長崎駅の待ち合わせ
『幸と恵のものがたり』
第5話 長崎駅の待ち合わせ
昭和十一年、秋。
長崎の朝は、少しずつ冷たさを帯び始めていた。
夏の間は開け放していた大村家の窓も、朝のうちは半分ほど閉められている。
台所では、母の節子が味噌汁を温めていた。
鍋から上がる湯気が、薄暗い部屋の中をゆっくりと漂う。
幸と恵は、並んで朝食をとっていた。
だが、その日の幸は、いつになく静かだった。
箸を持ったまま、何度もため息をついている。
恵が横目で姉を見た。
「姉ちゃん」
「何ね」
「味噌汁にため息ば入れたら、味が薄うなるよ」
「そがんわけなかやろ」
「じゃあ、何を悩みよると?」
幸は食卓の脇へ置いた鞄を見た。
その中には、女学校で書くよう命じられた作文用紙が入っている。
題は――
『私の将来の夢』
昨日の授業で教師から渡され、三日後までに提出するよう言われていた。
恵はもう、ほとんど書き終えていた。
母のように家のことをきちんとできる女性になりたいこと。
人の役に立つ仕事をしたいこと。
何があっても家族を支えられる人間になりたいこと。
恵らしい、真面目で堅実な内容だった。
一方の幸は、題名を書いたところで筆が止まっていた。
「夢なんて、急に聞かれても分からんたい」
幸がぼやく。
父の勝一が新聞から顔を上げた。
「何になりたいか、考えたことはなかのか」
「小さい頃は、お菓子屋さんになりたかった」
「どうしてやめたと?」
節子が尋ねる。
「作るより食べる方が向いとると分かったけん」
恵がすぐに言う。
「それは最初から分かっとったやろ」
幸は頬を膨らませた。
「恵はよかよね。もう書けとるもん」
「姉ちゃんも、思ったことを書けばよかやろ」
「その思ったことが分からんと」
「汽車のことを書いたら?」
幸の箸が止まる。
節子が首を傾げた。
「汽車?」
恵は少し笑いながら答えた。
「最近、姉ちゃんは汽笛が聞こえるたび、窓の外ば見よるとよ」
「汽車が好きなだけたい」
「それから、煤で顔の黒うなった見習いさんのことも――」
「恵!」
幸の声が台所に響いた。
勝一が新聞を畳む。
「見習いさんとは誰だ」
「何でもなか!」
幸は慌てて御飯をかき込んだ。
「学校に遅れるけん、もう行こう!」
「まだ七時十分よ」
恵が壁の時計を見る。
「今日はずいぶん早かね」
「早く行って作文ば考えると!」
幸は残りの味噌汁を飲み干し、逃げるように席を立った。
節子と勝一は顔を見合わせる。
恵は姉の後ろ姿を見ながら、くすくす笑っていた。
一 将来の夢
女学校の教室では、その日の国語の時間にも将来についての話が続いた。
教師は教壇に立ち、生徒たちを見渡した。
「夢というものは、立派な職業を書くことだけではありません」
教室が静まり返る。
「どのような人間になりたいのか。どのように生きたいのか。それも大切な夢です」
幸は、机の上の白い作文用紙を見つめた。
どのような人間になりたいのか。
どのように生きたいのか。
簡単なようで、答えはなかなか浮かばない。
幸は窓の外を見た。
長崎の町の向こうに、薄い煙が上がっている。
その煙を見た途端、長崎駅で働いていた少年の姿が浮かんだ。
煤で黒くなった頬。
荷車へ駆け寄ったときの声。
汽車を動かすのが夢だと語った、まっすぐな目。
――なら、もう途中まで来とるやないですか。
自分が少年にかけた言葉を思い出す。
だが、自分はどうなのだろう。
夢へ向かう途中にさえ、まだ立っていない。
幸は筆を持ち、用紙へ一行だけ書いた。
『私は、人を安心させられる人になりたいです。』
そこまで書いて、また手が止まった。
なぜ、そう思ったのか。
うまく言葉にできなかった。
授業が終わると、恵が姉の席へ来た。
「少しは書けた?」
幸は用紙を見せた。
恵は一行を読み、目を上げる。
「姉ちゃんらしかね」
「一行しかなかのに?」
「でも、本当にそうやろ」
恵は幸の隣へ腰を下ろした。
「姉ちゃんがおると、家の中が明るうなるし、誰かが落ち込んどったら、すぐ声ばかけるやろ」
「うち、そんな立派なことしよる?」
「自分では気づいとらんと?」
幸は少し照れた。
「でも、それだけじゃ作文にならん」
「どうして人を安心させたいと思うか、書けばよかよ」
「それが分からんと」
恵はしばらく考えた。
「誰かを見て、そう思ったんやない?」
幸は答えなかった。
けれど、その沈黙だけで恵には十分だった。
「やっぱり、あの見習いさんね」
「違うって」
「顔がそう言いよる」
「うちの顔は何でも話すね」
「姉ちゃんより正直たい」
幸は作文用紙を鞄へ押し込んだ。
「帰ろう」
「今日はお母さんのお使いは?」
「なかよ」
「じゃあ、長崎駅の近くを通って帰る?」
恵が何気ない調子で尋ねた。
幸はすぐに返事をしなかった。
「……別に、どこを通っても同じやろ」
「なら、駅の近くでよかね」
恵は笑いながら立ち上がった。
二 指導員・原田正勝
その頃、長崎機関区。
黒い蒸気機関車の周囲では、鉄道員たちが出発前の点検を行っていた。
車体の下へ身をかがめる者。
ハンマーを手に、車輪や部品を一つずつ確かめる者。
油を差し、連結部分の動きを見る者。
その中に、平戸勝男の姿もあった。
十五歳。
鉄道員の見習いとして働き始めてから、まだ長くはない。
作業着はすでに煤と油で黒く汚れ、手には小さな傷がいくつもあった。
勝男は機関車の足回りへしゃがみ込み、工具を使って一つのナットを確かめていた。
手で触れる。
目で見る。
もう一度、工具を当てる。
その後ろに、一人の男性が立っていた。
原田正勝。
三十五歳。
長崎機関区で長く働き、若い鉄道員たちの指導も任されている人物だった。
体格は大きくない。
だが、立っているだけで周囲の空気が引き締まるような男だった。
原田は勝男の手元を黙って見ていた。
「平戸」
低い声が飛ぶ。
勝男は振り返った。
「はい」
「今、何ば見た」
「ナットの緩みです」
「それだけか」
勝男は戸惑った。
「それと、周りの部品に傷がないか……」
「違う」
原田の声が鋭くなる。
周囲で作業していた者たちも、一瞬だけ手を止めた。
「お前が今見たのは、ナット一個やなか」
勝男は原田を見上げた。
原田は機関車の車体を手でたたいた。
「この汽車に乗る人間の命だ」
勝男の表情が変わる。
「汽車は、大勢の人ば乗せる。荷物も運ぶ。食べ物も、手紙も、家族に届ける品も運ぶ」
原田は足元のナットを指さした。
「この小さな一個が緩めば、すぐ事故になるとは限らん」
勝男は黙って聞いている。
「だが、その緩みを見逃す癖がつけば、いつか別の緩みも見逃す」
原田は勝男の目をまっすぐ見た。
「その先にあるのは何だ」
「……事故です」
「事故で済むと思うな」
原田の声が、さらに低くなる。
「人が死ぬ」
長崎機関区の喧騒の中で、その言葉だけが重く響いた。
「一つのネジ。一つのナット。一滴の油。一つの異音」
原田は一つずつ数えるように言った。
「どれも小さく見える。だが、汽車の中では、全部がつながっとる」
機関車の巨大な動輪。
それを動かすロッド。
蒸気を送る管。
圧力を示す計器。
火室。
ブレーキ。
連結器。
数え切れないほどの部品が、一つの汽車を形作っている。
「どれか一つでも働かんようになれば、汽車は正しく走れん」
原田は勝男の持っていた工具を取り、ナットへ当てた。
わずかに力を入れる。
「ここ。触ってみろ」
勝男が指先を当てた。
「どうだ」
「少し……動きます」
「そうだ」
原田は勝男へ工具を返した。
「お前はさっき、問題なしと判断した」
勝男の顔から血の気が引く。
「すみません」
「謝る相手は俺やなか」
原田は機関車の後ろに連なる客車を見た。
まだ乗客はいない。
だが、出発時刻になれば大勢の人が乗り込む。
「乗る人たちは、点検したお前らの顔も名前も知らん」
原田は言った。
「それでも、自分は無事に目的地へ着けると信じて汽車に乗る」
勝男は客車を見つめた。
「俺たちは、その信頼を預かっとる」
原田の声は厳しかった。
しかし、怒りだけではなかった。
かつて何かを見てきた人間の声だった。
事故。
故障。
あるいは、助けられなかった誰か。
勝男には、その過去までは分からない。
だが、原田がなぜここまで厳しく教えるのか、その一端には触れた気がした。
「点検するときは、ただ部品を見るな」
原田は勝男の肩へ手を置いた。
「その向こうに人がおると思え」
「はい」
「声が小さい」
「はい!」
「もう一度、最初から見ろ」
「はい!」
勝男は機関車の下へ入り直した。
今度は先ほどまでと目つきが違った。
ナットへ工具を当てる。
締まり具合を確かめる。
部品の表面へ傷がないか見る。
油の状態を確かめる。
わずかな音にも耳を澄ませる。
原田は何も言わず、その後ろ姿を見ていた。
三 汽車が走る仕組み
点検を終えると、原田は勝男を機関車の運転室へ連れていった。
火室の扉を開く。
赤い炎が燃えていた。
熱気が一気に押し寄せる。
勝男は思わず目を細めた。
「熱かやろ」
「はい」
「夏はもっと熱い。冬でも汗をかく」
原田は火室を指さした。
「石炭を燃やして、水を沸かす。そこで生まれた蒸気の力を使って、ピストンを動かす」
勝男は熱気に耐えながら聞いていた。
「ピストンの動きが、外の棒へ伝わる」
「主連棒ですね」
「そうだ」
原田は運転室から降り、機関車の動輪の横へ回った。
長い鋼鉄の棒が、大きな車輪へつながっている。
「ここが動けば、動輪が回る」
原田は部品を一つずつ示した。
「ただ石炭を燃やせば走るわけじゃない。水の量。蒸気の圧力。火の強さ。速度。勾配。引いとる客車や貨車の重さ」
「全部、考える必要があるんですね」
「当たり前だ」
原田は勝男を見る。
「坂を上るときと、下るときで同じ走らせ方ができると思うか」
「いいえ」
「客車が二両のときと、十両のときは?」
「違います」
「雨の日は」
「車輪が滑りやすくなります」
「なら、どうする」
勝男は考えた。
「速度や蒸気の使い方を調整して、必要なら砂をまきます」
原田は小さくうなずいた。
「覚えとるな」
勝男の表情が少し明るくなる。
しかし、原田はすぐに続けた。
「知っとるだけでは役に立たん」
「はい」
「いざというとき、体が動くまで繰り返せ」
原田は機関車の前方へ歩いた。
勝男もその後を追う。
「汽車は、走り出せばすぐには止まれん」
原田は線路の先を見た。
「重ければ重いほど、止まるまでに距離が要る」
「はい」
「だから、機関士は先を見る。信号を見る。線路を見る。音を聞く。機関助手は火ば守るだけやなか。機関士が見落とすものを補う」
「二人で一つなんですね」
「機関士と機関助手だけでもない」
原田は周囲で働く鉄道員たちへ視線を向けた。
「点検する者。線路を守る者。信号を扱う者。駅で乗客を案内する者。列車の後ろで安全を確かめる者」
たくさんの人間が、一列車を動かしている。
「誰か一人が、自分くらいは大丈夫と思った瞬間、事故は近づく」
勝男は唇を引き結んだ。
「平戸」
「はい」
「汽車を動かしたいか」
「はい」
「格好よかと思うか」
勝男は少し迷った。
「はい」
原田は鼻で息を吐いた。
「それでよか」
勝男は意外そうに顔を上げた。
「憧れがなければ、この仕事は続かん」
原田は黒い機関車を見上げた。
「だが、格好よさだけでは人を守れん」
「はい」
「憧れた分だけ、責任を背負え」
その言葉は、勝男の胸へ深く残った。
四 原田家の父
原田正勝には、妻の紀江と二人の息子がいた。
長男の英二。
次男の正三郎。
勤務を終えて家へ帰れば、原田も一人の父親だった。
英二は学校で覚えたことを、帰宅した父へ得意げに話した。
正三郎は、原田の膝へ乗りたがった。
紀江は煤だらけの作業着を見て、毎日のようにため息をついた。
「今日も真っ黒ね」
「仕事だから仕方なか」
「洗う人のことも考えてください」
「いつもすまんな」
原田は家では、機関区で見せる厳しい顔をあまり見せなかった。
だが、息子たちが線路の近くで遊ぼうとしたときだけは、声を荒らげた。
「絶対に入ったらいかん!」
英二と正三郎が驚いて動きを止める。
原田は二人の前へしゃがみ込んだ。
「汽車は急には止まれん。お前たちが見えてから止めようとしても、間に合わんことがある」
正三郎が不安そうに父を見た。
「父ちゃんが運転しとっても?」
「父ちゃんでもだ」
原田は二人の肩を抱いた。
「だから、線路には入らん。汽車を見るなら、決められた場所から見る」
「うん」
「約束できるか」
二人はそろってうなずいた。
原田が若い鉄道員へ厳しくする理由。
その根には、自分の家族と同じように、乗客にも帰りを待つ人がいるという思いがあった。
客車に乗る一人ひとりが、誰かの夫であり、妻であり、父であり、母であり、子どもだった。
無事に帰らなければならない。
その当たり前を守るために、鉄道員は点検を繰り返す。
嫌われても。
厳しいと言われても。
事故が起きてから優しく悔やむより、事故が起きる前に厳しく止める。
それが原田正勝の指導だった。
五 幸の見たもの
放課後。
幸と恵は、長崎駅近くの道を歩いていた。
幸は、駅へ近づくにつれて何となく落ち着かなくなっていた。
恵は気づいていたが、あえて何も言わなかった。
機関区の近くまで来ると、男たちの声が聞こえた。
機関車の黒い車体。
立ち上る白い蒸気。
工具の触れ合う金属音。
幸は足を止めた。
「あの人」
少し離れた場所に、勝男がいた。
その前には原田正勝が立っている。
原田は何かを厳しい表情で話していた。
声のすべてまでは聞こえない。
だが、ただならぬ雰囲気は伝わってきた。
勝男は下を向かず、原田の話をまっすぐ聞いている。
やがて、機関車の足元へ戻り、点検を最初からやり直し始めた。
幸の表情から、いつもの浮ついた様子が消えた。
「怒られよるね」
恵が小声で言う。
「うん」
「何か失敗したとかな」
「分からん」
二人は少し離れた場所から見守った。
勝男は一つ一つの部品へ触れていた。
目で見る。
工具で確かめる。
耳を近づける。
また別の場所へ移る。
何度も同じような作業を繰り返す。
幸は、以前よりも真剣な目でその姿を見ていた。
これまでは、汽車を動かす人を単純に格好いいと思っていた。
煤だらけになって働く姿。
大きな機関車のそばに立つ姿。
遠い町へ大勢の人を運ぶ仕事。
だが、その格好よさの裏には、気の遠くなるような確認と責任がある。
「一つずつ、全部見るとね」
幸がつぶやいた。
「そうみたいね」
「面倒やと思って、一個くらい飛ばしたくならんとかな」
「でも、飛ばしたらいかんのやろ」
「うん」
幸は客車を見た。
そこへ乗る人たちは、自分の乗る汽車がどのように点検されたか知らない。
誰がネジを締めたのか。
誰が車輪を見たのか。
誰が油を差したのか。
何も知らないまま、それでも安全だと信じて乗る。
「大勢の人の命ば預かっとるんやね」
幸の声は静かだった。
恵が姉を見る。
「前に、姉ちゃんが言うとったやろ。汽車を動かす人は格好よかって」
「うん」
「今もそう思う?」
幸は迷わずうなずいた。
「前より、もっと思う」
そのとき、原田が再点検を終えた勝男へ近づいた。
「どうだ」
「先ほど見落としたところ以外は、異常ありません」
「本当か」
「はい」
「自信はあるか」
「あります」
原田はしばらく勝男を見つめた。
そして、今度は静かな声で言った。
「なら、よか」
勝男がわずかに息を吐く。
原田は勝男の肩をたたいた。
「間違えることはある」
勝男は顔を上げた。
「だが、同じ間違いを繰り返すな」
「はい」
「叱られたことを恨むな。なぜ叱られたかを覚えろ」
「はい」
原田は機関車の方を向いた。
「今日、お前が見落とした緩みは、小さかった」
そして続けた。
「だが、小さな緩みを小さいと思う鉄道員にはなるな」
「はい」
「汽車が無事に着くまでが、お前らの仕事だ」
勝男は深く頭を下げた。
「分かりました」
厳しいやり取りだった。
だが幸には、原田が勝男を見放していないことが分かった。
むしろ、一人前になってほしいからこそ、厳しく教えている。
勝男もまた、その厳しさから逃げようとはしていなかった。
六 再び重なる目
やがて、勝男が工具箱を持って移動しようとした。
ふと顔を上げる。
少し離れた場所にいる幸と恵へ気づいた。
勝男の足が止まった。
幸も動けなくなる。
二人の目が合った。
また、あのまなざし。
だが、以前とは少し違った。
勝男の顔には、叱られた悔しさと、それでも仕事を覚えようとする強さが浮かんでいた。
幸は、ぼんやりと彼を見つめた。
恵が姉を見た。
「姉ちゃん」
返事がない。
今度は恵が幸の顔の前で手を振った。
「お姉ちゃん?」
幸は反応しない。
「何ぼうっとしよるの?」
幸がはっとする。
「へ?」
「また夢見る乙女になっとったよ」
「違うって!」
幸は小声で否定した。
「今日は、そがん目で見よったんやなか」
「じゃあ、どがん目?」
幸は勝男の方をもう一度見た。
「頑張れって思って見よった」
恵は姉をからかうような表情をやめた。
勝男は軽く頭を下げた。
幸も慌てて頭を下げる。
だが、互いにそれ以上近づくことはなかった。
原田が勝男を呼ぶ。
「平戸、次の作業に入るぞ」
「はい!」
勝男は幸たちへもう一度だけ目を向け、原田の後を追った。
幸は、その背中が見えなくなるまで見送った。
「平戸っていうとね」
恵が言った。
幸は小さくうなずく。
「前にも、誰かがそう呼んどった」
「名前が少し分かったね」
「名字だけやけど」
「次に会ったら、自分から名乗らんばよ」
幸は鞄の持ち手を握った。
「うん」
「本当にできる?」
「できる」
「顔が黒いですね、とは言わんように」
「もう言わんよ!」
恵は笑った。
七 作文に書いた夢
その夜。
幸は机へ向かい、もう一度作文用紙を広げた。
恵は隣で裁縫をしている。
幸は筆を持ち、昼間に見た光景を思い出した。
一つのナット。
工具を握る勝男の手。
厳しく指導する原田。
客車へ乗る、まだ姿の見えない大勢の人々。
そして、無事に帰ることを待っている家族。
幸は、続きを書き始めた。
『私は、人を安心させられる人になりたいです。
今日、長崎駅の近くで、汽車を点検する人たちを見ました。
汽車は、大勢の人と大切な荷物を運びます。
一つの小さな部品を見落とすだけで、大きな事故になることがあるそうです。
けれど、汽車に乗る人たちは、誰が点検したかを知りません。
知らなくても、安全に着けると信じて乗ります。
その信頼を守るために、見えないところで働く人がいます。
私は、そういう人を立派だと思いました。
私が将来どのような仕事をするかは、まだ分かりません。
けれど、自分がいることで、誰かが安心できるような人になりたいです。
家族が苦しいときには笑顔にできる人。
困っている人がいたら、そばに立てる人。
そして、誰かが大切な場所へ帰るのを支えられる人になりたいです。』
幸は筆を置いた。
「できた」
恵が裁縫の手を止める。
「読んでよか?」
「笑わん?」
「笑わんよ」
恵は作文を受け取り、ゆっくり読んだ。
読み終わると、姉へ返した。
「よかと思う」
「本当に?」
「うん。姉ちゃんらしか」
幸は少し照れながら作文用紙を見た。
「でも、これって職業は何も決まっとらんよね」
「先生は、どんな人になりたいかでもよかって言うとったやろ」
「そうやったね」
「それに姉ちゃんは、もう人を安心させよるよ」
「誰を?」
「うちを」
幸は恵を見る。
「姉ちゃんがおらんと、家の中が静かすぎるけん」
「それ、褒めとる?」
「一応ね」
幸は笑った。
そして、恵の肩へ頭を寄せた。
「恵も、ずっとそばにおってね」
「急に何ね」
「約束たい」
恵は少しだけ困ったように笑う。
「うちら双子やろ」
「うん」
「言われんでも、そばにおるよ」
二人は肩を並べた。
窓の外から、遠い汽笛が聞こえてきた。
その頃、勝男は機関区で原田から渡された部品の図面を見ていた。
分からない箇所へ印をつけ、一つずつ覚えようとしている。
原田は少し離れたところから、その姿を見ていた。
「平戸」
「はい」
「今日はもう帰れ」
「でも、まだ途中です」
「続きは明日だ。疲れた頭で覚えても身につかん」
勝男は少し迷ってから、図面を畳んだ。
「ありがとうございました」
「礼を言う前に、一人前になれ」
「はい」
勝男が去ったあと、同僚が原田へ声をかけた。
「ずいぶん厳しくしよるな」
原田は短く答えた。
「命を預かる仕事やけん」
そして、勝男の去った方向を見る。
「ただ、あいつは逃げん」
原田の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「見込みはある」
汽車を動かすために学ぶ少年。
誰かを安心させる人になろうとする少女。
二人はまだ互いの名前を、きちんとは知らなかった。
それでも、同じ時代の同じ町で、それぞれ自分の未来へ向かって歩き始めていた。
汽車は、多くの部品が支え合って走る。
人の人生もまた、目には見えない多くの出会いに支えられて動いていく。
幸と勝男の線路は、少しずつ近づいていた。
⸻
次回予告
作文を書き上げた幸は、以前よりも長崎駅で働く人々を意識するようになる。
一方、勝男は原田正勝の指導を受け、蒸気機関車の構造と安全の重みを学び続けていた。
ある日の放課後。
激しい雨が長崎の町を襲う。
路面電車が遅れ、幸と恵は駅近くの軒下で雨宿りをすることに。
そこへ、仕事を終えた勝男が現れる。
一本しかない傘。
雨に濡れた坂道。
そして、三度目の出会い。
今度こそ、幸は自分の名前を伝えることができるのか。
次回、第6話。
「幸の笑顔、恵のまなざし」
偶然だった出会いが、少しずつ日常へ変わっていく。
その始まりは、秋の冷たい雨だった。




