石炭の匂い
『幸と恵のものがたり』
第8話 石炭の匂い
昭和十一年、晩秋。
長崎の朝には、吐く息がわずかに白く見える日が増えていた。
坂道を吹き抜ける風は冷たく、路面電車を待つ人々も、肩をすくめながら電停へ集まっていた。
大村家では、幸が鏡の前で髪を整えていた。
一度結び直し。
少し首を傾げ。
また結び直す。
後ろでは、恵が鞄の中身を確かめている。
「姉ちゃん」
「何ね」
「今日、髪ば直すの四回目よ」
「少し曲がっとったと」
「どこが?」
「気持ちのところ」
恵が手を止める。
「髪に気持ちがあると?」
「ある人にはあるとよ」
「今日は長崎駅の近くを通るけんね」
幸の手が止まった。
「学校の帰り道たい」
「いつもの帰り道より、少し遠回りやけどね」
「寄り道とは違うと。道の選び方たい」
「はいはい」
恵は鞄を肩へかけた。
幸は鏡へ向かってもう一度髪を整えようとしたが、節子の声が台所から飛んできた。
「二人とも、そろそろ出んね!」
「はーい!」
返事だけは、ぴたりと重なった。
一 待ち合わせではない場所
放課後。
幸と恵は、女学校を出て長崎駅の方角へ向かった。
いつもより少し遠い道だった。
幸は何度も駅の方向を見る。
恵はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
「恵」
「何ね」
「今日は、どこか寄りたい店とかある?」
「特になかよ」
「じゃあ、駅の近くまで行ってもよかね」
「もう向かいよるやろ」
「念のため聞いただけたい」
「誰かに会えるかもしれんけん?」
幸はすぐに答えなかった。
「……汽車ば見たいだけ」
「汽車は毎日走るけど、平戸さんは毎日同じところにおるとは限らんよ」
「名前ば出さんで」
「顔が赤くなるけん?」
「寒いけんたい」
恵は笑った。
長崎駅の近くへ来ると、石炭と油の匂いが風に乗って届いた。
機関区では、黒い蒸気機関車が白い蒸気を吐いている。
鉄道員たちの掛け声。
工具が触れ合う音。
石炭を運ぶ音。
幸の歩く速度が少し遅くなる。
「探しよるね」
恵が言う。
「何を?」
「分かっとるくせに」
幸は機関区の方を見た。
作業着姿の若者たちが行き交っている。
だが、勝男の姿は見えない。
少しだけ残念そうな顔をした、そのときだった。
「幸さん!」
聞き覚えのある声がした。
幸が振り返る。
機関区の建物の脇から、勝男が歩いてきた。
頬には煤。
作業着の袖には黒い汚れ。
手には、小さな工具箱を持っている。
幸の顔が明るくなった。
「平戸さん」
「今日、学校の帰りですか」
「はい」
「こっちを通るんですね」
幸は少し言葉に詰まった。
「たまに……通ります」
恵が横から言う。
「今日は特に、通りたかったみたいです」
「恵!」
勝男は少し笑った。
幸は恥ずかしそうに話題を変える。
「今日は、何ばしよったんですか」
「石炭の運び方と、火室の見方ば教わっとりました」
「やっぱり大変ですか」
「大変です」
勝男は素直に答えた。
「火室の前は、冬でも汗が出ます。石炭も重いし、同じ場所に入れればよかわけでもなか」
「燃え方ば見ながら入れるんですよね」
勝男が少し驚く。
「知っとるんですか」
「この前、少しだけ聞いたけん」
幸は、父の加工場でボルトを測ったことを話した。
勝一が長崎機関区へ工具や部品を納めていること。
機関車の動輪に使うボルトを加工していること。
一つずつ寸法を測り、間違いがないか確かめること。
「大村さんのお父さん、機関区の仕事に関わっとるんですね」
「うちは最近まで、あまり分かっとらんかったと」
幸は自分の指先を見る。
「あんな小さな部品でも、間違えたら大変なことになるって」
「小さく見えても、全部つながっとりますけん」
勝男は工具箱へ目を落とした。
「原田さんにも、何度も言われます」
幸は、勝男の作業着に残る煤を見た。
「石炭の匂いって、服にずっと残るとですね」
「はい。家に帰っても母さんに、また真っ黒だって言われます」
「うちのお父さんも、鉄と油の匂いがします」
「嫌じゃなかですか」
幸は少し考えた。
「前は、ただ仕事の匂いとしか思っとらんかったです」
そして笑った。
「今は、誰かを支えよる匂いに思えます」
勝男は、しばらく幸を見つめた。
「幸さんは、よかこと言いますね」
「たまにね」
恵が言う。
「恵!」
三人は笑った。
勝男はふと、自分の家の話をした。
平戸家が代々続く農家であること。
父の和徳と母の真子が畑を守っていること。
市場へ出荷する野菜を毎朝選んでいること。
家の食卓にも、傷があって出荷できなかった野菜が並ぶこと。
「うちの父さんは、形が悪くても味は変わらんって言います」
「よかお父さんですね」
幸が言う。
「平戸さんは畑仕事も手伝うとですか」
「小さい頃から手伝わされました」
「力があるのは、そのおかげかもしれんですね」
勝男は照れたように笑った。
「今は石炭の方が重かです」
三人の会話は、少しずつ自然になっていた。
最初のようなしどろもどろはない。
それでも、幸と勝男の間には、まだ少しだけ照れが残っている。
恵は二人を見ながら、そっと一歩下がった。
姉は自分がそばにいなくても、少しずつ勝男と話せるようになってきた。
そのことが、うれしくもあり。
少しだけ、寂しくもあった。
双子はいつも一緒だった。
けれど、これからは別々の人と出会い、別々の道を歩くこともあるのだろう。
恵は、そんな未来を初めて現実のものとして感じていた。
二 恵、一人の帰り道
その日、幸は勝男ともう少し話してから帰りたい様子だった。
恵は姉の顔を見て、何気ない調子で言った。
「うち、先に帰ろうかな」
幸が振り返る。
「一緒に帰るんやなかったと?」
「お母さんに、店で糸ば買うてきてって頼まれとるの忘れとった」
「そんなこと言うとった?」
「朝、言われたと」
実際には、節子から頼まれていたわけではない。
姉と勝男を二人にしてやろうと思っただけだった。
幸は少し迷う。
「一人で大丈夫?」
「姉ちゃんよりは大丈夫」
「どういう意味ね」
「そのままの意味」
恵は勝男へ頭を下げた。
「それじゃ、姉をお願いします」
「だから、何のお世話ね!」
幸が抗議する。
勝男は笑いながら答えた。
「気をつけて帰ってください」
「はい」
恵は二人に背を向け、坂道の方へ歩き出した。
後ろを振り返ると、幸と勝男は少しぎこちなく並んでいた。
だが、すぐに幸が何か話し、勝男が笑った。
恵も小さく笑い、今度こそ前を向いた。
そのときはまだ、自分にも出会いが待っているとは思っていなかった。
三 坂道の老婆
恵が商店の並ぶ道を抜け、坂道へ差しかかったときだった。
前方で、一人の老婆が立ち止まっていた。
背中は少し曲がり、両腕には大きな荷物を抱えている。
布で包まれた箱。
食料品の入った籠。
さらに小さな袋がいくつも重なっていた。
老婆は坂道を上ろうとして、一歩ずつ足を進めている。
だが、荷物は明らかに重そうだった。
そのそばに、一人の青年が立っていた。
年齢は十六歳ほど。
背は高くないが、肩や腕はしっかりしている。
作業着の袖をまくり、老婆の荷物へ手を伸ばしていた。
「おばあさん、持ちますよ」
「いやいや、悪かよ。若い人にそがんことさせられん」
「この坂ば一人で上る方が危なかです」
青年は、老婆の手から大きな箱を受け取った。
だが、荷物はまだ多い。
恵はすぐに駆け寄った。
「私も手伝います」
青年と老婆が同時に振り返る。
恵は買い物籠を置き、残った袋を受け取った。
「女学生さん、大丈夫ね」
老婆が心配そうに尋ねる。
「はい。二人で持てば大丈夫です」
青年も恵を見る。
「助かります」
三人は坂道を上り始めた。
青年が前で重い箱を抱える。
恵は後ろから、箱が傾かないよう支えた。
老婆は残りの籠を持って、ゆっくり歩く。
坂は思った以上に急だった。
「重かですね」
恵が息を切らしながら言う。
青年も苦笑する。
「持ってから気づきました」
「先に見て分からんかったとですか」
「格好つけました」
恵は思わず笑った。
「正直ですね」
「今さら隠しても、腕が震えとるけん」
確かに、青年の腕は少し震えている。
それでも箱を下ろそうとはしなかった。
恵は後ろから力を込めた。
「もう少しです」
「はい」
二人の歩調がそろう。
一歩。
また一歩。
坂道の途中で青年の足が滑りかけた。
恵がとっさに箱を押し上げる。
「危なっ」
「すみません」
「足元、濡れとりますけん、気をつけて」
「女学生さんに助けられてばかりですね」
「二人で助けよるとです」
恵の言葉に、青年は少し笑った。
やがて三人は坂の頂上近くへ着いた。
老婆が指さす。
「あそこたい。あの店」
そこには、小さな喫茶店があった。
木の扉。
窓には白いカーテン。
入口の横には、手書きの看板が置かれている。
老婆は店の主人だった。
「本当にありがとう。若い二人に手伝うてもろうて助かったよ」
青年と恵は荷物を店の中へ運び込んだ。
店内には、珈琲や焼き菓子の甘い匂いが漂っていた。
木の椅子と丸いテーブル。
壁には港の絵。
窓辺には、小さな花瓶が置かれている。
老婆は二人の手を見た。
「寒かったろう。あったか紅茶でも飲んでいきなさい」
「でも」
恵が遠慮する。
「お礼たい。断らんで」
青年も少し迷ったあと、頭を下げた。
「それでは、いただきます」
恵も続いた。
「ありがとうございます」
四 紅茶とチーズケーキ
二人は窓際の席へ並んで座った。
老婆は湯気の立つ紅茶を二つ運んできた。
さらに、白い皿に乗せたチーズケーキを置く。
「これも食べなさい。今朝焼いたばかりよ」
恵の目が少し大きくなる。
「よかとですか」
「荷物ば持ってもろうたお礼たい」
紅茶の香りが、冷えた体を包んだ。
恵は両手でカップを持つ。
温かさが指先へ伝わってくる。
隣の青年も、ほっと息を吐いた。
「生き返りますね」
「大げさですね」
「さっきの坂で、半分くらい力ば使い果たしました」
恵は笑った。
二人はチーズケーキを一口食べる。
甘さの中に、少し酸味がある。
恵は驚いたように皿を見る。
「おいしかです」
老婆は満足そうに笑った。
「そうやろ。うちの店の自慢たい」
少し離れた厨房へ戻った老婆を見送り、二人の間に短い沈黙が落ちた。
初対面。
名前も知らない。
けれど、一緒に坂道を上り、同じ紅茶を飲んでいる。
青年はカップを置き、恵を見た。
「あの」
「はい」
「出島の近くの女学校の人ですよね」
恵は目を瞬いた。
「はい?」
青年は少し慌てる。
「あ、いや。何度か路面電車で見かけたことがあって」
「うちを?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「いつも双子で一緒やったけん」
恵は少し笑った。
「姉の幸と間違えとるかもしれませんよ」
青年は恵の顔をじっと見た。
「今は、間違えとらんと思います」
その言葉に、恵の胸が小さく鳴った。
姉と似ていると言われることには慣れている。
見分けがつかないと言われることも多い。
だが、この青年は、自分を見ている。
恵として。
恵は少し緊張した。
青年は姿勢を正した。
「僕は、篠田龍弥です」
「篠田……龍弥さん」
「十六歳です。造船所で見習いをしとります」
「造船所」
「はい。まだ、雑用ばかりですが」
龍弥は少し恥ずかしそうに笑った。
「あなたは?」
その問いに、恵は急に緊張した。
普段なら、自分の名前くらい普通に言える。
姉が勝男の前で自分の名前を間違えそうになったときも、笑ってからかった。
けれど、今は自分の番だった。
「あの……」
龍弥は待っている。
恵はカップを置こうとして、受け皿へ少しぶつけた。
小さな音が鳴る。
「大丈夫ですか」
「はい。大丈夫です」
恵は背筋を伸ばした。
「うちは、大村……」
声が少し詰まる。
姉の幸の顔が浮かぶ。
まさか自分まで間違えるわけにはいかない。
「大村、め……」
恵は一度息を吸った。
「大村恵です」
ようやく言えた。
龍弥が笑う。
「恵さん」
自分の名前を呼ばれた瞬間、恵の頬が少し熱くなった。
「はい」
「やっぱり、女学校の近くで見たことがあります」
「姉の方じゃなくて?」
「恵さんの方です」
龍弥は迷わず答えた。
「どうして分かるとですか」
「姉さんの方が、よくしゃべるでしょう」
恵は思わず吹き出した。
「よう見とりますね」
「路面電車の中でも、声が聞こえてきますけん」
「それは姉です」
「隣で静かに笑っとる方が、恵さんでしょう」
恵は何も言えなかった。
龍弥は、自分たちを見分けていた。
それも、顔ではなく、仕草や表情で。
「篠田さんも、よう見とる人ですね」
「造船所では、見落としたらいかんって言われますけん」
龍弥は自分の手を見る。
「鉄の板一枚でも、寸法を間違えたら、船全体に影響することがあると」
恵は父の加工場を思い出した。
ボルト一本。
ナット一つ。
小さな違いが、大きな事故につながる。
「うちの父も金属加工ばしよるんです」
「そうなんですか」
「長崎機関区に工具や部品ば納めとります」
「それなら、同じ鉄を扱う家ですね」
龍弥は少しうれしそうに言った。
「僕のところは船。恵さんのところは汽車」
「うちは手伝い程度ですけどね」
「それでも、仕事を知っとる人と話せるのはうれしかです」
二人の会話は、少しずつ自然になった。
姉の幸と勝男の出会いは、汽笛と石炭の匂いの中にあった。
恵と龍弥の出会いは、坂道と紅茶の香りの中にあった。
同じ双子でも、始まり方はまるで違っていた。
五 姉に言えるか
紅茶を飲み終える頃には、外は少し暗くなり始めていた。
恵は壁の時計を見る。
「もう帰らんば」
龍弥も立ち上がる。
「途中まで送ります」
「大丈夫です。一人で帰れます」
「でも、坂道は暗くなると危なかです」
恵は少し迷った。
「それなら……お願いします」
二人は老婆へ礼を言い、喫茶店を出た。
老婆は扉の前で手を振った。
「またいつでもおいで。今度は荷物がなくてもよかけんね」
「ありがとうございます」
龍弥と恵は並んで坂道を下った。
今度は荷物がない。
足取りは軽い。
けれど、会話は先ほどより少しぎこちなくなった。
互いに、別れる時間が近いことを意識していた。
「篠田さんは、毎日造船所へ?」
「はい。朝から夕方まで」
「大変ですね」
「汽車の仕事も大変やろうけど、船も同じです」
龍弥は港の方角を見る。
「大きなものを作る仕事は、たくさんの人が関わりますけん」
「一人では作れんとですね」
「はい。だから、自分の仕事が小さくても、手ば抜けん」
恵はうなずいた。
「父も同じことば言いそうです」
道の分かれ目へ着く。
龍弥は足を止めた。
「ここからは大丈夫ですか」
「はい」
恵も立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
龍弥が言う。
「手伝ってもろうて」
「うちの方こそ、紅茶とケーキまでごちそうになりました」
「また、会えますか」
突然の問いだった。
恵は目を見開く。
龍弥も自分で言ったあと、少し驚いたようだった。
「あの、出島の近くを通ることがあるけん」
「はい」
恵は少しだけ笑った。
「また会えると思います」
「よかった」
龍弥は照れたように頭を下げた。
「それでは」
「はい。また」
龍弥が港の方角へ歩いていく。
恵はその後ろ姿を見送った。
胸の奥が、いつもと違う。
温かい紅茶を飲んだせいだけではない。
大村恵として見てもらえたこと。
名前を呼ばれたこと。
また会いたいと言われたこと。
姉をからかっていた自分が、いざ同じ立場になると、こんなにも緊張するとは思わなかった。
「姉ちゃんに言えるかな……」
恵は小さくつぶやいた。
六 双子の秘密
大村家へ帰ると、幸はすでに戻っていた。
玄関で靴を脱ぐ恵を、幸がじっと見る。
「遅かったね」
「少し寄り道したと」
「糸は?」
恵の動きが止まる。
幸が首を傾げる。
「お母さんに頼まれた糸ば買うって言いよったやろ」
「……忘れた」
「恵が?」
幸の目が細くなる。
「珍しかねえ」
「たまには忘れることもあるとよ」
幸は妹の顔をのぞき込んだ。
「何かあったと?」
「何もなか」
「顔が少し赤いよ」
「寒かったけん」
「その言い訳、うちが使ったやつたい」
恵は目をそらした。
幸は何かを察した。
「もしかして」
「何ね」
「男の人?」
恵の肩がわずかに動く。
幸は目を見開いた。
「本当に?」
「声が大きかよ!」
「誰ね? どこで会ったと? 何歳? 何ばしよる人?」
「一度に聞かんで!」
幸は楽しそうに笑った。
「夢見る乙女さんやったと?」
「姉ちゃん、その言葉ば返すと?」
「返すたい。ずっとうちだけ言われよったけん」
恵は観念したように、今日の出来事を話した。
重い荷物を抱えた老婆。
一緒に助けた青年。
坂の上の喫茶店。
温かい紅茶とチーズケーキ。
篠田龍弥。
十六歳。
造船所の見習い。
話を聞き終えた幸は、にやにやしていた。
「何ね、その顔」
「恵も、しどろもどろになったとね」
「少しだけたい」
「自分の名前、間違えそうにならんかった?」
恵は黙る。
幸の笑みがさらに大きくなる。
「間違えそうになったと?」
「姉ちゃんほどではなか!」
「同じたい!」
「違う!」
二人はしばらく言い合ったあと、同時に笑い出した。
幸は妹の隣へ座った。
「よか人やった?」
恵は少し考えた。
「うん」
「また会いたい?」
「……会えたらよかと思う」
幸はうれしそうに笑った。
「同じやね」
「何が?」
「うちら、同じ時期に気になる人ができたと」
恵も少し笑う。
「双子やけんかな」
「そこまで一緒にせんでもよかのにね」
二人は肩を並べた。
幸の心には、石炭の匂いをまとった勝男。
恵の心には、鉄と潮の匂いをまとった龍弥。
双子の姉妹は、それぞれ別の青年と出会い、少しずつ自分だけの未来を思い描き始めていた。
七 二つの仕事、二つの恋
その夜。
平戸勝男は、機関区で使った作業着を干しながら、幸との会話を思い出していた。
――今は、誰かを支えよる匂いに思えます。
石炭の匂いを、そう言ってくれた人は初めてだった。
勝男は煤の残る袖を見た。
そして、小さく笑った。
同じ頃。
篠田龍弥は、造船所近くの住まいで手を洗っていた。
鉄粉と油の汚れが、水へ流れていく。
脳裏に浮かぶのは、坂道で一緒に荷物を支えた少女だった。
大村恵。
双子の妹。
静かに笑い、必要なときには迷わず手を差し出す少女。
龍弥は自分の手を見ながらつぶやいた。
「また会えるかな」
大村家では、幸と恵が並んで布団へ入っていた。
「姉ちゃん」
「何ね」
「平戸さんと、今日は何ば話したと?」
「家の仕事のこと」
「それだけ?」
「それから、畑のこととか」
「楽しかった?」
「うん」
幸は正直に答えた。
「恵は?」
「うちも、楽しかった」
二人は暗闇の中で、小さく笑った。
遠くから、夜汽車の汽笛が聞こえる。
さらに港の方角からは、造船所の夜勤を知らせる音がかすかに響いた。
汽車と船。
石炭と鉄。
畑と加工場。
異なる場所で働く人々の暮らしが、長崎という町の中でつながっている。
幸と勝男。
恵と龍弥。
二組の若者の縁もまた、まだ細く、頼りないものだった。
けれど確かに、同じ町の中で芽を出し始めていた。
次回予告
勝男と家族の仕事について語り合った幸。
龍弥と出会い、姉と同じように胸の高鳴りを知った恵。
双子の姉妹には、それぞれ心に浮かぶ人ができ始めていた。
そんな中、父・勝一は加工場へ新たな注文を受ける。
長崎機関区から届いたのは、機関車の足回りに使う重要な部品。
幸と恵も検品を手伝うが、わずかな寸法の違いを見つける。
一方、機関区では勝男が初めて、その部品を取り付ける作業に立ち会うことになる。
次回、第9話。
「勝男の夢」
作る者。
確かめる者。
取り付ける者。
一つの部品が、まだ知らない人々の手をつないでいく。




