十二、帰る
「永遠の若さなどない。お前が望んだのは、美津子の死だ」
金色の瞳に射抜かれて、浅子は声を失った。
手首を掴まれた自分の腕が、視界の端に入る。
弛んだ皮を骨に貼り付けたような手だった。
萎びた皮膚の下に、青黒い血管が浮いている。甲には茶色いシミが散り、爪は割れて黒ずんでいた。
隼斗の瞳に、女が映っていた。
白髪だらけの中に、黒髪が斑に混じっている。ところどころ縮れて傷み、ぼさぼさに絡まった毛先が、汗ばんだ額に貼り付いていた。
頬はげっそりと痩け、落ちくぼんだ目の下には、黒い隈が広がっている。
皺の刻まれた肌はシミだらけだった。
それが自分だと、一拍遅れて気づいた。
浅子は今年で四十になる。
まるで老婆だ。
――嘘だ。
毎朝、洗面台の鏡に映る浅子は、二十代の頃の瑞々しい美貌を保ったままだった。
肌には張りがあり、髪は艶やかな黒で、目尻には皺の一本もない。紅を引けば、鏡の中の若い女が、同じ唇で微笑み返した。
それが、浅子の知っている自分のすべてだった。
永遠の若さを、浅子は自分の視界の中だけで手に入れていたのだ。
「違う……違う、違う……」
浅子は、譫言のように繰り返した。
握りしめていた包丁が、乾いた音を立てて足元に落ちた。
「だから私はお願いして、美津子を返してくださいってお願いして、だから私は……」
金色の瞳が、浅子の瞳を覗き込んだ。
少年は首を傾げた。
その口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「だから私は、寂しくなったから、また美津子を返してほしいの?」
少年の嘲るような声が、静かに落ちた。
「……違う」
浅子は首を振った。
(違う。美津子は必要だった。自分を必要としてくれる、たったひとりの存在だった)
けれど、それは――。
なぜだろう。
何の音もしない。先ほどまで、あれほど近くで暴れていた蛇神様の気配が、消えている。
何をしているの。
早く。
早く、
(この少年を食べて)
浅子は振り返った。
「あ」
蛇神様が、こちらを見ていた。
鎌首をもたげた三つの頭が、風もないのに緩く揺れている。
金色の眼が、それぞれ違う角度から浅子を捉えていた。
目が合った。
蛇は、顎が外れたように大きく口を開けた。
牙のない、濡れた喉の奥が覗いた。
少年が、浅子の手首から手を離した。
浅子の身体が、蛇の口へと傾いだ。
抗う間もなく、頭から飲み込まれた。
家の中から、何かを叩きつけるような音がした。
伊佐が目を向けると、割れた窓から渡辺が姿を現した。その手には、黒い巾着袋が握られていた。
差し出された巾着袋を、伊佐が受け取った。
目の前では、三つ首の蛇のひとつの頭が、浅子を丸ごと飲み込んでいた。
喉を膨らませたまま、その頭だけが何かを咀嚼するように動いている。
残る二つの頭は、獲物を見つめたままじっと動かなかった。
伊佐は、巾着袋に刀を突き立てた。
三つの頭が、それぞれに叫び声を上げた。
獣のような咆哮と、鳥のような甲高い声と、人が呻くような声。
三つの音が重なり、不協和音になって響き渡った。
次の瞬間、三つの頭は黒い粒子となって、ゆらゆらと揺らめきながら、宙へ溶けていった。
庭の土の上には、浅子が倒れていた。握りしめていた包丁は、その傍らに転がっている。ぴくりとも動かなかった。
―
さわさわと、葉擦れの音が優しく響いていた。
蝉の大合唱に、ときおり鳥の声が混じる。穏やかな風が、頬を撫でた。
隼斗が瞼を開くと、そこはあの山の中腹、長椅子の上だった。
隣にふと人の気配がした。
麦わら帽子にほっかむり、農作業服の老婆だった。深い皺の刻まれた目元が、相も変わらず優しく微笑んでいる。
だがその姿は、少し透けて見えた。
「婆さんが、やまんと様だったのか」
「うん、そげん」
老婆は、朗らかに笑った。
「婆は婆やが」
老婆が頷くと、次の瞬間には壮年の男の姿に変わった。
「僕は僕」
今度は、若い女の姿になり、
「そして私は私」
たちまち、また老婆の姿に戻った。
「誰でもあるし、誰でもなか。一人でおるし、バラバラんときもおる」
老婆の輪郭が、また揺らいだ。一瞬、壮年の男とも、若い女とも、老婆ともつかない姿が重なり、すぐに消えた。
「今回はちぃとばかし難しての、一つになっとるったい」
「そうか」
隼斗は、頭上を見上げた。背の高い木々が、いくつもの葉を揺らしている。合間には、青く澄み渡る空が広がっていた。
緑の匂いが、どこまでも濃い。風が気持ち良かった。
故郷の山と同じだ。
どこにでもある、普通の山だった。
「婆さんが、守ってくれてたんだな」
呪によって身体から弾き飛ばされた、少年たちの魂を。
肉体から弾き飛ばされた魂は、邪気に取り込まれるか、何かに喰われる。
あの三つ首の蛇に喰われていても、おかしくはなかった。だから、喰われる前に保護し、この山で守っていたのだ。
「何も視えません」と、渡辺は言っていた。あのとき視えなかったのは、澱みや悪いモノから魂を守るため、この場所そのものが結界に覆われていたからかもしれない。
老婆が、一時的に神域を作っていたのだろう。
「人々の祈りや畏れは、ときに我らのような人ならざるモノにも、神に近い力を与えてくれるものよ」
老婆は、穏やかに凪いだ目で、村を見下ろしていた。
「それで、あんた自身が穢れることがあっても?」
老婆の背に、黒い靄が見えた。
蛇の残骸が、こびりついている。穢れを、引き受けたのだろう。
「なに、いつかはまた消えてなくなろうて」
老婆の姿が、朧げに揺らいだ。
隼斗が手を伸ばし、老婆の肩に触れた。
靄は跡形もなく消え、老婆の輪郭がはっきりと戻った。
「難儀じゃのう」
老婆は、眩しいものを見るように目を眇め、隼斗を仰ぎ見た。
「神ならざる者よ、人の身に、その荷は重かろうて」
憐れむように、慈しむように、老婆が語りかける。
老婆は、隼斗の手を優しく包み込んだ。
「せめてその魂が穢れに覆われんよう、婆の祈りも持っていけ」
温かい光が、手を覆った。
隼斗の身体が、淡く発光する。
―
伊佐が振り返ると、隼斗はぼんやりと虚空を見つめていた。
目はまだ金色のままだった。
(戻ってこない)
伊佐が焦り始めたとき、隼斗がふと目を閉じた。
手のひらを上に向け、胸の前に、何かを捧げるように掲げた。
淡く光る丸い玉が、五つ、次々に生まれ、宙へ飛んでいった。
隼斗は、それを見送るように顔を上げ、そのままくずおれた。
伊佐と占部が、とっさに倒れ込む隼斗を受け止めた。
腕の中の身体は、ふいに重さを増し、いつもの少年の体温を取り戻していた。
五つの光が、それぞれの方角へ、糸のように尾を引いて飛んでいく。
まどろんでいた魂たちが、ようやく家路を辿っていくように見えた。
住職は、何も視えないままに、光の消えた空を見上げていた。
何が何だかわからない、という顔をした神主を横目に、渡辺は深く息をついた。
終わったのだ。




