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幸と恵の物語  作者: リンダ


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幸の笑顔、恵のまなざし

『幸と恵のものがたり』

 第6話 幸の笑顔、恵のまなざし


 昭和十一年、秋。


 朝から長崎の空には、重たい雲が広がっていた。


 女学校へ向かう途中、幸は路面電車の窓から何度も空を見上げていた。


「降りそうやね」


 幸が言う。


 隣に立つ恵も、灰色の空へ目を向けた。


「お母さんが傘ば持っていきなさいって言うとったやろ」


「朝は降っとらんかったけん」


「天気は朝のままとは限らんよ」


「恵も持ってきとらんやろ」


「姉ちゃんが、二人で走れば濡れんって言うたけん」


「うち、そがんこと言うた?」


「言うた」


 幸は少し考えた。


「言うたような気もする」


「都合の悪かことは、すぐ忘れるね」


「でも、まだ降っとらんやろ。帰るまで大丈夫たい」


 幸は根拠のない自信を見せた。


 恵は小さくため息をついた。


「姉ちゃんが大丈夫って言う日は、だいたい何か起きるとよ」


 路面電車はモーター音を響かせながら、雨の気配を含んだ長崎の町を走っていった。


 一 冷たい秋雨


 午前中は、何とか雨が降らずに持ちこたえた。


 しかし、昼を過ぎた頃から、教室の窓に小さな雨粒が当たり始めた。


 ぽつり。


 ぽつり。


 最初は静かだった音が、やがて途切れることなく続くようになる。


 休み時間、幸は窓際に立って空を見上げた。


「これくらいなら、帰る頃にはやむやろ」


 恵が隣に来る。


「さっきより強うなっとるよ」


「雨も、ずっと降ったら疲れるたい」


「雨に疲れるという考えがあると?」


「何事にも休みは必要やろ」


「雨は姉ちゃんと違って、授業中にぼうっとせんよ」


「まだ作文のときのこと言いよると?」


「今日も汽笛が聞こえたら、外ば見よったやろ」


 幸は窓から目をそらした。


「一回だけたい」


「三回」


「数えとったと?」


「姉ちゃんのことは、見とらんでも分かるとよ」


 幸は恵の肩を軽く押した。


「人ば観察する暇があったら、勉強しなさい」


「姉ちゃんには言われたくなか」


 放課後になる頃には、雨脚はさらに強まっていた。


 校舎の屋根を、雨粒が激しくたたいている。


 校門の外では、生徒たちが傘を差して足早に帰っていった。


 幸と恵は玄関に立ち、並んで雨を眺めた。


「どうする?」


 恵が尋ねる。


 幸は腕を組んだ。


「少し待てばやむ」


「その根拠は?」


「うちの勘」


「一番信用できんものが出てきた」


 二人はしばらく待った。


 だが、雨はやむどころか、ますます激しくなった。


 路面電車の線路にも水がたまり、車輪が通るたびに細かなしぶきが上がる。


 やがて、運行が遅れているという話も聞こえてきた。


「これじゃ、いつ帰れるか分からんね」


 幸が言う。


「だから傘ば持ってくればよかったとよ」


「恵も持ってきとらんやろ」


「姉ちゃんの言葉ば信じた、うちの間違いやった」


「そこまで言わんでもよかやろ」


 二人は鞄を胸に抱え、軒下を伝うようにして駅の近くまで歩くことにした。


 少しでも屋根のある場所を選ぶ。


 しかし、風が吹くたびに雨が横から入り込み、制服の袖や裾が少しずつ濡れていった。


「寒か……」


 幸が肩をすくめる。


「走ったら滑るけんね」


「分かっとる」


「姉ちゃんは分かっとっても走るけん言いよると」


「今日は走らんよ」


 その直後、屋根の切れ目を見つけた幸が駆け出した。


「姉ちゃん!」


 恵も慌てて後を追う。


 二人は長崎駅近くの店の軒下へ滑り込んだ。


「走らんって言うたやろ!」


 恵が息を切らしながら言う。


「今のは走ったんやなくて、素早く移動しただけたい」


「同じやろ!」


 雨は目の前を白く煙らせるほど激しく降っていた。


 路面電車の姿も、雨の向こうにぼんやりとしか見えない。


 幸は濡れた前髪を手で払った。


「これ、しばらく帰れんね」


「お母さん、心配しよるやろうね」


「雨がやんだら、すぐ帰ろう」


 二人は軒下で肩を並べた。


 そのとき、機関区の方角から、一人の少年が走ってきた。


 片手には黒い傘。


 もう片方の手には、小さな風呂敷包みを持っている。


 作業着姿。


 頬に残った煤。


 幸が何度も思い浮かべていた、見覚えのある横顔。


 恵が先に気づいた。


「姉ちゃん」


「何ね」


「あの人」


 幸が振り返る。


 雨の中から、見習い鉄道員が近づいてきていた。


 幸の表情が一瞬で固まった。


「……あ」


「今度こそ、名前ば聞けるね」


 恵が小声で言う。


「急に何ば言いよると」


「姉ちゃん、会いたかったんやろ」


「会いたいとは言うとらん!」


「じゃあ、隠れる?」


「なんで隠れんばいかんと!」


 そう言いながら、幸は軒下の柱の陰へ半歩移動した。


 恵はあきれた顔をした。


「隠れよるやない」


「雨が当たるけんたい」


「そっちはさっきより屋根が狭かよ」


 幸が言い返そうとしたとき、少年が二人に気づいた。


 足を止める。


「あの……」


 少年の声が雨音の中に届いた。


 幸の心臓が大きく鳴った。


 長崎駅で目が合った人。


 荷車を一緒に押した人。


 厳しく叱られながらも、何度も点検をやり直していた人。


 今度こそ名前を聞こうと思っていた人が、目の前に立っている。


 しかし、実際に向き合うと、頭の中が真っ白になった。


「この前の……」


 少年が言う。


 幸は何か答えようとした。


「あ、はい」


 それだけで声が裏返る。


 恵が横で姉を見る。


 少年も少し緊張しているようだった。


 傘の柄を握り直しながら、二人の方へ一歩近づく。


「雨宿りですか」


「はい。雨が、雨なので」


 幸が答える。


 恵がすぐに姉を見る。


「雨が雨なのは当たり前やろ」


「分かっとる!」


 幸は小声で返した。


 少年は少し笑った。


 その笑顔を見た途端、幸はさらに緊張した。


 何か話さなければ。


 今度こそ名乗らなければ。


 幸は息を吸った。


「うちは――」


 声が詰まる。


 恵がそっと促した。


「姉ちゃん、自分の名前ば言えばよかとよ」


「分かっとる」


 幸は少年を見る。


「うちは、大村……」


 そこで、なぜか恵の顔が頭に浮かんだ。


「大村、めぐ――」


 恵が目を見開く。


 幸も途中で気づいた。


「あっ、違う!」


 少年は戸惑っている。


 幸は顔を真っ赤にした。


「大村恵じゃなくて……いや、恵はこっちで……うちは、その……」


 恵はとうとう笑い出した。


「お姉ちゃん、自分の名前間違わんの」


「間違えてない! 言いそうになっただけたい!」


「ほとんど言うたやろ」


「恵が隣におるけん、つられたと!」


「普段は一緒におっても間違わんやろ」


 幸は両手で顔を覆いたくなった。


 せっかく再び会えたのに。


 せっかく名乗る機会ができたのに。


 よりによって、自分の名前ではなく妹の名前を言いかけた。


「もう……」


 幸は下を向いた。


「恥ずかしか……」


 すると、少年が少し姿勢を正した。


「僕は、平戸勝男です」


 はっきりとした声だった。


 幸が顔を上げる。


「平戸……勝男さん」


「はい」


 少年――勝男は、帽子を軽く取って頭を下げた。


「長崎機関区で見習いをしとります」


 その名乗り方は、少し堅かった。


 勝男自身も緊張しているのだろう。


 幸はそれに気づき、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。


 自分だけがしどろもどろになっているわけではない。


 勝男もまた、何を話せばよいのか迷っている。


 幸はもう一度、息を吸った。


「うちは……」


 今度はゆっくりと言う。


「大村幸です」


 声はまだ少し震えていた。


 それでも、最後まで間違えずに言えた。


「こっちは、双子の妹の恵です」


 恵も頭を下げる。


「大村恵です。姉がいつもお世話になっとります」


「何のお世話ね!」


 幸が慌てる。


「まだ三回くらいしか会っとらんやろ!」


「でも、荷車のときは助けてもろうたやろ」


「それはうちら三人ともたい」


 勝男は二人のやり取りを見て、また笑った。


 幸はその笑顔に気づき、口を閉じた。


「何ね」


 恥ずかしさを隠すように尋ねる。


 勝男は首を振った。


「いや、仲のよか姉妹やと思って」


「よう言われます」


 恵が答える。


 幸は不満そうに言った。


「恵がうちばからかってばかりなんです」


「姉ちゃんが、からかわれることばするけんよ」


「今日だって、ちょっと名前ば言い間違えそうになっただけやろ」


「自分の名前をね」


「もう、その話は終わり!」


 雨の音に混じって、三人の笑い声が響いた。


 二 一本の傘


 しばらくしても、雨は弱まらなかった。


 勝男は軒先から空を見上げた。


「路面電車、かなり遅れとるみたいですね」


「そうみたいです」


 恵が答える。


「お二人の家は、どちらですか」


 幸が家のある方角を伝える。


 勝男は少し考えた。


「途中までなら、僕も同じ方へ行きます」


 勝男が手にしている傘は一本だけだった。


 大きな傘ではない。


 三人で入れば、肩がぶつかるほど狭いだろう。


 勝男は傘と二人を見比べた。


「よかったら、途中まで一緒に行きませんか」


 幸の心臓が、また大きく鳴った。


「一緒に?」


「はい。ただ、三人では狭いですが」


 恵がすぐに言う。


「うちは、もう少しここで待っとるよ」


 幸が振り返る。


「何言いよると。一緒に帰るやろ」


「でも、三人では濡れるよ」


「だからって、恵だけ置いていけんよ」


 恵は姉の顔を見た。


 明らかに一緒に歩きたい顔をしている。


 それでも、自分を置いていこうとはしない。


 恵は少しだけ笑った。


「じゃあ、三人で入ればよかやろ」


 勝男は傘を開いた。


「できるだけ、ぬれんようにします」


 三人は一本の傘の下へ入った。


 真ん中に幸。


 片側に恵。


 反対側に勝男。


 三人が並ぶと、やはり傘は狭かった。


 幸の肩が勝男の腕へ触れる。


「ご、ごめんなさい」


 幸は慌てて恵の方へ寄った。


 すると今度は恵が傘の外へ押し出される。


「姉ちゃん、うちがぬれる」


「ごめん!」


 幸は真ん中へ戻る。


 再び勝男の肩へ触れる。


「ごめんなさい」


「大丈夫です」


「でも……」


「これくらい、何ともないです」


 勝男の声も、どこかぎこちなかった。


 恵は二人に挟まれながら、内心で笑いをこらえていた。


 駅の近くを離れ、三人は雨の長崎を歩き始めた。


 石畳の道には水がたまり、路面電車の線路が雨にぬれて鈍く光っている。


 車両が通るたび、モーター音と車輪の音が湿った町へ響いた。


 最初は誰も話さなかった。


 雨音だけが傘をたたく。


 幸は何か話そうとするが、よい言葉が浮かばない。


 勝男も前を向いたまま、何度か口を開きかけては閉じている。


 恵が沈黙に耐えきれず、口を開いた。


「平戸さんは、何歳ですか」


「十五です」


 幸が驚いて勝男を見る。


「うちらより二つ上なんですね」


「お二人は十三ですか」


「はい。今年、十三になりました」


 幸が答える。


 今度は自分の年齢を間違えなかった。


 恵が小声で言う。


「名前より簡単やったね」


「まだ言うと?」


 勝男が笑う。


 幸は恥ずかしそうに前を向いた。


「平戸さんは、いつから鉄道で働いとるんですか」


「まだ、そんなに長くありません。覚えることばかりです」


「原田さんという人に教わっとるんですよね」


 勝男の足が少し止まりかけた。


「知っとるんですか」


 幸は、自分たちが機関区の近くから見ていたことを思い出した。


「この前、少しだけ見かけました」


「叱られとったところですか」


「……はい」


 幸は申し訳なさそうに答えた。


 勝男は苦笑した。


「恥ずかしいところば見られましたね」


「でも、平戸さんは逃げずに、もう一回全部見直しよったでしょう」


 勝男は幸を見る。


「すごかと思いました」


「すごくはないです。見落としたのは僕ですけん」


「でも、失敗したあとに、ちゃんとやり直すのは難しかと思います」


 勝男はしばらく黙った。


 雨音が三人の頭上で続いている。


「原田さんは厳しかです」


 やがて勝男が言った。


「でも、間違ったことは言いません」


「命がかかっとる仕事やけん?」


 幸が尋ねる。


「はい」


 勝男は線路の方を見た。


「一つのネジやナットでも、緩みば見逃したら、取り返しがつかんことになるかもしれん」


「怖くならんですか」


 恵が聞いた。


 勝男はすぐには答えなかった。


「怖かです」


 正直な声だった。


「でも、怖さを忘れたらいかん仕事やと思います」


 幸は勝男の横顔を見つめた。


「汽車ば動かすのが、夢なんですよね」


 勝男が少し驚く。


「覚えとったんですか」


「はい」


 幸は笑った。


「平戸さんが話すとき、目がきらきらしとったけん」


 言ったあとで、また恥ずかしくなる。


 勝男も頬を赤くした。


「大村さんも、汽車が好きなんですか」


「好きです」


 幸は迷わず答えた。


「大きくて、力強くて。たくさんの人ば乗せて、遠くまで走るでしょう」


「でも、煙も多いし、音もうるさいですよ」


「それも汽車らしかです」


「煤で顔も黒うなります」


 勝男は自分の頬を触った。


 幸は荷車のときのことを思い出した。


「そこは、もう知っとります」


 三人は笑った。


 三 少しずつ近づく距離


 雨は少しずつ弱くなっていった。


 三人が歩く速さも、最初よりゆっくりになっていた。


 誰かが意識して時間を延ばしているわけではない。


 けれど、別れる場所が近づくにつれ、幸はもう少し話していたいと思うようになった。


 勝男も、幸へいくつか質問をした。


「女学校では、何ば勉強しよるんですか」


「国語や算術、裁縫とかです」


 幸が答える。


 恵が付け加えた。


「姉ちゃんは算術が苦手です」


「今、それば言わんでもよかやろ」


「数字とは相性が悪いらしかです」


「恵!」


 勝男が声を上げて笑った。


 幸は頬を膨らませた。


「平戸さんまで笑わんでください」


「すみません。でも、数字に相性があるとは思わんかったけん」


「平戸さんは計算が得意なんですか」


「得意というより、できんと困ります」


 汽車の速度。


 距離。


 水や石炭の量。


 勾配。


 鉄道の仕事には、数字がついて回る。


 幸は小さくため息をついた。


「やっぱり、うちには汽車の仕事は無理そう」


「幸さんが汽車の仕事ばしたいんですか」


 勝男が自然に名前を呼んだ。


 幸は一瞬、足を止めそうになった。


 平戸さんではなく、勝男さんと呼ぶ勇気はまだない。


 けれど、彼の口から自分の名前が出ただけで、胸の奥が温かくなった。


「いえ。見るのが好きなだけです」


 幸は答えた。


「でも、汽車ば動かす人は格好よかと思います」


 勝男は少し照れた。


「まだ、僕は動かせません」


「いつか動かすんでしょう?」


「はい」


「なら、そのときは乗せてください」


 幸は冗談半分に言った。


 勝男は意外なほど真剣な顔でうなずいた。


「必ず」


 その一言に、幸は何も返せなくなった。


 軽い冗談のつもりだった。


 だが、勝男は約束として受け取ったようだった。


 恵は姉と勝男を交互に見た。


 二人の間に、先ほどまでとは違う空気が流れている。


 まだ恋と呼ぶには早い。


 名前を知ったばかり。


 互いのことを、ほとんど知らない。


 それでも、何かが始まりかけていることを、恵は感じていた。


 道の分かれ目へ着いた。


 ここから勝男は別の方角へ向かうという。


 三人は足を止めた。


 雨はほとんど小降りになっていた。


「ここまでで大丈夫です」


 恵が言う。


「ありがとうございました」


 幸も頭を下げた。


「傘、助かりました」


「いえ。こちらこそ、話せてよかったです」


 勝男の言葉に、幸は顔を上げた。


 勝男も少し驚いたようだった。


 思ったことが、つい口から出てしまったらしい。


「僕は、その……」


 勝男は帽子のつばへ手をやった。


「前から、駅で何度か見かけとったけん」


「うちを?」


「はい」


 幸の頬が赤くなる。


 恵は隣で、何も言わずに口元を緩めた。


「幸さんも、僕のことを覚えとったんですよね」


「はい」


 幸は今度こそ、逃げずに答えた。


「目が、印象に残っとったけん」


 勝男は照れたように視線を落とした。


「また、会えますか」


 その問いは、勝男の方から出た。


 幸は一瞬、言葉を失った。


 だが、今度はしどろもどろにはならなかった。


「会えると思います」


「どうして?」


「汽車は毎日走るし、うちは汽車を見るのが好きやけん」


 幸は少し笑った。


「また駅の近くに行きます」


 勝男もうなずいた。


「僕も、毎日おります」


 二人はしばらく目を合わせた。


 恵が咳払いをする。


「うちも、おるけどね」


「分かっとるよ!」


 幸が我に返る。


 勝男も笑った。


「それでは、また」


「はい。また」


 勝男は傘を持ち、雨の残る道を歩いていった。


 幸はその後ろ姿を見送った。


 今度は、名前を知っている。


 平戸勝男。


 十五歳。


 長崎機関区の見習い鉄道員。


 汽車を動かすことを夢見ている少年。


「姉ちゃん」


 恵が声をかける。


「何ね」


「よかったね」


「何が?」


「名前、間違えずに言えて」


「そこだけ?」


「それから――」


 恵は姉の顔をのぞき込んだ。


「また会う約束もできたやろ」


 幸は否定しようとした。


 だが、口元の笑みを隠すことができなかった。


「約束というほどのものやなかよ」


「夢見る乙女の顔ばしとるよ」


「またそれ言うと?」


「さっきより、もっと夢見とる」


 幸は恵の肩を軽くたたいた。


「もう帰るよ!」


「姉ちゃん、顔が赤かよ」


「雨で冷えたけんたい!」


「冷えたら赤うなると?」


「なる人もおると!」


 二人は言い合いながら、坂道を上っていった。


 四 互いを思う夜


 その夜。


 大村家の食卓では、節子が二人の濡れた制服を見て眉をひそめた。


「だから、傘ば持っていきなさいと言うたでしょう」


「はい……」


 幸と恵は並んで小さくなっていた。


 勝一が尋ねる。


「どうやって帰ってきたんだ」


 恵が答えようとするより先に、幸が口を開く。


「知り合いの人に、途中まで傘に入れてもらいました」


「知り合い?」


 節子が聞き返す。


 幸の声が少し上ずる。


「鉄道の見習いの人たい」


 勝一の眉が動く。


「前に話しとった人か」


 幸は恵をにらんだ。


 すでに父へ伝わっている。


 恵は知らないふりをして味噌汁をすすっていた。


「名前は?」


 勝一が尋ねる。


「平戸勝男さん。十五歳」


 幸は今度は間違えずに答えた。


 節子は娘の顔を見た。


「よか人ね?」


「真面目な人よ」


 答えが早すぎた。


 恵が吹き出しそうになる。


「今日、名前を知ったばかりなのに、もう真面目って分かると?」


「仕事を一生懸命しよるけん、分かるとよ」


「よく見とるねえ」


 節子の言葉に、幸の箸が止まる。


「お母さんまでからかわんで」


「からかっとらんよ」


 そう言いながら、節子の目も笑っていた。


 夜。


 幸と恵は並んで布団に入った。


 部屋の外では、屋根から落ちる雨水の音が続いていた。


 幸は目を閉じても、今日の出来事を何度も思い出していた。


 勝男の名乗る声。


 一本の傘。


 肩が触れた瞬間。


「必ず乗せます」と言った真剣な顔。


「姉ちゃん」


 暗闇の中で、恵の声がする。


「何ね」


「平戸さんのこと、好きになったと?」


 幸は布団の中で動きを止めた。


「まだ分からん」


「そう」


「今日、ちゃんと名前を知ったばかりやし」


「うん」


「でも……」


 幸は天井を見つめた。


「また会いたかとは思う」


 恵は小さく笑った。


「それでよかんやない」


「何が?」


「今は、まだそれだけで」


 幸は隣の妹へ顔を向けた。


「恵は、うちのこと何でも分かるね」


「双子やけん」


「うちも、恵のこと何でも分かるかな」


「姉ちゃんは、まず自分の名前ば間違えんようにせんと」


「まだ言うと!」


 二人は布団の中で笑った。


 一方その頃。


 平戸勝男も、自宅へ戻ってから何度も同じ場面を思い返していた。


 大村幸。


 笑うと目元が柔らかくなる少女。


 緊張すると、自分の名前まで間違えそうになる少女。


 汽車を動かす人は格好いいと言ってくれた少女。


 勝男は布団の中で、小さくその名を口にした。


「幸さん……」


 自分でも照れくさくなり、すぐに目を閉じた。


 幸と勝男。


 ぎこちなく名乗り合った二人は、その日から少しずつ互いを意識するようになった。


 汽笛が鳴れば、幸は勝男を思い出す。


 機関区の近くで女学生を見かければ、勝男は幸を探す。


 まだ約束らしい約束はない。


 手紙もない。


 恋人でもない。


 ただ、また会いたいと思う。


 その小さな気持ちが、二人の中で静かに育ち始めていた。


 秋雨の中で知った名前。


 一本の傘の下で縮まった距離。


 二人の物語は、ようやく互いの名を呼べるところまで進んだ。


 次回予告


 雨の日の出会いを境に、幸と勝男は長崎駅の近くで何度か言葉を交わすようになる。


 学校の帰りを待つ幸。


 仕事を終えて現れる勝男。


 だが二人とも、待ち合わせだとは素直に認めない。


 恵は、そんな姉を少し離れたところから見守っていた。


 一方、勝男は原田正勝から、初めて機関助手の仕事を間近で学ぶ機会を与えられる。


 火室の熱。


 石炭の重さ。


 機関士との呼吸。


 汽車を走らせる仕事の厳しさを、勝男はその身で知ることになる。


 次回、第7話。


「家族四人の夕食」


 恋が動き始めても、帰る場所は変わらない。


 大村家の食卓には、今日も四人の笑い声が響く。

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