五、怪異
腹の底まで響く轟音が鳴り渡る。音が幾重にも重なっていく。共鳴して地面が揺れる。
巨木がミシミシと鳴った。葉が激しくざわめいている。
焦げ臭い匂いがした。先日も嗅いだばかりの匂い。切り幣を焼いたときの匂い。木が燃えているのだ。
まずい。
巨木が縦に裂ける。
こちらに向かって倒れてくる。
ドドォンッと再び轟音が鳴り響く。あばら家の入り口付近が薙ぎ倒され、冷たい雨が降り注いだ。
間一髪、伊佐が隼斗に飛びかかった。
隼斗の頭を抱え込み、空中で身体を捻る。上がり框の上、強かに背をぶつけた。
その瞬間、何かがグシャリと潰れる音がした。
背中に鋭く刺すような痛みが走った。その後、鈍い痛みとなって背を蝕んでいく。
「いてて、おい、大丈夫か?」
伊佐の下から、隼斗がくぐもった声で問うた。
伊佐は痛む背を堪えながら、隼斗が無事であることを確かめると、その身体をゆっくりと起こした。
そして、自分の背の下に祠があることに気付いた。
「あぁ、まずいな」
隼斗が伊佐の視線を追う。
乾燥して軽くなっていた木片が散乱している。
そこから黒い靄がシミのように広がっていく。
靄はどんどん大きくなり、伊佐と隼斗を飲み込んでしまえるほどに膨らんだ。
ぐあぁぁああ!!
靄が咆哮を上げて、暴れ出した。ぬっと腕を伸ばし、ゴムのように跳ね回りながら、伊佐と隼斗を薙ぎ倒そうとする。
その瞬間、バチンッと弾かれるような音が響き、黒い靄が跳ね返された。
伊佐が驚き、目を瞠った。隼斗を見る。隼斗は何が起こったのかわからない様子だった。だが、間違いない。隼斗が無意識に、穢れを跳ね返したのだ。
強い風が吹き、雷鳴が連なる。横殴りの雨が頬を打った。
振動で壁板が裂け、屋根が落ちて来る。
簡素な造りのそれは、傷んで乾燥により重量が減ってはいたが、弾け飛ぶ小屋組(屋根の骨組み)や瓦の破片は如何ともし難い。
伊佐は再び隼斗を抱え込む。その背に飛んできた野地板が、重くのし掛かった。
隼斗に直接触れないからと物理攻撃で来た。頭が回る。
思考している。
これは穢れではない。
怪異だ。
しかも厄介な類いの。
「ぐ、くそ」
伊佐の背に落ちた野地板がミシミシと音を立てる。重みが増した。
靄が野地板を上から押し潰している。このまま二人まとめて踏み潰すつもりだ。
「ま、て! おい、どけ、ぐぇ」
伊佐の背に乗っていた野地板が、隼斗のもがいた拍子に僅かにずれた。背中にかかっていた重みが、一瞬だけ軽くなる。その隙を見逃さず、伊佐は片腕を返し、拳の側面を地面に突き立てた。肘と上腕で身体を支え、もう片方の手の平でも地面を強く押し込む。
伊佐の半身が持ち上がり、野地板を押し返す。伊佐と隼斗の身体の間に、少しの隙間が出来た。
「手を伸ばして、」
食い縛る口の間から、ようやっと声を捻り出す。
「、あれに、触れてください」
あれが何かとかどうして触れるのかとか、隼斗の頭に疑問は浮かばなかった。瞬時に生存本能に従った。
隼斗は仰向けのまま手の平で地を圧し、身体をずり上げた。
自由になった右腕が、伊佐の背に伸びる黒い靄に届いた瞬間、
「お、めぇんだよ、くっそ!」
ぎゅっと握り潰した。
ぐあぁぁ!
靄が断末魔の叫びを上げる。
先程は弾かれただけだった靄が、隼斗の拳の中、乾いた粘土のようにボロボロと崩れ落ちていった。
怪異が慌てたように飛び退き、崩れ落ちていく靄の部分を切り離した。
重みから解放されてひっくり返った伊佐が、喘ぎながら声を捻り出す。
「はぁ、ナイスファイト」
「せからしか!」
思わず方言が出た。
「なんだ? あいつに触ればいいのか?」
隼斗が伊佐を引っ張り上げながら問う。
「あれは上澄みです。核を潰さねばならない」
満身創痍の伊佐はさすがに疲弊しているが、思ったよりも元気そうで声には張りがあった。
「核?」
「私を隠してください」
伊佐がそう言って、目配せした。
靄から隠せと言うことだろう。隼斗は靄の前に立ち、伊佐を背に隠した。
伊佐は野地板を退け、下敷きになっていた祠を探る。
散乱した木片の下、小さな木彫りの人形が姿を現した。塗料が剥げ、所々欠けてはいるが、人の形を成しているのがわかる。
そしてその傍に茶褐色の毛が僅かに束になって落ちている。
まるでこの人形が毛を守っているかのように、この惨状の中、散りもせずそれはそこにあった。
いや、真実守っていたのだ。
毛束から、ほんの少しの神気を感じる。
伊佐が毛束を摘み上げようとした瞬間だった。
――それに触るな――
伊佐の目が大きく見開かれる。
木彫りの人形から白い手が飛び出してきた。
次いで手首の先、色とりどりの花の刺繍が施された打ち掛けがヒラヒラと舞う。肩先で切り揃えられた黒く細い髪が、伊佐の鼻先を掠めて行った。
隼斗が気配に驚いて振り向く。
それと目が合った。
小さな丸い顔につぶらな瞳。何かを訴えたいのか必死な顔をしている。
幼女だ。
七五三の子供を思い起こさせる。
二人の視線がかち合った瞬間、時が止まった気がした。
「隼斗さ…!」
伊佐が慌てて手を伸ばすが間に合わない。
幼女が隼斗に飛びかかった。小さな身体が、胸元へ吸い込まれるようにして消えた。




