァレーリア様はベンガルの結界内の、人に会っておったようで。人の、男であったと。」
サーシャは、驚いた顔をした。
「男?まさかヴァレーリア様はそやつにかどわかされたのではあるまいの。人になど…なんとおこがましい奴ぞ。すぐに殺しておかねば。」
アイリーンは、息をついた。
「我もそのように。だが、アクサナが見たところどうやらヴァレーリア様から想われているようで…ならばとりあえず、人などすぐに寿命が来るし、老いて醜くなって来よう。しばらく様子見した方が良いのかと考えておるところであったのだ。」
サーシャは、それでもそわそわとした。
「人になど懸想なさって…どうしても城へ戻らねばならぬかとか、先ほど申されたのだ。その男にほだされて、女王の座も疎ましく思われるようなことはあってはならぬ。まだ子供でいらっしゃるのに、回りが見えておられぬのだ!」
アイリーンは、ため息をついた。
「…が…我らがそれを殺したところで、そこまで懸想されておるのに我らを恨んでますます王座を疎まれるようなことはあってはならぬ。アクサナが申すには、ヴァレーリア様は人のふりをなさっておったようよ。その男は犬を連れて、毎日決まった時間にその辺りを散策するので、それをご存知になられたヴァレーリア様は、わざわざ人の服を探して来て隠していらして、それに着替えて話しに参っておるのだと。人の割にはそこそこ気が大きい男で、確かに人なのにかなり美しい顔立ちなのだとか。これも経験であるし、ほんの百年…いや、数十年のことであろうし。ご成神までに、相手は死ぬ。それから子を成す正式な男を我らが探して差し上げたら良いのではないか?」
確かに人は成人しているのなら残り百年も生きないだろうが。
サーシャは、迷ったがヴァレーリアが自分達を疎ましく思う事は避けねばならない、と思った。
なので、アイリーンが言うように、ここは見守ってその恋が終わるのを待つ方が良いのかも知れない。
サーシャとアイリーンは、なのでヴァレーリアの恋は、黙認することにしたのだった。




