家族四人の夕食
『幸と恵のものがたり』
第7話 家族四人の夕食
昭和十一年、晩秋。
長崎の空から日の光が消える時刻は、少しずつ早くなっていた。
港へ続く道には夕方の冷たい風が吹き、仕事を終えた人々が襟元を押さえながら家路を急いでいた。
長崎機関区では、その日の最後の点検作業が続いていた。
蒸気機関車の火はまだ完全には落ちていない。
赤く燃える火室から熱気が漏れ、冷え始めた外気の中へ白い蒸気が立ち上っていた。
平戸勝男は、石炭を入れるための大きなショベルを両手で握っていた。
「腰だけで持つな」
指導員の原田正勝が、すぐ横から声をかける。
「はい!」
勝男は足の位置を直した。
「腕だけでも持つな。足と腰を使え。何度も石炭ば入れ続けるんだ。最初だけ勢いよくやっても、途中で動けんようになったら役に立たん」
原田は勝男の背中へ軽く手を当て、姿勢を整えた。
「機関助手は力仕事だ。だが、力任せでは務まらん」
「はい」
勝男は石炭をすくい、火室の奥へ投げ入れた。
黒い塊が赤い炎の中へ飛び込む。
一瞬だけ火の粉が舞い上がり、熱い空気が顔へ押し寄せた。
勝男は思わず目を細める。
「熱かか」
原田が尋ねる。
「はい」
「これでも今日は涼しい方だ」
原田は火室の内部を指した。
「ただ投げ込めばよかと思うな。火が弱いところを見ろ。片方へ石炭が偏れば、燃え方も偏る」
勝男は炎の動きをじっと見た。
火室の中は、ただ赤く燃えているだけではない。
強く燃える場所。
少し暗くなっている場所。
石炭が盛り上がっている場所。
空気の流れによって炎の形も変わっていた。
「火も見らんばいかん。圧力計も見る。水の量も見る。機関士の声も聞く」
原田が続ける。
「一つだけに夢中になったら、ほかが見えんようになる」
「はい」
「汽車は、お前を待ってくれんぞ」
勝男はもう一度、石炭をすくった。
先ほどより量を減らし、火の弱い場所を狙って投げ込む。
原田は何も言わなかった。
その沈黙が、今の動きは悪くなかったという合図だった。
しばらくすると、原田が言った。
「今日はここまでだ」
勝男はショベルを置いた。
腕が重い。
手のひらには、新しくできたまめが痛んでいた。
顔も作業着も煤だらけだった。
「ありがとうございました」
勝男が頭を下げる。
原田は勝男の手元を見た。
「手ば見せろ」
勝男が両手を差し出す。
原田は、赤くなった手のひらを確かめた。
「帰ったら冷やしておけ」
「これくらい大丈夫です」
「そう言って無理する者が、一番早う手を壊す」
原田の声は厳しかったが、勝男の手を心配していることは伝わった。
「明日も仕事がある。今日だけ頑張ればよか仕事やなか」
「はい」
「それから、飯ば食え」
勝男は少し笑った。
「はい」
「機関助手が石炭より軽うなったら、話にならんからな」
原田はそう言って、別の作業場へ向かった。
勝男は煤のついた頬を袖で拭った。
だが、拭ったところがさらに黒くなったことには気づかなかった。
一 平戸家の夕暮れ
平戸家は、長崎の市街地から少し離れた場所にあった。
代々、田畑を守ってきた農家だった。
広い屋敷ではない。
けれど、家の裏には畑があり、季節ごとにさまざまな野菜が育てられていた。
大根。
白菜。
葱。
人参。
里芋。
収穫した野菜の多くは市場へ出荷し、一部は家族の食卓へ並べる。
父の平戸和徳は、その日も朝から畑に出ていた。
土の状態を確かめ、収穫できる野菜を選び、市場へ出すために泥を落とす。
母の真子も、家のことをしながら畑仕事を手伝っていた。
日が落ちる頃。
勝男が家の戸を開けた。
「ただいま」
奥から真子の明るい声が返ってくる。
「お帰り、勝男」
台所から、甘辛い匂いが漂っていた。
勝男は鼻を動かす。
「今日は何ね」
真子が鍋を持ちながら顔を出した。
「すき焼きにしたよ」
「すき焼き?」
勝男の顔が明るくなる。
真子は笑った。
「毎日、石炭ば運んで、機関車の下にもぐって。力仕事やけん、たくさん食べて力ばつけんと」
土間の方から和徳も戻ってきた。
肩には、収穫したばかりの葱が入った籠を担いでいる。
「ちょうどよかった。これも入れろ」
真子が籠をのぞく。
「立派な葱ね」
「今年はよう育った」
和徳は勝男を見る。
「お前より、葱の方が太かぞ」
「父さん、毎回何かと比べんでよ」
勝男が苦笑する。
「農家の息子が細うなって帰ってきたら、格好がつかん」
「機関区で働いとるんやけん、農家の格好は関係なかやろ」
「どこで働こうが、腹が減るのは同じたい」
和徳は笑いながら、勝男の肩をたたいた。
その手は大きく、土で荒れていた。
勝男の手は石炭や油で汚れ、和徳の手は土と野菜の汁で汚れている。
仕事は違っても、働く手であることは同じだった。
勝男は手を洗い、煤を落とした。
何度洗っても、爪の間や耳の近くには黒い汚れが残る。
真子が後ろから布を差し出す。
「耳の後ろ、まだ黒かよ」
「見えんところは、よかやろ」
「家の中に煤ば持ち込まんで」
「汽車の仕事しよったら、仕方なかと」
「仕方なくても洗うの」
勝男は布を受け取り、耳の後ろを拭いた。
「幸さんにも、顔が黒いって言われたしな……」
思わず、小さく口に出してしまった。
真子の手が止まる。
「幸さん?」
勝男も動きを止めた。
和徳が土間から振り返る。
「誰ね、それは」
「いや……」
勝男は慌てて布で顔を拭く。
「この前、荷車ば一緒に押した女学生さん」
真子の目が少し楽しそうに細くなる。
「女学生さんねえ」
「そがん意味やなかよ」
「まだ何も言うとらんやろ」
「母さんの顔が言いよる」
和徳は籠を置きながら笑った。
「仕事ば覚える前に、嫁さんば見つけるつもりか」
「違うって!」
勝男の声が家中へ響いた。
真子は口元を押さえて笑う。
「はいはい。まずは御飯にしましょう」
二 畑から食卓へ
居間には、大きな鉄鍋が置かれた。
鍋の中では、肉と葱、白菜、豆腐が甘辛い汁に浸かっている。
肉はたくさんあるわけではない。
その分、平戸家で育てた野菜が鍋いっぱいに入っていた。
葱の甘い香り。
白菜の柔らかな葉。
土の中で育った里芋。
真子は、煮えた野菜を勝男の器へ次々に入れた。
「母さん、入れすぎ」
「たくさん食べんと力が出らんよ」
「自分で取るけん」
「今日は初めて火室の仕事ば習ったんやろ」
勝男が驚いて母を見る。
「どうして知っとると」
「原田さんが、昼間、市場の近くを通ったときに教えてくれたよ」
原田の家と平戸家は、以前から面識があった。
原田の妻・紀江も、真子から時折野菜を買っていた。
「原田さん、何て言いよった?」
勝男が少し身構える。
真子はわざと間を置いた。
「平戸の息子は、まだまだだって」
勝男の肩が落ちる。
和徳が笑う。
「そのとおりやろ」
「でもね」
真子は続けた。
「逃げんで覚えようとしとる。見込みはあるとも言うとったよ」
勝男は顔を上げた。
「本当に?」
「母さんが嘘ば言うて、何になると」
勝男は器の中の白菜を見つめた。
厳しく叱られてばかりだと思っていた。
自分は足手まといではないのか。
原田に呆れられているのではないか。
そんな不安もあった。
「見込みはある、か」
和徳が肉を一枚取りながら言う。
「なら、期待を裏切らんよう働かんばな」
「分かっとる」
「分かっとるだけでは足りん」
勝男は父を見る。
和徳は畑での仕事を思い出すように話した。
「野菜もな、種ばまいただけでは育たん」
水をやる。
草を取る。
虫を見る。
土の状態を確かめる。
風が強ければ支えをつける。
雨が続けば水の逃げ道を作る。
収穫まで、毎日同じように世話を続ける。
「一日だけ頑張っても、翌日ほったらかしたら育たん」
和徳は勝男の目を見る。
「仕事も同じやろ」
勝男はうなずいた。
「うん」
「焦らんでよか。けど、手は抜くな」
「分かった」
真子が二人へ葱を追加する。
「難しか話は、食べてからにして。せっかくの葱が煮えすぎるよ」
三人は笑った。
勝男は、自分の家で育った葱を口に運んだ。
熱く、甘かった。
機関区で石炭を運んだ体へ、温かい食事が染み込んでいく。
帰れば食事がある。
待っている人がいる。
今日の仕事の話を聞いてくれる家族がいる。
原田が言った言葉を思い出した。
――乗る人には、帰りを待っとる家族がおる。
勝男は、目の前の父と母を見た。
もし自分が汽車に乗って遠くへ向かえば、この二人も帰りを待つのだろう。
客車の中には、こうした食卓へ帰る途中の人々がいる。
「父さん、母さん」
勝男が言った。
「何ね」
「俺、絶対に一人前になるけん」
和徳はすぐには答えなかった。
やがて、静かにうなずく。
「その言葉、忘れるなよ」
真子は勝男の器へ、さらに肉を一枚入れた。
「まずは食べんね。一人前になる前に倒れたら困るけん」
「まだ入れると?」
「若いんやけん、食べられるやろ」
平戸家の夕食は、夜遅くまで続いた。
三 大村家の加工場
同じ頃。
大村家の裏手にある加工場では、金属を削る音が響いていた。
大村家は代々の農家ではない。
父の大村勝一は、金属加工の仕事を営んでいた。
自宅の一部を加工場にし、鉄道や工場で使われる工具や部品を扱っている。
長崎機関区へも、さまざまな品を納めていた。
締め付けに使うレンチ類。
大きさの異なるボルトやナット。
機関車の点検や補修に必要となる金属部品。
注文を受ければ、既製品だけでなく、用途に合わせた部品の加工も行っていた。
その日、勝一は作業台へ向かっていた。
手元にあるのは、機関車の動輪周辺へ取り付けるための大きなボルトだった。
太く、重い。
家庭で使われる小さなねじとは、まるで違う。
勝一は寸法を確かめ、表面の状態を見た。
加工機へ固定し、少しずつ金属を削っていく。
高い音が作業場へ響く。
削られた金属の細かな破片が、光を受けてきらりと輝いた。
加工場には、油と鉄の匂いが満ちている。
幸は夕食の支度を手伝い終えると、入口から中をのぞいた。
父は作業に集中しており、娘に気づいていない。
幸は足元へ気をつけながら、一歩だけ中へ入った。
「お父さん」
勝一は機械を止め、振り返った。
「どうした」
「うちも手伝ってええ?」
勝一は眉を上げた。
「手伝う?」
「うん」
幸は作業台へ近づいた。
そこには、大きさの異なるボルトやナットが並べられている。
「この前、機関区の人たちが点検しよるところば見たと」
勝一は黙って娘の話を聞いた。
「一つのネジとかナットが緩んだだけでも、大きな事故になるかもしれんって」
「そうだ」
「この部品も、汽車につけるとやろ」
幸は加工途中のボルトを指した。
「ああ。動輪の周りで使うものだ」
幸は恐る恐る手を伸ばした。
だが、勝一がすぐに止める。
「待て。まだ熱を持っとる」
幸は慌てて手を引いた。
「熱かと?」
「金属は見ただけでは分からん。冷たそうに見えても、加工したばかりなら火傷する」
「ごめんなさい」
「だから難しいぞ」
勝一は娘の顔を見た。
「それでも、やってみるか?」
幸は真剣にうなずいた。
「やってみたい」
勝一は少し考えた。
危険な機械を触らせることはできない。
刃物も、熱を持った部品も扱わせられない。
だが、仕事の一部なら教えられる。
「よし」
勝一は作業台の端へ、加工を終えて冷えたボルトを並べた。
「まずは、これを大きさごとに分けてみろ」
幸は一本を両手で持ち上げた。
「重っ!」
勝一が笑う。
「機関車の部品だぞ。お前の裁縫箱に入っとる針とは違う」
「分かっとるけど、見た目より重か」
幸は一本ずつ持ち上げ、父から教えられた場所へ並べていった。
太さ。
長さ。
ねじ山の形。
一見すると同じように見えるが、よく見ると少しずつ違う。
「これとこれは同じ?」
幸が尋ねる。
勝一は首を横に振った。
「並べて見てみろ」
幸は二本を隣へ置いた。
長さがわずかに違う。
「本当や。こっちが少し長か」
「少しの違いでも、使う場所が違えば入らん」
「無理に入れたら?」
「ねじ山を壊す。部品を傷める。締め付けが足りなくなることもある」
勝一は一本のボルトを手に取った。
「大きければ丈夫。強く締めれば安全。そう単純な話じゃない」
部品には、それぞれ決められた寸法と役割がある。
必要な力で締める。
緩すぎてもいけない。
強く締めすぎても、部品を傷めることがある。
幸は、父の話を真剣に聞いていた。
「この一本にも、意味があるとね」
「ああ」
「お父さんが間違えたら、汽車が危なくなる?」
勝一は少し黙った。
娘を怖がらせたくはない。
だが、仕事の責任をごまかしたくもなかった。
「俺一人だけで全部が決まるわけではない」
部品を加工する者。
寸法を確認する者。
機関区で受け取る者。
取り付ける者。
点検する者。
多くの人間が、それぞれ確かめる。
「だが、俺が適当な仕事をすれば、その先の人に迷惑をかける」
勝一は幸の目を見た。
「だから、最初から正しく作る」
幸はうなずいた。
「機関区の人と同じやね」
「同じ?」
「小さいものでも、小さいと思ったらいかんと」
勝一は娘の言葉に、わずかに驚いた。
「誰に聞いた」
「直接聞いたわけやなかけど、見よって分かったと」
幸は、原田に指導されていた勝男の姿を思い出した。
何度も点検をやり直す背中。
一つずつ部品へ触れていた手。
「汽車って、たくさんの人が作って、守って、走らせよるとね」
勝一は静かに笑った。
「ようやく気づいたか」
「今まで、ただ大きくて格好よかと思っとった」
「それも間違いではない」
父は娘へ、小さな金属製の測定器具を見せた。
「次は、これで太さを確かめる」
「うちにもできる?」
「数字が苦手でも、目盛りくらいは読めるだろう」
幸の顔が曇る。
「お父さんまで、うちが算術苦手って知っとると?」
「食卓で恵が何度も言っとる」
「恵め……」
勝一は笑いながら、測り方を教えた。
幸は慎重にボルトを挟み、目盛りをのぞき込む。
「これは……」
「慌てるな」
幸は一つずつ数字を読んだ。
最初は間違えた。
二度目は器具の当て方がずれた。
三度目で、ようやく正しい値を読み取った。
「できた!」
「まだ一本だ」
「一本できたら、次もできるたい」
「その調子で全部やってみろ」
幸はうれしそうに次のボルトを手に取った。
四 恵の仕事
加工場の入口には、いつの間にか恵が立っていた。
「姉ちゃん、何しよると?」
幸が振り返る。
「お父さんの仕事ば手伝いよると」
「大丈夫ね」
「何が?」
「大事な部品ば、姉ちゃんが別のところへ混ぜたりせんか心配」
「混ぜんよ!」
恵は作業台の上を見た。
大きさごとに分けられたボルト。
寸法を書いた札。
確認を終えた部品。
「うちも手伝おうか」
幸が少し驚く。
「恵も?」
「姉ちゃん一人では時間がかかるやろ」
「失礼ね」
勝一は二人を見て言った。
「なら、恵は確認した部品の数を帳面へ書いてくれ」
「はい」
恵はすぐに帳面と筆を受け取った。
幸が一本ずつ測る。
寸法を声に出す。
恵が帳面へ記録する。
「次、これ」
「はい」
「太さは――」
「姉ちゃん、もう一回測って」
「何で?」
「さっきと数字が違う」
幸は測り直す。
「あ、本当や」
「危なかねえ」
「今、気づいたけんよかやろ」
「気づかんかったら?」
幸は口を閉じた。
恵は姉を責めるのではなく、静かに言った。
「だから、二人で確かめればよかとよ」
勝一は、双子のやり取りを黙って聞いていた。
一人が測る。
一人が記録する。
数字が合わなければ、もう一度確かめる。
鉄道員たちが互いに補い合うのと同じだった。
「恵」
「はい」
「よく見つけた」
父に褒められ、恵は少し照れた。
幸は隣で頬を膨らませた。
「うちも最初に測ったとよ」
「間違えたけどね」
「一回だけたい」
「一回が事故につながるんやろ」
幸は言い返せなかった。
つい先ほど、父から教えられたばかりである。
「……もう一回、全部確かめる」
幸は並べた部品の最初へ戻った。
勝一は何も言わなかった。
ただ、その横顔には少しだけ満足そうな表情が浮かんでいた。
五 二つの家の食卓
作業が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
節子が加工場の入口から声をかけた。
「三人とも、御飯ができたよ」
「はーい!」
幸と恵が同時に返事をする。
勝一は機械の状態を確認し、加工場の灯りを落とした。
大村家の食卓には、大根と魚の煮物、味噌汁、漬物が並んでいた。
豪華な食事ではない。
けれど、家族四人がそろって食べるには十分だった。
幸は席につくなり、自分の手を見せた。
「お母さん、今日うち、お父さんの仕事ば手伝ったとよ」
節子は娘の手を取った。
「怪我はなかね」
「大丈夫。危なか機械には触っとらんよ」
勝一が答える。
恵が箸を持ちながら言う。
「姉ちゃん、数字ば一回間違えたけどね」
「また言うと?」
「でも、ちゃんと最初から測り直したよ」
節子は幸を見る。
「偉かったね」
「うん」
幸は少し誇らしそうに笑った。
勝一は煮物を口に運びながら言う。
「機関車に使う部品は、小さな間違いでも放っておけん」
節子がうなずく。
「お父さんの仕事も、人の命につながっとるんやね」
幸が言った。
「うち、今日まで知らんかった」
「毎日見とったやろ」
勝一が返す。
「見とったけど、分かっとらんかった」
幸は父の手を見た。
油が染み込み、細かな傷のある手。
毎日、その手で部品を作っている。
いつも家にいる父。
食卓では冗談も言う父。
だが加工場では、人の命につながる仕事をしている。
「お父さん、格好よかね」
幸が突然言った。
勝一の箸が止まる。
「何だ、急に」
「汽車を動かす人も格好よかけど、汽車の部品ば作る人も格好よか」
勝一は照れくさそうに咳払いをした。
「仕事だからやっとるだけだ」
恵が笑う。
「お父さん、顔が赤かよ」
「味噌汁が熱いだけだ」
「まだ飲んどらんやろ」
「恵、余計なことは言わんでよか」
今度は幸と恵が笑った。
節子も楽しそうに笑いながら、勝一の器へ煮物を追加した。
家族四人の夕食。
今日あったことを話す。
失敗したことを笑う。
頑張ったことを認め合う。
それは、大村家にとって何でもない日常だった。
同じ時刻。
少し離れた平戸家でも、勝男が両親と食卓を囲んでいた。
農家の畑で育った野菜。
市場へ出せなかった形の悪い大根。
少し傷のある白菜。
だが、味は変わらない。
真子は野菜を鍋へ入れ、和徳は息子の仕事の話を聞く。
勝男は原田から教わったことを、途切れ途切れに話していた。
「火室の中は、ただ石炭ば投げればよかんやなか」
「そうか」
「燃え方ば見て、弱いところに入れんばいかんと」
和徳はうなずく。
「畑と同じやな」
「また畑の話ね」
「どんな仕事も、よう見らんば分からんということたい」
勝男は少し笑った。
二つの家。
一方は農家。
一方は金属加工。
育てる仕事と、作る仕事。
どちらの家でも、働くことは暮らしそのものだった。
平戸家の畑で育った野菜は、人々の食卓へ届く。
大村家で作られたボルトやナットは、機関車を支える。
勝男は、石炭をくべて汽車を走らせることを学ぶ。
幸は、部品一つにも人の命がかかっていることを知る。
まだ二人は、互いの家の仕事を詳しく知らない。
だが、それぞれの暮らしは、見えないところで同じ鉄道へつながっていた。
大村家で作られたボルトを。
原田が点検し。
勝男が扱う機関車に取り付ける日が来るかもしれない。
人と人は、自分が気づかない場所で支え合っている。
汽車が、多くの部品によって走るように。
町もまた、多くの仕事によって動いていた。
六 夜汽車の音
夕食を終えたあと。
幸と恵は、加工場で使った帳面を見返していた。
「姉ちゃん、字が少し曲がっとるよ」
恵が言う。
「読めればよかやろ」
「お父さんの仕事の帳面やろ。きれいに書かんば」
「書いたのは恵やん」
「姉ちゃんが横から机ば押すけん曲がったと」
「うちのせいね?」
「姉ちゃんのせいたい」
また言い合いが始まる。
節子は台所から二人の声を聞きながら笑っていた。
勝一は加工場へ戻り、明日の作業の準備をしている。
そのとき、遠くから汽笛が聞こえた。
低く、長い音だった。
幸は言葉を止め、窓の方を見た。
恵が気づく。
「平戸さんのこと考えた?」
幸は少し迷ったあと、素直にうなずいた。
「うん」
「今日は隠さんとね」
「汽車の仕事ばする人が、どがん気持ちで部品ば見よるか、少し分かったけん」
幸は自分の指先を見た。
ほんの短い時間、父の仕事を手伝っただけで、緊張した。
これを毎日繰り返す。
間違いがないよう確かめ続ける。
勝男も同じように働いている。
「平戸さん、今日も頑張ったとかな」
「頑張っとるやろ」
「どうして分かると?」
「姉ちゃんが好きになるくらいの人やけん」
幸は目を見開いた。
「好きとは、まだ言っとらん!」
「まだ、ね」
「恵!」
幸が妹を追いかける。
恵は笑いながら部屋の中を逃げた。
節子が台所から声を上げる。
「走ったらいかんよ!」
「恵が余計なこと言うけん!」
「姉ちゃんが分かりやすかけん!」
二人の足音と笑い声が、家の中に響いた。
加工場にいた勝一は、その騒ぎを聞きながら小さく笑った。
平戸家では、勝男が布団へ入る前に窓を開けていた。
冷たい夜風が入ってくる。
遠くの線路から、汽笛が聞こえた。
勝男は、雨の日に名乗り合った少女を思い出した。
大村幸。
汽車を動かす人は格好いいと言ってくれた。
必ず乗せると約束した。
「幸さん」
勝男は小さく名前を口にした。
そして、自分の手を見た。
まめのできた手。
まだ機関車を動かすことのできない手。
けれど、いつか必ず。
原田からすべてを学び、一人前の機関助手になり、その先に機関士を目指す。
その決意は、以前より強くなっていた。
二つの家の上を、同じ夜が包んでいた。
同じ汽笛が、二つの窓へ届いていた。
まだ待ち合わせすら素直に認められない幸と勝男。
それでも二人は、互いを思いながら、それぞれの家族のもとで眠りについた。
帰る家がある。
温かい食卓がある。
父と母がいる。
双子の妹がいる。
土の匂いがある。
鉄と油の匂いがある。
この頃の二人はまだ、それらがずっと続くと思っていた。
日常は、明日も同じ形で待っているのだと信じていた。
⸻
次回予告
父の金属加工を手伝った幸は、機関車を支える仕事の重さを知る。
一方、勝男は原田の指導のもと、石炭をくべ、蒸気を守る機関助手の仕事へ一歩ずつ近づいていく。
そんなある日の放課後。
幸は長崎駅近くで勝男の姿を探していた。
待ち合わせをしたわけではない。
約束の時刻も決めていない。
それでも、会えるかもしれないと思って足を運ぶ。
勝男もまた、作業を終えるたび、女学校の制服姿を探すようになっていた。
そして、二人は初めて、家族の仕事について語り合う。
次回、第8話。
「石炭の匂い」
畑の土。
加工場の鉄。
機関車の石炭。
異なる匂いの中で育った二人の暮らしが、少しずつ重なり始める。




