九、呪
早朝、一行は支度を整え、やまんと信仰が残る件の山へ向かった。
美意識の高い占部の気合いの入れようは、すさまじかった。
つば広の帽子にサングラス、夏用のネックウォーマーは口元まで引き上げ、UVカットの長袖シャツまで着込んでいる。肌の露出はほぼゼロの重装備である。
これで暑くないのかとは誰もが思ったが、余計なことは口に出さないのが賢明だ。
この土地の朝は日の出が遅い。それでも入山する頃には、じっとりと生ぬるい湿気が漂っていた。
山道に足を踏み入れたその瞬間だった。
肌を舐め回していた生ぬるさが、洗い落とされたように消えた。
澄んだ空気が全身を包み込む。
つんと冷たい外気が頬を撫で、鼻先をくすぐるのは湿った土と瑞々しい緑の匂いだ。
空気が変わったのがはっきりとわかった。
だが、おかしい。
霊山に踏み入ったときに感じる、あの肌を刺すような霊気がここにはない。
あるのは妙に澄んだ空気だけだった。
「信仰によるものか?」
伊佐が呟き、渡辺を振り返った。
「何か視えるか?」
渡辺は霊視能力が高い。
伊佐や占部が無意識に目に留めることのない低級霊や力の弱い怨霊でさえ、彼の目にははっきりと映る。
渡辺は静かに首を振った。
「何も視えません」
本当に何もないのだ。
未踏の地でもあるまいし、人が足を踏み入れる場所に、霊はおろか思念の残り香ひとつない。そんなことがあり得るのだろうか。
渡辺はさらに目を凝らしかけた。
「渡辺、それ以上視ないで」
占部の鋭い声が空気を裂いた。
渡辺は、ある高名な山伏が創立した、能力者養成の専門校の出身だ。
そこには、霊能力を磨く者、力の制御を学ぶ者、占い師や退魔師を目指す者など、さまざまな能力者が集い研鑽を積んでいた。
だが渡辺自身に大した志があったわけではない。
視えてしまうモノがあまりにも多く、普通の人々との間に齟齬を生むことに疲れ果てていた。少しでも生きやすくなりたくて入校した。それだけのことだった。
占部が渡辺をスカウトしたのは、その学校にツテがあったからだ。
「あなたには私の目になってほしい」
そう言われた。
「私は神と呼ばれる方々や、高位の存在を視ることができるけれど、普段はそれ以外が視えないの」
占部は下位のモノを視る眼が、閉じているのだと言った。
だが実際には閉じているというより、知らず知らずのうちにそちらを視ないようにしてしまっていると言うほうが正確だった。
目に入らない。意識の範疇にない。
視ようと思えば視える。だが存在に気づかなければ、視ようという発想すら浮かばない。そのせいで見落としてしまうこともあるのだという。
対して渡辺は、そうした下位のモノを視る力に優れていた。
有象無象の、混沌とした、行き場を失って彷徨う霊たち。
彼らはただそこに在るだけのモノもいれば、悪さをするモノもいる。そういうモノの存在を視ることが、仕事になる日が来るとは思わなかった。
だが今では、この力に感謝する日もある。
そんなある日、占部に釘を刺された。
「視ようとしすぎないで」
ようやくこの力に誇りを持てるようになった頃だった。やり甲斐を感じ始めていた。
だから少し、調子に乗っていたのかもしれない。
ある旧家の依頼を受けたときのことだ。
夜ごと家鳴りが続くという、ありふれた相談のはずだった。
通された座敷の隅を見て、占部がふと足を止めた。
「……座敷童がいるわ」
占部にははっきりと視えているらしい。
だが渡辺の目には、畳と薄暗い壁しか映らなかった。
渡辺は座敷の隅へ目を凝らし、意識を伸ばした。そこにいる存在が、自分の力のはるか上にあることも知らずに。
結果として、何も視えはしなかった。
それでも、視ようとしたこと自体を強くたしなめられた。
「たとえ害意のない相手でも、人間が視るには大きすぎるモノが、この世にはある。あなたがそれを視ようとして、もしも相手が応えてしまったら、あなたは目を焼かれる。最悪、魂まで焼かれるわ」
占部の声はかすかに震えていた。
「だから約束して。視てはいけないモノを二度と視ようとしないって」
渡辺が答えられずにいると、占部はその目をまっすぐに見据えた。
「……誓って」
泣きそうな顔で言われたとき、渡辺は自分の愚かさを自覚した。
それ以来、渡辺は占部との誓いを一度も破っていない。
渡辺は視線を伏せ、静かに息を吐いた。
「大丈夫です。ですが変です。こんなに何も視えないのは初めてです」
霊山と言われる山でさえ、人の思念は残っている。人々の祈りの声や崇敬の念。沢山の魂が山を訪れ、神気によって清められる。
そうして積み重なったものが、山を神たらしめる。
村の人々の話では、この山には「やまんと様」と呼ばれるモノがいるらしい。
彼らは、人でありながら人ならざるモノになったという。
では彼らは一体何になったというのだろう。
―
山の中腹まで来たとき、一行の前でふいに視界が開けた。
木々が途切れた先は、見晴らしのよい小さな広場になっていた。踏み固められた地面の端に、風雨に晒されて色褪せた長椅子がいくつか据えられている。登山者のための休憩所なのだろう。村全体を見下ろせるよう、木々を払って造られていた。
占部が帽子のつばを押さえ、サングラス越しに眼下を見渡した。
朝の光が村に薄く溜まった霧を、ゆっくりと溶かしていくところだった。田んぼの緑は風に撫でられて波打ち、その合間に瓦屋根の集落が点在している。
静かだった。鳥の声と木々のざわめきだけが、澄んだ空気に響いている。
これほど穏やかな景色の中で、あの村の子供たちは、魂を欠いたまま眠り続けている。
そのとき、長椅子のひとつに先客がいたことに気がついた。
一人の老婆だった。
農作業服に身を包み、ほっかむりの上から麦わら帽子をかぶっていた。皺に覆われた目元は優しく笑んでいる。傍らには布をかけた竹籠が置かれていた。
一行がそれぞれ挨拶をすると、老婆は口をもごもごと動かしてから、小さく会釈した。
土地の訛りが強いのか、言葉までは聞き取れなかった。だが頭を下げる仕草からして、挨拶を返してくれたのだろう。
隼斗が人懐こく老婆に話しかけた。
老婆も顔をほころばせて応じ、二人はたちまち打ち解けた様子で話し始めた。
老婆も朗らかに笑い声を立てた。
人見知りだと思っていた隼斗が、初対面の老婆を相手に、屈託なく受け答えしている。意外な光景に、占部は少し目を見張った。
会話は占部たちの耳には届かなかった。老婆が口をあまり開けずに喋るので、声がくぐもって、輪郭すらつかめない。聞こえてくるのは、隼斗の相槌ばかりだ。
隼斗は長椅子の端に腰を下ろし、老婆のほうへ身体を向けた。
「あんたら、こげん朝早うから山登りね? 精の出るねぇ。結構なこつたい」
老婆が深い皺の間の目を細め、隼斗に笑いかけた。
「婆さんだってそうだろ。早起きだな」
隼斗はいつもの調子で返した。
「なんの。婆は日課んごたるもんたい」
しわがれた声で答え、老婆は昇りかけの朝日を眩しそうに見上げた。
広場の反対側では、占部と伊佐と渡辺が、それぞれ思い思いに休憩していた。三人の姿は木々の影に紛れ、「良いお天気ですね」と朗らかに笑う渡辺の声だけが、風に乗って途切れ途切れに届いてきた。
「へぇ、じゃあ婆さんは、いつもここに来てんの?」
「そうたい、そうたい」
老婆が、ゆっくりと頷いた。麦わら帽子の影で、笑みがいっそう深くなる。
隼斗の顔をじっと見つめながら、老婆は拝むように両手をすり合わせた。節くれだった指が、かさかさと乾いた音を立てた。
「おかげで良かもんの見れたばい」
良かもん。
その言葉に、隼斗はふとやまんと様のことを思い出した。この村では神のように崇められているという。
「良かもんて、やまんと様?」
口にした途端、馬鹿げていると思ったのか、隼斗はそんなわけないか、と笑った。
老婆も朗らかに笑い声を立てる。
「今さら、ありがたがるもんでもなかよ」
「婆さんは、やまんと様を見たことがあるのか?」
老婆は少し考えるように、遠くの村へ目をやった。
皺の寄った口元が、もごもごと動く。
「下のもんが、そげん言いよるんは知っとるばい」
「やまんと様は人を攫うって言ってたけど、婆さんは怖くないのか?」
「昔はいまと違うて、生きていくとが辛か時代やったけんね。そげなもんが、山に逃げてくることのあったとよ」
老婆の視線は、まだ遠い村に向いている。
風が麦わら帽子の縁を揺らした。
隼斗は先日の白蛇を思い出した。
神域に住まう生き物の中には、稀に神を目指す者が現れる。
この山にも神を目指す者がいるのだろうか。
「神様なんち、畏れ多かよ」
隼斗の心を読んだかのように老婆が続けた。
「ばってん、人が畏れ崇めれば、神様は力ば貸してくださることのあるとよ」
老婆がゆっくりと立ち上がった。
腰の曲がった小柄な体で、崖の端ぎりぎりまで危なげなく歩いていった。そこで足を止め、身を乗り出すようにして崖下を指した。
隼斗も老婆の横に並んで立ち、下を覗き込んだ。
足元の土がぱらぱらと崩れ、崖の下へ落ちていった。
崖下の死角になっている場所。長椅子のあたりからは、決して見えない位置だ。
山裾に小さな家があった。
苔むした瓦屋根の古い日本家屋だ。だが庭だけが不釣り合いに広い。昔は畑か納屋でもあったのかもしれない。
その庭の一角に、不自然に大きな穴が、ぽっかりと口を開けていた。
「なぁ、あれ――」
隼斗が後ろを振り返ると、いつの間にかすぐそこに伊佐が立っていた。
「おわ、びっくりした」
たたらを踏んだ隼斗が、僅かに後ろへ下がったその瞬間だった。
伸びてきた腕が隼斗の体を抱き留めた。
何が起きたのかわからず隼斗は固まった。ふわりと足が地面を離れた。
伊佐は隼斗を抱え上げ、崖から引き離して長椅子に座らせた。
「いや、なんでだよ」
憤慨して睨みつけると、当の伊佐が自分の行動に驚いたような顔で、ぼんやりと隼斗を見ていた。
「……いえ、すみません」
珍しく伊佐が謝罪の言葉を口にした。
伊佐の手がかすかに震えている。
それに気づいたのは、少し離れた場所にいた占部だけだった。
「あれ視てください」
渡辺が二人を呼んだ。
先ほど隼斗が見ていた崖下の家を、渡辺が指し示した。
占部が崖の縁から覗き込むと、渡辺が確かめるように尋ねた。
「視えますか?」
年季の入った古い日本家屋。
山裾に開けた、広すぎる庭。
そこに掘られた大きな穴。
その縁に白いものがかかっている。
占部は最初、布か何かだと思った。
だがそれは、ずるりと動いた。
穴の底から、細長い体を引きずり上げてくる。
頭から白く、胴体はひょろりと細い。
手足は蛇のようにのたうっている。
人の形をしている。
だがあれは、明らかに人ではない。
頭が前後左右にゆらゆらと揺れている。
やっとのことで這い上がってきたそれは、酔っ払いのように足取りがおぼつかない。
動くたびに、胴体がくねくねと波打った。
占部の脳裏に、あの白い手がよぎった。
子供の体の内側から這い出してきた、節のないぶよぶよとした白。
あれと同じ白だ。
「もしかして、あれがやまんと様ですか?」
渡辺の問いに、伊佐と占部が同時に首を振った。
伊佐が固い声で呟いた。
「呪だ」




