霧で
絶望的な空気の中で、維心達が奥から居間へと出ようとすると、じっと明花達の手元を見ていた紫翠が、言った。
「…維心殿。」維心が、紫翠を振り返る。紫翠は続けた。「もしかしたら、命を留めるだけならば、できるやも知れませぬ。」
イゴールが、え、と顔を上げた。
「それは、どうやって?」
紫翠は、答えた。
「霧です。」と、焼け焦げた腹の中を指さした。「見てください、不自然に焼け残った箇所を。これは、霧が巻き付いていた場所。ゆえに、すぐにソフィア殿はお命を落とさずこうして生きておるのです。」
言われて、皆が腹の中を覗いた。
言われてみると、一見真っ黒だがそれは霧に覆われているからで、紫翠が手を振ると霧が霧散し、所々綺麗に残っている場所が見えて、活動している。
つまりは、霧があった場所は術の炎から守られていたのだ。
明花が、言った。
「…全て焼けたと思うておりましたものを。これは、霧でありましたか。ですが…他の。なければならないものが、失くなってしまっておるので…いずれにしろ、お命はなくなるものかと。」
明花が残念そうに言うが、紫翠は言った。
「ですが、霧にその代わりをさせる事ができ申す。」と、紫翠は手を翳した。「必要なものを我に指示してくれぬか。どこに何があれば、ソフィア殿は生きられるのだ。」
明花は、戸惑いながらも頷いた。 「はい…では、こちらに。」明花は、指差した。「ここに、血の道がありましたはず。それがここで切れておって、本来ならここからこう…繋がってこちらへ。」
紫翠は、指示に従って霧を動かし、形を作る。
霧は、その場所に綺麗に収まっては、その形になって行く。
そうすると、焼け焦げた箇所を明花達が綺麗に除去して行くのに合わせて、紫翠が霧を形作って行くので、腹の中は黒いながらもあるべき形に収まり始めた。
本来の臓器の代わりに、失った箇所は霧の黒い臓器が取って代わって行き、気が付けばまるで、新しい臓器をそこに埋め込んだような綺麗な様になった。
ただ、新しい臓器も血管も、全てが黒い、というだけだった。
「…安定しました。」明花が言う。「このまま閉じれば、傷は残りますが間違いなくソフィア様は生き残る事ができまする。」
維心は、言った。
「…ならばまずは閉じよ。」と、命じてから、紫翠を見た。「ようやったと言いたいが、霧であるからの。弊害はないのか。」
紫翠は、顔をしかめた。
「…分かりませぬ。我が命じておるだけですので、我が死ねば霧は解放されてソフィア殿の体から離れるでしょう。我より力の強い闇達が、命じた時も同じように。その他のことは…我にも全く。できそうだったのでやってみただけでありまする。とにかく命を繋ぎたいとのことでしたので。」
イゴールが、何度も頷いた。
「誠に感謝し申す。南西の宮には必ず礼を贈るゆえ。もう、諦めねばならぬと思うておったのに。」
しかし、炎嘉が言った。
「待てイゴール、霧なのだぞ。体内にそれを持つということが、いったいどんなことなのかまだ分からぬ。やっと術から解放されたと思うたら、次は霧なのだ。しかも無ければ命を落とす。ここは慎重に。」
維心が、息をついた。
「ルシウス。」維心は、宙に語り掛けた。「見ておるか。主はどう思う。」
ルシウスの声が答えた。
《見ておった。ソフィアは本来死んでいた命。霧が補佐して生き残り、これよりは身の内に霧を飼う事になるのだの。それがどんな意味を持つのか、主らにはもう分かっておるはずぞ。神や人が霧を身の内に持つと、どうなるのだ。》
イゴールが、表情を固くする。
維心が答えた。
「…やはり引きずられるか。霧に憑かれて最後には食われて神格を失う。美穂のように。」
ルシウスは、頷いたようだった。
《その通りぞ。紫翠に従い型を崩す事はないが、その性質は変わらぬからの。霧は霧を生み出し、新たな霧がその命に巣食う事になる。ソフィアの性質は変わる…霧そのものに変化して行き、最後には全て食われて闇となる。そうなった時、我はその闇を消す事になるだろう。神を食らった闇は残しておけぬからな。つまりは、生き残ったとてこのまま生きるのは地獄ぞ。まだ黄泉に素直に参っておった方が良いのではないかと思うほどにの。》
皆が、黙り込む。
焔が、言った。
「…そうなって来ると死んだ方がマシだということに。月は?十六夜に調節させる事はできぬのか。」
それには、十六夜が答えた。
《オレがやったらせっかく紫翠が命じて形になってる霧まで消えるぞ。そこだけ残して消し続けるって、そんな細かいことずっとやってられると思うか。そうだな、維月の力にそこだけ保護して包んでもらって、月の宮で生活してたら霧なんざ生まれねぇけどな。そのままで生きようってんなら、ソフィアはそれしかねぇだろうな。つまり、イゴールはせっかく助けたけどソフィアを城に連れて帰れねぇわけだ。お前も霧の影響受けて、どうなるのか分からねぇ。ましてベンガルなのに、変なこと考えるようになったらこっちは大変なんだっての。》
十六夜の言う通りだ。
維心は、イゴールを見た。
「そういうことだ。どうする、イゴール。本来ソフィアは死んだ。が、今は霧のお陰で命を繋いでいる。霧が消えたら死ぬだろう。このままにするのなら、月の宮に預けるよりない。つまりは、主はやはりソフィアを失う事になる。主が決めよ。連れて帰ると申すのなら、今ここで紫翠に力を絶たせて霧を解放する。そうしたら、ソフィアは死ぬが連れて帰れるだろう。主が、ソフィアの命運を決めるが良い。」
イゴールは、苦悶する顔になった。
ソフィアの腹は、明花達により綺麗に塞がれて少しの傷跡だけが残る状態へと治まっている。
「…すぐには、決められぬだろう。」炎嘉が、言った。「居間へ。どちらにしろソフィアの服を着せねばなるまい。我らは出よう。」
維心は頷いて、紫翠と焔、ヴァルラムに頷き掛け、そこを出て行った。
イゴールは、布を取り除かれて見えたソフィアの青い顔に、苦悶し続けたのだった。
居間へと出ると、ヴェネジクトがちょうど入って来て、ヴァルラムに言った。
「王。義心が参りました。」
ヴァルラムは、頷いた。
「これへ。」
ヴェネジクトが頷いて後ろを振り返ると、扉が開いて、アマゾネスの城を見張らせていた、義心が入って来て、膝をついた。
「王。急ぎご報告をと参りました。」
維心は、答えた。
「何かあったか。」
義心は、顔を上げた。
「は。あちらはまだ夜明け前、夜半に事件がおきました。」
維心は、促した。
「続けよ。」
義心は、続けた。
「は。夜番の女神の一人が、突然に苦しみ出して地上に落下し、その際共に見回っておった軍神が慌てて追ったものの、その女神は真っ黒に焼け焦げた状態で事切れておりました。」
真っ黒に…?
炎嘉が、面倒そうに言った。
「焼け焦げるのはもう充分ぞ。これ以上見とうないわ。」
義心は、え、と顔を上げた。
「では、やはりこちらでも焼け焦げて?」
維心が、頷いた。
「ソフィアの胸の玉には対策が立てられてあってな。玉に掛けられた硬化の術を破ると、その秘密を守るために全てを焼く術が潜んでおったのだ。して?やはりとは、その女神も仙術にやられた風であったのか。」
義心は、答えた。
「は。何しろ我も見ておりましたが、誰も気を発した様子もなく、突然の事でありましたので。最初は何かの秘密を知るゆえ、仲間に消されたのかと思いましたが、そうではないと。あの後、アイーシャという軍神と、アンジェラという軍神が、潜んでおった洞穴の方へ参りましたので我も潜んでついて参りましたところ、焼け焦げた軍神はアナスターシャといい、ソフィア様に術を掛けた張本人であることが分かりました。アイーシャはそれを知らないアンジェラに、それを打ち明けておって我も知りました次第。ゆえにアナスターシャは、恐らく術を破られた後に盾の呪文で反転術を掛けられて、それで亡くなったのではないかと話しておりました。ちなみに女王はそれを、知らなかったそうでございます。今も、なので知らぬでしょう。わざと隠しておるようです。」
ヴァルラムが、言った。
「…ならば、維心殿と我が放ったあの術で、そうと思わず術者を殺しておったのか。」
維心は、頷いた。
「そういう事になるの。抑え込むのにかなりの力を要したが、術を跳ね返しておったからなのだ。何しろ二人掛かりでやっとであったからの。」
仙術の威力は凄まじいが、それが破られた時の反動もまた凄まじいのだろう。
義心は、頷いた。
「は…死体を見て参りましたが、かなり損傷が激しい様でありました。真っ黒で、誰であるのか判断を付けるのも難しい様子で。」
ヴァルラムは、言った。
「ということは、ソフィアの術者は死んだ。が、問題はソフィアぞ。」と、奥の方へ視線をやった。「我なら、連れて戻る事を選ぶ。生かしても不自由でしかないのだ。この上は、面倒がないように黄泉へ送ってやる方が、本神のためであると思うゆえ。」
維心も、頷く。
「我もそのように。とはいえ、あれが維月であったらと思うと、我とて簡単には首を縦には振れまいな。まあ、任せる。生き延びたところで蒼に頼むよりないのだ。イゴール次第ぞ。」
皆は、神妙な顔でイゴールの決断を待った。
どちらにしろ側に置けないのに、イゴールがどう判断するのか、同情するよりなかった。




