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久遠の果て、終わりの約束  作者: 船越小久乃
呼ばれるもの
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19/23

十一、代償

 ――これは、本当にただの呪か。

 ヒトガタを斬り伏せた伊佐が視線を向けると、占部もまた、同じ疑いを抱いた顔をしていた。

 二人が白い影を斬り払う間に、隼斗は穴の縁まで歩を進めていた。


 そのとき、穴の縁まで辿り着いた隼斗の足元から、白い腕がするりと伸びてきた。

 考えるより先に、伊佐は隼斗を後ろから抱き寄せ、穴から引き離していた。

 腕に収まった体の重みに、息を吐いた。

 すかさず占部が伸びた手に刀を突き刺した。貫かれた白い腕はびくりと痙攣し、霧のように崩れて消えた。

 隼斗の肩を掴んだまま、伊佐は穴の中を見下ろした。


 数体の動物の死骸が、折り重なるように転がっていた。無惨に腹を裂かれ、その中には何かが詰め込まれている。乾いてこびりついた米のように見えた。裂け目からは大量の蛆が湧いている。

 占部が顔をしかめ、袖で口元を覆うのが、視界の端に映った。


 臭いの源はこれか。

 予想はしていた。だが一体や二体ではない。

 先ほど隼斗が口にした「蛆虫みてぇで気持ちわりぃ」という言葉が、頭をよぎった。言い得て妙だった。


 突然、つんざくような女の悲鳴が響いた。

 伊佐は弾かれたように振り返った。

 野上浅子が玄関の引き戸を蹴破らんばかりの勢いで開け放ち、飛び出してきたところだった。

 整えられていたはずの髪は振り乱れ、見開かれた目は血走っている。その右手には台所の包丁が固く握りしめられていた。


 外れて弾け飛んだ戸が、傍らにいた村長の頭を強かに打った。村長は声もなくその場に昏倒した。

 神主と住職と渡辺が、三方から浅子に飛びついた。

 渡辺が背後から羽交い締めにし、神主が腰にしがみつき、住職が包丁を握る右腕を、両手で掴んで押さえ込んだ。

 だが浅子は、獣じみた叫びを喉から迸らせ、もがき続けた。

 男三人がかりで押さえ込んでも、その足は止まらなかった。踵が庭の土を抉り、三人の体を荷でも引くように、ずるずると引きずっていった。

 女の力ではない。どころか、人の力ですらない。


 隼斗は、先ほど神主から預かった清め塩を、穴の中へ振り撒いた。続けて御神酒の瓶の栓を抜き、酒を死骸へ振り掛けた。酒の香りが、饐えた臭いを押しやるように、一瞬ふわりと広がった。

 ひとつ息を吸うと、隼斗は唱え始めた。


「掛(か)けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(をど)の阿波岐原(あわぎはら)に、御禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時に生(な)り坐(ま)せる祓戸(はらえど)の大神等(おおかみたち)、」


 普段の粗野な口調が嘘のような、低く澄んだ声だった。その声が、庭の淀んだ空気へ染み込むように広がっていく。

 伊佐は隼斗の傍らで、刀を構えていた。祝詞が進むにつれ、這い寄る白いヒトガタの動きが、目に見えて鈍っていく。

 足元へ迫った一体を袈裟懸けに斬り伏せると、刃が空を裂く音が、祝詞の声と重なった。白い体が、切り口から霧のように解けていく。

 返す刀で、次の一体を薙ぐ。視界の端では、占部が別の一体の首を刎ねていた。


「やめろやめろやめろ! 何をしている! それはやまんと様よ! 神に仇なす気か!」

 浅子の絶叫が庭を裂いた。

 三人がかりで組みつかれながら、浅子はなおも穴へ迫ってくる。渡辺の靴底が土に深い溝を刻んだ。それでも、その歩みは緩まない。引きずられる神主の膝は庭の土に削られ、裂けたズボンの下から赤く血が滲んでいた。


「諸(もろもろ)の禍事(まがごと)、罪穢有(つみけがれあ)らむをば、祓(はら)へ給(たま)ひ清め給(たま)へと白(もう)す事を聞食(きこしめ)せと、恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)す」


 隼斗の声は乱れなかった。

 マッチで火を移した切麻が、穴の中へ放られた。火は酒を吸った土と死骸を舐めるように走り、瞬く間に燃え広がった。


「やめろぉ!」


 浅子が絶叫し、渡辺を払いのけ、神主を振り落とし、住職の手を弾き飛ばした。握りしめた包丁が鈍く閃く。

 隼斗がおもむろに浅子を振り向いた。


「女、お前、何と契約した?」


 穴の炎がひれ伏すように低く沈んだ。風が止み、虫の声が絶える。肌の産毛がちりちりと逆立った。

 隼斗の声だ。だが、隼斗のものではない。

 背後で渡辺がヒッと息を呑んだ。

 伊佐も刀を握る手に力を込めた。


 隼斗の瞳が金色に光っていた。


 家がミシミシと軋んだ。

 低い唸りが足元から這い上がってくる。次の瞬間、地面が大きく揺れた。庭に面したガラス窓が一斉に割れて飛び散る。


 浅子に払いのけられ、地面に倒れ込んだ渡辺は、腕で頭を庇いながら顔を上げた。

 伊佐と占部が、隼斗を抱き込んで身を伏せている。降り注ぐガラスの破片は、三人に届く手前で見えない壁に弾かれ、角度を変えて地面へ散らばった。

 屋根が内側から突き上げられ、大きく盛り上がる。瓦が土埃を立てて、ばらばらと崩れ落ちていった。

 その下から、黒いものが鎌首をもたげた。


 三つ首の蛇だ。


 渡辺にはそう見えた。

 黒い靄にすっぽりと覆われた三つの頭が、長い首をのたうたせ、屋根の上で暴れ回っている。神主と住職には、その姿は視えていない。地面に振り落とされたまま、崩れ落ちる瓦の音に、ただ身をすくめていた。


 頭の一つが、隼斗めがけて顎を開いて襲いかかった。

 伊佐がその口へ刀を突き立て、阻んだ。

 貫かれた頭は、灰となってさらさらと崩れ、霧散した。だがその断面から、瞬く間に新たな頭が生え、再び縦横無尽に襲いかかってくる。


 伊佐と占部が何度斬り伏せても、化け物はその都度再生した。

 これではきりがない。

 渡辺は、黒い靄の根に目を凝らした。靄は屋根の下へ、家の奥へと深く繋がっている。


 それ以上は視ない。

 占部との誓いが頭を掠めた。


 依り代を潰さなければダメだ。

 依り代は、家の中にある。


 女の喉から、断末魔のような声が噴き出した。

 三つ首の蛇の頭を刀で弾いた伊佐が振り返ると、浅子が隼斗に向かって包丁を振り下ろそうとしているところだった。


 間に合わない。

 伊佐は戦慄した。


 世界が急に粘り気を帯びた。振り下ろされる浅子の腕が、水の底へ沈むようにゆっくりと見える。刃先が、昼前の日差しを白く弾いた。

 斬り落とす。腕ごと。

 伊佐がそう瞬時に判断した、そのときだった。


「伊佐」


 隼斗の声が響いた。

 たった一声で、伊佐はぴくりとも動けなくなった。恐れや躊躇ではない。抗う、という選択肢そのものが、最初から存在しなかった。全身がその声に縫い留められていた。


 伊佐が我に返ったとき、隼斗が浅子の手首を掴んでいた。

 尋常ではないはずの浅子の力を、隼斗は難なく押さえ込んでいる。包丁の切っ先は、隼斗の喉元まであと数センチのところで微動だにしなかった。

 隼斗は静かに、浅子の目を見つめている。

 パチパチと火の爆ぜる音がした。

 呪術に使われた六体の動物の死骸が、穴の中で燃えていく。肉と毛の焦げる臭いに饐えた甘さが混じり、鼻を刺した。


「女、お前、蛇に喰われたな?」

 浅子が、信じられないものを見たかのように、目を見開いた。

 隼斗の口角が、ゆっくりと上がった。目が細められた。

 金色の瞳が、炎を映して揺れている。


「何を代償にした?」


 ―


 浅子の家には、昔から蛇神様が祀られていた。

 祖父が、蛇神様と契約を結んだのだという。丁重に祀り、もてなすと、蛇神様は家に繁栄と安寧を授けてくださる。そう、浅子は父から聞かされていた。


 父は毎朝、神棚に新しい酒と炊きたての米を供え、感謝の言葉を奏上した。幼い浅子は、米の湯気が榊の葉を濡らすのを、父の背中越しに眺めていた。

 父が生きている頃は、野上家は名家として知られ、金に困ることはなかった。


 状況が変わったのは、浅子が高校生のときだ。

 父が死に、母は家と浅子を捨てて男と逃げた。

 気がつけば蛇神様の存在を忘れ、神棚は荒れ放題になっていた。榊は枯れ、白い皿には埃が積もっていた。毎日の供物のことなど、母も浅子も思い出しもしなかった。


 生活に困った浅子は、相手をしてやるだけで金をくれる男を「パパ」と呼び、援助を受けるようになった。

 パパは何人もいた。パパのほかにも、繰り返し会う身体だけの男が数人いて、一夜限りの相手もいた。

 浅子は寂しかったので、隣にいてくれるなら誰でもよかった。生きていくのに、不満はなかった。


 そんなときに、いつの間にか腹の中にいたのが美津子だ。

 父親は誰だかわからない。身に覚えのある男が多すぎた。

 浅子は寂しかったので、家族ができることが嬉しかった。ひとりきりの暮らしがこれで終わる。

 ちょうどその頃、母が戻ってきて、子育てを手伝ってくれた。

 小さな美津子は、浅子を必要としてくれた。自分を必要としてくれる存在が、浅子の生きる糧になった。

 けれど長くは続かなかった。


 母がまた出奔し、貯えも底をついた。浅子はもう若さを売りにできる年ではなかった。

 夜の仕事に就いた。

 夕暮れに化粧を済ませ、玄関の戸を閉めた。部屋の奥から、美津子の泣き声が追いかけてきた。気づいてはいたが仕方なかった。


 そんな頃だ。

 浅子は蛇神様の存在を思い出した。

 神棚の埃を軽く払った。酒は家になかったので、代わりに水を供えた。米は神棚に供えるくらいなら自分たちの腹に入れたい。他に供えられそうなものはないかと見回すと、美津子が虫かごに入れていたバッタが目にとまった。

(蛇は虫を餌にするっていうし、これで十分でしょ)

 緑のバッタを白い皿に乗せた。跳ねようと震える後ろ脚を指で押さえた。


 指名客が増えた。

「なんだか綺麗になったね」

 どの客の目にも、浅子は前より綺麗に映るらしかった。

 まさかとは思いながら、浅子は供物を欠かさなくなった。

 仕事帰りに買った発泡酒を白い皿の脇に置き、美津子にねだられて買った菓子の残りも並べた。


 綺麗だと言われるたびに、寂しさが少しずつ薄れていった。

 美津子のことは愛していた。けれど美津子ひとりの愛では、浅子の寂しさは埋まりきらなかった。

 やがてまた男に溺れるようになった。


「お母さん」

 美津子が泣きながらすがり付いてくる。

「行かないで、お母さん」


 いつからだろう。

 浅子はめそめそ泣く美津子を疎ましく思うようになった。


(綺麗なお母さんが好きだと言ったじゃない。自慢のお母さんだと、喜んでいたくせに)

 綺麗でいれば男は寄ってくる。男に貢がせれば、美津子だって良い暮らしができる。なのにどうして美津子は邪魔ばかりするのだろう。

 泣いて縋って、私を引き止める。

 いらないな、と思うことが増えた。


 だから蛇神様に言ったのだ。

 明け方、酔いの残る頭で神棚の前に座り込み、手を合わせた。


「美津子をお供えするから、私に永遠の若さをちょうだい」

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