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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第6章 第7管理区画・第0補助層

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終話 区切り――休んでから受ける

 朝の部屋に、コーヒーの匂いがした。


 誠二が目を覚ました時、カーテンの隙間から入った光はもう薄く明るく、夜の名残はほとんど残っていなかった。隣には、リュシアがいる。特別に驚くことではなくなっている自分に、誠二は少しだけ苦笑した。


 最初は、泊まった翌朝だった。次は、仕事のあとにそのまま残った朝だった。その次は、帰るつもりだったのに眠ってしまった朝だった。理由は少しずつ変わっていったが、結果だけは同じだった。


 朝、誠二の部屋にリュシアがいる。


 洗面台には、予備の歯ブラシがある。キッチンの棚には、リュシアがよく使う白いカップがある。冷蔵庫には、彼女が地上で覚えた甘いヨーグルトがひとつ入っている。


 どれも大きな変化ではない。けれど、そういう小さなものが、部屋の中に少しずつ増えていた。


 誠二が身体を起こすと、リュシアも目を開けた。すでに起きていたのかもしれない。彼女は横向きのまま、誠二を見上げている。


「起きる?」


「仕事ですから」


「知ってる」


 短く返してから、リュシアも身体を起こした。寝乱れた髪を片手で整え、ベッドの端へ腰を下ろす。


 以前なら、そのまますぐに神界へ戻っていたかもしれない。だが最近のリュシアは、そうしない。誠二が朝食を用意するあいだ、当たり前のようにそこにいる。急がない。慌てない。帰ることだけを先に置かない。


 誠二はキッチンへ向かい、湯を沸かした。コーヒーを二人分。パンを軽く焼き、冷蔵庫からヨーグルトを出す。


 リュシアは洗面所から戻ると、地上仕様の服に着替えていた。白いブラウスに、細身のスカート。何度見ても、仕事着にも私服にも見える、不思議な格好だった。


「最近、毎朝いますね」


 誠二がカップを置きながら言うと、リュシアは椅子へ座りながら頷いた。


「いる」


「神界の仕事は」


「朝は、ここがいい」


 あまりにも迷いのない返事だった。


 誠二は少しだけ手を止めてから、苦笑する。


「だいぶ自然に言いますね」


「自然だから」


 リュシアはパンを一枚取り、皿へ置いた。それから、少し考えるように視線を落とす。


「補助層は、もう回ってる」


 唐突なようで、唐突ではなかった。昨日の夜から、どこかでその話になる気配はあった。


 第0補助層。救う側の職場でありながら、壊れかけていた場所。誠二が入り、分類し、線を引き、引継ぎを残した場所。


「分類も残った」


「引継ぎも残った」


「止める線も残った」


 リュシアは淡々と言う。


「セレナも見てる」


「ミレイアも分けるようになった」


「私も、前より分けられる」


「そうですか」


「うん」


 リュシアはコーヒーを一口飲んだ。


「だから、誠二がいなくても全部は落ちない」


 誠二は、すぐには返事をしなかった。その言葉は、思っていたより静かに胸へ入ってきた。


 誠二がやってきたのは、誰かの代わりに全部を背負うことではない。人が壊れないように手順を置くこと。属人化していたものを、組織へ戻すこと。燃えそうな場所に、燃え切る前の線を引くこと。


 だから、本来なら。


 誠二がいなくても落ちない状態になることこそ、仕事の終わりだった。


「それなら、良かったです」


 誠二はそう言って、カップを手に取った。


「良かった、だけ?」


「かなり良かったです」


「うん」


 リュシアは満足したように頷いた。それから、少しだけ目を細める。


「誠二は、案件を受けすぎる側」


「そうですか」


「そう」


「断るのは、そこまで苦手ではないと思いますが」


「区切るのは下手」


 誠二は返す言葉を一度失った。


 リュシアはパンを小さくちぎりながら、静かに続ける。


「壊れる前に止めるって、ずっと言ってた」


「途中で渡していいとも言ってた」


「休んでから受けるとも言ってた」


「言いましたね」


「だから、覚えた」


 淡々としているのに、逃げ道がない。誠二は小さく息をついた。


「自分に返ってくると、なかなか重い言葉ですね」


「誠二が言った」


「ええ。言いました」


 リュシアは少しだけ口元を緩めた。


 その時、テーブルの端に置いていた神界端末が震えた。


 短い振動だった。赤くはない。強制呼び出しの音でもない。ただの雑談通知でもないが、今すぐ席を立たせる種類のものではない。


 リュシアが先に視線を向ける。


「来た」


「来ましたね」


 誠二は端末を手に取った。画面には、第48管理区画からの相談依頼が表示されている。


 担当管理神はミレイア。対象は第146世界。案件分類は、他国公爵令嬢処断問題、王家婚約秩序、軍事介入予兆、国家間対立化リスク。緊急度は中。推奨担当は、前原誠二。


 その下に、ミレイアからのメッセージが続いていた。


『誠二ー。ちょっと面倒なの来た』


『悪役令嬢っぽい子が断罪されて、なんか国同士で燃えそう』


『急ぎではあるけど、今すぐじゃない』


『空いたら見て』


 誠二は画面を数秒見つめた。


 第48管理区画。ミレイア。悪役令嬢。他国公爵令嬢。軍事介入予兆。


 文字だけで、かなり重い。燃えそう、というミレイアの言い方は軽いが、軽い案件ではないことは分かる。


 誠二は詳細を開こうとして、指を止めた。


 リュシアが静かに言う。


「今じゃなくていい」


「見えてますか」


「鳴り方が違う」


 リュシアは端末を見たまま続けた。


「本当に今すぐなら、もっと強く鳴る」


「ミレイアも、空いたらって書いてる」


「そうですね」


「だから、今じゃない」


 誠二は端末の画面を閉じた。


 案件が消えたわけではない。通知は残っている。次の世界は、すでに扉の向こうにある。


 だが、今すぐ開けなくてもいい。


 そのことを、誠二は少し遅れて受け入れた。


「変わりましたね」


「誰が」


「神界側が」


 リュシアは少しだけ首を傾ける。


「そう?」


「前なら、もう少し雑に投げられていた気がします」


「それはある」


「今は、緊急度が分けられている。担当候補も出ている。今すぐかどうかも書いてある」


 誠二は閉じた端末を見た。


「ちゃんと、補助層のあとが残っています」


 リュシアは少しだけ黙った。それから、小さく頷く。


「なら、良かった」


 その声は、いつもの平坦な声より少し柔らかかった。


 朝食を終える頃には、出勤時間が近づいていた。誠二は食器を流しへ運び、手早く片付ける。リュシアは横に立って、拭くものだけを手伝った。


 手際が良いかと言われれば、まだ少し危うい。だが、以前よりずっと自然だった。


 カップを拭き終えると、リュシアはそれを棚へ戻した。自分が使う場所を、もう知っている。


 誠二は着替えを済ませ、鞄を手に取った。


 神界端末は通知だけを残して、画面を閉じてある。持って行かないわけではない。見なかったことにするわけでもない。ただ、今この瞬間に開くものではなかった。


 玄関へ向かうと、リュシアもついてきた。靴を履く誠二を、壁に背を預けて見ている。


「戻るんですか」


「あとで」


「あとで?」


「少し片付ける。それから戻る」


 誠二は思わず笑った。


「本当に自然ですね」


「自然だから」


 同じ返事だった。けれど、さっきより少しだけ強く聞こえた。


 誠二が扉に手をかける。


 その直前、リュシアが言った。


「いってらっしゃい」


 誠二は振り返った。


 リュシアは、特に照れた様子もなく立っている。ただ、言うべき言葉を言っただけ、という顔だった。


「だいぶ地上に慣れましたね」


「毎朝いるから」


 短い返事。


 それだけで十分だった。


 誠二は少しだけ目を細める。


「行ってきます」


「うん」


 扉を開けると、外の空気が入ってきた。


 いつもの朝だった。地上の仕事へ向かう朝。部屋の中には、リュシアがいる。端末には次の案件の通知が残っている。


 第48管理区画。第146世界。ミレイアからの相談。


 それは、いずれ開くことになるのだろう。また別の世界で、別の誰かが、燃える前の線を必要としている。


 それでも、今朝の誠二はまず、自分の職場へ向かう。


 仕事は続く。次の世界も、次の案件も、きっとある。


 けれど、全部を今日受けなくてもいい。区切れるなら、区切っていい。途中で渡していい。


 休んでから受ければいい。


 そう決められる場所まで、ようやく来た。


 誠二は扉を閉め、朝の廊下を歩き出した。


 背後の部屋には、リュシアがいる。


 明日の朝も、たぶんいる。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この話をもって、本作はいったん第一部完とさせていただきます。


誠二が異世界の現場へ入り、制度を整え、燃えかけた世界を止め、最後には救う側の職場そのものへ手を入れるところまで書くことができました。


そして、仕事だけではなく、リュシアとの関係もひとつ先へ進みました。


「区切れるなら、燃えない」

「途中で渡していい」

「休んでから受ける」


そういう話を書いてきた作品なので、作者側もここで一度、ちゃんと区切ろうと思います。


次の案件の気配はありますが、今すぐ受けなくてもいいところまで来た、という区切りです。


再開する場合は、第二部として、また別の案件から始める形になると思います。


ここまで誠二たちの仕事を見届けてくださって、本当にありがとうございました。


またどこかの朝に、誠二たちの仕事が始まった時は、その時もお付き合いいただけたら嬉しいです。

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