八、解き放つ
占部と伊佐はどちらも喫煙者だ。
ホテルに戻った後、二人は喫煙所で落ち合うこととなった。
扉を開けて中へ入ると、思いのほか広い部屋だった。
壁沿いの細いカウンターに肘をつき、占部はアイコスを咥えた。
背後には古びたソファと、縦型の灰皿。
人気のない空間に換気扇の低い唸りだけが響いていた。
扉の開く音がした。振り返らなくても誰なのかはわかった。
この男はただ部屋に入ってくるだけで、空気の密度を変える。
伊佐だった。
部屋の中をひと巡りするように見渡し、占部に目を向けた。
何食わぬ顔で軽く片手を挙げ、占部の隣に並んだ。
胸ポケットから取り出したのは、小ぶりな金属の缶だった。鳩の意匠が刻まれた蓋を親指でぱちりと開けると、行儀よく並んだ煙草の列から甘く重い香りが立ちのぼる。
缶入りの煙草など今どきそう見かけない。時代に取り残されたような古めかしさが、この男の手にかかると、妙に様になっていた。
「そんなのどこで買うのよ」
「滅多にないからこそ、あったら買うんだろ」
「相変わらず、年寄りくさい趣味ね」
「趣味がいいと言ってくれ」
伊佐は一本くわえて火をつけた。紫煙がゆるりと天井へ昇っていく。
濃く甘い香りが、喫煙所にゆっくりと広がった。
「お前は相変わらず趣味が悪いな」
伊佐の視線の先には、占部の手の中のアイコスがあった。細身のデバイスから立ちのぼるのは、紫煙とも呼べない薄い蒸気だけだ。
「そんな不味いもん吸うくらいなら、いっそのことやめたらいい」
「余計なお世話よ」
占部は言い返す代わりにわざと大きく息を吐き、薄い蒸気を伊佐のほうへ流した。
「あんたは巫覡を迎えに行ったもんだと、私は思ってたんだけど」
「間違ってないな」
伊佐は深く煙を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出した紫煙が、換気扇へ吸い込まれていく。
「じゃあ、なんで隼斗くんに何も説明していないのよ」
伊佐は答えず、紫煙を細く吐いた。
確かに、説明はしていなかった。
あの島で、隼斗に本家へ戻るよう伝えたのは、たった一度きりだ。
登紀子の作った夕食を囲みながら、伊佐は切り出した。
「あなたのお父上が危篤ですので、本家にお戻りください」
隼斗は一瞬驚いた顔をした。だがすぐに何か思うところがあったのか、箸を止めて尋ねてきた。
「それって、本家のか?」
登紀子は黙って食事を続けている。
口を挟まず、成り行きを見守っていた。本人に任せるつもりなのだろう。
「遺産相続とかそういう話なら、俺はいらないから断っておいてくれ」
隼斗は何事もなかったように食事を再開した。
会いに行くつもりはない、ということだ。
「あなたには、お役目があります」
食い下がっているように聞こえたかもしれない。
実際、ここで引くわけにはいかなかった。
「俺に父親はいないし、本家なんて遠い家のことだ。俺には関係ない」
隼斗ははっきりと拒絶した。
まあ、そうなるだろうな、と伊佐は思った。
隼斗の存在を、事情があったとはいえ遠ざけたのは、隼斗の父親である現当主だ。
そしておそらく、その原因の一端は伊佐にある。
短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
乾いた音が喫煙所に響いた。
「……話はした。一度だけな」
「たった一度?」
占部の声が跳ね上がった。
伊佐はそれにはすぐ答えず、缶から新しい煙草を一本抜き取り、火をつけて深く吸い込んだ。
「もしも彼が阿竹の家で生まれ育っていたなら、いまの彼は存在しない」
ぽつりと落とした声は、思いのほか静かだった。
まったく別の人間になっていただろうことは容易に想像がつく。
伊佐の言葉を聞いて、占部はしばらく黙っていた。
その表情から何を考えているのかまでは、伊佐にはわからない。
ただ納得していないことだけは伝わってきた。
「だから何? 巫覡を諦めるってわけ?」
伊佐は自分でもよくわからなかった。
諦めるわけがない。
そんなことはあり得ない。
隼斗は巫覡だ。
それは役割でも使命でもない。彼が負わねばならない責任だ。
たとえ、彼自身には何の咎もなかったとしても。
その血が脈々と続く限り。
我々を縛り続ける限り。
他の二人にも増して、血の契りに囚われた伊佐は、それを容認できるはずがなかった。
だが隼斗の無邪気な顔を見るたびに、彼を解き放ってやりたいとも思った。
同時に彼の顔が苦しみに歪むところを、見てみたいとも。
伊佐は自覚していた。
この時間がもっと続けばいいと、願っていた。
離れがたかったのだ。
ただ、今の隼斗と、もう少しだけ同じ時を過ごしたかった。
占部はもう一度、薄い蒸気を吐き、じっと伊佐を見据えた。
「あんたなら、有無を言わさず攫ってくるかと思ってた」
「男相手に、どうやって?」
伊佐が鼻で笑った。
占部はすかさずやり返した。
「女だったら、惚れさせられるとでも?」
確率が上がるであろうことは認めざるを得ない。
だから余計に癪に障る男だった。
「隼斗さんは、男に生まれたことを感謝するべきだな」
軽口のような言葉だった。
けれどそれがただの軽口ではないことを、占部は知っている。
それは愛なのか、執着なのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
占部にはもうわからなかった。
ただ、そのどれであったとしても、まともな感情ではないように思えた。
薄気味悪さを覚え、占部は苦い顔をした。
何も言わずアイコスを口に運んだ。
吸い込んだ蒸気は、いつにも増して苦かった。
主人公が女性だったら、年齢指定制限があったかもしれないですね。
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