閑話 視察――たぶん仕事、かなりデート
目を覚ました時、誠二の胸元には、まだ夜の続きみたいな熱が残っていた。
隣ではなく、ほとんど上に近い位置でリュシアがだらりと身体を預けている。シーツを腰のあたりへ雑に引っかけているだけで、他は何も着ていない。起きているのに、起き上がる気はまるでないらしかった。白い肌が朝の薄い光を受けて、昨夜の名残をまだ少し持っているみたいに柔らかく見える。
誠二が少しだけ身を起こそうとすると、リュシアが腕を回して止めた。
「まだ」
「もう昼前ですよ」
「起きてる」
「でも、まだ動かない」
言い方はいつも通り平然としているのに、身体はまったく仕事へ向かう気配がない。誠二は小さく息を漏らしてから、そのままもう一度枕へ頭を戻した。
リュシアは満足したみたいに少しだけ近づいて、胸元へ頬を押し当てる。昨夜の余韻がまだ身体のどこかに残っているのだろう。朝の空気の中でも、距離の詰め方が自然だった。
少しして、ぽつりと言う。
「誠二の家でするの好き」
誠二は一瞬だけ言葉を止めてから、小さく息を漏らした。
「だいぶ率直ですね」
「好きだから」
言い切ってから、リュシアは少しだけ目を細める。
そこから先は、夜の続きというほど重くはなかった。けれど、昨夜から今朝へ繋がっていることを確かめるには十分に近かった。眠気の残る身体同士で、少しだけ触れ合い、少しだけ息を乱し、少しだけ笑う。急がず、深追いもせず、だらだらしたまま近くいられること自体が、何より自然だった。
ようやくベッドを抜けた誠二は、先にキッチンへ向かった。
コーヒーを淹れる湯の音が、静かな部屋にゆっくり広がる。
振り返ると、リュシアはまだシーツを肩に掛けたまま、ベッドの端へ座っていた。こちらを見ているわけでもなく、少しぼんやりしている。仕事の時なら、もうとっくに支度を終えている顔だ。今日はそういう日ではないらしい。
「コーヒー、飲みますか」
「飲む」
短く返してから、ようやく立ち上がる。
地上で泊まること自体はもう初めてではない。前にも何度かあったし、添い寝まではしていた。けれど、こうして関係が変わったあとで迎える朝は、やはり前とは少し違った。
コーヒーの湯気が立つ頃には、リュシアも地上仕様の格好に戻っていた。白いブラウスに、すっきりしたスカート。仕事帰りの女にも見えるし、少しきっちりした私服にも見える。本人は多分、視察仕様のつもりだ。
「それ、普通に出かける服ですよ」
「視察用」
「地上仕様」
言い切る顔があまりにも真面目なので、誠二は笑うしかなかった。
家を出る時には、もう昼にかなり近い時間になっていた。
視察と言うには出発が遅い。
デートと言うには、リュシアの目がわりと本気で街を見ている。
浅草へ向かう電車の中で、リュシアは窓の外をかなり真剣に見ていた。
車内広告。座っている人間の顔。立っている人間の間の取り方。駅の混み方。
見ている場所がいちいち細かい。
「そんなに面白いですか」
「面白い」
「昼の移動は、夜と全然違う」
「そうですね」
「人の顔がまだ持ってる」
その言い方に、誠二は少しだけ感心した。
たしかに、夜の居酒屋帰りや、仕事帰りの駅とは、人の顔の疲れ方も速度も違う。リュシアはそういうところをちゃんと拾う。
浅草に着くと、人の密度は渋谷とはまた違っていた。
観光客の賑やかさ。
昔からの店の看板。
寺社の周りだけ少し空気が変わる感じ。
食べ歩きの匂い。
雑多なのに、雑多さの種類が違う。
リュシアは歩く速度を少し落とした。
視線が忙しい。
表情は静かなままだが、見ていることは明らかに多い。
「渋谷より、古いですね」
「そりゃそうです」
「でも古いままじゃない」
「商売ですからね」
「うん」
「残し方が上手い」
その言葉が、妙に浅草の空気へ合っていた。
落語の席へ入ると、リュシアは最初かなり静かだった。
仕事の顔で座っている、と言った方が近いかもしれない。背筋はすっと伸び、視線も無駄に揺れない。
けれど、噺が進むにつれて、ほんの少し肩が揺れるようになった。
一人で喋っているだけなのに、人が増え、場面が動き、空気の温度まで変わる。間の取り方、黙る時間の置き方、客席の呼吸の引き込み方。リュシアはそういう技術にかなり反応していた。
終わって外へ出てから、しばらく歩いたあとでやっと口を開いた。
「かなり上手い」
「プロですからね」
「圧縮が上手い」
「言葉が少ないのに場面が多い」
「無駄がない」
感想は完全に仕事目線だった。
でも、それだけではなかったのは、途中で小さく笑っていたのを誠二が見ている。
「普通に楽しんでましたよね」
「それも含めて視察」
真顔で返されて、誠二はまた笑った。
ランチは浅草の少し落ち着いた店に入った。
観光地らしい賑わいはあるが、昼の席としてはちょうどいい。揚げ物とご飯、味噌汁。地に足のついた昼食だ。
リュシアは食べる前に少しだけ店の中を見回した。
客層、回転、店員の動き、卓上の置き方。
それを見てから、箸を取る。
「ここも視察ですか」
「うん」
「昼の滞在時間、接客の密度、客の離れ方」
「よくそこ見ますね」
「大事」
そのわりに、出てきた食事はきちんと楽しんでいた。
一口食べて、少し間を置く。
「おいしい」
「視察の感想としてはだいぶ緩いですね」
「食事の方」
昼の空気はやわらかかった。
落語の話を少し続け、浅草の歩きやすさの話になり、渋谷との違いを少し比べる。仕事の言葉で見ているのに、並んで座って食べている時間はかなり普通の昼だった。
午後は秋葉原へ回った。
駅を出てすぐ、リュシアは短く言った。
「濃い」
「いきなりですね」
「渋谷と違う」
「熱量が偏ってる」
その表現が妙に正確だった。
好きなものに向かってまっすぐ濃い街。
しかも、その濃さが店ごとに分かれて並んでいる。看板も、客の視線も、立ち止まる場所も偏っている。
「でも整理されてる」
フィギュアショップの前で立ち止まりながら、リュシアが言う。
「好きなものに遠慮がない」
「でも街として成立してる」
「それが秋葉原ですね」
「渋谷は流れてる」
「ここは溜まってる」
言われてみれば、その違いはたしかにある。
渋谷は流行が通り過ぎる街だ。秋葉原は、好きなものが層になって沈殿している街に近い。
アニメショップ、ゲーム、フィギュア、ガチャ。
どこへ入っても、リュシアは無言の時間が少し長くなる。真面目な顔で見ているのに、嫌がってはいない。むしろ面白がっている方が近い。
ガチャの前で、ふと立ち止まった。
「これ、何が出る」
誠二が横へ並ぶ。
「種類ですか」
「見た目どおりです。ランダムですね」
「ランダム」
「やります?」
少しだけ間。
それから短く、
「やる」
誠二が笑いながら小銭を入れる。
リュシアが回す。
出てきたカプセルをその場で開けて、中身を見る。
微妙に狙いとは違ったらしいが、嫌な顔はしない。
「外れではない」
「よかったですね」
「でも、次なら別のがいい」
「もう一回やりますか」
「それは今日はしない」
その線引きが妙に真面目で、誠二はまた少し笑った。
歩き回るうちに、夕方には二人ともそれなりに疲れていた。
ただ、その疲れ方は補助層の鈍い疲れとは違う。普通に外を歩いて、見て、食べて、少し笑ったあとの、人としてまともな疲れだった。
夜は、結局いつもの居酒屋へ入った。
渋谷で最初に並んだ場所。
仕事が入り込んだり、案件の話になったり、関係が変わったり、そのたびにここへ戻ってきている気がする。
ジョッキが置かれ、最初の一口を飲んでから、リュシアが言った。
「かなり視察だった」
少し間を置いてから、続ける。
「たぶん」
誠二は苦笑する。
「だからデートですよ」
「それも少し」
即否定しないところが、前よりずっと素直だった。
揚げ物をつつきながら、少し沈んだ空気のあとで、リュシアがジョッキを置く。
「今回ので、急ぎは一段落」
誠二もジョッキを置いた。
「ようやく、ですね」
「うん」
少し間。
それから、何でもないことみたいに続ける。
「たぶん次は、あの二人のどっちか」
「スポットワーク入る」
誠二は少しだけ目を上げる。
「セレナさんか、ミレイアさんですか」
「たぶん」
「もう見えてるんですね」
「気配ある」
誠二は少しだけ考えてから言う。
「どちらが先でも、だいぶ違いそうですね」
「かなり違う」
その一言で十分だった。
セレナでも、ミレイアでも、補助層とはまた違う空気になる。そこだけははっきり見える。
居酒屋を出たあと、二人は近くのコンビニへ寄った。
飲み物と、朝用の軽いものと、少し甘いもの。リュシアはもう一人で来たことがあるせいか、前より店内での動きが自然だった。
それでも時々、棚の前で立ち止まっては短く聞いてくる。
「これ、朝用?」
「そうですね」
「それは夜でもいけますけど」
「じゃあ両方」
部屋へ戻る頃には、二人ともかなり気が抜けていた。
靴を脱ぎ、袋をテーブルへ置き、どちらからともなくソファへ沈む。テレビはつけてもいいし、つけなくてもよかった。会話は多くない。肩が触れ、少し寄り、時々キスが落ちる。そういう夜だった。
リュシアはソファの背にもたれたまま、誠二の腕へ自分の腕を絡めるみたいにしていた。
強く抱きつくわけではない。
でも、離れる気もない。
しばらく黙っていたあと、何でもない顔で言う。
「明日は誠二が仕事行く時までいる」
「それから戻る」
誠二は少しだけ目を上げた。
「だいぶ自然に言いますね」
「自然だから」
それで話は終わった。
けれど、その言葉が部屋の中へ落ち着いて馴染んだことの方が、誠二には少し不思議だった。
前から泊まりはあった。
添い寝もしていた。
だが、今はそれとは少し違う場所へ来ているらしい。
明日の朝、仕事へ行く時間まで一緒にいる。そのことが特別でもなく、無理でもなく、ただ自然に置かれている。
リュシアが少しだけこちらへ寄ってきて、肩へ額を当てる。
「今日はかなり視察だった」
「だからデートですよ」
「たぶん」
短い返事のあと、二人はそのまましばらく黙っていた。
補助層の重さは一度区切れた。
次の仕事の気配はある。
でも今夜は、まだそこへ行かなくていい。
近い距離のまま、ゆっくり夜が深くなっていった。
第0補助層編、ここでひとまず一区切りです。
今回はこれまでの世界側案件よりも少し重めで、「救う側の職場が壊れていたらどうするか」を中心に書いてきました。
全部を救えるわけではないし、全部を綺麗にもできない。
それでも、壊れ方を分けて、止める線を置いて、次に同じ落ち方を少しでも減らす。
誠二がやったのはそういう地味で重い仕事だったかなと思います。
そして今回は、リュシアの隠さない彼女感もかなり強めでした。
もともと仕事の顔と私的な顔の線引きが独特な子ですが、繋がってからはそのへんをあまり隠さなくなってきて、だいぶ“彼女”として前に出てきた気がします。
平然と仕事の話をしながら、しっかり彼女でもあるのは、やっぱりリュシアらしいなと思いながら書いていました。
次章からは、また少し相手と空気感が変わった展開になります。
同じ神界側でも、相手が変わると案件の色もかなり変わるので、そのあたりも楽しんでいただけたら嬉しいです。
少し書き溜めをしたいので、更新は少し日があきます。
また戻ってきた時は、ぜひお付き合いください。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




