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久遠の果て、終わりの約束  作者: 船越小久乃
呼ばれるもの
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14/23

六、降りてくる

(ひどい目に遭った)

 車窓を流れていく田舎の町並みを、隼斗はぼんやり眺めていた。

 身体がひどく重い。

 まるでようやく戻ってきた身体に、今さら重力が追いついてきたみたいだ。

 手足を動かすたび、肉体そのものが自分を引き止めてくる。指一本動かすのさえ億劫で、隼斗はシートに深く沈み込んだ。

 窓の外では、古い家々や田畑が後ろへ流れていく。

 山が近い。

 夕暮れの光に照らされた屋根や電線が、橙色に滲んでいた。

 助手席のシートを少しだけ倒す。背もたれの軋む音が、やけに大きく聞こえた。


「あれは結局、何だったんだ?」

 伊佐は前を向いたまま、少し間を置いた。

「本来なら隼斗さんの意識だけを、あの少年の中へ飛ばすつもりでした」

 一度言葉を切ってから、伊佐は続けた。

「それなのになぜか、あなたの魂は肉体を離れようとした」

「は?」

「私にも想定外でした。すみません」

 淡々とした謝罪に、隼斗はしばらく言葉が出なかった。

「魂が抜けてたら、どうなってたんだよ」

 伊佐は少し口の端を上げた。笑みとも言えない、曖昧な表情だった。

「さあ。……戻れなかったかもしれませんね」

 その言い方があまりにあっさりしていて、隼斗は愕然とした。

「は? それ、俺、あのまま死んでたかもってことか?」

 思わず声が上ずった。伊佐は答えなかった。

 ただ隼斗を一瞥し、それからふっと表情を消した。

「そのときは」

 ハンドルを握る手に力が籠った。

「私も一緒に死にますよ」


 冗談めかした響きはどこにもなかった。

 ごく当たり前のことのように伊佐はそう言った。

「いや、死ぬなよ」

 軽口のつもりでそう返した。

 だが伊佐は何も言わなかった。

 その沈黙に隼斗は小さく息を吐いた。

 窓の外を電柱が規則正しく流れていく。

 答えの出ない何かを抱えたまま、隼斗はそっと視線を窓へ戻した。


 やがて車は、住宅街の一角で停まった。

 焦げ茶色の板壁が目を引く洋風の一軒家の前で、村長と占部と渡辺が、立ち話をしながら待っている。

 通された家の中はカントリー調の家具や小物で統一され、住人のこだわりが感じられた。

 だが部屋の隅には薄く埃が溜まっている。

 綺麗に整えられた家だからこそ、その僅かな乱れが妙に目についた。


 リビングのソファには、小さな少女が座っていた。

 肩にかかる黒髪はきれいに整えられ、服にも乱れはない。母親が毎日身支度をしてやっているのだろう。

 それなのに本人だけがそこから取り残されているように見えた。

 膝に両手を置き、背筋を伸ばしたままじっと前を見ている。


 隼斗は少し離れたところから、その様子を見ていた。

 伊佐が少女の手を取った。

 短い沈黙のあと、隣にいる占部に向かって静かに口を開いた。

「同じだな。魂がない。だが、空じゃないな。何かが入り込んでいる」

 伊佐は少女の手を離すと、占部と場所を入れ替えた。

 占部がその子の前に座り、伊佐は隼斗の隣に戻ってくる。

 占部はしばらく様子を窺ったあと、無言で場所を空けた。

「何が入り込んでるんだ?」

 隼斗の問いに、伊佐は一瞬意外そうな顔をした。

「視てみますか」

 そう言って手を差し出した。

 大きく骨ばった手。長い指がゆるく曲がっている。

 隼斗は一瞬だけその手を見つめ、それから何でもないように視線を逸らした。

「俺が死んだらお前も死ぬんだろ」

 あえて軽く言ってみせると、伊佐は察したようにふっと笑った。

「大丈夫ですよ。絶対に離しません」

 隼斗は少し迷ってから頷いた。


 伊佐に促されるまま、少女の正面に膝をつく。

 見知らぬ大人に取り囲まれているというのに、彼女は驚きも怯えも見せなかった。ぼんやりと宙を見つめたまま、瞬きすら忘れたように動かない。

 その瞳には何も映っていなかった。

 濁った硝子玉のように虚ろで、覗き込んだ隼斗の顔さえそこには映らない。

 隼斗は少女の手をそっと握った。

 丸みを帯びた小さな手は温かい。

 生きている人間の手だった。

 なのに反応がない。

 握り返すことも身を引くこともなく、ただされるがままになっている。

 伊佐が隣に膝をつき、隼斗の右手に自分の右手を重ねた。

 そのまま隼斗の左肩に、伊佐の左手が添えられた。

「目を閉じて」

 隼斗は素直に目を閉じた。

「ゆっくりいきましょう」

 伊佐の柔らかい声が耳元で振動した。


(きた)


「手のひらの熱を感じて」

 温かい。

「温かいでしょう?」

 伊佐が心を読んだかのように言った。声が脳にじんわりと染み込んでいく。

「彼女の身体の音を感じて」

 伊佐の手が、隼斗の手を少女の手首に誘導した。

 トクトクと静かに脈を刻んでいる。


「音を辿って」

 それを手がかりに、少女の身体を巡る血の流れを思い描く。

 手のひらから手首、腕、肩、胸へ。

 ゆっくりと、自分の感覚を少女のそれに重ねていく。

 心臓のあたりに差しかかった瞬間、ふっと熱が消えた。


 道が途絶えていた。

 血の流れも体温も、そこから先へは続いていない。

 あるのは底の知れない真っ黒な穴だけだった。

 隼斗の指先が、僅かに強張る。


 その穴から何かが這い出してきた。

 白い虫のようなものだった。

 ずるり、ずるりと、穴の縁を伝って伸びてくる。

 やがてその全貌が見えたとき、隼斗は息を止めた。


 手だった。


 節のない、真っ白でぶよぶよとした、手の形をしたもの。

 それが何かを探るように、くにゃくにゃと宙を揺蕩っている。

 隼斗は恐る恐る穴を覗き込んだ。

 蠢く白い手の隙間を縫って、視線を穴の奥へ落としていく。

 穴は思いのほか浅かった。

 すぐに底に白い地面が見える。


 底だと思った。

 だが違う。

 地面ではなかった。


 白く丸い何かが、穴の中にぎちぎちに詰まっている。

 狭い器に無理やり押し込まれたように。

 真っ白なその表面の左上のあたりに、ふと小さな染みが滲んだ。

 染みは見る間に広がり、まるで固く閉じていた瞼が開くように、上下に裂けていく。


 現れたのは、黒々とした丸い空洞だった。

 隼斗の視線がそれを認識した途端、その輪郭が下からせり上がった。

 真ん丸だった縁が、三日月の形に、たわむように反り返った。


 笑ったのだ。

 人間の目が、にんまりと細まるときのように。


 ―


 時間は少し遡る。


「子供たちの間で、やまんと様の話が広まったとき、最初は学校の怪談のようなものだと思っていたんです」

 母親はそう言いながら、膝の上で両手を固く握っていた。


 リビングには母親の声だけが響いている。

 伊佐と隼斗は部屋の隅に控え、口を挟むことなく成り行きを見守っていた。

 少し離れたソファでは、少女が膝に両手を置いたまま、じっと前を見つめていた。レースのカーテン越しの夕日が、その動かない横顔を橙色に染めている。

 母親が「やまんと様」の名を耳にしたのは、少し前のことだった。

 口裂け女や人面犬と同じ、人から人へ伝わる都市伝説の類だと、その頃は高を括っていたという。


「この子が、学校の帰り道に電柱と塀の間で、やまんと様を見たと言ったんです。その次の日でした。朝になっても起きてこなくて、部屋に見に行ったらもうこの状態で」

 母親が少女を見る。

 その視線につられるように、占部も少女へ目を向けた。

 少女は動かない。

 瞬きすらしていないように見えた。さっきからずっと同じ姿勢のままだ。母親が自分のことを話しているというのに、聞いている様子もない。


「学校の帰り道」

 渡辺が小さく呟いた。

 占部もその言葉に引っかかっていた。

 少女の家は村の中ほどにあり、学校からも比較的近い。山は村の外れにある。帰宅途中でわざわざ向かうような場所ではない。

「学校の帰りに山に入ったってことですか?」

 渡辺が母親に尋ねる。

 母親は怪訝そうな顔をして、首を横に振った。

「いえ。この子はまだ学校以外の道を覚えていないですし、山に行くことはまずあり得ません」

 その答えを聞きながら、占部はもう一度少女を見た。

 少女の目は、相変わらずどこにも焦点が合っていない。


 ――いや。


 少女の目が、ほんの僅かに動いた。

 占部は息を止めた。

 少女の視線を辿る。

 その先には、部屋の隅で黙って立っている隼斗の姿があった。


 視線が重なったはずなのに、少女には人間らしい反応が何もなかった。隼斗の姿を見ているのではなく、その向こうにある何かを見ているのかもしれない。

 占部が視線を外すと、そこに村長の姿があった。

 村長は後ろ頭を掻き、疲れの滲んだ顔で口を開いた。


「最近は、人里まで降りてきよるようでして」

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