十三、抜け殻
野上浅子は、心臓発作を起こして亡くなった。
意識不明だった子供たちは目を覚まし、放心状態に陥っていた子供たちも、元の様子を取り戻したという。
事件から一夜明けた昼前、喫茶店の窓際の席に四人分のカップが並んでいた。隼斗のカップだけは、中のココアが手つかずのまま冷めている。
古びたベルが、時折客の出入りを告げる。窓の外では、事件などなかったかのように、人々が普段どおりに行き交っていた。
「同じ呪なのに、なぜ子供たちの症状は、こんなにも違ったんでしょうね」
渡辺が首を捻った。
伊佐はカップを傾けながら答えた。
「恐らく、呪が入り込める身体と、入り込めない身体があったんだろうな」
子供自身の徳の高さか、守りの強さか。そもそも、呪そのものの強さにも差があるのかもしれない。
いずれにせよ、あの呪がなぜ子供の身体に入りたがったのかはわからない。
呪に何らかの意志があったのか。それとも、野上浅子の捻れた思いが、何かに作用したのか。
「あの蛇は、何だったんでしょう。祀られていた様子でしたが、僕が視えたということは、神ではなかったと思うのですが」
渡辺が、身を乗り出して尋ねた。
伊佐は、コーヒーを一口含んでから答えた。
「あれは、低級霊だな」
「元は白蛇か、この辺りでは見ない珍しい蛇を祀ったものだろう。たまにああして祀られるうちに、自分を神と錯覚して、神の真似事を始めるモノがいる」
恐らくは、何かの手違いで殺してしまった蛇を祀ろうとしたのだろう。その際、意識的にか無意識にか、何らかの契約を結んでしまったのだ。伊佐はそう考えていた。
呪はノロイでありマジナイでもある。マジナイのつもりだったそれが、蛇を契約という名の枷で縛り付けてしまったのだ。
野上家の繁栄は、野上の才によるところが大きかった。だが、当人たちにその自覚はなかったのだろう。何か吉事が起こるたびに、「蛇神様のおかげです」と感謝し、祈りを捧げた。蛇は、野上の才を自分の力だと思い込み、野上の祈りを糧とした。そうして少しずつ捻れて澱みを生み、マジナイは、ノロイへと変わっていった。
「野上浅子は、そのノロイに喰われたんですか?」
渡辺が、眉を寄せて問う。
「あれは、本人の質だろう」
伊佐は、口の端を僅かに歪めた。
「己を律するのも、律しないのも、結局は己自身だ」
伊佐はそう言って、カップを置いた。
占部が、テーブルに頬杖をついた。
「祀られてる間は、それなりに、ちゃんと神様やってたんでしょうね」
「ああ」
伊佐は頷いた。
日々、穏やかに歴代の野上の祈りを聞き、力は弱くとも、加護を与えていたはずだ。人の恨みや悪意、負の感情を浴びるうちに、少しずつ変容していったに過ぎない。
「あの蛇は、蛇なりに、彼女の望みを叶えてあげたかっただけだ」
隼斗の声は抑えられていたが、きっぱりと言い切る様子には、憤りのようなものが滲んでいた。だが、その瞳は僅かに伏せられている。
本当は哀れんでいるのかもしれない。
伊佐の脳裏に、あの黒い巾着袋の中身がよぎった。刀を突き立てたとき、袋の口から覗いたのは、一匹分の蛇の抜け殻だった。長い年月に押し固められたのか、板のように平たく乾いている。元は白かったのだろう。いまは煤けた灰色に褪せ、鱗の一枚一枚が、細かくひび割れていた。
あれが、野上家が代々祀ってきたものの正体だった。蛇が脱ぎ捨てた殻だけを、人は神として拝んでいたのだ。
斎藤和徳の病室で、意識を同調したときもそうだった。魂が抜けかけた反動で、あれほど疲弊していた。それでも、少女への同調を拒まなかった。
優しいのだ、この少年は。心根がまっすぐで、柔らかい。
伊佐は、隼斗のそんなところが愛おしい。
愛おしくて、憎らしいのだ。
―
斎藤和徳が目を覚ましたと、住職から報告があったのは昨日のことだった。
野上浅子との一件が片付き、一息ついて宿に戻った夕刻頃だった。
すぐに病院に駆けつけると、和徳は案外元気そうな様子で、ベッドに上体を起こしていた。
傍らには、父親である住職とその妻が、目を赤くして立っていた。
一行が労いの言葉をかけ、挨拶を済ませると、住職夫妻は気を利かせ、病室の外へ出た。
病室は狭いため、渡辺も和徳の両親と外で待つとのことだった。
室内には、伊佐と占部、隼斗の三人が残った。
和徳は、一行が室内に足を踏み入れてからずっと、隼斗のことだけを見ていた。
「また会ったね」と和徳が言うのに、隼斗は穏やかに笑って「おう」と返した。
占部が、どういうことかと二人に尋ねると、あの山で会ったのだと和徳は言った。
「やまんと様が、兄ちゃんと一緒に帰れって言ったんだよ」
ね、と隼斗に目配せした。
隼斗は頷いて、気兼ねすることもなく、和徳のベッドに腰掛けた。
「お前、帰りたくないんじゃなかったの?」
隼斗が意地悪な顔で和徳をからかった。和徳が「言わないでよ」と隼斗の肩を押した。
和徳にとっては初めて顔を合わせるはずなのに、二人は随分と気安い様子だった。占部は、思わず伊佐を見た。
伊佐はその様子を、窓辺に控えたまま黙って眺めていた。
「あの……全然わからないんだけど。説明してくれる?」
占部が戸惑いつつ、間に入った。
和徳が語るところによると、ヒトガタに喰われたと思った本人は、なぜか気づいたら山の中にいたという。
「真っ白いブヨブヨした人間の形をしたものが、目を開けたらいつの間にか知らないおじさんになってた。それに食べられちゃったんだ」
占部が難しい顔をした。頭に手をかけ、うぅんと短く唸っていた。
「最初はやまんと様だと思ったんだ。だって、怖い話で聞いたやまんと様と同じだったから」
髪も髭も伸び放題、裸で、おじさんだ。
「おぅい、おぅい」と、誰かを呼ぶような声を出す。
「逃げなきゃいけないのに身体が動かなくて、だから僕、食べられちゃったんだって思った」
そしたら、山の中にいた。
山の中には、四人の子供がいて、その中の一人は、運動会で同じ組になった子だった。
その子がいたから、和徳は思ったよりも平静でいられたのかもしれない。
山の中は、ずっと温かく穏やかで、日が暮れることはなかった。時間の感覚はなく、眠ることもない。かくれんぼや鬼ごっこをして遊んだり、やまんと様を囲んでお喋りした。
子供たちは皆やまんと様が大好きで、やまんと様の膝の上で微睡む子もいれば、やまんと様の背がお気に入りの子もいた。
幸せで満たされていた。ずっとここにいたいと思い始めていた。
「そしたら急に、やまんと様が兄ちゃんを連れて来たんだ」
一緒に帰りなさいと、やまんと様は言った。
皆は驚き、帰りたくないと泣く子もいた。
「お前ら、俺のことを鬼か悪魔かみたいに言いやがって」
隼斗がうんざりとした様子で和徳を見た。和徳は笑った。
帰って来れて嬉しい。でもやっぱり寂しい。
あの山に帰りたいと、いまでもちょっとだけ思うのだ。お父さんやお母さんには言えないけど。
和徳は、まだ重い身体をゆっくりと動かし、背を正した。
「お兄ちゃん、あのときはごめんね。連れて帰って来てくれてありがとう」
そう言って、隼斗に向かって頭を下げた。
隼斗は一瞬、面食らったように目を瞬かせた。それからそっぽを向いて、短く返した。
「……おう」




