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三、伊佐 嘉臣

 坊主は怪異に魅入られている。

 昨晩の様子を聞いた登紀子は、そう判断した。

 夢にまで現れたということは、深いところにまで侵入されていると見て間違いないだろう。

 朝食の後、四人に禊をさせ、昨日と同じ手順でお祓いを開始した。


掛(か)けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の


 少年たちは正座をして目を瞑(つぶ)り、祝詞を聴いている。

 坊主も例に漏れず、神妙な面持ちで手を合わせた。


小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に、御禊(みそぎ)祓(はら)え給(たま)いし時(とき)に生(な)り坐(ま)せる


 ふと、気配がした。

 ミシッ、

 畳を踏む音がする。坊主のすぐ隣に。


祓戸(はらえど)の大神等(おおかみたち)


 ミシッミシッ

 前に回る。次は右、後ろ、左。

 そしてまた前に来る。


 ミシッミシッミシ、ミシミシミシミシミシミシ


 自分の周りをずっと何かが歩き回っている。ぐるぐるぐるぐる。どんどんと歩く早さが上がっている。

 視線を感じる。

 目を開けなくてもわかる。

 自分の周りを回りながら、顔だけは動かさず、じっとこちらを見ている。


諸(もろもろ)の禍事(まがごと)罪穢(つみけが)れ有らむをば


 登紀子の額から、汗が流れ落ちる。

 いる。

 登紀子にも視えていた。

 長い髪を振り乱し、真っ白い顔の中、口を笑みの形に歪め、血走った目で坊主を見据えている。


 女だ。

 女はその顔を坊主の顔に近付け、舐め回すように観察している。

 右に左に。頭だけはずっと坊主の顔の正面に据え、長い首を伸ばしながら身体だけが絶えず、坊主の回りを歩き続けていた。

 突然、ピタリと坊主の前で動きを止めた。坊主が息を飲む気配がする。


(まずい)


 祝詞が止まる。

 坊主の瞼が震えた。

 坊主の左頬の辺りに何かが触れたのだ。何かではない。本当は気付いている。

 髪の毛だ。顔が近くにある。

 目を開ければ恐らくそこにいる。


「ね"ぇ」

 耳のすぐ横に女の唇がある。それくらい声が近かった。

「み"えでるんでしょ」


 坊主の口から嗚咽(おえつ)が漏れた。

 目を開けてはダメだとわかっているのに、もう開けて楽になりたいと脳の奥で、自分ではない誰かが囁く。

 ダメだ。瞼が震える。

 自分の意思ではない。ダメだとわかっている。だが、なぜか瞼が動く。ゆっくりと開いていく。


 長い首が見える。女の白い肌と歪んだ口元。正面に、顔が近付いてくる。ゆっくりゆっくり笑みの形の口が、更に吊り上がる。歯が黒かった。 

 ああ、もうすぐ目が

(目が合ってしまう) 


 そのとき、突然視界が閉ざされた。

「視えない」


 坊主の右耳から、低く落ち着いた声が聴こえた。

「視えないものは存在しない。いいね?」

 穏やかな声が、坊主の身体をやわらかく包み込む。その声は、耳ではなく頭の奥に直接響いてくるようだった。

 背中に人の体温を感じ、左の肩に手が触れた。

 坊主の嗚咽が止まった。


 登紀子は詰めていた息を吐いた。

 坊主の後ろにいる青年は、登紀子の良く知る男であった。

 青年は左手で少年の肩を支え、宥めるように優しく撫でた。

 女は青年の手に気付くと、ブリキのおもちゃのような不自然な動きで、青年の方に頭を巡らす。

 その顔を、青年は勢い良く掴んだ。


「登紀子さん」

 青年の良く通る声が響いた。

 登紀子は、ハッとして我に返ると鈴を鳴らして大麻(おおぬさ)を振る。


祓(はら)え給(たま)い清め給(たま)えと白(もう)す事(こと)を聞食(きこしめ)せと


 登紀子の祝詞に、青年の柔らかく響く低い声が重なる。

 女が暴れるように首をのたうつが、捕まれた顔はびくともしない。

 女の首がのたうつ度、上半身もぐねぐねと撓(たわ)んで、手足が波打っている。

 それでも女の頭を掴む男の手は、何の重みも受けていないかのように固定されたままだった。

 登紀子の嗄れ声と青年の凛とした声が響く。


恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)す


 神楽鈴が鳴った。


「あ"」

 女が何かを言おうとした。

 けれどそこまでだった。

 鈴の音と共に、女の顔が泥のようにボロリと崩れ落ちた。

 そしてそのまま空気に溶けていく。

 青年は、女が消えるのを見届けてから、ようやく坊主の目を解放した。


 青年の手が目から離れると、坊主の顔は脂汗と涙でぐっしょりと濡れていた。

「あ、ああ」

 あ、と続けようとしたタイミングで嘔吐した。止まらない嗚咽に噎(む)せながら吐き続ける。

 一連の流れを傍観していた隼斗は、畳がダメになってしまったな、とこの場にそぐわない呑気なことを考えていた。


「存在しないものは干渉できない」

 喘鳴(ぜんめい)しながら呻いている坊主の背を、青年がゆっくりと撫でる。

「君はこれから、彼らの存在を否定して生きていきなさい」

 ようやく吐き気が治まった少年が、ぼんやりと青年を見上げた。


 恐ろしく顔の整った男だった。

 芸能人でも、これほどに顔の造形が美しい男を見たことがなかった。

 坊主は特に面食いというわけでなく、むしろ男に限っての美形は嫌いだが、先程の恐怖を一瞬で吹き飛ばしたその顔面には、少しだけ感謝した。


「なるほど。よか暴論たい」

 青年の傍まで来た登紀子が、呆れたように言った。

「登紀子さん、ご無沙汰しております」

「あんときぶりやね」

「はい、お変わりなくご健勝そうで」

 青年が柔らかく微笑む。

 そのまま自然な動作で、登紀子の後ろにいる隼斗を見た。

 青年と隼斗の視線が絡む。


「こんにちは。本家より遣いとして参りました 伊佐 (いさ)嘉臣(よしおみ)です。よろしくお願いします」

 登紀子に促され傍まで来た隼斗に向かい、伊佐と名乗る本家の青年は、丁寧に名乗った。

 そう言えば、登紀子にも敬語だった。

 癖なのだろうか。

 本来なら好印象を抱かせる対応のその男に、隼斗はなぜか苦手意識を持った。


 青年の、表情から品を感じさせる微笑の中において、その目だけが浮いている。

 透明度の高い薄茶の瞳には、緑が混じっているようだ。

 その不思議な色合いの目が、まるで自分を透視しているかのように視ていた。

 居心地の悪さを感じる。隼斗の背にうっすらと怖気が走った。

 青年の妙に整った顔も相まって、尚のこと不気味である。


「こら、挨拶せんか。おっの育て方が悪かち思わるっやろが」

 登紀子が勢い良く、隼斗の背を叩く。

「いってぇな、ババァ!」

 その場に張り詰めていた異質な空気が、一瞬で霧散(むさん)した。勢いのまま、青年改め伊佐に向かい、隼斗は軽く頭を下げた。


「ははぁ、これはまた良い育て方をされたと見受けられますね」

 ぶっきらぼうな隼斗の挨拶に、感心したように伊佐がまたまじまじと隼斗を見た。先程のような違和感は薄れているが、やっぱり何か空気が重い。

 おまけに嫌みな奴だ。

 なんだこいつと思ったが、もうさっさとやり取りを切り上げたかった隼斗は、少年たちの方へ戻ろうとした。


「なぜ動かなかったんです?」

 最初、登紀子に言ったのかと思った。しかし、伊佐の視線は隼斗を捉えたままだった。

「あの少年は引っ張られる寸前でした。あなたならあの程度の怪異、簡単に祓えたはずでしょう?」


 坊主のことを言っているのだろうか?

 祓いの儀の最中の坊主を思い出す。

 確かに怯えていた。泣いてもいた。

 だが坊主はここに来てからずっとあんな様子だった。

 坊主の傍に、何かがいたのだろうか。

 だとしても隼斗には、登紀子のように何かを祓う力はない。


「隼斗にゃ何も視えちょらんよ」

 応えたのは登紀子だった。

 伊佐が登紀子に視線を戻す。

 にわかに隼斗の肩にのし掛かっていた何かが、スッと解けた。

 自身の肩の重みを、隼斗はその時初めて自覚した。


「ナニモ?」

 確認する伊佐の声が、妙に平坦に聴こえた。

「何も視えんし、何も感じらん。隼斗はあれを追っ払えても、祓うことはできん。いずれまたあれは坊主に憑いただろうよ」

 伊佐はその説明を、黙ったまま聞いていた。言葉を咀嚼(そしゃく)している様子だった。

「なるほど。では隼斗さんには何も?」

 続く言葉は「伝えていないのか」だろう。登紀子は頷きで返した。


 伊佐は隼斗に向き直り、深々と頭を下げた。

「不躾(ぶしつけ)に失礼致しました。改めてよろしくお願いします」

 再び隼斗に向けられた伊佐の視線に、先程の険はなかった。

 それがまた、隼斗には不気味に感じられた。

 よろしくするつもりなど毛頭ない隼斗は「どうも」と適当にいなして、その場を離れた。

 が、その後ろを伊佐が着いてきた。


 隼斗は昨日と同じように、穢れた少年たちの服を脱がせた。

 登紀子が少年たちを風呂に案内している間、隼斗は嘔吐で汚れた畳を剥がすことにした。その間も、伊佐は隼斗の傍に立ち、こちらを観察している。


 なんだこいつパートツーである。

 まじなんだこいつ。邪魔なんだが。


 伊佐が吹き出した。

 声に出ていたらしい。

「どっか行ってくんねぇ?」

 本家だとか年上だとか礼儀とか、もうどうでも良くなった隼斗が、ぞんざいに言うのに

「いえ、手伝います」と、伊佐は態度を改める様子はない。

 面白いモノを見るような顔ではあるが。

 どっか行けよと人手が欲しいの間で天秤が揺れる。


「じゃ、そっちの畳の端持ってくれ」

 とりあえず焼き場まで畳を運ばせることにした。

 使えるものは使えだ。

 男は文句も言わず、ニコニコと隼斗の指示に従った。

 炎天下の中、焼き場で祓いを行う間も傍を離れなかった。

 特に会話を交わすことはないのに、男から妙に浮わついた雰囲気を感じた。

 何が楽しいんだ?と、つい疑問が口からまろび出た。

 伊佐が声を上げて笑う。

 屈託のない笑い声だった。

 こんな顔もするのか、と隼斗は思った。


「いえ、嬉しくて」

 伊佐が隼斗をまっすぐに見ている。

 興味深い存在を見るような、観察するような目ではない。怖気を抱かせた件の眼差しもない。

 どころか、慈しみを感じさせる柔らかな視線が向けられていた。

「はぁ?」

 隼斗が訝しむ。


「やっと」

 伊佐の声が少し震えている。


「やっとあなたに会えた」

 眦に少し光るものが見えた。

伊佐の顔がやたらと整っているのには、理由があります。

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