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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第6章 第7管理区画・第0補助層

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第14話 精算――減らした分だけ、ちゃんと戻る

 目を覚ました時、誠二は、胸元へ沈んだままでも身体の芯が妙に軽いことに気づいた。


 白い仮眠室の光はいつも通り薄く、時間の輪郭だけを曖昧にしている。昨夜かなり深く重なったあととは思えないほど、肩も腰も鈍くない。眠気はある。だが、消耗の重さではなく、よく眠れた朝の気だるさに近い。


 少しだけ身じろぐと、リュシアが先に目を開けた。

 眼鏡はまだ掛けていない。眠気の残る顔のまま、少しだけ身体を寄せる。


「中、まだ夜の残ってる」


 誠二は胸元へ顔を預けたまま、小さく息を漏らした。


「朝から実感が早いですね」


「分かるから」


 短く言ってから、リュシアはまた少し寄る。

 昨夜の余韻を確かめるみたいに、近い距離のまま目を細めた。


「今日は仕事ない」

「精算の前に、少し」


 言い方は平然としている。

 誠二はそのまま頷いた。


「少し、ですか」


「少し」


 そう言ったわりに、触れ方は素直だった。夜の続きというほど重くはない。だが、昨夜の名残を確かめるには十分に近い。眠気の残る身体同士で、もう一度だけ静かに重なる。急がず、深追いもしない。仕事へ出る前ではないからこその、少し気の抜けた近さだった。


 落ち着いてから身を離すと、リュシアは短く言った。


「今日は精算」


「ようやくですね」


「うん」


 短いキスが落ちる。

 それで朝は十分だった。


 精算席は、第0補助層よりずっと静かだった。

 白い結晶板が1枚だけ浮かび、その下に椅子が並んでいる。仕事のための席だが、補助層のような切迫はない。今日はそこに、誠二とリュシアだけでなく、セレナとミレイアも立ち会うつもりらしく、少し後ろに並んでいた。


 リュシアは板を指先でなぞり、いつもの抑揚の薄い声で読み上げ始めた。


「通常勤務、96時間」


 数字になると、妙に実感がある。

 12日。

 1日8時間。

 補助層の白い光の下で削られていた時間が、そのまま切り取られて板に乗っている。


「超勤、7.5時間」


 誠二は小さく眉を上げた。

 封鎖ログ区画に入った日。漏洩を追った日。重かった日が、こうして時間に切られて返ってくる。隣でミレイアが、少しだけ目を丸くした。


「ちゃんと付いてるんだ」


 リュシアはそのまま続ける。


「報酬、109,440円」

「超勤加算、2,137.5円」

「合計、111,577.5円」


 ミレイアが肩をすくめる。


「安くない?」

 少し間を置いて、自分で打ち消す。

「いや、そのくらいは掛かるか」


 セレナは板を見たまま、静かに言った。


「それだけ掛かっていましたか」


 重さを数字として受け止めている声だった。

 補助層の空気を毎日吸っていた人間には、その数字が軽く見えないのだろう。


 リュシアはさらに読み上げる。


「寿命復元、96時間分」


 誠二はそこで板から目を上げた。


「超勤は寿命に入らないんですね」


「入らない」


 リュシアは即答した。


「削るだけ」


 その言い方が、補助層らしく嫌だった。

 はみ出した分は、ただ重く残る。

 全部を綺麗に戻してくれるような都合のいい仕組みではないということを、あっさり突きつけてくる。


 少し間。

 それから、板の下に小さく浮いていた補足欄へ視線を落として続けた。


「補足」

「寿命直接支給分、7時間」

「私と繋がってた時間」


 そこでようやく、ミレイアが目を上げる。


「そんなにしてたんだ」


 リュシアは平然としたまま言う。


「とても良かった」

「今朝も」


 その横で、セレナが一瞬だけ言葉を失った。

 白い頬にうっすら熱が差して、視線が少しだけ落ちる。


「……そう、ですか」


 誠二は小さく息を吐いた。


「精算の場ですけどね」


「補足だから」


 まったく悪びれない返しだった。

 そのまま続ける。


「今回は彼氏案件」

「女神彼女特典」


 誠二は板へ目を戻しながら言う。


「ずいぶん強い特典ですね」


「ひとつになってる間は、寿命も体力も戻る」

「だから何回もできた」

「だから朝も元気」


 あまりにも事務的に説明されるので、誠二は少しだけ笑ってしまう。


「だからですか」

「歳の割によく出来たと思ってました」


 リュシアは平然としている。


「それ以前に良かった」

「初めてだったけど」

「かなり」


 白い板の前でそんな評価を返されると、妙に居心地が悪い。

 だが、悪くはなかった。

 後ろでミレイアが吹き出しそうな顔をし、セレナはまだ少し赤いままだ。


 リュシアはそこで、結晶板から目を離さないまま何でもない顔で付け加えた。


「知らせておく」


 誠二が視線を向ける。


「地上では、しても戻らない」

「寿命」

「体力は回復させるけど」


 誠二は小さく息を漏らした。


「そこはちゃんと現実なんですね」


「うん」

「重要」


 その一言で、神界と地上の差が妙に生々しくなる。

 都合のいい無限回復ではない。

 だからこそ、昨夜までの流れも、今日の軽さも、彼氏案件という例外込みで成立していたのだと分かる。


 精算板の光が少し薄くなり、勤務終了の表示が浮いた。

 その1行を見届けてから、リュシアが何でもないことみたいに言った。


「明日は恒例の現地視察する」


 誠二は少しだけ目を上げる。


「それ、デートですよね?」


「たぶん」


 ミレイアがすぐに笑う。


「いーな、それ」

「ついてくかな」


 リュシアは少しだけ間を置いてから言った。


「却下……今回は」


 ミレイアが片眉を上げる。


「今回は?」


「繋がってから初の視察」

「だから今回は」


 その理屈に、誠二は少しだけ口元を緩めた。

 仕事の言葉のままなのに、中身はかなり私的だ。


 ミレイアは懲りない。


「なら、うちの案件の後に視察組むことにすっか」


 言い方は軽い。

 だが半分以上は本気だと分かる。


 そこでセレナが、小さく息を整えてから言った。


「……私も、その形で申請してみます」


 ミレイアが横を見る。


「セレナ、それ本気じゃん」


 セレナの頬に、また少し熱が差す。

 それでも目は逸らさなかった。


「あの魔境に、流れる道を作れる人は、今まで見たことがありませんでしたし」


 静かな言い方だった。

 でも、そこにある敬意はかなり深い。


 その横で、リュシアが平然と口を開く。


「誠二見つけた私が凄い」


 ミレイアが吹き出す。


「そこ自分で言うんだ」


「事実」


 誠二は小さく息を漏らした。


「否定しづらいですね」


 ミレイアはさらに横目でセレナを見る。


「セレナ、さっき顔赤くなかった?」


 セレナは一瞬だけ言葉を止めた。

 頬の熱はまだ少し残っていたが、視線は逸らさない。


「気のせいです」


 その返しに、ミレイアは楽しそうに笑った。

 リュシアは表情を崩さない。

 白い精算席にだけ、少しだけ人の温度が残る。


 軽く飲むことになったのは、そのあとすぐだった。

 仮眠室ではなく、精算席から少し離れた小さな共有スペース。丸いテーブルが1つと、簡素な椅子が4つ。神界らしく無駄のない空間だが、今日はそこに缶と小皿と、ミレイアがどこからか持ってきたつまみが並ぶ。


 ミレイアが最初に缶を開けた。


「いやー、終わった終わった」


 セレナはそこまでくだけない。

 だが、座り方に前より張り詰めた感じがない。


「一区切り、ですね」


 リュシアは椅子に浅く座り、いつも通りテーブルへ胸元を預けるようにして小さく息をついた。


「重い」


 誠二は苦笑する。


「またそれですか」


 リュシアは缶に手を伸ばしながら、何でもない顔で言う。


「誠二もあんなに持ち上げたんだから、もう分かったでしょ」


 誠二は小さく息を漏らした。


「わかりましたよ」

「でも、それがいい」


 リュシアは一瞬だけ動きを止めてから、小さく言う。


「じゃそれは、あとで」


 そのまま何事もなかったみたいに缶を持ち上げる。

 ミレイアが笑いを噛み殺し、セレナはまた少しだけ視線を落とした。


 酒は進んだが、大騒ぎにはならなかった。

 補助層の空気が少しだけ軽くなった、その程度の温度で4人の時間は流れた。


 ミレイアは、例外案件を2段で残せるようになったのが一番でかいと言った。

 セレナは、途中で渡せるようになったのが自分でも意外だと静かに認めた。

 リュシアは、腐りかけが回り出しただけで十分だと短く言った。

 誠二は、その3人の言葉を聞きながら酒を飲んだ。


 いつの間にか、見送る側と見送られる側というより、同じ現場を1度くぐった者同士の席になっていた。

 それが悪くなかった。


 ある程度飲んだところで、誠二は自分の世界へ戻った。

 部屋の空気は静かだった。

 神界の白い光とも、補助層の乾いた処理音とも違う、ただの1人の部屋の静けさ。

 缶を1本開け、椅子へ浅く腰掛ける。

 ようやく、今回のことを自分の頭の中で並べ直せる。


 リュシアだけが重かったわけではないのだろう、と誠二は思った。


 目立っていたのが彼女だっただけで、セレナもミレイアも、それぞれ別の仕事を抱えたまま第0へ入っているように見えた。そうでなければ、あの疲れ方にはならない。


 第0補助層は、たぶん誰か1人の持ち場ではない。

 各自が本務の上に持ち込まれている共通業務。

 だとすれば、あれで属人化しない方がおかしい。


 強い人に寄る。

 真面目な人は抱える。

 速い人は雑にでも流す。

 職場が壊れる時の形としては、かなり見覚えがあった。


 セレナは、慣れていないから止まる人間ではなかった。

 責任の置き場を知っていて、それでも途中で渡せなかった人間の止まり方だった。

 ああいう人が1度「途中で渡していい」と覚えると強い。

 たぶん、あの補助層では長く効く側だ。


 ミレイアは逆だ。

 雑だが、鈍くはない。

 勘がいい人間の雑さだった。

 切る場所が見えればすぐ流す。

 ああいう人が前向きに回り始めると、周囲の空気も少しずつ動く。

 距離感は近すぎるし、本人はたぶん何も考えていないのだろうが、あれも現場では武器になる。


 そしてリュシアは、あの区画でいちばん分かりやすく寄せられていた。

 判断も、負荷も、人も。

 強いから持たされる人間の典型だった。

 あれでよく、あそこまで持っていたものだと思う。


 補助層は治っていない。

 嫌な板も、重い板も、救えなかった案件も残っている。

 それでも、雑に沈むだけの場所ではなくなった。

 分類がある。

 休止の線がある。

 引継ぎの骨がある。

 負荷が見える。

 封鎖ログにも、壊れ方が残る。

 その程度のことを置いただけだ。

 だが、ああいう場所にはその程度がたぶん要る。


 リュシアとのことも、頭の中で少しだけ並ぶ。


 彼氏案件。

 名前だけ聞けばふざけている。

 だが、中身はかなり重かった。

 見たものを消さず、落ちたあとを戻し、翌日に立たせるための工程まで含んでいた。

 あれがなければ、自分は途中で折れていたかもしれない。

 そう思うと、特典だの何だのという言い方も、案外間違っていないのかもしれなかった。


 歳の割によくやったと思っていたら、している間に戻っていたらしい。

 便利なのか、情けないのか、よく分からない。

 だが、あれはたぶん特典だけではなかった。

 リュシアが平然と「それ以前に良かった」と言った顔を思い出し、誠二は1人で小さく苦笑した。


 缶を半分ほど空けたところで、部屋のチャイムが鳴った。


 こんな時間に来る相手に心当たりは多くない。

 立ち上がって扉を開けると、そこにいたのはリュシアだった。


 ただし、いつもの神界の装いではない。

 白いブラウスに、紺のタイトスカート。

 肩に薄いカーディガン。

 細縁眼鏡の奥の目元まで含めて、どこにでもいそうな仕事帰りの女にしか見えない。

 見た目だけなら、だ。

 派手さはないのに胸腰尻の線だけが妙に整いすぎていて、こうして正体を知った上で見ると、かえって目を引く。

 初めて会った夜と同じ系統の偽装のはずなのに、今はもう見間違えない。


 リュシアは小さくコンビニ袋を持ち上げた。


「コンビニ、1人で行ってきた」


 少しだけ得意そうだった。

 誠二は思わず笑う。


「ずいぶん楽しそうですね」


「楽しかった」

「ちゃんと買えた」


 そのまま部屋へ入ると、リュシアはいつものようにテーブルへ身を預けるようにして座った。

 少しだけ背中を丸めて、小さく言う。


「重い」


 コンビニ袋からカップのスイーツを取り出し、蓋を剥がし、スプーンを差し入れる。

 仕事帰りの女みたいな格好のまま、だらっと甘いものを食べ始めるその姿は妙に生活感があって、でもやはり普通ではなかった。


「これ、期間限定」


 1口食べて、小さく息をつく。


「おいしい」


 誠二は向かいに座り、缶を持ったままその様子を見る。

 地球で初めて見た時は、目立たないための偽装にしか見えなかった姿が、今は普通に“来た後の彼女”として馴染んでいるのが少し不思議だった。


 リュシアはもう1口食べてから、何でもない顔で言った。


「今日は泊まる」

「するようになってからは初めて」

「明日の視察には、この方が好都合」


 誠二は小さく息を漏らす。


「好都合の使い方がだいぶ私的ですね」


「うん」


 即答だった。

 その潔さが少しおかしい。


 リュシアはスプーンを置き、少しだけ顔を上げる。


「明日、どこ見るか決める?」


 誠二は椅子へ座り直す。


「視察したい場所あります?」


 リュシアは少しだけ考える間を置いてから、短く言う。


「誠二の見るとこ」


 その言い方に、誠二はまた少しだけ笑った。

 補助層の精算は終わった。

 だが、明日もまた、この人と続きがあるらしい。


 それはたぶん、悪くないどころではなかった。

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