十、供物
野上浅子は朝食を摂らない。
朝は珈琲だけだ。
運動量が少ないので、余計なものを口にすれば、あっという間に太ってしまう。
台所の窓辺に立ち、砂糖もミルクも入れない黒い液体を、ゆっくりと喉へ落とした。苦みが舌の上で静かに広がる。
いつだったか、あの子はこう言って笑っていた。
「お母さんが授業参観に来ると、皆、褒めてくれるんだよ。みっちゃんとこは、若くて綺麗なお母さんでいいなって」
洗面台の鏡を覗き込み、浅子は微笑んだ。
サラサラの黒髪。張りのある肌。大きなアーモンド型の瞳が、柔らかな弧を描く。
口角の角度を何度も確かめた。一度もずれてはいなかった。
私のことを自慢の母だと笑って言ってくれた、あの子をガッカリさせないように。
いつまでも、綺麗でいなくては。
リビングのカーテンを開け、日の光を室内に採り込んだ。
朝の光が、床に舞う埃を金色に浮かび上がらせた。窓辺にはあの子が気に入っていた観葉植物の鉢が、いくつも並んでいる。艶やかな葉が、光を浴びていきいきと輝いた。
カーテンを開けると、見たくないものまで視界に入ってしまうが、仕方ない。
あの子が気に入っていた緑には、日光が必要なのだ。
庭は家に不釣り合いなほど広い。
その隅で、黒い穴がぽっかりと口を開けていた。
窓越しに見えるのは、そこから這い出した白く細長いものが、ゆっくりと庭を這い回る姿だった。
見た目は悪いが、あれはやまんと様だ。
私の祈りに応えて、娘のために魂を集めてくださっている。
気味が悪い。だが感謝しなければならないだろう。
きっともうすぐ娘が帰ってきてくれる。娘の代わりとなる魂の数が揃い次第、娘を返してくれる。
そういう契約だ。
私が最初にやまんと様へ捧げた供物は三つ。
三つでは帰ってこなかった。足りなかったのだろう。四つ、五つと増やして、これで六つめだ。
今度こそ。今度こそ、きっと帰ってくる。
やまんと様が、私の美津子を返してくださる。
庭では、白いものがゆらゆらくねくねと、のたくっていた。
人ならざるモノとはいえ、醜悪だ。
あれがやまんと様だと思えばこそ感謝の念はあるが、浅子自身は目に入れるのすら不快だった。
だからやまんと様が庭を出ていくまでは、決して外に出ない。
自分が捕まってしまっては、意味がないのだから。
そのとき玄関のチャイムが鳴った。
浅子はカーテンを閉め、インターホンへ向かった。
小さな画面に四人の姿が映っている。村長と、村の神社の神主。その後ろに、若い男と少年が立っていた。
見たことのない顔だ。この村の人間ではない。
若い男は、めったに見ないほど整った顔をしていた。浅子は無意識に、その顔を値踏みしていた。だが浅子の目を奪ったのは、顔よりもその異様な風体だった。腰に日本刀を佩いている。武士でもあるまいに、この時代に日本刀など、違和感が凄まじい。
隣の少年は少し目つきの悪い、生意気そうな顔をしていた。
画面の外からは人の話し声が聞こえてくる。ほかにも何人かいるらしい。
浅子は庭へ目を向けた。
庭のあれは、門の外からは見えないはずだ。
浅子は鏡の前で作った笑顔を、そっくりそのまま顔に貼りつけた。
「何かご用ですか?」
画面の中で、村長が申し訳なさそうに頭を下げた。
「野上さん、朝早うに申し訳なかばってん、ちょっと、あんたんとこの庭ば見せてもらえんやろか」
庭? なぜ? と思ったが、別に断ることでもない。
むしろ、渡りに船だ。
この中のどれか、いや恐らくあの少年が、やまんと様の餌になる。やまんと様が視えるのは、子供のほうが多い。
「どうぞ。何かありましたか?」
浅子は口角を上げたまま、四人の姿を見つめた。
「いや、ちょっと……何て言うたらよかもんか」
不自然に言い淀む村長に、疑問を覚えた。
まさか、何か感付いたのだろうか。
いや、そんなはずはない。やまんと様は、山から降りてくる。村人は、皆そう信じている。こんな里の家の庭にいるなどとは、思いも及ばないはずだ。
大丈夫。何も心配することはない。
浅子は、微笑みを深くした。
―
門をくぐった途端、山の上の澄んだ空気は、どこにもなくなった。
生ぬるい湿気が、また肌にまとわりついてくる。
苔むした門柱の向こうは、家に不釣り合いなほど広い庭だった。手入れのされていない草が、足首の高さまで伸び放題に茂っている。
庭の奥、山裾に近い場所に大きな穴が口を開けていた。その縁を、白いものがずるりと這い上がりながら、ゆらゆらと揺れている。
伊佐と占部、渡辺の視線が、庭の奥へ吸い寄せられた。
隼斗の目には何も映らなかった。だが何かがいることは、三人の様子から察せられた。
伊佐を通して、そこにいるものを確かめようと、隼斗はごく自然に伊佐の手を握った。
ギョッとしたのは、後ろからついてきていた占部と渡辺だ。
「視えますか?」
伊佐が、隼斗に身を寄せ、耳元で囁いた。
うん、と頷いた隼斗は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「なんか、蛆虫みてぇで気持ちわりぃ」
二人の距離が近い。
伊佐は別として、隼斗のあの警戒心の無さは何なのだろう。
占部は隼斗に対して、庇護欲のようなものを覚えつつあった。
隼斗が蛆虫と呼んだ白いヒトガタは、穴の縁から這い上がると、ふらふらゆらゆらと体を揺らしながらこちらへ向かって歩き出した。
ぺたり、ぺたりと、濡れた布を打ちつけるような音がする。
湿った土の底から、饐えた臭いが立ちのぼってきた。鼻を刺す酸っぱさの奥に、ねっとりとした甘さが絡みつき、喉の奥にまでへばりついてくる。何かが長い時間をかけて腐っていったような臭いだ。
村長と神主と住職には、白いヒトガタは視えていないらしい。ただ、臭いだけは届いているようだった。三人とも、袖や手で鼻を覆い顔をしかめている。
「なんね、この臭いは……」
村長が呻くように呟いた。どこから臭ってくるのかわからないらしく、あたりを見回すばかりで、近づいてくるものにはまるで気づいていない。
伊佐は三人に、玄関先で待つよう指示した。
「恐らく、そのうち中から彼女が出てきます。暴れるでしょうが、こちらへ来ないよう、引き止めてください」
続けて、渡辺にも同じように言い含めた。
渡辺は短く頷くと、不安げな三人を促して、軒下へ下がっていった。
玄関の古い引き戸は、固く閉ざされていた。すりガラスの向こうから、じっとこちらを窺うような、人の気配がする。
「俺は、前みたいにあんたの虫除けをやればいいの?」
隼斗がそう言うと、伊佐は首を振った。
「いいえ、あなたには、あの穴の浄化をお願いします」
伊佐の視線の先には、庭の奥の黒い穴があった。
「呪いが行われている場所です。あそこを浄化しなければ、ヒトガタはいくらでも湧いてきます」
隼斗と占部が目を見張った。
何も知らずに育った少年のはずだ。占部は思わず伊佐を見た。
「俺、そんなのしたことねぇけど」
「手順はわかるはずです」
(登紀子がいつもやってたやつか)
確かに間近で見ていて、手伝うこともあった。
だが興味もなければ、積極的に関わるつもりもなかったので、祝詞も作法も特に記憶していない。
「燃やしていたでしょう。呪を受けていた彼らの衣服を」
「ああ」
穢れに冒された少年たちの衣服は、そのままだと呪詛を放つ呪物になる。だから浄化して灰にする必要があった。
呪物になりかねないモノの後始末は、いつも決まって登紀子が隼斗にやらせた。面倒くさがると、あのケチなババァは小遣いまでちらつかせて押しつけてきた。まんまとそれに乗せられ、幼い頃から何度も繰り返すうちに、手順は体が勝手に覚えてしまった。
「ヒトガタの相手は我々がします」
「俺が虫除けやって、あんたたちが穴のほうをやったほうが、早くねぇ?」
別に嫌なわけではなかったが、餅は餅屋だ。効率を考えれば、そのほうが妥当に思えた。
「いえ、あなたは絶対にあの白いヒトガタに触れないでください」
「え? なんで?」
「魂や核のあるモノは、あなたの神気に触れれば消滅します。ですが、呪や念は違う。あれは呪そのものが形を成したものです。触れれば、あなたの魂を穢してしまう」
隼斗は巫覡である。
巫覡は、神の依り代で、神をその身に降ろすことができる。
呪は穢れである。
神は穢れを嫌う。
もちろん、呪を祓うことはできる。だが以前のように、突然神が降りてしまった場合が問題だった。
呪に冒されたまま神降ろしが成れば、その神を祟り神に堕としてしまう恐れがある。
「私と占部は、ヒトガタからあなたを守ります。あなたはいつものように、穴の浄化をお願いします」
あれは浄化だったのか。
隼斗は知らず知らずのうちに、浄化の手順を身につけさせられていたのだ。
あの狸ババァめ。
隼斗は、心の中で毒づいた。
その間にも、白いヒトガタは、じわじわと距離を詰めてくる。
伊佐と占部が、それぞれ腰の刀に手をかけた。
すらりと澄んだ音がして、鞘から刀が抜き放たれた。日の光を弾いて、白い刃が閃いた。
ただの刀には、見えなかった。
黒い鞘にも、抜き放たれた刀身にも、古代の文字とも記号ともつかない線が、蔦のようにびっしりと刻まれていた。
占部が隼斗を背に庇うように、半歩前へ出て刀を構えた。その立ち姿には、少しの隙もなかった。
白いヒトガタは、ふらふらゆらゆらと、なおも近づいてくる。
伊佐が無造作に一歩踏み込んだ。
一閃。
刀に斬られたヒトガタは、あっという間に霧散した。日差しの中へ湯気のように溶けて消えた。
隼斗の中の厨二心がくすぐられた。だがもちろん顔には出さない。
恥ずかしいからだ。
隼斗は平静を装い、口元をきゅっと引き結んだ。
穴の縁では、次の白いものが、もう這い上がろうとしていた。




