序、おぅい、おぅい
「ねぇ、やまんと様って知ってる?」
放課後の教室だった。
なんとなく帰りたくない日に、なんとなく始まった、クラスの仲良しグループでの怪談大会。おずおずとそう切り出したのは、グループの中でも大人しい女の子だった。
「おじちゃんから聞いたの。山の深くには、入っちゃいけない場所があるんだって」
その子のおじさんが大学生の頃の話だという。
川釣りが趣味だったおじさんは、良い釣りスポットを探して山を散策するうちに、道を外れて迷ってしまった。
そこで、出会ってしまったのだ。
やまんと様に。
「やまんと様って、なに?」
女の子は、その場にいる子供たちの顔を、ぐるりと見回した。緊張しているのか、こくりと喉が動くのが見えた。
「おじちゃんは、山の精霊みたいなもんだって、言ってた」
川伝いに歩いていたおじさんは、山の上流を目指していた。途中、川が浅くなっている場所があり、大きな石を飛び石代わりにして、向こう側へ渡った。
その先で、おじさんは、人の声を聞いたらしい。
(呼んでる?)
おぅい、おぅい、と聞こえた。もしかしたら、誰かが助けを求めているのかもしれない。
おじさんは、正義感と、ほんの少しの好奇心とで、山の深部へ足を踏み出した。
「その時に、おじさんは、山の『境界線』を越えてしまったんだって」
しばらく歩いても、声はずっと同じ大きさのままだった。
確かに、「おぅい、おぅい」と声はするのに。おじさんは、一向に距離が縮まらないことを、不思議に思った。
もしかすると、あちらも移動しているのだろうか。
木々の間を、声を頼りに、さらに進んでみる。
だが、進めば進むほど、声は遠ざかっていくようだった。
足元の下草が、ざっ、ざっ、と鳴る音だけが、やけに大きく響く。
これ以上進むのをためらったおじさんは、前方にいるはずの声の主へ、呼びかけてみた。
「大丈夫ですか? 助けが必要ですか?」
自分の声だけが周囲に響き、すぐに消えた。
それまで聞こえていた声も、ぴたりと途絶える。
耳の奥で、自分の心臓の音が大きく脈打っていた。
おじさんは、もう一度同じように叫んだ。
返事はない。
しん、と静まり返った山の中で、自分の呼吸の音だけが、はっきりと聞こえた。
どうしてだろう。助けが必要なら、呼びかけに応えるはずなのに。
その違和感に気づいた瞬間、おじさんは急に怖くなり、来た道を戻ることにした。
だが、ここは山の深部だ。道などない。川は、もう遠く離れてしまっている。
仕方なく、あたりをつけて傾斜を下る。下るうちに、川の音が聞こえてくるだろう。川の音さえ聞こえれば、すぐに道がわかる。
おじさんは、そう高を括っていた。
木々の隙間から差し込む光が、少しずつ傾き始めていた。時計を見ると、思っていたよりずいぶん時間が経っている。
ところが行けども行けども、川に出ることはなかった。
木々は、どこまでも似たような影を落とし、目印になりそうなものは、何一つ見当たらない。
もう、一時間近く歩いている。とっくに川が見えてもおかしくないはずだった。
登るときは、十分ほどしかかからなかったのに。
迷ったのだ。
おじさんはその頃になって、ようやく途方に暮れた。あたりを見回しても、見覚えのある景色はどこにもない。
ふいに、草を掻き分ける音がした。何かがいる。人か、獣か。
人にしては、足音に違和感がある。靴が地面を踏みしめる音とは、違う気がした。
だとすれば、獣かもしれない。
おじさんが恐怖に固まっていると、近づいてくる音とともに、背の高い芒の穂の上から、人間の頭が覗き始めた。ざわざわと揺れる穂の合間に見え隠れするその動きは、どこか奇妙に不規則だった。
それでも、人だ。おじさんは、詰めていた息を、ほっと吐いた。
「あの、この辺で道に迷ったんですが……大丈夫ですか、そちらこそ」
無言だった。
芒の間を、頭がヒョコヒョコと動いている。藪を払い、掻き分ける音。
近づいてきている。
おじさんは、聞こえていないのかと思い、もう一度同じことを問うた。
やっぱり、返事がない。
やがて、穂の上から顔が覗いた。
ぼさぼさの髪に、不精髭。三日月型の目、笑みを象った口。その口が、モゴモゴと動くのが見えた。近づくにつれ、声が明瞭になっていく。
「おぅい、おぅい」と、言っている。
先ほどの声の主だ。追いかけてきたのだ。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
なぜ?
助けに来たのか? 問いかけには、無反応だったのに?
男の目的がわからず、おじさんはどうすべきか迷った。
今度は、こちらが助けを求めるか。それとも、逃げるべきか。もし相手が、自分に危害を加えようとしているのなら、逃げたほうがいい。何度も声をかけているのに、こちらの問いかけには決して応えようとしない男だ。
不気味だった。
男との距離は、もう、十メートルもない。判断に迷っているうちにも、じりじりと縮まっていく。
やがて、男が藪から出てきた。
裸だった。
――それで、理解した。
(やまんと様だ)
おじさんは、踵を返して逃げ出した。
子供の頃から、祖父に言われていたことがある。今朝も、出がけに注意を受けたばかりだった。
山に登るのはいいが、あまり奥まで入ってはいけない、と。
この山には、人でありながら、人ならざるモノがいる。
彼らは、神のように信仰され、畏れ、崇められている。言葉を持たず、発する声は、呼びかけに似ている。自然と一体となるためか、あるいは、人ならざるモノゆえか、衣服を纏わない。
そして、祖父はこうも言っていた。
「やまんと様に会ったら、すぐに逃げろ」
第二章、始めました。(冷やし中華始めましたのノリで)




