閑話 休日――業務外でもちゃんと隣で歩く日
目を覚ました時、誠二はしばらく何も考えなかった。
頬に当たるやわらかい熱と、胸元へ沈んでいる顔の角度と、後頭部に添えられた手の重みだけで、自分がどこにいるのかは分かる。仮眠室のベッドの上で、いつものようにリュシアに抱え込まれている。ここ数日で、もうそれは十分すぎるほど身体に馴染んでいた。驚くより先に、少しだけ深く息を吸って、その熱に身を預ける方が自然になっている。
今日は会議がない。
その事実が、起き抜けの身体にじわじわ効いてくる。
重い資料も、燃えかける世界も、数分後の判断もない。
だから、起きた瞬間に思考を立ち上げる必要がない。
「……起きてます」
胸元へ顔を埋めたまま言うと、頭の上で低い声が返ってきた。
「うん」
それだけで十分だった。
寝起きの少し掠れた声。
抱えている腕はすぐに緩まない。
急いで離す理由が、今日は何もないからだろう。
「今日、デート」
ぽつりとそう言われて、誠二は小さく笑う。
「確定でしたね」
「確定」
短い返事だったが、その短さが妙に嬉しかった。
仕事の予定みたいに淡々としているのに、中身は完全に私的な約束だ。
誠二が少しだけ顔を上げようとすると、後頭部の手が軽く押さえた。
「まだ」
「まだですか」
「業務ない」
「そうでした」
押し戻されるほど強くはない。
けれど、もう少しここにいていいと言われている気配は、きちんと分かる。
誠二は笑ったまま、また額を胸元へ預けた。
抱えられている形も、呼吸の近さも、今ではほとんど落ち着く側へ入っている。
「リュシア」
「ん」
「こういう朝、かなり好きです」
正直に言うと、腕の力がほんの少しだけ増した。
「知ってる」
「それ、もう何回か言われました」
「分かりやすい」
その一言で終わるあたりが、この人らしい。
でも、分かっていて抱えたままにしてくれているのなら、それはかなり優しい方なのだろう。
しばらくそのままでいてから、ようやく二人とも起き上がった。
ベッドの上には、もう見慣れすぎた二つの枕。
昨日と同じ場所で、今日もまた少し違う朝を迎えている。
朝のシャワーを浴びて身支度を整える。
誠二が先に出ると、仮眠室の外の小さな待機スペースに、着替え終えたリュシアがいた。仕事の時の服ではない。きっちりした神界側の管理官服でも、案件向けの整った格好でもなく、もっと軽くて、外を歩くための服だった。動きやすいのに、妙に目が行く。色も形も派手ではない。なのに、いつものリュシアより少しだけ柔らかく見える。
「何」
視線に気づいたらしく、リュシアが短く訊く。
誠二は変に取り繕わず、そのまま言った。
「似合ってます」
リュシアは一瞬だけ止まり、それから小さく頷いた。
「そう」
「褒めたんですけど」
「分かる」
「反応が薄いですね」
「薄くない」
そう言いながら、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
それだけで十分だった。
仕事ではない服で、仕事ではない予定のために並んで立つ。
ただそれだけのことが、妙に新鮮だった。
神界から地上へ出て、電車を乗り継いで、二人はねずみの国へ向かった。
平日でも人は多い。
駅を降りた時点で空気が違う。
音楽、土産袋、はしゃぐ子どもの声、浮き立つ大人の顔。
戦後未満の世界から戻ったばかりの誠二には、その全部が少しだけ遠いものに見えた。
けれど、その遠さが不快ではない。むしろ、別の世界に来た感じがして少し楽になる。
改札を抜けて人の波へ入ったところで、リュシアの手が自然に伸びてきた。
混んでいるからというのが、たぶん表向きの理由だ。
でも誠二も何も言わずにその手を取る。
つないだ手は、しばらくそのまま離れなかった。
「人、多いですね」
誠二が言うと、リュシアは周囲を見ながら短く返した。
「かなり」
「嫌じゃないですか」
「今日は嫌じゃない」
その言い方が、今日の空気をよく表していた。
人混みも、騒がしさも、仕事ならたぶん煩わしい。
でも今日は業務外で、しかも隣に誠二がいる。
それだけで嫌じゃないのだろう。
園内へ入ってからは、いわゆる“デートらしいこと”をやろうと頑張りすぎない方が、二人には合っていた。
目についたアトラクションへ並び、少し歩き、景色のいい場所で立ち止まり、軽く何か食べる。
会話は途切れないけれど、ずっと喋り続けるわけでもない。
歩調が自然に揃っていて、そのこと自体が妙に心地よかった。
最初に入ったアトラクションの待ち時間で、誠二は隣に立つリュシアの横顔をちらりと見た。
露骨に浮かれているわけではない。
でも、仕事の時より明らかに表情が柔らかい。
あまり無理してテンションを上げず、目に入るものをそのまま楽しんでいる感じだ。
「何」
また気づかれてしまい、誠二は笑った。
「少し楽しそうだなと思って」
「嫌じゃないから」
「だいぶ好きな言い回しですね、それ」
「便利」
たしかに便利だ。
好きとも嫌いとも言い切らず、でもかなり肯定寄りで、しかもリュシアらしい。
昼に近づいた頃、限定フードの売り場の前で足が止まった。
季節限定のスイーツや軽食が並んでいて、どれもいかにも“今だけ”を押し出している。
リュシアはその前で珍しく少しだけ迷っていた。
「これ」
指をさしたのは、見た目の可愛い限定スイーツだった。
誠二が少し目を細める。
「今日っぽいですね」
「限定」
「強い理由ですね」
「今しかない」
真顔でそう言うので、誠二は笑ってしまった。
そのまま二人分を買って、近くのベンチへ腰を下ろす。
リュシアは一口食べて、少しだけ目を細めた。
それだけで、味が気に入ったのだと分かる。
「甘いですね」
誠二が言う。
「甘い」
「好きなんですね」
「嫌いじゃない」
その返しも今日で何回目か分からない。
だが、嫌いじゃないの中にかなり好きが混ざっていることも、もうだいぶ分かるようになっていた。
「ちょっと機嫌いいですよ」
誠二が言うと、リュシアはスプーンを持ったままこちらを見る。
「そう見える?」
「かなり」
「それならいい」
それだけ言って、またスイーツへ視線を戻す。
誠二は自分の分を食べながら、その横顔を少しだけ見ていた。
戦争と核と国家の話ばかりしていた数日間のあとで、限定スイーツを食べて少し機嫌のいい顔を見る。
その落差が、妙に良かった。
午後はゆっくり歩いた。
特に急いで回るでもなく、乗れそうなものに乗り、景色の良い場所で立ち止まり、混んでいたら諦める。
その全部が、仕事ではない日の身軽さを思い出させる。
人の流れが少し落ち着いたタイミングで、二人は水辺の見える場所に腰を下ろした。
風が少しある。
騒がしさは遠くに残っているのに、ここだけ少し音が柔らかい。
「夢の国ですね」
誠二がぽつりと言うと、リュシアは頷いた。
「うん」
「この前まで戦後未満の話をしてたのに」
「かなり変」
「ですよね」
少し間が空く。
リュシアが肩を寄せてくる。
誠二もそのまま受ける。
仕事ではない距離で、仕事ではない景色を見ている。
それだけで、世界が少しだけ普通に見えた。
「でも今日は普通です」
誠二が言うと、リュシアは景色を見たまま答えた。
「普通の方、嫌じゃない」
その言い方が妙に好きだった。
派手に甘くもなく、でも否定しない。
そういう空気が、いまの二人にはよく合っていた。
夜の明かりがつき始める頃には、園内の空気も少し変わっていた。
昼の賑やかさとは違う、少しだけ浮いた夜の顔になる。
手をつないだまま歩きながら、誠二はふと立ち止まった。
「どうしたの」
リュシアが訊く。
「少しだけ」
誠二は答えた。
「こういうの、いいなと思って」
短く言うと、リュシアは少しだけ近づいた。
人の流れが途切れるタイミングを見て、そのまま短いキスを落とす。
いつものように静かで、自然で、説明がいらないキスだった。
「そういう顔してた」
離れたあと、リュシアが言う。
「分かりますか」
「かなり」
「今日、だいぶ分かりやすいですね」
「仕事じゃないから」
そうなのかもしれない。
会議の場では、分かりやすい顔をすると不利になる。
でも今日はそういう日ではない。
園を出る頃には、さすがに少し疲れていた。
歩き回った足が重い。
でも嫌な疲れではない。
誠二がそう思っていると、リュシアが手をつないだまま言った。
「このまま帰るの、少し惜しい」
誠二は少しだけ笑う。
「私も同じこと思ってました」
「コンビニ」
短い提案に、誠二は頷いた。
「いいですね」
駅へ向かう途中のコンビニに入る。
急に現実へ戻ったみたいな明るさだった。
夢の国の外に出て、しかもデートの帰りにコンビニへ寄る。
その流れが、妙にいつも通りで心地よい。
スイーツ棚の前で、リュシアが立ち止まる。
期間限定のラベルがいくつか並んでいる。
いちご、抹茶、チョコ、春限定。
リュシアはその中の一つを指さした。
「これ」
「まだ食べますか」
「別腹」
「強い」
「限定」
それがもう、彼女の中では十分な理由らしい。
結局、二つ買った。
「二つともですか」
誠二が訊くと、リュシアは当然みたいに答えた。
「半分あげる」
「ありがとうございます」
家へ着く流れは、何も目新しくなかった。
誠二の自宅へ寄るのは今に始まったことではない。
靴を脱いで、荷物を置いて、いつものようにリビングへ行く。
その動線に、ためらいはほとんどない。
ただ、今日はデート帰りだ。
そして、恋人として帰ってきている。
部屋は同じでも、空気が少し違う。
変わったのは部屋ではなく、その中で近づく理由の方だった。
ソファへ並んで座り、買ってきたスイーツを開ける。
テーマパークで散々甘いものも食べたのに、こういうコンビニの限定スイーツはまた別だ。
リュシアはスプーンを入れて、一口食べると、小さく息を吐いた。
「これ、かなり好き」
「さっきも食べてましたよね」
「別」
「便利ですね、その理屈」
「正しい」
誠二も自分の分を食べて、小さく笑った。
たしかにおいしい。
派手な高揚が終わったあとに、こういう甘いものを家で食べるのは妙に落ち着く。
「思ったよりかなり歩きましたね」
誠二が言う。
「うん」
「でも楽しかったです」
そのまま素直に言うと、リュシアは少しだけこちらを見る。
「私も」
短い。
でも、その短さが十分だった。
「ねずみの国、意外と平気でしたね」
「嫌じゃなかった」
「結局そこに戻るんですね」
「便利」
「認めましたね」
「前から」
二人とも少し笑う。
こういう軽いやり取りの中に、ちゃんと余熱が残っている。
仕事ではない時間。
隣で同じものを食べて、同じ話をして、手が届く距離にいる。
それだけで、今日がかなり特別だった。
スイーツを食べ終わったあとも、そのままソファにいた。
少し疲れているので、深く座る。
リュシアが肩を寄せてくる。
誠二も自然に受ける。
わざわざ何かを始める感じではなく、今日一日の空気がそのまま家の中へ続いているようだった。
「リュシア」
「ん」
「思ったより、普通に楽しかったです」
「普通の方、嫌じゃないって言った」
「言ってましたね」
「誠二もそう」
「ええ」
そこで少しだけ顔が近づく。
深めのキス。
静かで、急がず、でも今日の間に溜まったものがそのまま混ざるみたいな長さだった。
離れたあと、どちらもすぐには言葉を出さない。
それでも気まずくない。
むしろ、その無言の方が今は自然だった。
もう一度、少しだけ近づく。
今度はさらに深い。
どこまで行ってもおかしくない距離になる。
けれど、まだ最後の一歩までは行かない。
それが逆に熱を溜める。
リュシアが少し息を整えてから、近いまま言った。
「次、たぶんある」
誠二は目を瞬いた。
「もうですか」
リュシアは少しだけ間を置いてから、低く続けた。
「これ、彼氏にしか振れない」
その言い方に、誠二は思わず笑いそうになって、それから妙なところで息を止めた。
熱のある空気の中に、急に次の仕事の気配が差し込む。
でも、それで冷めるわけではない。
むしろ、この人と自分がそういう関係でもあるのだと改めて感じる。
「嬉しいのか重いのか、ちょっと分かりません」
正直にそう言うと、リュシアはほんの少しだけ口元を緩めた。
「両方」
「ですよね」
「かなり」
誠二は息を吐いた。
かなり面倒そうだ。
でも、“彼氏にしか振れない”と言われるのは、やはり少し嬉しい。
信頼と私情が半分ずつ混ざったみたいな言い方だった。
「それで、何なんですか」
訊くと、リュシアは首を横に振った。
「今は言わない」
「気になります」
「今日は業務外」
その言い方が妙に強かった。
たしかにそうだ。
今日は仕事の続きではなく、仕事の外の時間だ。
そこを大事にするために、いまは言わないのだろう。
もう一度、短くキスをしてから、リュシアがぽつりと言った。
「ベッド」
誠二は少しだけ笑って頷いた。
「はい」
ベッドへ移る。
この部屋も、目新しいわけではない。
何度も来ている場所だ。
でも、今夜は少しだけ違って見える。
変わったのは部屋ではなく、その中で互いに近づく理由の方だった。
ベッドへ座って、またキスをする。
深くて、長い。
手が自然に伸びて、絡む。
恋人つなぎ。
それだけで少し息が乱れる。
距離はかなり近い。
このまま進んでもおかしくない。
むしろ、進まない方が不自然な気もする。
それでも今夜は、まだ越えない。
最後の一歩だけを、どこかで互いに残している感じがある。
「……これ、かなり危ないですね」
誠二が言うと、リュシアは目を細めた。
「うん」
「分かってますよね」
「かなり」
「その顔で言われると」
「何」
「余計に危ないです」
リュシアは少しだけ笑った。
それから、ベッドの上で誠二を抱き寄せる。
胸元へ埋まる。
手は恋人つなぎのまま。
こうしてしまうと、落ち着くのに、熱は消えない。
その両方が同時にあるのが、今夜はいちばん危なかった。
「今日もここ」
リュシアが言う。
「はい」
「でも、ちょっと違う」
「そうですね」
「かなり」
誠二は胸元へ顔を埋めたまま、小さく笑った。
違う。
でも急に全部が変わるわけでもない。
その中間の熱が、ひどく心地よい。
「リュシア」
「ん」
「彼氏にしか振れない案件」
「うん」
「明日聞きます」
「起きたら」
「寝坊したら」
「起こす」
「そこは厳しいんですね」
「デートの次の日でも仕事は来る」
「現実ですね」
「かなり」
その返しに、二人とも少し笑った。
恋人つなぎの手。
胸元の熱。
次の“面倒”の気配。
その全部を抱えたまま、今夜はまだ最後の一歩を明日に残す。
いつもの部屋だった。
それでも今夜は、このまま最後の一歩まで進んでもおかしくない熱だけが、静かに残っていた。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
今回は少しだけ力を抜いて、業務外の一日を書きました。
重い案件のあとに、ちゃんと普通の場所へ戻ること。
普通に歩いて、甘いものを食べて、帰りにコンビニへ寄って、いつもの家へ戻ること。
そういう何でもない流れが、たぶん誠二とリュシアにはかなり大事なんだろうなと思いながら書きました。
恋人になったからといって、急に全部が変わるわけではない。
でも、今までと同じことをしていても、意味だけは少し変わる。
今回はその“少しだけ違う”空気を置きたかった回です。
そして最後に、次の面倒の気配だけは少し置いておきました。
ただ、まだ今は詳しく言わない方がいい段階です。
仕事の匂いはある。
でも、まだ輪郭はぼやけている。
そのくらいの方が、たぶんちょうどいいので。
月末でちょうどここまで区切れたのも、個人的にはかなり良かったです。
99世界を締めて、二人の関係も一段進めて、次の案件の気配だけを残す。
急いで次へ飛ぶより、一度ちゃんと余熱を置けたことで、流れとしてもだいぶ綺麗にまとまった気がします。
次はまた少し空気が変わります。
燃えている世界の話ではなく、もっと別の意味で面倒な場所へ寄っていく予定です。
ただ、あの一言が出た以上、誠二が完全に無関係ではいられないのも確かです。
ここまで付き合ってくださって、本当にありがとうございました。




