三、騙された
「騙された」
高速道路を走る車の中、隼斗は車窓を流れる山々を恨めしげに眺めていた。
「ちゃんと空港でラーメンを食べたじゃないですか」
「俺はグルメツアーだと思ってたんだよ」
高架の下に、青々とした稲が風に波打っている。島と変わり映えしない景色に、隼斗はうんざりと口を尖らせた。
通話を終え、隼斗を振り返った伊佐は、にこやかに言った。
「もうすぐ夏休みも終わりますし、新学期が始まる前に旅行でも行きませんか?」
隼斗は、にべもなく断った。だが、それで引き下がる伊佐ではない。
「福岡には、美味しいものが沢山ありますよ」
ラーメンに焼き鳥、うどん、もつ鍋、ごまさば、馬刺しと、福岡は名物に事欠かない。馬刺しは熊本の方が有名だが、福岡でも絶品だ。九州でも有数の水揚げ額を誇る博多漁港もある。高級魚だって、新鮮なものが食べられる。
伊佐の見事なプレゼンに乗せられ、隼斗はまんまと釣られてしまった。
有川家は朝が早い。七時頃に朝食を摂り、登紀子や伊佐と家事を手分けしてこなす。
勉強するふりをして昼寝(というか朝寝)をして、起きたらまだ昼時まで充分に時間があった。時間を持て余していたせいか、余計に腹が減っている。
考えてみれば、寝ただけで腹が減るというのも妙な話だった。体を動かしていたわけでもないのに不思議だ。なぜなんだ。これは人体の不思議の話をしている。特別、自分が食いしん坊なわけではない。断じてない。それだけは、はっきりしていた。
かくして伊佐は、二泊分の着替えを用意した隼斗を連れ、昼の便で福岡へ向かった。
空港は島の端にあるとはいえ、有川家からはそう遠くない。都会と違って渋滞に縁のない道を、伊佐の運転する車はすいすい走っていく。平日の昼間は空席が多いため、福岡行きのチケットはすぐに取ることができる。
本土と海で隔てられたこの島も、先人たちの努力のおかげで、今では飛行機ならわずか数十分。あっという間に福岡だ。
滑走路に降り立った瞬間から、隼斗の頭の中はすでにご当地グルメでいっぱいだった。だが、めくるめくグルメツアーに胸を躍らせていたのも束の間、隼斗は、いつの間にか手配されていたレンタカーに乗せられていた。
博多の街が、車窓の向こうに遠ざかっていく。
「どこに……?」
と聞けば、南部の村に行くと言う。
「博多旅行じゃなかったのか?」
「博多は福岡市の博多区のことですよ。私は福岡に行きましょうと言いましたよね?」
にっこり笑って返された。
詐欺だ。わざとだ。絶対わかっててハメやがった。
むぅと頬を膨らませる隼斗に、伊佐は苦笑した。先ほどから窓を見たまま、頑なにこちらを見ようとしない。その仕草が、伊佐には可愛く思えた。
こんな風に、彼を見る日が来るとは思わなかった。
車窓の外を田園風景が流れていく。信号のない道をレンタカーはゆるやかに南へ下っていた。
「いまから行くところの近くに、うまい馬刺し屋さんがあるんです。焼き鳥も名物ですよ。どっちがいいですか?」
ようやく隼斗はこちらを見た。その眉間には、まだ深い皺が刻まれている。
「どっちも」
「帰りはもつ鍋屋に行きましょう。そこはごまさばも美味しいですよ。お土産は、甘いものならどら焼き、ご飯のお供なら明太子はどうですか?」
「え」
一瞬、呆気にとられたような顔をしたあと、隼斗の目が、みるみる輝きを増していく。伊佐は、その反応に思わず口元を緩める。
隼斗は普段、感情をあまり表に出さない。無表情というわけではないが、思春期特有の照れもあるのだろう。どこかぶっきらぼうで、笑顔を安売りしない。だから笑うことも滅多にない。
濡れたような黒髪に、日に晒された肌。少年期を残した丸い頬とは対照的に、顎の線はシャープだ。
幅の狭い二重で、目尻の切れ上がった意志の強そうな瞳は、一見近寄りがたく冷たい印象を与える。だが、それは感情を映す鏡のようだ。
一般的な日本人より濃い黒の瞳は、光を受けると黒曜石のように輝くことがある。雲間から差す昼下がりの光が、いまその黒を淡く照らしていた。
伊佐は、その美しい黒に、惹かれずにはいられなかった。
―
「うちの村には昔から、やまんと信仰っていうとがありまして」
そう口にしたのは、この村の総鎮守を代々預かる神主だった。
村長宅の仏間と続きになった、広い座敷。庭に面した障子は開け放たれ、外から入る薄明かりが、濡れた庭石や畳の縁を淡く照らしていた。
神主の隣には、村の菩提寺を守る住職と村長が並んで座っていた。
座卓を挟んだ向かいには、占部と渡辺の姿があった。
「はぁ、やまんと信仰」
聞き慣れない言葉に、渡辺が続きを促すように相槌を打った。神主、住職、村長の三人は、何か含みがあるように互いの顔を見交わしていた。
「あの……役所の方から通達が来たんで、もちろん疑ってはおらんとですが」
続いて口を開いたのは村長だ。
「あなた方は、県から派遣された正式な業者ってことで、良かとですよね?」
渡辺は占部の顔を流し見た。
渡辺に経験を積ませるため、占部はすべての対応を任せている。そのため口を挟むことはない。
正式かどうかはわからないが、ここの依頼主は確かに県だ。
とはいえ、自分たちは正確に言えば国の管轄だ。どこに所属しているのかはわからない。どこかの省の、その中でも一部の人間しか知り得ない部署に属する、極秘機関が本体だ。
ちなみに、うちはそこの九州ブロック担当である。
だから、業者というよりは、正式な機関の所属と言った方が良いだろう。ただ、色々ツッコミどころの多い存在ではあるので、渡辺は曖昧に頷いた。
「では、いまからする話は、村の恥部と言いますか、評判に関わる話にもなりますけん、どうか内密にお願いしたいとですが」
村長が、重い口を開いた。
障子の向こうには、曇天の下、民家が身を寄せ合うように立ち並んでいた。大通りから外れた静かな一角だ。庭の敷石には薄暗い空が映り込み、いつもよりひどく沈んで見える。
「いまから、遠い遠い昔の話です。戦乱や飢饉で、人々が飢えに喘いでいた時代、食い扶持に困った村人の中には、家の者を山に置き去りにする者もおったとです」
「姥捨て山ですか?」
古い伝承だ。そういう話は各地にある。
「まあ、老人も。身体の不自由な者や子供もいたかもしれませんな」
生き残るために、弱い者を切り捨てなければならない。自然界では、動物によく見られる行動だ。人間も所詮は動物なのだろう。本能と言ってしまえば、それまでなのかもしれない。そうしなければ生きられない時代だった。
残酷で非情な行いだ。だが、否定することはできない。
「のちに山岳信仰と言いますか、そういう場所だからか修験者も多く山に入りまして、彼らが集まって、村ないしコミュニティを築いていたという伝承が伝わっております」
村長は乾いた唇を舐めた。喉に何かがつっかえているように、声が掠れていた。
「彼らは人であって、人でない者となったとです。罪悪感もあったっちゃなかですかね」
彼らは、やまんと様と呼ばれるようになった。
文明を捨てた彼らは、裸となって山を彷徨い歩くようになったという。
たまに山裾まで下りてくることがあるらしい。
彼らを見かけても、絶対に声をかけてはいけない。目を合わせてもいけない。気づかれないように、速やかに逃げろ。
この村では、そう伝えられている。
「見つかったらどうなるんです?」
村長はすぐには答えなかった。視線を落とした。
「まぁ、逃げられるかもしれませんな」
「捕まったら……問題です」
神主はそれだけ言って口を閉ざした。
それまで黙って座っていた住職が、意を決したように口を開いた。
「連れて行かれるとです。山に」
日本昔話みたいな話だなと渡辺は思った。
大の大人が揃って真顔で口にするには、どこか現実味のない話だった。
「目撃情報としては一致するものではあるのですが」
渡辺と占部の仕事は、村に巣くう怪異の原因を突き止め、解決することだ。
村人の言を借りれば、「やまんと様」と呼ばれるヒトガタの怪異が、村に異常発生しているらしい。
そして、――
「私の息子が目を覚まさんのです」
そう言ったのは、住職だった。彼はそのまま俯いた。その頬が、げっそりとこけていることに渡辺は初めて気づいた。目の下にも隈ができている。眠れていないのかもしれない。肩が小さく震えていた。
村では、住職の息子に続いて二名、意識不明の状態に陥っている者がいるのだと神主が続けた。
「魂を、やまんと様に連れていかれたと?」
「わかりません。ですが少し気になることもありまして」
やまんと様の目撃情報が増えるにつれ、子供の様子がおかしいと訴える親が出てきた。
ある親は、自分の子の人格が入れ替わってしまったようだと言った。
別の親は、子供が抜け殻のようになり、日がな一日ぼんやり過ごすようになったと語った。
どちらの子も、すっかり生気を失い、無気力に、ただ機械的に、人間らしい振る舞いを真似ているだけのように見えるという。
「もしかしたら、大人にもその状態の者がいるかもしれません。大人は子供と違って、見てくれる者の数が極端に減りますけん」
正確な人数は把握できていないということだった。
「……だとしたら、大変な事態ですね」
渡辺は隣の占部を見た。
占部もまた、険しい顔をしていた。




