六、姫神と狸(一章完結)
山の中の小屋にはたまにしか人が訪れない。
此処は見晴らしが悪く、景色もほとんど変わらない。毎日が退屈だ。
木々は鬱蒼としていて、あまり陽も届かない。
この地に下りた頃には、もう少し拓けていたような気がするのに。
人々は住まいを移し、山を下りた。
それから小屋を訪れる人間の数が、随分と減った気がする。
ある日、小狸が訪れた。
きっとお供え物を漁りに来たのだろう。
先日は親子でやって来たはずだが、はぐれたのだろうか。今日は一匹でいる。
「お前、ひとりか?」
小狸が、妾の手に懐くように頭を擦りつける。
狸がこちらを見た。まぁるい目が嬉しそうに細められる。
「親はどうした。はぐれたのか?」
キュゥイと小さく鳴く。
ふんふんと鼻先で匂いを嗅ぎながら、妾の手を舐めようとした。
「腹が減ったのか。沢山お食べ」
ちょうど昨日、お供え物が来たばかりだ。
狸は川魚の干物を美味そうに食った。
「また来たのか」
小屋の扉を抜けると、目の前にある大きな木の根本で、狸が丸くなって寝ていた。
近寄っても狸は逃げず、待っていたというように大きな尻尾を振った。
手を差し伸べると、匂いを嗅いだ後に頭を擦り付ける。
狸に感触はないはずだろうに、不思議だ。
「親はいないのか?」
膝の上で寝る狸に問いかける。
「そうか、お前も孤独か」
小さな毛玉を、触れることもできぬのに撫でてみる。
温かい気がした。
―
「お供えが減ってきたな」
冬が近づいて風が冷たくなると、木々の葉が落ち、小屋の中まで木漏れ日が差し込むようになった。神様は小屋に入れと言うようになった。
隙間風は入るけど外よりはマシだろうと笑う神様は、最近は俺より長くお眠りになる。
「そろそろ妾も役目を終えるらしい」
ある日、目覚めた神様が言った。そういえば出会った頃よりも輪郭が霞み、木の枝越しの光が、その身体を素通りするようになっていた。
「人々に祈り請われねば、価値はない。忘れ去られたときに、妾は終の住処を得る」
神様が少し悲しそうな顔をして笑った。俺は寂しくなった。神様の居ない小屋は、きっと今よりもずっと冷たくて暗いだろう。
ヒョオウォォ
俺の鳴き声に神様が困った顔をした。
「泣くな狸。神とはそういうものだ」
神様が俺の額を撫でる。
触れることはできないのに、神様が撫でたところは、どうしてだか温かい気がする。
―
喉が狭くなっているのか、口から出る空気の音がうるさい。
苦しそうな声が聞こえる。これはどこから。ああ、自分か。
自分の身体が酸素を欲しているのか。
目の前には打ち捨てられたように転がる皿や徳利、神様が神具と呼んでいた物たち。埃にまみれて薄汚れている。
俺の身体が動きさえすればなぁ。舐めて綺麗にするのに。
お供えはとうに絶えて久しい。
「あぁ、狸。お前が先に逝くとは」
神様の撫でる手が温かい。
そうして撫でてくれてるときは、少しだけ楽になれるような気がするんだ。
「だから里に行けと言ったのに」
神様の声が震えてる。
水の玉が頬をすべり落ちるのに、地面を濡らすことはない。
キラキラ光って綺麗だな。
神様はいつもキラキラ光ってる。
「里の畑にはまだお前が食う分くらいのものはある。お前を守る力ぐらいは、まだ妾にも残っておる。だから行け。
何か口にせねば。お前は生けるモノなのだから」
大丈夫だよ。神様。
俺だってもう、狩りくらいできる。里に下りて、食べ物をとってくるぐらい、わけはないよ。水だって飲んでた。
神様がお眠りの間に。
だからこれは単純に寿命ってやつなんだと思う。神様が教えてくれた。
生き物はいつか死ぬってやつ。
そのときが俺にもとうとう来たってだけだよ。
神様。あぁ、泣かないで。神様。
神様はいつか言ったじゃないか。役目を終えたものはいつか終の住処を得るって。
神様みたいな役目は俺にはないけど、俺は神様に会うために生まれてきたと思ってるんだ。
だって寂しくなかった。
神様と出会えたから。
泣かないで神様。
ありがとう神様。
神様がよく詠んでいた唄が、頭を過る。
ありとだに よそにても見む 名にし負はば われに聞かせよ みみらくの島
ずっとずっと神様のために祈っていたんだ。俺の願いは神様に届いていたかな。
神様がもう寂しくなりませんように。
こんな暗い山の中じゃなくて、明るくて開けた場所で、できれば海が見えるところがいい。
神様が請う美しい海。
そこで沢山の人にお詣りされて、沢山の人に愛されますように。
神様。
「逝くな、狸。私を置いていくな」
神様、俺を撫でてよ。神様のあったかい光の中で眠りたいんだ。
「もうひとりは嫌だ。狸、まだ妾の傍に」
神様の声が、だんだん遠くなる。光だけが、まだそこにあるとわかる。
神様。
「狸」
狸の身体から魂魄が抜けていく。
時を同じくして、触れていた神の指も、砂のように崩れて風に流されていく。
神は悟った。
「そうか。お前が最後のひとりだったのか」
おかしなものだ。妾はとうに人ならざるモノであるのに、寂しさや悲しさがいつも胸の中にはあった。
だけどいまはこんなにも嬉しい。
嬉しくて温かくて、でもやっぱり寂しい。
「あぁ、だがやっと」
狸を撫でたいと思うのに、その手はもうない。
「お前と共に終のすみかに」
―
バチンバチンと木板が剥がれ、割れ落ちる音がする。
豪風に煽られ、折れた壁板が狙ったように隼斗めがけて飛んで来た。
伊佐は打ち身に痛む身体を忘れ、咄嗟に隼斗を抱き込んで倒れ込む。
「しっかりしてください、隼斗さん!」
神が隼斗の中に入った。人の身で神を受け入れることはできない。
狂うか、内から焼けて廃人か。
もしかしたらもう目を醒まさないかもしれない。人ではなくなるかもしれない。
「隼斗さん! 隼斗さん!!」
己まで狂ってしまいそうだ。
内側から闇がやってくる。囚われる。
またあの虚無に沈むのか。たったひとりで。
次はもう耐えられない。
「はやとさ」
「どけ」
目を開けた隼斗はもう隼斗ではなかった。
金色に光る目が虚空を覗いている。
伊佐が茫然と見守る中、隼斗は立ち上がり、凶悪な怪異にひたと視線を定めた。
「狸」
靄が隼斗を飲み込もうと、その容量を広げた瞬間だった。
隼斗の凛とした声が、靄の動きを止めた。
「妾だ。わからぬか」
隼斗の声に舌ったらずな幼女の声が混じる。
「幾久しく言葉を交わさぬうち、ただの獣に戻ってしもうたか、狸」
隼斗が手を広げる。
靄が隼斗を窺うような仕草を見せた。
―
狸が死に、妾もとうとう消えるのかと思った。しかしなぜかこの地に留め置かれた。狸の念が強すぎたのか。しかし狸もまた、この地に留め置かれた。
魂魄となった狸は、力の衰えた妾を認識することができず、長いこと妾の消えた祠を守り待ち続けた。
そうすれば、また再び会えるかのように。
妾は長く眠り、たまに起きる。力がないのだ。ただそれでも狸の念が繋ぎ止める。その僅かな祈りで、妾は消えずにいる。
目を醒ますたびに、狸が穢れていくのがわかった。
狸の美しかったはずの祈りが、いまやもう穢れにまみれ、呪いとなった。
靄の数が増えている。その穢れに、他の有象無象が引き寄せられ、大きな靄を形成していった。
このままでは妾も穢れに飲み込まれ、いずれは祟り神となってしまうのだろう。
でもそれも良いかと思った。
狸が共にいる。
ひとつになれたら、もう寂しくはない。
「キュゥイ」
「おいで」
伊佐は目を見張った。靄の中から小狸がまろび出て、甘えるように小さく鳴いた。
隼斗が手を伸ばし、狸を掬い抱く。
「あぁ、やっとお前に触れた。長かったなぁ、狸」
狸が一声鳴いて、隼斗の胸に懐くよう頭を擦りつける。
「一緒に行こう。お前をずっと待っていたんだ」
先ほどまでの激しい雨が止んだ。
雲間から優しい光が射すのと同時、光が玉になって降り注ぐ。高天ヶ原のお迎えが来たのだ。
神が隼斗の身体から抜け出て、淡い光に溶けていった。
小狸と共に。
「隼斗さん!」
くずおれる隼斗をかろうじて捕まえてかき抱く。
頬を叩くが、隼斗は目を醒まさない。
魂魄が高天ヶ原の光に浚われてしまった可能性が、脳裏に浮かんだ。
やはり人の身に、神の依り代は毒が過ぎた。
彼を喪う。
伊佐が自失しそうになったとき、隼斗の瞼が震えた。隙間からゆっくりと黒い瞳が現れる。
「は、」
口端から、意味のない言葉が漏れる。力のない声だった。
隼斗の下睫毛から雫が零れ落ちた。
「…毛、どうした」
「け、?」
「狸の毛があっただろ。あれは佐々姫が持っていたものだ」
佐々姫、あの神の名だ。
佐々姫は狸の遺体から僅かな毛を神力で残した。そしてその毛が狸を此処へ留めおいた。
結局はお互いがお互いを縛り繋ぎ留めた。
だが恐らく、狸は佐々姫の最後の言葉を守りたかっただけなのだろう。
狸の魂魄が抜ける瞬間、佐々姫は言った。
――妾を一人にしないで――
「ちゃんと奉ってやりたい」
虚ろな声で隼斗が言うのに、伊佐は何も応えることができなかった。
畏れと安堵と、何かはよくわからない心の乱れに、深く嘆息する。とにかく疲労を覚えていた。
祝詞を奏上し、穢れを落とす。
後には朽ち果てたあばら家の残骸が残った。
此処に集まった人に害なす有象無象は、洗い清められ冥界に向かう。やがて、また輪廻の輪に戻るだろう。
伊佐の手には、あの木彫りの人形が残っていた。塗料の剥げた顔には目鼻の輪郭だけが辛うじて残り、指先で撫でるとひやりと冷たい。
それでいて、先程までまとわりついていた重苦しい気配はもうどこにもなかった。
「なあ」
隣から隼斗が覗き込む。座り込んだままの姿勢で、まだ息が整いきっていないのか、声に掠れが残っていた。
「坊主に憑いてた女も、ここにいた奴か?」
「そうですね。この祠には、長い年月で穢れが積もっていました。あれも、ここへ引き寄せられたのでしょう」
伊佐は木彫りの人形を見下ろした。片手で包み込めるほどの小さなそれを、丁重に扱うように両手でそっと持ち直す。
指の隙間から覗く木肌には、かつて誰かが彫り込んだであろう、粗い鑿の跡が残っていた。
―
壊れた祠は修復され、麓へ下ろされたのち、潮風の抜ける神社の境内へと遷された。
片隅には、その祠を納める場所が設けられていた。
「清めの刀も持たず出陣とは、隼斗も大層信頼が厚い」
後ろから登紀子の皮肉が飛んでくる。伊佐は苦笑いで応えた。
確かに備えをせずに向かったのは失敗だった。
山歩きするのに邪魔だと思ったのは、口が裂けても言えない。
「まさかあんな大物が控えてるとは思わず、いやはや読み間違えました」
「お前はたまに年寄りみたいな物言いをする」
登紀子が笑った。
伊佐は、目の前に広がる美しい海に視線を移した。
背後には鳥居と小さなお社がある。お社から続く石段の先は、道を挟んで海に出る。
砂浜で子どもたちが遊んでいるのが見えた。その中に隼斗の姿もある。
隼斗はジョガーパンツを膝まで捲り上げ、海面をひたすら蹴り上げるというよくわからない遊びを一人でしていた。
「ところで今回の件、ありがとうございました」
伊佐が登紀子を振り返り、丁寧に頭を下げた。伊佐はこの地の人間ではない。登紀子の人脈と力がなければ、事はうまく運ばなかっただろう。
「狸ねぇ、この島にもかつてはおったんじゃな」
「いまはいないんですっけ」
「猪と鹿はおっぞ」
後ろから隼斗の声が飛んだ。伊佐や登紀子に気づいた隼斗が合流したのだ。
わざとらしい島の訛りで、茶化すように言う。登紀子のどぎつい方言を、隼斗はたまに真似をする。
伊佐はそんな隼斗を眩しそうに見て、にこりと微笑んだ。
「猪鍋うまいらしいですね」
頓珍漢な返しだ。狸退治の後に猪肉とは、どんな感性をしているのだろう。
隼斗は呆れた顔で伊佐を見た。
そこで返される胡散臭い笑顔を、「はよ帰れ(本家に)」と打ち返しながら、山を後にした。
―
子供の声が響く。石階段の鳥居の先に眼下を見下ろすように建つ、神社の一角。
小さな祠を守るように、狸の石像が据え置かれた。狸の神獣は珍しくない。だがそこにあるのは、伝承に名を残すいずれの神獣でもない。
後ろにおわす神様だけの、神獣なのだ。
その神の名は佐々姫。
島の最後の藩主の娘で、若くして病により身罷られた。
嘆いた藩主がひっそりと祀った、美しき姫神。
佐々姫は愛と美、五穀豊穣の神としてこの地に新たに奉られることとなった。
眼下には広い海。穏やかなさざ波が寄せては返す。
波間を照らす赤い夕焼けの下、海を眺めるように防波堤に腰かけるのは、嘗て忘れ去られたはずの美しき姫神。
その膝に暖かな夕日を浴びながら、眠る小狸が一匹。
毛並みを撫でる嫋やかな手は、優しく愛に満ちている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
もし「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、ブックマークや評価(底部の☆マーク)で応援していただけると励みになります。
よろしくお願いします。




