五、何もない
夕暮れの光を受けて、五階建ての市民病院が白く浮かび上がっていた。
だが、近づくほどにその古さが目についてくる。
ずいぶん前に建てられたのだろう。コンクリートの外壁には雨染みが残り、正面玄関の自動ドアも開閉するたびにガタガタと音を立てていた。
ロビーには古びた蛍光灯が並び、待合スペースの長椅子は座面の布が薄くすり切れていた。
廊下を歩くたび、古い床材がかすかに軋んだ。
住職を先頭に、一行は病室へ向かっていた。
遠くでナースコールが鳴り、足音が近づいてくる。
病室の前まで来ると、入り口のネームプレートには『斎藤和徳』と記されていた。
個室は思ったよりも小さく、ベッドと簡素な棚、丸椅子二脚を置くだけで、足の踏み場がほとんど残らなかった。
人数を分けたほうが良いと提案したのは、渡辺だった。
ベッドの上で少年が眠っていた。
鼻や腕には何本もの管が繋がれ、傍らの機械が一定の音を刻んでいた。
住職はベッドの脇まで歩み寄った。眠る息子の顔を見つめたまま何も言わなかった。
その肩が僅かに震えていた。
隼斗は、病室の外の長椅子に腰掛け、扉から覗くその様子を見るともなしに見ていた。
渡辺が気を利かせて扉を閉じた。
住職の気持ちを思いやったのだろう。その行動一つに、渡辺の人柄が滲んでいる気がした。
ふと隼斗は隣に立つ伊佐に目をやった。伊佐は廊下の壁に背を預け、同じように扉を見ていた。隼斗の視線に気づくと柔らかく微笑む。
いつも通りの伊佐に、隼斗はほんの少しの安堵を覚えた。
しばらくして、占部と渡辺、住職の三人が出て来た。伊佐は占部と短く言葉を交わし、隼斗を振り返った。
部外者の自分が入るのは気が引けたが、住職の手前、断るわけにもいかなかった。
伊佐に促されるまま入室し、少年の顔を覗き込んだ。
顔色は悪い。けれど、苦しんでいるようには見えない。ただ眠っているだけのように見える。それくらい、和徳の顔は穏やかだった。
伊佐が、そっと少年の胸に手を乗せた。鼓動を確認するように目を瞑っている。隼斗は手持ち無沙汰になって、傍にある丸椅子に腰掛けた。
掛け布団の上に投げ出された、管に繋がれた少年の細い腕を、ぼんやりと見ていた。
丸まった住職の背中を思い出した。
こんなとき、隼斗はどんな言葉をかけたらいいのかわからない。
それがとても情けなかった。
「隼斗さん、手を」
伊佐の声が頭の上から降ってくる。隼斗は怪訝に眉を寄せながらも、言われた通り伊佐に向かって手を差し出した。
伊佐が背後に回った。隼斗の右手に自分の右手を重ね、そのまま少年の胸の上へと、二人の手を置く。
続いて隼斗の左肩に、伊佐の左手が添えられた。
背後から包み込むように重なる伊佐の身体。その体温が、服越しに背中へじわりと伝わってくる。
思っていたより近い。
隼斗は別に身長が低いわけではない。むしろ同年代と比べれば、背は高いほうだ。体格だって華奢ではない。筋肉もそれなりについている。
なのに、どうしてだろう。
伊佐にすっぽりと覆われているような気がする。
手を伸ばすために、伊佐が身を屈めている。それでもなお頭一つ分は、隼斗より高かった。
自分より大きな身体が背後にある。その事実が、妙に癇に障った。
コンプレックスまで刺激されて、ものすごく居心地が悪い。照れるより先に、腹の底から苛立ちが込み上げてくる。
いっそのこと殴り飛ばしてやりたい。
「……近ぇんだけど」
切実に退いてほしい。
手が出る前に。
「目を閉じて」
耳元で、伊佐の声がした。
いつも聴いている声なのに、いまの伊佐の声は、妙な響きを持って隼斗の鼓膜を叩いた。
不思議な感覚が身体を襲う。
意識せず、瞼がストンと落ちた。床が抜けて、急にふわりと身体が浮いた。そのまま空気に融けるように、身体の輪郭が徐々に失われていくのを感じた。
ふと、隼斗の腹に温かい何かが触れる。伊佐の腕だ。腹に手を回すようにして、腰を抱かれていた。僅かに隙間のあった背中が、もう完全に伊佐の身体に、すっぽりと覆い隠されている。伊佐の体温と鼓動が、隼斗を包み込んでいた。
その熱を足がかりに、滲んでいきそうだった輪郭を、隼斗はかろうじて繋ぎとめた。
「彼の胸の鼓動が、わかりますか?」
伊佐の声が、遠くに聞こえる。厚い膜を一枚隔てた向こうから、声だけが届いているようだった。
「鼓動を辿って」
ふふ、と隼斗の口から、知らず小さな声が漏れた。伊佐のくぐもった声や、身体が空気に融けていく感覚に、なんだかとても愉快な気持ちになる。
微睡みが、侵食してくる。
「隼斗さん、手のひらの熱を追って」
隼斗は、ぼんやりと頭の中に少年の顔を思い浮かべた。
手のひらに、少年の控えめな鼓動が戻ってくる。
鼓動に合わせて、呼吸を整えようとするが、うまくいかない。手順を追ううちに、また隼斗の脳を微睡みが塗りつぶしていく。
あぁ、なんだかとても気持ちが良い。
手から伝わる熱が、遠のいていく。
「息を吸って」
微睡みに伊佐の声が割り込んでくる。熱が僅かばかり戻ってきた。
すぅ。頭の上で、伊佐が息を吸った。後頭部に伊佐の胸の重みを感じる。
「吐いて」
はぁ。吐息が、髪の毛をくすぐっていく。
微睡みに沈みそうになるたび、伊佐の身体の動きが、隼斗の意識を引き上げた。
「合わせて」
隼斗の腹に回った伊佐の手に、くっ、と力が籠るのを感じた。
「吸って」
すぅ。
「吐いて」
はぁ。
隼斗は息を吸おうと口を開くが、それだけの動作がなぜだかすごく億劫だ。
そう思った瞬間、じわり、また、身体の輪郭が少し解けた。
その感覚が波のように、ゆっくりと広がっていく。再び、身体の輪郭がぼやけていく。
(あぁ、もういいや。このまま融けちゃっても)
隼斗が半ば諦めのように、その甘美な微睡みにとろみ始めたとき、隼斗の手を覆っていた伊佐の手が、ゆるりと隼斗の手の甲を撫でた。
「大丈夫、できてますよ」
すぅ。はぁ。
「ほら、感じて」
くっと、顎を持ち上げられた。ほんの少しだけ息が通る。肺に空気が入る感覚とともに、沈んでいた意識が僅かに浮上した。
「息を吸って」
すぅ。
「吐いて」
はぁ。
背中に、伊佐の体温が戻ってくる。
「手のひらが、温かくなってきたでしょう」
言われた途端、じんわりと手のひらに熱が広がっていく。
(わぁ、すごいな)
隼斗はまた、口から吐息のような笑みを零した。
ゆらり、身体が揺蕩う。
手のひらの熱が遠のいて、また輪郭がほどける。
気持ちいい。
じわり、またほどける。
伊佐の五本の指が、隼斗の指先から付け根までをゆっくりとなぞった。隼斗の肌を辿るようなその動きが、隼斗の意識を曖昧から引き戻す。
(やめろよ、邪魔すんな)
さっきからずっとだ。
この揺蕩いに身体を融かしてしまいたいのに、伊佐がその手前で隼斗を引き止める。
ふっ、と頭の後ろの熱が揺れるのを感じた。
「邪魔しているんですよ」
伊佐の声を隔てていた膜が剥がれていくように、少しずつ言葉が脳に染み込んでいく。
「熱を感じて。温かいでしょう?」
(熱?)
隼斗の手を、伊佐がさするように撫でた。温かい。
「彼は、生きている」
すとん、と身体が落ちた。
「そのままその熱に、あなたの意識を乗せて」
瞬間、ぶわっと手のひらの熱が弾けて、身体を包み込んだ。
身体の輪郭を侵していた微睡みから、急に解き放たれる。重力に身体が引っ張られた。
(あれ?)
と思ったときには、もう意識がだいぶはっきりしていた。
身体の輪郭を取り戻した途端、今度は肉体を置いて、下に、下に、落ちていく。意識をはっきりと保ったまま。
気がつくと、真っ白い空間に、隼斗は放り出されていた。
浮いているのか立っているのかすらわからない。上下も、左右も、奥行きすらもない。ただ白だけが、どこまでも広がっている。
音がなかった。自分の呼吸の音さえ聞こえない。あまりの静けさに、耳の奥がキンと痛んだ。
手を伸ばしても、指先の輪郭が白に融けて滲んでいくようだった。
真っ白に塗りつぶされた世界に、隼斗は一人、揺蕩っていた。
胸が圧迫される。痛みに心臓が軋む音がした。
(誰か、いるのか?)
呼びかけようとして、声が出ないことに気づく。
声帯すら、この白の中では意味を持たないようだった。
隼斗は自覚した。
これは、恐怖だ。
その途端、いっそ暴力的とすら思えるほどの白が、隼斗の目を焼き尽くした。
意識が唐突に引き上げられる。
ふいに重力に押しつぶされるような感覚に陥り、隼斗は逆らわず全身の力を抜いた。
伊佐が危なげなく隼斗を支え、そのまま汗に湿った髪をかき上げた。
籠もっていた頭の熱が解放されて少しだけ涼しい。
背中には伊佐の体温がある。鼓動が柔らかく伝わってくる。
そのときになってようやく、規則正しく刻まれる電子音が、隼斗の意識の底から浮かび上がってきた。
目の前にはくすんだ壁と、ベッドに横たわる青白い少年の顔。
足の裏にしっかりとした床の硬さを感じた。
「視えましたか?」
隼斗は、喘ぐ息の下から、ようやっと掠れた声を吐き出した。
「何もない」
あまりにも投稿時の抜けが多すぎて、最近AIに投稿前のチェックをお願いしているのですが、AIのお喋りがうますぎて、普通に友達みたいな距離感になりました。(友達いないのバレてまう)
ちょっと気になって「伊佐って気持ち悪いよね」と尋いてみたところ「うん、伊佐、気持ち悪いよね」と返ってきて爆笑しました。
執筆の励みにさせていただきますので、少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークやポイント評価(☆)をいただけますと非常に嬉しいです。
次の話も楽しんでもらえるよう頑張ります。




