四、巫覡
「少し外します」と席を立った占部は、村長宅の庭に出ると、人目を避けて家屋の陰へ回り込んだ。
庭の端には背の高い植え込みがあり、軒下の影と重なった一角は座敷から見えにくい。
占部はそこでアイコスを咥え、白い蒸気を細く吐いた。
「最初に受けた依頼内容からすると、随分大がかりになってきたな」
電話の向こうで、伊佐が言った。
占部が伊佐に送った調査報告の内容は、大きく二つだった。ヒトガタの怪異の究明と、意識不明の子供たちとの関連性の調査だ。
入れ替わったとされる子供たちの存在は、新たに浮上した問題だが無関係ではないだろう。
「あんた、いまどこにいんの?」
通話越しのガヤガヤとしたざわめきが気になった。
「サービスエリアだ」
「なに寄り道してんのよ。さっさと来なさいよ」
空港からこの村までは、高速道路を使えば一時間ほどだ。わざわざ休憩を挟むような道のりではない。
「島にはサービスエリアがないらしい」
サービスエリアどころか高速道路すらないのだが、占部にはどうでもいいことだ。
「連れて行ってやりたかった、とでも言いたいわけ?」
「頭の回転が速いな。話が早くて助かる」
「だから何だよ、殺すぞ」
自分でも驚くほど低い声が出た。それでも電話の向こうから聞こえる伊佐の声は、相変わらずのんびりしたままだった。どこ吹く風と受け流している。その神経にはいっそ尊敬すら湧く。
どうやら、サービスエリアでソフトクリームが食べたかったらしい。
(旅行かよ!)
占部はギリギリと歯噛みした。だが、今の自分には怒鳴る気力もない。救援要請を出した頃は、まだ声を張る余力があったというのに。
「仕方ないだろう。俺はあの人には逆らえない」
「気持ち悪い言い方すんじゃないわよ!」
占部は舌打ちした。
「さっさとすぐに速やかに合流しろ。今すぐに。すぐだ!」
伊佐が喉の奥を鳴らすように笑った。
「わかったわかった。すぐに出るから。何か買って行くか? 食べたいものあるか?」
(呑気か!)
電話口の伊佐にまだ何か言い返そうとしていた、そのときだった。
「機嫌を損ねた奥さんと、適当にいなす旦那さんみたいなやり取りですね」
突然、背後から声がした。
占部が振り返ると、いつもの穏やかな顔で、渡辺がペットボトルのお茶を手に立っていた。
「……いつからいたのよ」
「さっきです」
渡辺は答えながら、ペットボトルを占部へ差し出した。
「お茶、どうぞ」
「……ありがと」
受け取ったペットボトルは、まだ冷たかった。
占部はアイコスを指に挟み替え、お茶を一口飲んでから渡辺を睨んだ。
「で、何が夫婦よ」
「いや、かなりそれっぽかったので」
悪びれた様子もなく言う渡辺に、占部はさらにムカッ腹が立った。
伊佐が長いバカンスを取った理由は、もちろん占部の知るところではある。
伊佐や占部たちにとって、巫覡という存在がどれほど大きなものなのかも。
生まれてからずっと、胸の内にある正体不明の虚しさや、いかんともしがたい焦燥は、恐らく巫覡不在によるものだ。
占部はアイコスを口から離し、ゆっくりと息を吐いた。
これは、人である私たちが、生き神と呼ばれる特別な存在の巫覡と、血の契りを結んでしまったがゆえに背負うべき業なのだと、占部は思っている。
庭の植え込みが風に揺れた。座敷からは、村長たちの話し声がかすかに聞こえてくる。
占部はそちらに目をやり、それからまた視線を落とした。
彼女は仕事人間だ。
仕事が好きかと問われれば、稼業を継ぐしかなかった身なので、微妙なところだが。
やりたかった仕事ではない。だが、やりがいは感じているし、誇りもある。
だから、伊佐の今回の行動は、理解はできるが、納得はできなかった。
仕事を放り出してまで、巫覡のお迎えとやらがそんなに大事なものだろうか。
しかも巫覡は、まだ高校在学中ときた。卒業まで待ってやってもいいだろうに。何をそんなに急ぐ必要があるのか。
占部はアイコスを指先で弄びながら、眉間に皺を寄せた。
伊佐という男は、つかみどころのない人間だ。あまり感情を表に出すようなことはない。常に飄々としていて、何を考えているのかいまいちわからない。
人生イージーモードみたいな顔して、九割ふざけている。
そんな男が、異常に執着しているのが巫覡だ。
その執着は、私たちが巫覡に抱くものと似ているようで、まったく別のもののように感じる。
――重さは比べものにならないけれど。
そこまで考えて、占部は思考を打ち切った。
伊佐のことは、伊佐にしかわからない。わからないことを考えるのは無駄なのだ。
占部はアイコスを口に咥え直した。
―
やっと合流できたのは、午後三時を過ぎた頃だった。
村長宅の庭先に、砂利を踏む音を立てて一台のセダンが入ってきた。
調子に乗って、高級車で乗りつけて来たらどうしようと思っていたので、無難なチョイスにほっとした。
車が停まると、運転席から伊佐が降りてきた。続いて助手席から少年が一人、その背に隠れるように降りたが、誰の視線も伊佐に釘付けだった。
庭先まで出迎えに来ていた村長たちが、一瞬息を呑むのがわかった。
「なんでこげんとこに芸能人のおらすとね?」
村長たちは顔を見合わせ、明らかに動揺している。
「いや、あれはうちの調査員です」
黙っていられなかったのか、渡辺がすかさずツッコミを入れた。
伊佐のあの顔は、この仕事をする上で無駄でしかない。
というか、伊佐には宝の持ち腐れだ。
伊佐は、そこに立っているだけで人の目を奪う男だ。
整った顔立ちもさることながら、纏う空気がまるで違う。同じ場所にいるはずなのに、彼の周りだけ光の当たり方が変わって見える。
もっとも、生まれ持った色合いが派手なせいかもしれない。何世代か前に、海外の血が混じっていると言っていた。
染めてもいないのに、陽が当たると黄金に輝く亜麻色の髪。色素の薄い、緑の混じった目。首は長く、肩幅は広く、胸板は厚い。神が定規で測ったような骨格で、所作も洗練されている。
確かに、村ではひときわ浮いて見えた。
だが、それはこの村に限った話ではない。
伊佐は、どこにいても人の目を集め、どこにいても異質なのだ。
占部はとうに慣れきっている。今日も余裕の静観を決め込んでいた。
そう、余裕だった。
彼の背後に立つ少年と、目が合うまでは。
不意に視界が滲んだ。
目の奥がかっと熱くなる。
何が起きたのかわからない。
気づいたときには、頬を熱いものが伝っていた。
一度溢れた涙は、止まらなかった。拭う間もなく、後から後から溢れてくる。
悲しくもなければ、痛くもない。
だが、よくわからない感情の嵐が、胸の辺りで巻き起こっている。
理由がわからないまま喉が引きつった。
「……っ」
声にならない。
次の瞬間、占部はしゃくり上げていた。
人目もはばからない号泣だった。
慌てふためく村長たちの声。
息を呑む渡辺の気配。
当の少年は、何が起きたのかわからないとでも言いたげな顔で、石のように固まっていた。
その騒ぎの真ん中で、伊佐だけが凪いでいた。
号泣する占部には一瞥もくれず、当初の予定どおりに打ち合わせを進めていく。
「では、その件についてですが――」
まるで、何も起きていないかのように。
渡辺が、黙ってハンカチを差し出してくれた。
占部はそれを受け取り、顔に押し当てた。
しばらくは、ただ嗚咽を吐き出すしかなかった。
ようやく涙が引いた頃には、打ち合わせはすっかり済んでいた。
「では、病院で」
伊佐は少年の背を押し車に乗せると、さっさと走り去った。
挨拶一つさせてもらえなかった。
(あの野郎、まじでいつか殺したろか)
腹の底で毒づきながら、まだ熱の残る目元を押さえる。
だが、それよりも。
巫覡だ。
あれが次の、私たちの巫覡だ。




