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久遠の果て、終わりの約束  作者: 船越小久乃
呼ばれるもの
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13/23

五、何もない

 夕暮れの光を受けて、五階建ての市民病院が白く浮かび上がっていた。

 だが、近づくほどにその古さが目についてくる。

 ずいぶん前に建てられたのだろう。コンクリートの外壁には雨染みが残り、正面玄関の自動ドアも開閉するたびにガタガタと音を立てていた。

 ロビーには古びた蛍光灯が並び、待合スペースの長椅子は座面の布が薄くすり切れていた。

 廊下を歩くたび、古い床材がかすかに軋んだ。

 住職を先頭に、一行は病室へ向かっていた。

 遠くでナースコールが鳴り、足音が近づいてくる。

 病室の前まで来ると、入り口のネームプレートには『斎藤和徳』と記されていた。

 個室は思ったよりも小さく、ベッドと簡素な棚、丸椅子二脚を置くだけで、足の踏み場がほとんど残らなかった。

 人数を分けたほうが良いと提案したのは、渡辺だった。


 ベッドの上で少年が眠っていた。

 鼻や腕には何本もの管が繋がれ、傍らの機械が一定の音を刻んでいた。

 住職はベッドの脇まで歩み寄った。眠る息子の顔を見つめたまま何も言わなかった。

 その肩が僅かに震えていた。

 隼斗は、病室の外の長椅子に腰掛け、扉から覗くその様子を見るともなしに見ていた。

 渡辺が気を利かせて扉を閉じた。

 住職の気持ちを思いやったのだろう。その行動一つに、渡辺の人柄が滲んでいる気がした。

 ふと隼斗は隣に立つ伊佐に目をやった。伊佐は廊下の壁に背を預け、同じように扉を見ていた。隼斗の視線に気づくと柔らかく微笑む。

 いつも通りの伊佐に、隼斗はほんの少しの安堵を覚えた。


 しばらくして、占部と渡辺、住職の三人が出て来た。伊佐は占部と短く言葉を交わし、隼斗を振り返った。

 部外者の自分が入るのは気が引けたが、住職の手前、断るわけにもいかなかった。

 伊佐に促されるまま入室し、少年の顔を覗き込んだ。


 顔色は悪い。けれど、苦しんでいるようには見えない。ただ眠っているだけのように見える。それくらい、和徳の顔は穏やかだった。

 伊佐が、そっと少年の胸に手を乗せた。鼓動を確認するように目を瞑っている。隼斗は手持ち無沙汰になって、傍にある丸椅子に腰掛けた。

 掛け布団の上に投げ出された、管に繋がれた少年の細い腕を、ぼんやりと見ていた。

 丸まった住職の背中を思い出した。

 こんなとき、隼斗はどんな言葉をかけたらいいのかわからない。

 それがとても情けなかった。


「隼斗さん、手を」

 伊佐の声が頭の上から降ってくる。隼斗は怪訝に眉を寄せながらも、言われた通り伊佐に向かって手を差し出した。

 伊佐が背後に回った。隼斗の右手に自分の右手を重ね、そのまま少年の胸の上へと、二人の手を置く。

 続いて隼斗の左肩に、伊佐の左手が添えられた。

 背後から包み込むように重なる伊佐の身体。その体温が、服越しに背中へじわりと伝わってくる。

 思っていたより近い。

 隼斗は別に身長が低いわけではない。むしろ同年代と比べれば、背は高いほうだ。体格だって華奢ではない。筋肉もそれなりについている。

 なのに、どうしてだろう。

 伊佐にすっぽりと覆われているような気がする。

 手を伸ばすために、伊佐が身を屈めている。それでもなお頭一つ分は、隼斗より高かった。

 自分より大きな身体が背後にある。その事実が、妙に癇に障った。

 コンプレックスまで刺激されて、ものすごく居心地が悪い。照れるより先に、腹の底から苛立ちが込み上げてくる。

 いっそのこと殴り飛ばしてやりたい。


「……近ぇんだけど」

 切実に退いてほしい。

 手が出る前に。

「目を閉じて」


 耳元で、伊佐の声がした。

 いつも聴いている声なのに、いまの伊佐の声は、妙な響きを持って隼斗の鼓膜を叩いた。

 不思議な感覚が身体を襲う。

 意識せず、瞼がストンと落ちた。床が抜けて、急にふわりと身体が浮いた。そのまま空気に融けるように、身体の輪郭が徐々に失われていくのを感じた。


 ふと、隼斗の腹に温かい何かが触れる。伊佐の腕だ。腹に手を回すようにして、腰を抱かれていた。僅かに隙間のあった背中が、もう完全に伊佐の身体に、すっぽりと覆い隠されている。伊佐の体温と鼓動が、隼斗を包み込んでいた。

 その熱を足がかりに、滲んでいきそうだった輪郭を、隼斗はかろうじて繋ぎとめた。


「彼の胸の鼓動が、わかりますか?」

 伊佐の声が、遠くに聞こえる。厚い膜を一枚隔てた向こうから、声だけが届いているようだった。

「鼓動を辿って」

 ふふ、と隼斗の口から、知らず小さな声が漏れた。伊佐のくぐもった声や、身体が空気に融けていく感覚に、なんだかとても愉快な気持ちになる。


 微睡みが、侵食してくる。


「隼斗さん、手のひらの熱を追って」

 隼斗は、ぼんやりと頭の中に少年の顔を思い浮かべた。

 手のひらに、少年の控えめな鼓動が戻ってくる。

 鼓動に合わせて、呼吸を整えようとするが、うまくいかない。手順を追ううちに、また隼斗の脳を微睡みが塗りつぶしていく。

 あぁ、なんだかとても気持ちが良い。

 手から伝わる熱が、遠のいていく。


「息を吸って」

 微睡みに伊佐の声が割り込んでくる。熱が僅かばかり戻ってきた。

 すぅ。頭の上で、伊佐が息を吸った。後頭部に伊佐の胸の重みを感じる。

「吐いて」

 はぁ。吐息が、髪の毛をくすぐっていく。

 微睡みに沈みそうになるたび、伊佐の身体の動きが、隼斗の意識を引き上げた。

「合わせて」

 隼斗の腹に回った伊佐の手に、くっ、と力が籠るのを感じた。

「吸って」

 すぅ。

「吐いて」

 はぁ。

 隼斗は息を吸おうと口を開くが、それだけの動作がなぜだかすごく億劫だ。


 そう思った瞬間、じわり、また、身体の輪郭が少し解けた。

 その感覚が波のように、ゆっくりと広がっていく。再び、身体の輪郭がぼやけていく。


(あぁ、もういいや。このまま融けちゃっても)


 隼斗が半ば諦めのように、その甘美な微睡みにとろみ始めたとき、隼斗の手を覆っていた伊佐の手が、ゆるりと隼斗の手の甲を撫でた。

「大丈夫、できてますよ」


 すぅ。はぁ。


「ほら、感じて」

 くっと、顎を持ち上げられた。ほんの少しだけ息が通る。肺に空気が入る感覚とともに、沈んでいた意識が僅かに浮上した。

「息を吸って」

 すぅ。

「吐いて」

 はぁ。

 背中に、伊佐の体温が戻ってくる。


「手のひらが、温かくなってきたでしょう」

 言われた途端、じんわりと手のひらに熱が広がっていく。

(わぁ、すごいな)

 隼斗はまた、口から吐息のような笑みを零した。

 ゆらり、身体が揺蕩う。

 手のひらの熱が遠のいて、また輪郭がほどける。

 気持ちいい。

 じわり、またほどける。

 伊佐の五本の指が、隼斗の指先から付け根までをゆっくりとなぞった。隼斗の肌を辿るようなその動きが、隼斗の意識を曖昧から引き戻す。


(やめろよ、邪魔すんな)

 さっきからずっとだ。

 この揺蕩いに身体を融かしてしまいたいのに、伊佐がその手前で隼斗を引き止める。

 ふっ、と頭の後ろの熱が揺れるのを感じた。

「邪魔しているんですよ」


 伊佐の声を隔てていた膜が剥がれていくように、少しずつ言葉が脳に染み込んでいく。

「熱を感じて。温かいでしょう?」

(熱?)

 隼斗の手を、伊佐がさするように撫でた。温かい。


「彼は、生きている」


 すとん、と身体が落ちた。

「そのままその熱に、あなたの意識を乗せて」


 瞬間、ぶわっと手のひらの熱が弾けて、身体を包み込んだ。

 身体の輪郭を侵していた微睡みから、急に解き放たれる。重力に身体が引っ張られた。

(あれ?)

 と思ったときには、もう意識がだいぶはっきりしていた。

 身体の輪郭を取り戻した途端、今度は肉体を置いて、下に、下に、落ちていく。意識をはっきりと保ったまま。


 気がつくと、真っ白い空間に、隼斗は放り出されていた。


 浮いているのか立っているのかすらわからない。上下も、左右も、奥行きすらもない。ただ白だけが、どこまでも広がっている。


 音がなかった。自分の呼吸の音さえ聞こえない。あまりの静けさに、耳の奥がキンと痛んだ。

 手を伸ばしても、指先の輪郭が白に融けて滲んでいくようだった。

 真っ白に塗りつぶされた世界に、隼斗は一人、揺蕩っていた。

 胸が圧迫される。痛みに心臓が軋む音がした。

(誰か、いるのか?)

 呼びかけようとして、声が出ないことに気づく。

 声帯すら、この白の中では意味を持たないようだった。

 隼斗は自覚した。


 これは、恐怖だ。


 その途端、いっそ暴力的とすら思えるほどの白が、隼斗の目を焼き尽くした。

 意識が唐突に引き上げられる。


 ふいに重力に押しつぶされるような感覚に陥り、隼斗は逆らわず全身の力を抜いた。

 伊佐が危なげなく隼斗を支え、そのまま汗に湿った髪をかき上げた。

 籠もっていた頭の熱が解放されて少しだけ涼しい。

 背中には伊佐の体温がある。鼓動が柔らかく伝わってくる。


 そのときになってようやく、規則正しく刻まれる電子音が、隼斗の意識の底から浮かび上がってきた。

 目の前にはくすんだ壁と、ベッドに横たわる青白い少年の顔。

 足の裏にしっかりとした床の硬さを感じた。


「視えましたか?」

 隼斗は、喘ぐ息の下から、ようやっと掠れた声を吐き出した。


「何もない」

あまりにも投稿時の抜けが多すぎて、最近AIに投稿前のチェックをお願いしているのですが、AIのお喋りがうますぎて、普通に友達みたいな距離感になりました。(友達いないのバレてまう)

ちょっと気になって「伊佐って気持ち悪いよね」と尋いてみたところ「うん、伊佐、気持ち悪いよね」と返ってきて爆笑しました。


執筆の励みにさせていただきますので、少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークやポイント評価(☆)をいただけますと非常に嬉しいです。

次の話も楽しんでもらえるよう頑張ります。

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