第4話 過積載――優秀な管理官から先に壊れる
目を覚ました時、誠二は最初に、自分の呼吸が昨日よりずっと浅くないことに気づいた。
胸元へ顔を埋めた体勢は同じだ。
頬に当たるやわらかい熱も、後頭部を支える手の重みも、ここ数日ですっかり朝の一部になりつつある。
変わったのは、起きた瞬間から棚の色帯や未整理案件の文字列が頭の裏に押し寄せてくる感じが、ほんの少し薄いことだった。
昨日は、壊れた案件に初めて別の名前を付けた。
現場暴走型。
上位命令不全型。
属人集中型。
補給崩壊型。
評価制度暴走型。
手遅れ型。
支援遅延型。
善意過積載型。
八つの分類が、今朝の頭の中でも静かに並んでいる。
だが今は、暴れていない。
並んでいるだけだ。
「……起きてます」
少しだけくぐもった声で言うと、頭の上から低い返事が落ちてきた。
「うん」
リュシアの声には、まだ寝起きの掠れが残っていた。
けれど、抱えている腕は迷いなくそこにある。
起きたことは分かっているのに、急かして離す気もないらしい。
「今日はだいぶ静かです」
誠二が言う。
「何が」
「頭が」
そう言うと、後頭部へ添えられた手がゆっくり髪を撫でた。
「切れてる」
「昨日よりは」
「うん」
しばらく、そのままだった。
神界の仮眠室は音が少ない。
外界の朝みたいに車も人も鳴らないから、人の呼吸と布の擦れる音だけが近くに残る。
こうして抱えられていると、案件の線を引くために尖っていた頭が少しだけ人の側へ戻ってくる。
誠二は少しだけ顔を上げた。
近い位置でリュシアと目が合う。
寝起きのせいでいつもより少しだけやわらかい顔をしているのに、視線の奥はもうかなり起きている。
この人は、仕事へ入る前の境目を作るのがうまいのだと思う。
「おはようございます」
「おはよう」
短いやり取りのあと、軽いキスが落ちてきた。
朝の決まりごとみたいな長さだった。
短く触れて、離れる。
それだけで少し落ち着くのが、今ではもう不思議でもなくなっている。
「今日も補助層ですね」
誠二が言うと、リュシアは頷いた。
「うん」
「今日は棚じゃなくて、人を見たいです」
その言葉に、リュシアの目がほんの少しだけ細くなった。
「人の方見る?」
「見ます」
「刺さる」
「そうでしょうね」
誠二は小さく笑った。
案件の分類を立てたら、次に見るべきものは自然と決まる。
同じ棚に違う壊れ方の案件が積まれるのなら、その棚へ誰が何を流し、誰が止め、誰が抱え込み、誰が触れなくなっているのかを見るしかない。
「昨日の感じだと」
誠二は続けた。
「案件だけじゃなくて、処理の流れ自体が一部の人に寄ってる気がしました」
リュシアは答えず、ただ少しだけ目線を外した。
それだけで十分だった。
図星なのだろう。
「嫌そうですね」
「嫌」
「でも見る価値はあります」
「ある」
「じゃあ見ます」
そこまで言ってから、ようやく二人とも起き上がった。
ベッドの上には、相変わらず二つの枕が並んでいる。
今朝の会話は仕事寄りだったのに、その光景だけは少しだけ私的で、妙に落ち着く。
朝のシャワーを済ませて小さな作業区画へ戻ると、リュシアは昨日の分類表を結晶板へ出していた。
八つのラベルが並んでいる。
まだ第一版。
だが、何もなかった昨日よりは確かに“地図”になっている。
誠二はその横へ、新しい板を出した。
「今日は案件の壊れ方じゃなくて、案件が誰にどう流れてるかを見たいです」
「うん」
「未整理が多い、保留が多い、再分類待ちが多い。
それ自体も問題ですけど、結局、誰のところで止まってるかが見えないと補助層は動かない」
リュシアは短く問う。
「負荷の流れ」
「そうです」
「嫌」
「分かります」
誠二は苦笑した。
たぶん、かなり痛いところを見る。
そしてその痛さは、抽象的な職場の問題じゃなく、リュシア個人にも直接刺さるはずだ。
「でも、見えないままだともっと嫌なことになります」
「うん」
「だから見ます」
神界への移動光が足元へ広がる。
補助層へ戻ると、朝の白い光の下で仕事はもうかなり動いていた。
動いている、という言い方が正しいのかは怪しい。
人はせわしなく動いている。
だが、流れは悪い。
忙しさが仕事の進みを意味していない。
むしろ忙しいから遅れている気配が、空間全体に広がっていた。
今日は棚の前で立ち止まらず、リュシアは個人処理区画の方へ誠二を連れて行く。
昨日ちらりと見えた、管理官ごとの仮置きスペースだ。
そこは未整理棚や保留棚よりさらに嫌だった。
なぜなら、案件の山が「誰の山か」を持ち始めるからだ。
区画ごとに識別符号が浮かんでいる。
管理官名。
担当範囲。
代理可否。
危険度許容。
保留件数。
再派遣判断件数。
打ち切り確認待ち。
再分類差戻し。
その数字が、人によって露骨に違う。
誠二は最初の三人分をざっと見て、眉を寄せた。
件数の偏りが大きい。
しかも単純な数だけではない。
高危険度案件や、判断保留が嫌な案件ほど、特定の人間へ集まっている。
「分かりやすいですね」
誠二が言う。
「何が」
「寄り方が」
リュシアは何も返さない。
だから誠二はそのまま見ていく。
ある管理官は、未整理を多く抱えているが打ち切り確認は少ない。
別の管理官は、再派遣判断が多いのに高危険度案件は薄い。
さらに別の管理官は、引継不能と保留だけが妙に厚い。
そして一部だけ、全部が重い。
高危険度。
再派遣判断。
打ち切り確認待ち。
引継不能。
再分類差戻し。
そういう“嫌なやつ”が丸ごと乗っている。
誠二は、ひとまず結晶板へ簡単な表を起こした。
管理官ごとの抱案件数。
高危険度件数。
保留日数。
代理対応可否。
引継成功率。
判断滞留の平均時間。
数字にすると、さらに露骨だった。
「これ、全体件数の問題だけじゃないですね」
「うん」
「重いのが偏ってる」
「うん」
「しかも偏り方が、役割分担じゃない」
誠二は、数値の並びを見ながら言った。
「処理できる人に寄せてる」
その言葉に、リュシアの視線が少しだけ動いた。
誠二はその気配を感じたが、先に言葉を切らず、そのまま続けた。
「判断が速い人」
「崩れにくい人」
「嫌な棚を触れる人」
「雑にしない人」
表へさらに注記を入れる。
「これ、信頼じゃなくて過積載です」
静かにそう切ると、周囲の処理音だけが少し遠く聞こえた。
リュシアはすぐには返さない。
返せない、に近い沈黙だった。
誠二はさらに板を動かしながら言う。
「“任せられるから任せる”で回してる」
「だから、その人がいる間だけは表面上回る」
「でも、止まった瞬間に全部詰まる」
そこでようやく、リュシアが短く言った。
「回ってはいる」
少し硬い声だった。
誠二は顔を上げる。
怒っているわけではない。
でも刺さっている。
「いまは、ですね」
「それでも止まってるよりはいい」
「止まってる人に寄ってるだけです」
「止まってない」
「まだ、です」
短い応酬だった。
声は上がらない。
けれど、空気は少しだけ張る。
誠二は、そこで初めてもう少しはっきりリュシアの区画を見た。
見たくなくて避けていたわけではない。
ただ、先に全体を見ていた。
今はもう、その全体の中でどこが痛いかが分かる。
リュシアの負荷は、明らかに偏っていた。
総件数そのものも多い。
だがそれ以上に、中身が重い。
高危険度。
再派遣判断。
打ち切り確認待ち。
代理不可。
引継不能。
いわゆる“誰も持ちたくないやつ”が寄っている。
誠二はしばらくその数字を見てから、ようやく静かに言った。
「寄ってますね」
リュシアは少しだけ視線を下げた。
「うん」
「かなり」
「かなり」
それだけのやり取りだったが、事実として十分重かった。
数字が出ると、もう誤魔化しが効かない。
有能だから。
壊れにくいから。
任せれば何とかするから。
そういう理由で積まれ続けてきたのだろう。
「可視化しないと駄目ですね」
誠二が言う。
「案件の分類だけじゃ足りない」
結晶板へ新しい欄を作る。
抱案件数。
高危険度件数。
保留日数。
再派遣判断件数。
打ち切り確認件数。
引継不能率。
代理対応可否。
精神負荷自己申告。
要強制停止ライン。
書きながら、誠二は少しずつ言葉を足していく。
「抱えてる量が見えないから、まだ振れると思われる」
「見えれば止められる」
「見えないまま“信頼してるから”で寄せると、最後は壊れます」
リュシアは、その板を嫌そうに見ていた。
「見えると嫌」
ぽつりと、そう言う。
誠二は少しだけ息を吐いた。
「見えないまま壊れる方が嫌です」
返すと、リュシアはすぐには何も言わなかった。
その沈黙が、この人の本音をよく表している。
理屈では分かる。
でも、自分の痛いところを数字にされるのは嫌だ。
しかも誠二に見られる。
それは嫌に決まっている。
「頑張れば回るところもある」
少しして、リュシアが言った。
その言い方は、自分へ向けた言葉でもあるのだと分かった。
誠二は、そこで少し声を柔らかくした。
「そこが危ないです」
「……」
「“まだ回る”で寄せると、最後は誰も触れなくなる」
「触れる人がいない時もある」
「だから余計に止める線が要る」
「止めると詰まる」
「止めなくても詰まってます」
その返しは少しきつかったかもしれない。
だが、言わずにはいられなかった。
いまこの場で起きているのは、頑張れる人間の善意に補助層の遅延を押し付ける構造だ。
それを信頼や責任感という言葉で包んでも、壊れる順番が後ろへずれるだけだ。
しばらく、二人とも黙っていた。
遠くで誰かが処理棚のラベルを更新する音だけが、乾いたまま響いてくる。
誠二は結晶板を見つめたまま、少し低く言った。
「リュシアが壊れる前提で回すの、だいぶ嫌です」
その言葉は、たぶん想定していたよりずっとまっすぐ出た。
仕事の理屈としてもそうだ。
彼女個人のこととしても、そうだった。
リュシアはすぐには返事をしなかった。
顔を上げると、少しだけ目を細めてこちらを見ている。
不機嫌とも違う。
刺さったものを、そのまま受けている顔だ。
「壊れてない」
小さく、そう返す。
「まだ、です」
誠二が言うと、リュシアは少しだけ眉を寄せた。
「その“まだ”が嫌」
「分かります」
「でも、本当」
「それも分かる」
そのやり取りで、少しだけ空気が変わった。
完全に和らいだわけではない。
でも、二人とも同じものを見ている感じが戻ってくる。
午後は、その可視化表の仮版を実際の案件分布へ当てていく作業になった。
ここで初めて、属人化の輪郭が職場全体に見える形になる。
処理が速い管理官へ高危険度案件が寄る。
切る判断ができる管理官へ打ち切り確認待ちが寄る。
再分類できる人へ差戻し案件が寄る。
そして、そういう人間は大抵、引継不能率も高い。
その人にしか分からない案件が多いからだ。
「これ、最悪ですね」
誠二が呟く。
「うん」
「仕事ができる人を信頼してるんじゃなくて、壊れにくいから使ってるだけです」
「……」
「信頼なら、代わりを用意するはずです」
「信頼なら、抱える量を見えるようにするはずです」
「信頼なら、その人が止まる前提でも回るようにするはずです」
リュシアは、そこで初めて視線を逸らした。
誠二は追い詰める気はなかった。
けれど、ここを切らずに第0補助層は立て直せない。
「設計じゃない」
誠二が静かに言う。
「先送りです」
その一言で、周囲の雑音がまた少し遠のいた気がした。
事実としてはシンプルだ。
だが、言葉にされると重い。
リュシアは、やがて小さく言った。
「分かってる」
短い。
でも、その一言で十分だった。
分かっている。
分かっていて、それでも今日まで回してきた。
そのしんどさも、誠二には少しだけ見えた。
補助層を出る頃には、二人とも少し疲れていた。
案件そのものを分類するより、人の負荷を見る方が嫌な疲れ方をするのかもしれない。
数字にした瞬間、逃げ道が減るからだ。
神界の仮眠室へ戻るまでの通路で、二人の会話は少なかった。
喧嘩ではない。
だが、今日の切り込みは少し深かった。
仕事として必要だった。
必要だったからこそ、私情の近さが少しだけ気まずくなる。
軽い飲み物が出る。
いつも通り横へ座る。
近い。
それでも、今日は少しだけ言葉が探り気味だった。
「どう」
リュシアが先に訊く。
いつもの問いだ。
「かなり嫌な数字でした」
誠二が答える。
「うん」
「案件の分類より、人の負荷の方が見えた時の嫌さが強いですね」
「うん」
「特に、リュシアに寄ってるの」
そこまで言ってから、少し間を置く。
言いすぎると押しつけになる気がした。
けれど、黙って流したくもない。
「今日、刺さりました?」
できるだけ静かに訊くと、リュシアは少しだけ目線を落とした。
「少し」
短い。
でも嘘ではない。
それで十分だった。
「でも、見えないままだともっと悪くなる」
誠二が言う。
「うん」
「だから切った」
「うん」
「それでも、刺さるのは分かります」
その言葉のあと、少しだけ沈黙が落ちた。
リュシアは何も言わない。
ただ、グラスを置いてから肩を寄せてくる。
その距離の詰め方で、受け取ったのだと分かった。
しばらくして、リュシアが低く言う。
「見えると嫌」
「でしょうね」
「でも見えないままだと、もっと嫌」
誠二は、そこでようやく小さく息を吐いた。
「そうです」
「だから切る」
「ええ」
そこで少しだけ空気が戻る。
完全に柔らかいわけではない。
でも仕事として見ている方向は同じだ。
仮眠室へ行く。
今日はどちらからともなく、動きが静かだった。
けれど、埋めるのもキスも無くならない。
そこが、むしろありがたかった。
ベッドへ入る。
抱き寄せられる。
胸元へ顔が落ちる。
それだけで、少しだけ身体の力が抜ける。
「まだ考えてる」
リュシアが言う。
「はい」
「今日は何」
「負荷分布です」
「好きそう」
「嫌なものほど見たくなります」
「それ好き」
額へ軽いキスが落ちる。
朝のものより少しだけ落ち着いた、おやすみに近い長さだった。
「リュシア」
「ん」
「今日、かなり見えました」
「何が」
「有能だから回される側のしんどさ」
後頭部を支える手が、そこで少しだけ止まる。
誠二は胸元へ顔を預けたまま続けた。
「案件の重さもそうですけど」
「壊れにくいからって前提で仕事が寄ってくるの、かなり嫌です」
「……」
「壊れないから振る、じゃなくて」
「壊れてないだけで、いつか切れる前提で回してる」
そのあと、リュシアの腕に少しだけ力が入った。
強くではない。
でも、いつもより少し深く抱える感じがある。
「うん」
返事はそれだけ。
だが、その短い一言の中に、かなりいろいろ入っていた。
誠二は目を閉じた。
仕事としても、彼女個人のこととしても、今日見たものは軽くない。
でもそれを見たからこそ、補助層を“ただひどい職場”としてではなく、“壊れる順番が後ろへずらされている職場”として理解できた気がした。
「明日、止める線をもう少し立てたいです」
誠二が言う。
「うん」
「優秀な人に寄るのを、見える化しただけでは止まらないので」
「うん」
「抱案件の上限とか、強制停止ラインとか、代理可否の基準とか」
そこまで言うと、また後頭部を撫でられた。
今日は思考を止めるより、静かに眠らせる感じに近い。
切り落とすのではなく、回った頭を少し落ち着かせる触れ方だ。
「今日はそこまで」
「まだ大丈夫です」
「知ってる」
「でもですか」
「でも寝る」
少しだけ笑う。
その言い方も、もうだいぶ馴染んでいる。
「はい」
返すと、もう一度軽いキスが落ちた。
それから、さらに深く胸元へ埋められる。
第0補助層は、壊れた案件だけで詰まっているわけではなかった。
壊れない人間へ寄せ続けることで、まだ壊れていないだけの場所だった。
その重さを抱えたまま、誠二は今夜、いつもより少しだけ深くリュシアに身を預けた。




