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久遠の果て、終わりの約束  作者: 船越小久乃
呼ばれるもの
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20/23

十二、帰る

「永遠の若さなどない。お前が望んだのは、美津子の死だ」


 金色の瞳に射抜かれて、浅子は声を失った。

 手首を掴まれた自分の腕が、視界の端に入る。


 弛んだ皮を骨に貼り付けたような手だった。

 萎びた皮膚の下に、青黒い血管が浮いている。甲には茶色いシミが散り、爪は割れて黒ずんでいた。


 隼斗の瞳に、女が映っていた。

 白髪だらけの中に、黒髪が斑に混じっている。ところどころ縮れて傷み、ぼさぼさに絡まった毛先が、汗ばんだ額に貼り付いていた。

 頬はげっそりと痩け、落ちくぼんだ目の下には、黒い隈が広がっている。

 皺の刻まれた肌はシミだらけだった。


 それが自分だと、一拍遅れて気づいた。


 浅子は今年で四十になる。

 まるで老婆だ。


 ――嘘だ。


 毎朝、洗面台の鏡に映る浅子は、二十代の頃の瑞々しい美貌を保ったままだった。

 肌には張りがあり、髪は艶やかな黒で、目尻には皺の一本もない。紅を引けば、鏡の中の若い女が、同じ唇で微笑み返した。

 それが、浅子の知っている自分のすべてだった。


 永遠の若さを、浅子は自分の視界の中だけで手に入れていたのだ。


「違う……違う、違う……」

 浅子は、譫言のように繰り返した。

 握りしめていた包丁が、乾いた音を立てて足元に落ちた。


「だから私はお願いして、美津子を返してくださいってお願いして、だから私は……」


 金色の瞳が、浅子の瞳を覗き込んだ。

 少年は首を傾げた。

 その口元が、ゆっくりと吊り上がった。


「だから私は、寂しくなったから、また美津子を返してほしいの?」


 少年の嘲るような声が、静かに落ちた。


「……違う」

 浅子は首を振った。

(違う。美津子は必要だった。自分を必要としてくれる、たったひとりの存在だった)

 けれど、それは――。


 なぜだろう。

 何の音もしない。先ほどまで、あれほど近くで暴れていた蛇神様の気配が、消えている。

 何をしているの。

 早く。

 早く、

(この少年を食べて)

 浅子は振り返った。


「あ」

 蛇神様が、こちらを見ていた。

 鎌首をもたげた三つの頭が、風もないのに緩く揺れている。

 金色の眼が、それぞれ違う角度から浅子を捉えていた。


 目が合った。

 蛇は、顎が外れたように大きく口を開けた。

 牙のない、濡れた喉の奥が覗いた。


 少年が、浅子の手首から手を離した。

 浅子の身体が、蛇の口へと傾いだ。

 抗う間もなく、頭から飲み込まれた。


 家の中から、何かを叩きつけるような音がした。

 伊佐が目を向けると、割れた窓から渡辺が姿を現した。その手には、黒い巾着袋が握られていた。

 差し出された巾着袋を、伊佐が受け取った。


 目の前では、三つ首の蛇のひとつの頭が、浅子を丸ごと飲み込んでいた。

 喉を膨らませたまま、その頭だけが何かを咀嚼するように動いている。

 残る二つの頭は、獲物を見つめたままじっと動かなかった。

 伊佐は、巾着袋に刀を突き立てた。


 三つの頭が、それぞれに叫び声を上げた。

 獣のような咆哮と、鳥のような甲高い声と、人が呻くような声。

 三つの音が重なり、不協和音になって響き渡った。

 次の瞬間、三つの頭は黒い粒子となって、ゆらゆらと揺らめきながら、宙へ溶けていった。

 庭の土の上には、浅子が倒れていた。握りしめていた包丁は、その傍らに転がっている。ぴくりとも動かなかった。


 ―


 さわさわと、葉擦れの音が優しく響いていた。

 蝉の大合唱に、ときおり鳥の声が混じる。穏やかな風が、頬を撫でた。


 隼斗が瞼を開くと、そこはあの山の中腹、長椅子の上だった。

 隣にふと人の気配がした。

 麦わら帽子にほっかむり、農作業服の老婆だった。深い皺の刻まれた目元が、相も変わらず優しく微笑んでいる。

 だがその姿は、少し透けて見えた。


「婆さんが、やまんと様だったのか」

「うん、そげん」

 老婆は、朗らかに笑った。

「婆は婆やが」

 老婆が頷くと、次の瞬間には壮年の男の姿に変わった。

「僕は僕」

 今度は、若い女の姿になり、

「そして私は私」

 たちまち、また老婆の姿に戻った。

「誰でもあるし、誰でもなか。一人でおるし、バラバラんときもおる」


 老婆の輪郭が、また揺らいだ。一瞬、壮年の男とも、若い女とも、老婆ともつかない姿が重なり、すぐに消えた。


「今回はちぃとばかし難しての、一つになっとるったい」

「そうか」

 隼斗は、頭上を見上げた。背の高い木々が、いくつもの葉を揺らしている。合間には、青く澄み渡る空が広がっていた。

 緑の匂いが、どこまでも濃い。風が気持ち良かった。


 故郷の山と同じだ。

 どこにでもある、普通の山だった。


「婆さんが、守ってくれてたんだな」

 呪によって身体から弾き飛ばされた、少年たちの魂を。


 肉体から弾き飛ばされた魂は、邪気に取り込まれるか、何かに喰われる。

 あの三つ首の蛇に喰われていても、おかしくはなかった。だから、喰われる前に保護し、この山で守っていたのだ。


「何も視えません」と、渡辺は言っていた。あのとき視えなかったのは、澱みや悪いモノから魂を守るため、この場所そのものが結界に覆われていたからかもしれない。

 老婆が、一時的に神域を作っていたのだろう。


「人々の祈りや畏れは、ときに我らのような人ならざるモノにも、神に近い力を与えてくれるものよ」

 老婆は、穏やかに凪いだ目で、村を見下ろしていた。


「それで、あんた自身が穢れることがあっても?」

 老婆の背に、黒い靄が見えた。

 蛇の残骸が、こびりついている。穢れを、引き受けたのだろう。

「なに、いつかはまた消えてなくなろうて」

 老婆の姿が、朧げに揺らいだ。


 隼斗が手を伸ばし、老婆の肩に触れた。

 靄は跡形もなく消え、老婆の輪郭がはっきりと戻った。

「難儀じゃのう」

 老婆は、眩しいものを見るように目を眇め、隼斗を仰ぎ見た。


「神ならざる者よ、人の身に、その荷は重かろうて」

 憐れむように、慈しむように、老婆が語りかける。

 老婆は、隼斗の手を優しく包み込んだ。


「せめてその魂が穢れに覆われんよう、婆の祈りも持っていけ」


 温かい光が、手を覆った。

 隼斗の身体が、淡く発光する。


 ―


 伊佐が振り返ると、隼斗はぼんやりと虚空を見つめていた。

 目はまだ金色のままだった。

(戻ってこない)

 伊佐が焦り始めたとき、隼斗がふと目を閉じた。


 手のひらを上に向け、胸の前に、何かを捧げるように掲げた。

 淡く光る丸い玉が、五つ、次々に生まれ、宙へ飛んでいった。

 隼斗は、それを見送るように顔を上げ、そのままくずおれた。

 伊佐と占部が、とっさに倒れ込む隼斗を受け止めた。

 腕の中の身体は、ふいに重さを増し、いつもの少年の体温を取り戻していた。


 五つの光が、それぞれの方角へ、糸のように尾を引いて飛んでいく。

 まどろんでいた魂たちが、ようやく家路を辿っていくように見えた。

 住職は、何も視えないままに、光の消えた空を見上げていた。


 何が何だかわからない、という顔をした神主を横目に、渡辺は深く息をついた。


 終わったのだ。

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