第1話 受託――彼氏にしか振れない案件
目を覚ました時、誠二は最初に、神界ではなく自宅の天井を見た。
それだけで少しだけ変な感じがした。
ここしばらく、重たい案件の前後では、仮眠室で目を覚ますことの方がむしろ自然になっていたからだ。神界の静かすぎる空気と、外界の音がほとんど切り離されたあの場所で、胸元へ顔を埋めたまま起きる朝が増えていた。なのに今朝は、自分の部屋の薄い明るさが先に目へ入る。カーテンの隙間から漏れる光も、遠くで走る車の気配も、冷蔵庫のかすかな作動音も、全部ちゃんと現実の家のものだった。
ただし、起き方そのものはあまり変わっていない。
頬にやわらかい熱がある。
鼻先に落ちてくる呼吸がある。
後頭部には、軽く支える手の重みがある。
胸元へ沈んだ顔の角度で、自分がどんな体勢にいるかはもう考えなくても分かる。
誠二は少しだけ息を吐いた。
リュシアに抱え込まれたまま、自宅のベッドで朝を迎えている。
昨夜の余韻がまだ熱として残っているような、それでいて起き抜けの空気は妙に静かな朝だった。
「……起きてます」
胸元へ顔を埋めたまま言うと、すぐ頭の上から低い声が落ちてきた。
「うん」
それだけ。
短い返事。
けれど、その短さの中に、起きたことも、まだすぐには離さないことも、全部入っていた。
誠二は、そのまま少しだけ目を閉じ直した。
会議はない。
提出もない。
今日すぐ何かを裁かなければ燃える世界もない。
そう思うと、起きた瞬間に体を引き剥がす気も起きなかった。
リュシアの腕は、昨夜とほとんど同じ位置にある。
片方は背中へ、もう片方は後頭部へ。
抱き寄せるというより、ここに収めている感じだ。
昨日までならその近さの意味を少しずつ確かめていた。
今は、もう少し自然に受け止められる。
「今日は、起きても急がなくていいんですね」
誠二が言うと、後頭部を支えていた手がゆっくり髪を撫でた。
「今日は普通」
「普通ですか」
「業務外」
その言葉に、小さく笑う。
たしかに今日は業務外だ。
昨日までの第99世界は、最後まで世界の重さを背中に乗せたまま走っていた。今日は違う。
少なくとも、今この瞬間は。
ただ、まったく何もないわけでもない。
昨夜、かなり深い熱の中でリュシアが落とした一言が、まだ頭のどこかに残っている。
次、たぶんある。
これ、彼氏にしか振れない。
あの言い方が妙に引っかかって、今朝の眠気の底にも少しだけ沈んでいた。
「昨日の、気になってるんですが」
誠二が言うと、リュシアは腕を緩めずに答えた。
「うん」
「案件の話です」
「ある」
やはり短い。
だが、否定もはぐらかしもない。
ちゃんとあるのだろう。
誠二は、そこでようやく少しだけ顔を上げた。
近い位置にあるリュシアの目と合う。
昨日の夜よりも、少しだけ寝起きの柔らかさが残っている。
それでも、仕事の話になると目の奥はすぐに起きる。そういう人だ。
「まだ言わない感じですか」
「起きてから」
「もう起きてます」
「ちゃんとは起きてない」
その返しが妙に可笑しくて、誠二は小さく笑った。
たしかに、こうしてまだ抱えられたままなら“ちゃんと”は起きていないのかもしれない。
「リュシア」
「ん」
「それ、かなり便利な理屈ですね」
「便利」
認めるんですね、と言おうとしたところで、リュシアがわずかに顔を寄せてきた。
短いキス。
朝の静けさを壊さない程度の長さ。
昨夜の続きを強く引きずるほどではないが、ただの挨拶とも違う。
少しだけ深くて、少しだけ熱の名残がある。
離れたあと、誠二はほんの少し目線を落とした。
それを見て、リュシアが小さく言う。
「気になってる顔」
「案件の方ですか」
「両方」
そこまで言われると、さすがに少し笑うしかない。
誠二は胸元へまた額を預けたまま、息を吐いた。
「嬉しいのか、重いのか分かりません」
「両方」
「昨夜も同じ返しでした」
「正しい」
もう一度、二人とも少しだけ笑った。
そして、そのあとに落ちる短い静けさが、妙に落ち着いた。
しばらくしてから、リュシアがようやく腕を緩めた。
「シャワー」
「はい」
「そのあと話す」
「分かりました」
ベッドから起き上がる。
自分の部屋なのに、今朝は少しだけ違って見える。
家具の位置も、床に置いたままの小物も、いつも通りのはずなのに、昨夜の熱や朝の近さが残っているせいで、部屋の空気そのものが少し変わっている気がした。
変わったのは部屋ではなく、自分の受け取り方の方だと分かっていても、やはりそう感じる。
朝のシャワーを浴びる。
熱い湯が肩の裏へ当たると、眠気の残りと、少しだけ浮ついた感覚がゆっくり落ちていく。
それでも完全には切り替わらない。
仕事に戻るようで、まだ戻りきっていない。
私生活の延長に、案件の気配が入ってくる。
今日の空気は、その混ざり方が少し特殊だった。
シャワーを終えてリビングへ戻ると、リュシアはすでにテーブルの前に座っていた。
自分の家のテーブルなのに、そこに神界の結晶板が出ているだけで空気が少し変わる。
しかもリュシアは、家の中でも仕事の話をする時だけは姿勢が少しだけ変わる。だるそうに見えるのに、必要な情報はもう整っている。
誠二が向かいに座ると、リュシアは何も言わずに結晶板をこちらへ向けた。
光の板に、見慣れた案件票の形式が浮かび上がる。
《特別案件が割り当てられました》
職種:制度監査補佐(臨時)
勤務地:第7管理区画・第0補助層
報酬(現実):時給 1,140円
報酬(神界):勤務時間に応じた寿命復元
稼働条件:派遣中、通常世界時間停止
付与:ログ読解補助/因果分岐可視化/異常案件耐性
備考:内部機密案件につき、通常派遣者への再割当不可
推薦者:リュシア・ノクスディア
誠二は、上から順に読んでいって、三行目で止まった。
「……安くないですか」
その反応はたぶん予想通りだったのだろう。
リュシアは少しだけ目を細める。
「安い」
「認めるんですね」
「内勤だから」
「特別案件なのに」
「外勤じゃない」
そこで一度、リュシアは間を置く。
その間が妙に嫌な気配を持っていた。
「命の危険は低い」
「それは助かります」
「でも面倒」
さらに少しだけ間。
「かなり」
その“かなり”に、時給の安さが急に別の意味を持ち始める。
誠二は案件票へ視線を戻した。
第0補助層。
今までの案件と違って、世界番号ではなく“補助層”という表記になっている。
つまり、どこかの世界へ降りる外勤ではない。
神界側。
内勤。
それなのに、リュシアが“彼氏にしか振れない”とまで言う。
「第0補助層って、世界じゃないですね」
「世界じゃない」
「神界の中」
「うん」
「かなり嫌な予感がしてきました」
「正しい」
その一言で、空気が少し締まる。
ただの内勤ではない。
しかも外勤より安い。
なのに“かなり面倒”。
ここまで来れば、逆に期待値ははっきりする。
きれいな仕事ではない。
「それで、彼氏にしか振れないっていうのは」
誠二が訊くと、リュシアはいつもより少しだけ長く黙った。
言葉を選ぶ時間だった。
彼女は普段、選ばずに切る。
それが今は少し違う。
「内部の失敗見る」
最初の一言は短かった。
「失敗案件」
「未公開ログ」
「管理側の不備」
それぞれが小さな刃みたいに落ちる。
「普通の派遣者には振れない」
誠二は黙って聞く。
ここで変に軽く返すといけない気がした。
リュシアはさらに続ける。
「見るだけで削れる」
「途中で嫌になられても困る」
「雑に触られても困る」
「途中で壊れられても困る」
最後だけ、少しだけ低くなった。
たぶん本音だろう。
「だから彼氏」
そこまで言って、リュシアは初めて結晶板から目を離してこちらを見た。
その言い方に、誠二は少し止まった。
“彼氏だから甘い案件を振る”ではない。
“彼氏だから一番面倒で、一番見せにくくて、一番後の面倒まで引き受けないといけない案件を振る”という意味に近い。
かなり重い。
でも、その重さの中に信頼が混じっているのも分かる。
「それ、だいぶ重いですね」
誠二が言うと、リュシアは頷いた。
「重い」
「嬉しいのか重いのか、ますます分からなくなってきました」
「両方」
またそれだ。
けれど、今回はそれがいちばん正確な答えにも思えた。
「リュシアの担当なんですね」
誠二が訊くと、リュシアは少しだけ嫌そうな顔をした。
「私のとこ」
「やっぱりですか」
「かなり嫌」
「珍しく率直ですね」
「普段から率直」
その返しに、誠二はわずかに笑う。
だが、笑いながらも理解していた。
次の案件は、ただの神界内部トラブルではない。
リュシアが実際に抱えている場所そのものだ。
世界の外側にある裏方。
その壊れた職場へ入る。
それが“彼氏案件”の意味なら、かなり私的で、かなり仕事でもある。
「断ってもいい」
リュシアが言った。
意外だったので、誠二は少し目を上げる。
「そこは一応言うんですね」
「一応」
「建前ですか」
「半分」
「半分は」
「本当に断っていい」
その言い方は、思ったより真面目だった。
つまりリュシアは、本当に選択肢として出している。
その上で、自分からは振る。
複雑だが、誠実でもある。
誠二はしばらく結晶板の文字を見ていた。
時給 1,140円。
内部機密案件。
未公開ログ。
普通の派遣者には振れない。
そして、リュシアの職場。
重い。
かなり重い。
でも、ここまで言われて断るのは、たぶん自分の気分に合わない。
「断れないですね、そう言われると」
苦笑混じりに言うと、リュシアは少しだけ目を細めた。
「そうかも」
「その上で振ってるなら、だいぶずるいですよ」
「分かってる」
認めるんですね、と言いそうになってやめる。
もう十分分かっているからだ。
「受けます」
誠二が、今度は少し真面目に言うと、リュシアは短く頷いた。
「うん」
「ただ」
「ん」
「本当に安いですね」
その一言で、ようやく少し空気が緩む。
リュシアも小さく息を吐いた。
「かなり」
「でしょうね」
「着けばもっと分かる」
「それはだいぶ嫌な言い方です」
「正しい」
誠二は、結晶板が消えるのを見ながら小さく笑った。
こういうやり取りの軽さがあるから、ギリギリ息ができる。
たぶん本当に嫌な場所なのだろう。
だからこそ、その入口で少し笑っていられるのは助かる。
移動の前、リュシアはふと立ち上がってキッチンへ行き、水を一杯持って戻ってきた。
無言で誠二の前へ置く。
受け取ると、少しだけ視線が合った。
「何ですか」
「先に飲む」
「気遣いですか」
「一応」
「便利ですね、その一応」
「便利」
結局そこへ戻るのが可笑しくて、誠二は水を飲み干した。
喉が少しだけ落ち着く。
これから行く先を思えば、たぶん小さな準備は多い方がいい。
玄関を出る。
自宅の空気を背中へ置いて、神界へ戻る。
移動そのものはもう慣れている。
だが、今日の着地点はこれまでと違った。
第7管理区画の中でも、誠二がいつも通る導線とは少し違う。
華やかな光の層を横切って、管理官たちの執務エリアを抜け、さらに奥へ。
案内されるほどに空気が変わっていく。
最初に気づくのは、色だ。
神界の標準的な明るさより、少しだけ白く、少しだけ冷たい。
装飾が減る。
余計な曲線が減る。
機能優先の通路になる。
天井は高いが、広さを見せるためではなく、物量を飲み込むためにある感じだ。
次に気づくのは、人の顔つきだった。
すれ違う管理官たちが、どこか疲れている。
外勤案件で見るような緊張ではない。
むしろ、処理が終わらないことに慣れた疲れ方だ。
終わらない、溜まる、次が来る、その繰り返しの中で少しずつ削られる種類の顔だった。
「神界にも、こういう場所あるんですね」
誠二が思わず言うと、リュシアは前を向いたまま返した。
「ある」
「かなり職場ですね」
「かなり」
そこには世界を管理する神々の神秘性みたいなものは薄かった。
むしろ、うまく回っていない大規模事務センターの匂いがある。
ただし扱っているのが人事や経費ではなく、壊れた世界と失敗案件だというだけで、質の悪さは段違いだ。
さらに奥へ進むと、通路の壁面に棚のような構造が見え始めた。
透明な結晶板が何層にも積まれ、それぞれに小さな識別符号が走っている。
整理されているようで、近づくと雑さが見える。
未処理。
保留。
再分類待ち。
再派遣待ち。
危険度未確定。
引継不能。
そういったラベルが、秩序のふりをしたまま積み上がっている。
誠二は足を少しだけ緩めた。
「……これ、だいぶ嫌な感じですね」
「うん」
「想像より、だいぶ」
「安い理由」
リュシアが短く言う。
たしかにそうだった。
命の危険が低いとか、内勤だからとか、そういう話だけではない。
ここは、ただいるだけで少しずつ削れそうな嫌さがある。
仕事が終わらない場所の匂いだ。
しかも、扱っているのは“助けられなかったもの”の残りかすに近い。
補助層の入口に着く。
扉というより、厚い光の膜のような境界だった。
そこをくぐると、さらに空気が変わる。
音が増える。
会話ではない。
処理音。
結晶板の開閉、分類コードの更新、誰かが短く指示を飛ばす声、途中で止まる報告、別の棚から引き抜かれるログ。
忙しいのに、誰も活気づいていない。
疲れているのに、止まれない。
そういう職場特有の、乾いた動きだけが空間を埋めている。
誠二は入口で立ち止まり、しばらくその光景を見た。
未整理の結晶板が積まれた棚。
再分類待ちの山。
危険色のまま点滅している案件表示。
誰かが一度開いて閉じたのだろう、途中で放置された記録。
忙しさと雑さが、互いを悪化させ合っている場所だった。
リュシアはそこでようやく足を止め、少しだけこちらを見た。
「ここ」
短い一言。
それで十分だった。
誠二は、ゆっくり息を吐いた。
燃える世界ではない。
戦場でもない。
なのに、別の意味でかなり嫌な場所だと、身体で分かる。
しかもここが、リュシアの“とこ”なのだ。
「……これは、安いですね」
思わずそう言うと、リュシアはほんの少しだけ目を細めた。
「うん」
それから、短く、いつものように付け足す。
「かなり」
誠二は、その“かなり”の重さをようやく実感しながら、第0補助層の中へ一歩足を踏み入れた。
新章スタートです。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は世界そのものではなく、世界を処理する側の話へ入ります。
燃えている現場、壊れかけた制度、戦後未満の工程。そういうものを見てきたあとで、今度はそれを支える側の職場へ降りる流れにしました。
第0補助層は、たぶん今まででいちばん地味で、でもかなり嫌な場所です。
派手な戦場ではないのに、雑に積まれた失敗や、処理されないまま残る案件や、誰かの善意で延命された結果の残骸みたいなものが集まる。
そういう“静かに削れる職場”として書いていく予定です。
そして今回は、リュシア側の仕事そのものへ誠二が入る章でもあります。
あの「彼氏にしか振れない案件」は、甘い意味ではなく、むしろ逆です。
見せにくいもの、重いもの、見たあとまで含めて雑に扱えないものを、近い相手にしか振れない。
その意味を、ここから少しずつ出していければと思っています。
時給が 1,140円 なのも、地味に気に入っています。
重さの割に安い。
でも、だからこそ“外勤より危険は低いのに、別の意味でかなり嫌”という空気が出た気がします。
次回から本格的に、第0補助層の中へ入っていきます。
かなり地味で、かなり面倒で、でもこの連載らしい章になるはずです。
ここからも、ゆっくり付き合っていただけたら嬉しいです。




