六、降りてくる
(ひどい目に遭った)
車窓を流れていく田舎の町並みを、隼斗はぼんやり眺めていた。
身体がひどく重い。
まるでようやく戻ってきた身体に、今さら重力が追いついてきたみたいだ。
手足を動かすたび、肉体そのものが自分を引き止めてくる。指一本動かすのさえ億劫で、隼斗はシートに深く沈み込んだ。
窓の外では、古い家々や田畑が後ろへ流れていく。
山が近い。
夕暮れの光に照らされた屋根や電線が、橙色に滲んでいた。
助手席のシートを少しだけ倒す。背もたれの軋む音が、やけに大きく聞こえた。
「あれは結局、何だったんだ?」
伊佐は前を向いたまま、少し間を置いた。
「本来なら隼斗さんの意識だけを、あの少年の中へ飛ばすつもりでした」
一度言葉を切ってから、伊佐は続けた。
「それなのになぜか、あなたの魂は肉体を離れようとした」
「は?」
「私にも想定外でした。すみません」
淡々とした謝罪に、隼斗はしばらく言葉が出なかった。
「魂が抜けてたら、どうなってたんだよ」
伊佐は少し口の端を上げた。笑みとも言えない、曖昧な表情だった。
「さあ。……戻れなかったかもしれませんね」
その言い方があまりにあっさりしていて、隼斗は愕然とした。
「は? それ、俺、あのまま死んでたかもってことか?」
思わず声が上ずった。伊佐は答えなかった。
ただ隼斗を一瞥し、それからふっと表情を消した。
「そのときは」
ハンドルを握る手に力が籠った。
「私も一緒に死にますよ」
冗談めかした響きはどこにもなかった。
ごく当たり前のことのように伊佐はそう言った。
「いや、死ぬなよ」
軽口のつもりでそう返した。
だが伊佐は何も言わなかった。
その沈黙に隼斗は小さく息を吐いた。
窓の外を電柱が規則正しく流れていく。
答えの出ない何かを抱えたまま、隼斗はそっと視線を窓へ戻した。
やがて車は、住宅街の一角で停まった。
焦げ茶色の板壁が目を引く洋風の一軒家の前で、村長と占部と渡辺が、立ち話をしながら待っている。
通された家の中はカントリー調の家具や小物で統一され、住人のこだわりが感じられた。
だが部屋の隅には薄く埃が溜まっている。
綺麗に整えられた家だからこそ、その僅かな乱れが妙に目についた。
リビングのソファには、小さな少女が座っていた。
肩にかかる黒髪はきれいに整えられ、服にも乱れはない。母親が毎日身支度をしてやっているのだろう。
それなのに本人だけがそこから取り残されているように見えた。
膝に両手を置き、背筋を伸ばしたままじっと前を見ている。
隼斗は少し離れたところから、その様子を見ていた。
伊佐が少女の手を取った。
短い沈黙のあと、隣にいる占部に向かって静かに口を開いた。
「同じだな。魂がない。だが、空じゃないな。何かが入り込んでいる」
伊佐は少女の手を離すと、占部と場所を入れ替えた。
占部がその子の前に座り、伊佐は隼斗の隣に戻ってくる。
占部はしばらく様子を窺ったあと、無言で場所を空けた。
「何が入り込んでるんだ?」
隼斗の問いに、伊佐は一瞬意外そうな顔をした。
「視てみますか」
そう言って手を差し出した。
大きく骨ばった手。長い指がゆるく曲がっている。
隼斗は一瞬だけその手を見つめ、それから何でもないように視線を逸らした。
「俺が死んだらお前も死ぬんだろ」
あえて軽く言ってみせると、伊佐は察したようにふっと笑った。
「大丈夫ですよ。絶対に離しません」
隼斗は少し迷ってから頷いた。
伊佐に促されるまま、少女の正面に膝をつく。
見知らぬ大人に取り囲まれているというのに、彼女は驚きも怯えも見せなかった。ぼんやりと宙を見つめたまま、瞬きすら忘れたように動かない。
その瞳には何も映っていなかった。
濁った硝子玉のように虚ろで、覗き込んだ隼斗の顔さえそこには映らない。
隼斗は少女の手をそっと握った。
丸みを帯びた小さな手は温かい。
生きている人間の手だった。
なのに反応がない。
握り返すことも身を引くこともなく、ただされるがままになっている。
伊佐が隣に膝をつき、隼斗の右手に自分の右手を重ねた。
そのまま隼斗の左肩に、伊佐の左手が添えられた。
「目を閉じて」
隼斗は素直に目を閉じた。
「ゆっくりいきましょう」
伊佐の柔らかい声が耳元で振動した。
(きた)
「手のひらの熱を感じて」
温かい。
「温かいでしょう?」
伊佐が心を読んだかのように言った。声が脳にじんわりと染み込んでいく。
「彼女の身体の音を感じて」
伊佐の手が、隼斗の手を少女の手首に誘導した。
トクトクと静かに脈を刻んでいる。
「音を辿って」
それを手がかりに、少女の身体を巡る血の流れを思い描く。
手のひらから手首、腕、肩、胸へ。
ゆっくりと、自分の感覚を少女のそれに重ねていく。
心臓のあたりに差しかかった瞬間、ふっと熱が消えた。
道が途絶えていた。
血の流れも体温も、そこから先へは続いていない。
あるのは底の知れない真っ黒な穴だけだった。
隼斗の指先が、僅かに強張る。
その穴から何かが這い出してきた。
白い虫のようなものだった。
ずるり、ずるりと、穴の縁を伝って伸びてくる。
やがてその全貌が見えたとき、隼斗は息を止めた。
手だった。
節のない、真っ白でぶよぶよとした、手の形をしたもの。
それが何かを探るように、くにゃくにゃと宙を揺蕩っている。
隼斗は恐る恐る穴を覗き込んだ。
蠢く白い手の隙間を縫って、視線を穴の奥へ落としていく。
穴は思いのほか浅かった。
すぐに底に白い地面が見える。
底だと思った。
だが違う。
地面ではなかった。
白く丸い何かが、穴の中にぎちぎちに詰まっている。
狭い器に無理やり押し込まれたように。
真っ白なその表面の左上のあたりに、ふと小さな染みが滲んだ。
染みは見る間に広がり、まるで固く閉じていた瞼が開くように、上下に裂けていく。
現れたのは、黒々とした丸い空洞だった。
隼斗の視線がそれを認識した途端、その輪郭が下からせり上がった。
真ん丸だった縁が、三日月の形に、たわむように反り返った。
笑ったのだ。
人間の目が、にんまりと細まるときのように。
―
時間は少し遡る。
「子供たちの間で、やまんと様の話が広まったとき、最初は学校の怪談のようなものだと思っていたんです」
母親はそう言いながら、膝の上で両手を固く握っていた。
リビングには母親の声だけが響いている。
伊佐と隼斗は部屋の隅に控え、口を挟むことなく成り行きを見守っていた。
少し離れたソファでは、少女が膝に両手を置いたまま、じっと前を見つめていた。レースのカーテン越しの夕日が、その動かない横顔を橙色に染めている。
母親が「やまんと様」の名を耳にしたのは、少し前のことだった。
口裂け女や人面犬と同じ、人から人へ伝わる都市伝説の類だと、その頃は高を括っていたという。
「この子が、学校の帰り道に電柱と塀の間で、やまんと様を見たと言ったんです。その次の日でした。朝になっても起きてこなくて、部屋に見に行ったらもうこの状態で」
母親が少女を見る。
その視線につられるように、占部も少女へ目を向けた。
少女は動かない。
瞬きすらしていないように見えた。さっきからずっと同じ姿勢のままだ。母親が自分のことを話しているというのに、聞いている様子もない。
「学校の帰り道」
渡辺が小さく呟いた。
占部もその言葉に引っかかっていた。
少女の家は村の中ほどにあり、学校からも比較的近い。山は村の外れにある。帰宅途中でわざわざ向かうような場所ではない。
「学校の帰りに山に入ったってことですか?」
渡辺が母親に尋ねる。
母親は怪訝そうな顔をして、首を横に振った。
「いえ。この子はまだ学校以外の道を覚えていないですし、山に行くことはまずあり得ません」
その答えを聞きながら、占部はもう一度少女を見た。
少女の目は、相変わらずどこにも焦点が合っていない。
――いや。
少女の目が、ほんの僅かに動いた。
占部は息を止めた。
少女の視線を辿る。
その先には、部屋の隅で黙って立っている隼斗の姿があった。
視線が重なったはずなのに、少女には人間らしい反応が何もなかった。隼斗の姿を見ているのではなく、その向こうにある何かを見ているのかもしれない。
占部が視線を外すと、そこに村長の姿があった。
村長は後ろ頭を掻き、疲れの滲んだ顔で口を開いた。
「最近は、人里まで降りてきよるようでして」




