七、繋がれている
少女の家を出ると、夕闇が村を覆い始めていた。灯りのつき始めた窓が並ぶ中、どこからか煮物の匂いが流れてくる。
今日の調査はここまでだった。占部は小さく息をついた。
占部の瞼の裏には、あの白い手と、丁寧に梳かれた少女の髪が、まだこびりついている。食欲などなかったが、何か腹に入れておかなければ明日は動けない。
四人は伊佐のセダンに乗り合わせ、隣町の中心部へ向かった。
商店街は夜の顔に着替え始めていた。アーケードには提灯と電飾が連なり、焼き鳥の煙と出汁の匂いが路地の奥まで漂っている。仕事帰りの男たちが赤ら顔で肩を組み、居酒屋の暖簾の向こうからは笑い声とジョッキのぶつかる音が弾けていた。
ついさっきまでいた村の静けさが嘘のようだ。人いきれと喧騒の中を歩くうちに、瞼の裏にこびりついた白い手が少しだけ遠のいていく気がした。
夕飯をとるのはその一角にある小料理屋だった。小さな門をくぐると、喧騒がすっと遠のいた。
石畳の細い通路の先に柔らかな灯りの漏れる入口があった。
格子戸を引くと、出汁の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。檜のカウンターと奥の小上がり。白木の壁には、手書きの品書きが並んでいた。
一行が通されたのはその小上がりだった。
座卓を挟んで占部の隣に渡辺、向かいに伊佐と隼斗が並んで腰を下ろす。
隼斗は座るなり視線を落とし、品書きの端を黙って指でなぞっていた。その向かいの占部は、日本酒の欄から目が離せずにいた。
「帰りは僕が運転します」
下戸の渡辺が先回りするように言った。占部は内心で手を合わせた。今宵は心置きなく酒を堪能できるのだ。
お通しの胡麻豆腐が運ばれる頃には注文も決まっていた。渡辺が黙って瓶ビールを二つのグラスに注いだ。占部と伊佐の前に琥珀色の泡が並んだ。渡辺と隼斗の前にはウーロン茶が置かれた。
立ち上る泡を眺めるうちに、今日一日の記憶がぼんやりと浮かんでは消えていく。
「ではお疲れさまでした」
渡辺がグラスを掲げた。
「乾杯」
占部の声は待ちきれないと言わんばかりに弾んでいた。グラスがこつんと触れ合った。隼斗だけは少し遅れて、遠慮がちにグラスを差し出した。
冷たい苦みが喉を落ちていく。占部が深く息を吐くと、強張っていた肩からようやく力が抜けた。
注文の品が届くのを待つ間、占部はやっと隼斗とゆっくり話せる時間を得た。
向かいの席で、隼斗はグラスの水滴を黙って眺めていた。挨拶ならさっき軽く交わした。名前と、ほんの触りの自己紹介。ただそれだけだ。
足りない、と占部は思った。もっと知りたい。この少年のことを、もっと。
私たちの、私の巫覡なのだから。
巫覡という呼び名は、あくまで便宜上のものにすぎない。本来、男なら男巫と呼ぶのが正しい。だが阿竹の一族では男であれ女であれ、代々「巫覡」で通してきた。歴代の巫覡には女性が多く、いつしか呼び名も女性側に引きずられたのだ。
先代も隼斗と同じく男だったが、それでも男巫は珍しいらしい。
だから伊佐が「巫覡を迎えに行く」と言ったとき、占部は当然のように女性を思い浮かべた。
あの男が、あれほど執着する相手なのだ。なおさらだった。実際に会ってみれば、拍子抜けするほど普通の少年だった。少し素っ気ないところはあるが、それだけだ。
さて、目が合っただけで泣き出した相手に、どう切り出したものか。
占部はビールの泡を見つめながら言葉を探した。
「そういえばなんで急に泣いたんですか?」
和やかに会話に興じていた渡辺が、占部の心を読んだように尋ねた。
「あれは」
自分でも、よくわからなかった。
目が合った瞬間、胸のあたりがカッと熱くなり、締めつけられるような痛みが走った。気づいたときには涙が溢れていた。
満たされたと思った。同時に喪ったとも思った。嬉しくて悲しかった。相反する感情が濁流のように押し寄せ、頭の中が真っ白になった。
魂の記憶なのか。それとも血に刻まれた契りのせいなのか。
なるほど、他にない絆だ。
離したくない。独占したい。繋いでいたい。
私の巫覡だ。
取り込んで食べてしまって、自分の身体の一部にしてしまいたい。
これまで感じたことのない欲求が、身の内から溢れ出してくる。
執着、依存、飢餓、あらゆる負の感情。
普通ではない。
果たしてこれは絆なのだろうか。
我に返ったのは、店のざわめきが耳に戻ってきたときだった。
食器の触れ合う音。出汁の香り。向かいの席で、隼斗が不思議そうにこちらを見ている。黒い目が綺麗だった。
どこにでもいる普通の少年だ。それなのに、恐ろしいほどに魅了される。
背筋にぞっと冷たいものが走った。
今、自分は何を考えていた。
目の前の子供を、食べてしまいたい。自分の一部にしてしまいたい。そう思ったのだ。
グラスを持つ指先から、血の気が引いていく。膝の上で握りしめた手が、小さく震えていた。喉はからからに渇いているのに、ビールに口をつけても味がしない。
怖いのは、隼斗ではない。あの一瞬、確かに自分の中に生まれた狂気。
これが血の契りなのか。
だとしたら私は何に繋がれ、何に囚われてしまったのだろう。
目が離せなかった。
隼斗の顔を見つめたまま、占部は瞬きすら忘れていた。血の気の引いた唇は乾き、額にはうっすらと冷や汗が浮いている。
「あの……大丈夫か?」
一語ずつ手探りで言葉を探すような、ぎこちない声だった。
隼斗の表情はほとんど動いていない。黒い瞳だけが、心配そうに占部を見ている。
「顔色、悪いけど」
隼斗は気まずそうに視線を逸らした。
伊佐はそんな隼斗を黙って観察していた。
からかう場面ではないと、珍しく空気を読んだのか。それとも見慣れない隼斗の姿が可愛らしかったのか。口元にはいつもの軽口の代わりに、ゆるい笑みだけが浮かんでいる。
どちらにせよ、その視線は少年の横顔に静かに注がれている。
「伊佐に聞いたんだけど」
伊佐に。
あのとき、号泣する占部を無視してさっさと行ってしまった伊佐が、フォローはしてくれていたのか。
さすがの伊佐も、大人としてそれなりの気遣いと分別は持ち合わせていたのだろう。占部は少し見直して、感謝の視線を伊佐に向けた。
伊佐は胡麻豆腐を運ぼうとした箸を止め、口を開けたまま、「あ」と隼斗を見た。
なんだか嫌な予感がした。
「俺、占部さん?の、死んだ飼い犬に似てたって」
(伊佐、このやろう)
「俺、あんまり犬に似てるって言われたことなかったけど、まあ、そういうこともあんのかなって」
ついに伊佐が下を向いた。
手のひらで顔を覆い、肩がかすかに震えている。
しんみりと語る隼斗の隣で、まさかこいつ笑っていやがる。
「思い出させちゃって、すみません」
そこまで言って、隼斗は、ん? と不思議そうに宙を仰いだ。
「……てか、これ俺、謝ることか?」
隼斗の頭の上に、盛大な疑問符が浮かんだ。
その途端、耐えきれなくなった伊佐が吹き出した。
「隼斗くん、伊佐の言うことは、大概嘘だから。真に受けちゃダメよ」
占部がそう言うと、隼斗が固まった。
「は? 嘘?」
隼斗が、伊佐を睨みつけた。
「笑ってんじゃねえよ」
握った拳が、伊佐の肩口に叩き込まれた。ぼすっ、と鈍い音がした。
伊佐は、まったくびくともしなかった。揺れているのは、笑いの余韻に震える肩だけだ。
「……硬っ」
殴った側の隼斗のほうが、手首を押さえて顔をしかめた。あの肩幅と胸板は、見せかけではないらしい。
その様子を、渡辺はウーロン茶のグラスを手に、にこにこと眺めている。
占部はといえば、ビールを傾けながら内心で隼斗に声援を送っていた。
もっとやれ。
効いていないのが惜しいが、溜飲は少し下がった。
そこへ、女将が最初の料理を運んできた。
「お待たせしました。こちら、お造りです」
氷を敷いた大皿に、白身と赤身が艶やかに並んでいる。続いて、サラダに出汁巻き卵、焼き鳥の盛り合わせが次々と座卓に置かれていった。
占部は大皿に並んだ刺身を眺めて、品書きの日本酒の欄を思い浮かべた。
隼斗の前には山盛りの唐揚げが置かれた。
表情は変わらない。
それなのに、黒い瞳は正直だった。
「取り分けますね」
渡辺が慣れた手つきで小皿を回していく。
「それで、なんで泣いてたんです?」
揚げゴボウと水菜のサラダを占部に手渡しながら、渡辺が先ほどの話を蒸し返してきた。
よほど気になっていたのだろう。
占部はため息をひとつ吐き、受け取ったサラダには手をつけず、ビールを一口呷った。
「……私は、そこのアホと違って」
行儀悪く伊佐を指差した。もちろんわざとだ。
伊佐の隣で、隼斗が小さく頷いたのが見えた。唐揚げを頬張ったまま、真顔で。
先ほどの嘘を、まだ根に持っているらしい。
「巫覡に対して、フラットな見方をしていると思ってたのよ。でも結局、私も――」
「占部」
遮ったのは、伊佐の声だった。
静かにこちらを見ている。
瞳は凪いでいるのに、声には咎めるような響きがあった。
隼斗の箸が、ぴたりと止まった。
「巫覡」という聞き慣れない言葉に、眉根が僅かに寄る。
一方の渡辺は、笑みを崩さなかった。ただ、グラスに伸びかけていた手がほんの一瞬止まった。何も言わず、目だけで伊佐と占部を静かに見比べていた。
「なによ」
「その話は、いまはいい」
視線で問いかけると、伊佐は否定するようにゆっくりと頭を振った。
「え? あんた、まさか」
伝えていないのか。
どこまで。もしかして、何も。
占部は唖然として、伊佐を見つめた。
「後で説明する」
隼斗が、何か言いたげに口を開きかけた。だが結局、短く息を吐いただけで終わる。
渡辺が、何事もなかったように、出汁巻き卵の皿を隼斗の前へ滑らせた。
「隼斗くん、これ、おいしいですよ。熱いうちにどうぞ」
こういうときの渡辺は察しが良い。
いつもの穏やかな笑顔のまま、もう先の問いを忘れたかのように振る舞った。




