汽笛が結んだ縁
『幸と恵のものがたり』
第4話 汽笛が結んだ縁
長崎駅で、煤だらけの見習い鉄道員と目が合った日から、数日が過ぎた。
幸の日常は、何も変わっていないように見えた。
朝になれば恵と一緒に家を出て、路面電車に揺られて女学校へ向かう。
授業では教師の話を聞き、休み時間には同級生たちと笑い合う。
帰宅すれば母の節子を手伝い、夜になれば家族四人で食卓を囲む。
けれど、町のどこかから蒸気機関車の汽笛が聞こえるたび、幸はふと動きを止めるようになった。
ポオーッ――。
遠く低く、長崎の町へ響く汽笛。
幸は教科書から顔を上げ、窓の外を見る。
「大村幸さん」
教壇から教師の声が飛ぶ。
「はい!」
幸は慌てて立ち上がった。
「今、どこを読んでいましたか」
「ええと……」
教科書へ目を落とす。
隣の席ではないため、恵に助けを求めることもできない。
幸はしばらく黙ったあと、正直に答えた。
「汽笛のところです」
教室に笑いが起きた。
教師は眉を寄せた。
「教科書に汽笛は出てきません」
「今、外から聞こえたもので……」
「汽車ではなく、授業に乗り遅れていますよ」
また教室中が笑いに包まれた。
幸は顔を赤くしながら座った。
休み時間になると、恵がすぐに姉のところへやってきた。
「姉ちゃん、最近おかしかよ」
「何がね」
「汽笛が聞こえるたび、ぼうっとするやろ」
「汽車が好きなだけたい」
恵は姉の顔をのぞき込んだ。
「本当に汽車だけね?」
「ほかに何があると」
「煤で顔の黒うなった見習いさんとか」
幸の頬がわずかに赤くなった。
「もう、そがん話はよかやろ」
「図星やね」
「一回見ただけの人たい」
「一回見ただけの人のことを、汽笛が鳴るたび思い出すと?」
「思い出しとらん!」
幸の声が大きくなり、近くの同級生たちが振り返った。
恵は笑いをこらえながら言った。
「声が大きいほど怪しかよ」
「恵は人ばからかって、楽しかね」
「姉ちゃんが分かりやすすぎるとよ」
幸は教科書で顔を隠した。
その日の放課後。
幸と恵は、いつものように女学校を出た。
秋の日は短くなり始めていた。
まだ夕方には早かったが、太陽は少し傾き、長崎の坂道や家々を柔らかな光で照らしている。
二人は路面電車へ乗る前に、節子から頼まれていた買い物を済ませることにした。
「今日は何ば買うと?」
幸が尋ねる。
恵は鞄から、小さく折り畳まれた紙を取り出した。
「味噌と豆。それから、安かったら芋」
「また重たそうなものばっかり」
「この前、姉ちゃんが買い物は勉強になるって言うたやろ」
「あれは梨のときの話たい」
「品物によって考えを変えんの」
商店が並ぶ通りには、学校帰りの子どもや買い物客が行き交っていた。
魚屋から威勢のよい声が飛び、豆腐屋の前には桶を持った女性たちが並んでいる。
二人が店へ向かって歩いていると、前方からガタガタという音が聞こえてきた。
見ると、一人の老人が大きな荷車を押していた。
荷台には木箱や麻袋がいくつも積まれている。
緩やかな坂道だったが、荷物は重いらしく、老人の足はほとんど前へ進んでいなかった。
「よいしょ……」
老人が腰を入れる。
荷車がわずかに動く。
しかし車輪が小さな石へ引っかかり、また止まった。
幸と恵は顔を見合わせた。
「手伝おう」
幸が言う。
「うん」
二人は老人のそばへ駆け寄った。
「おじいさん、後ろから押します」
幸が声をかける。
老人は振り返り、驚いたように二人を見た。
「いやいや、女学生さんにこがん重いものを押させるわけにはいかんよ」
「二人おるけん大丈夫です」
恵も鞄を地面へ置いた。
「ここば越えたら、少し楽になるんでしょう?」
「そうじゃが……」
「うちら、毎日長崎の坂ば上り下りしよるけん、足腰は強かですよ」
幸が胸を張った。
恵が横から付け加える。
「姉ちゃんは、朝になると坂が多すぎるって、毎日ぼやいとるけどね」
「今、それは言わんでよか!」
老人は、二人のやり取りに笑った。
「それなら、少しだけ頼もうかね」
「はい!」
幸と恵は荷車の後ろへ回った。
「せえの!」
二人で力を込める。
荷車が、ゆっくりと前へ動き始めた。
だが、坂の傾斜が少し急になると、すぐに速度が落ちた。
「重か……!」
幸が歯を食いしばる。
「姉ちゃん、まだ胸張れる?」
恵も息を切らしていた。
「今は話しかけんで……力が抜ける……」
三人で荷車を押す。
それでもなかなか進まない。
そのとき、後ろから足音が近づいてきた。
「そこ、俺も押します!」
若い男性の声だった。
幸と恵が振り返る。
そこには、作業着姿の少年が立っていた。
帽子の下からのぞく短い髪。
日に焼けた顔。
頬と袖口についた黒い煤。
見覚えのある、まっすぐな目。
長崎駅で見た、あの見習い鉄道員だった。
幸の手から、ふっと力が抜けた。
「あっ」
荷車がわずかに後ろへ下がる。
「姉ちゃん、手ば離したらいかん!」
恵の声で、幸は慌てて押し直した。
少年は二人の隣へ入り、荷車へ肩をつけた。
「いきますよ。せえの!」
四人で一斉に力を込める。
荷車の車輪が、石を乗り越えた。
ガタン。
そのまま勢いがつき、坂道を少しずつ上っていく。
幸は力を入れながらも、隣にいる少年を何度も横目で見ていた。
駅で見たときと同じ作業着。
あのときよりも近い。
煤のついた横顔。
額に浮かぶ汗。
真剣に荷車を押している表情。
少年は幸の視線に気づかず、老人へ声をかけた。
「もう少しです。坂の上まで行けば、楽になりますけん」
「すまんねえ。助かるよ」
「いえ」
やがて荷車は坂の上へ到着した。
老人は車輪へ石をかませ、深く息を吐いた。
「本当に助かった。ありがとう」
幸と恵も荷車から手を離した。
幸は息を切らしながら、作業着姿の少年を見つめた。
少年は帽子を取り、額の汗を袖で拭った。
その拍子に、頬の煤が横へ伸びる。
幸は駅で見たときと同じだと思った。
そして、また彼をぼんやりと見つめてしまった。
恵が姉の顔をのぞき込む。
「お姉ちゃん?」
返事がない。
「お姉ちゃん、何ぼうっとしよるの?」
「へ?」
幸はふと我に返った。
「うち、ぼうっとしとった?」
「しとったよ」
恵は揶揄うように目を細めた。
「えらい夢見る乙女の顔ばしとった」
「何ね、それ!」
幸の顔が一気に赤くなる。
「そがん顔しとらんよ!」
「しとった。目がきらきらしとったもん」
「荷車ば押して疲れただけたい」
「疲れたら目がきらきらすると?」
「する人もおると!」
恵は口元を押さえて笑った。
幸は恥ずかしさをごまかすように、頬へ手を当てる。
すると、少年が二人の方を見た。
幸と再び目が合う。
今度は、駅での一瞬より少し長かった。
少年は、どこか不思議そうに幸を見た。
自分も以前どこかで見たことがあると、思い出そうとしているようだった。
幸は視線をそらすことができなかった。
そのまま数秒が過ぎた。
先に目をそらしたのは少年だった。
老人が少年へ尋ねた。
「鉄道の人かね」
「はい。まだ見習いです」
「若いのに偉かねえ」
少年は照れたように頭を下げた。
「まだ、叱られてばかりです」
「それでも、人の荷物ば手伝ってくれる。よか若者たい」
老人は幸と恵にも礼を言い、荷車を押して坂の先へ去っていった。
通りに残ったのは、幸と恵、そして見習い鉄道員の三人だった。
幸の胸が早く鳴っていた。
今度こそ、言葉を交わせるかもしれない。
名前を聞けるかもしれない。
だが、何を話せばよいのか分からない。
「この前、駅におりましたよね」
そう言えばよいのだろうか。
けれど、それではずっと見ていたことが分かってしまう。
「お仕事、お疲れさまです」
それでは妙に堅苦しい。
幸が迷っている間に、少年は地面へ置かれた二人の鞄を拾い上げた。
「あの、これ」
幸と恵へ差し出す。
恵が先に受け取った。
「ありがとうございます」
幸も自分の鞄を受け取る。
「ありがとう……ございます」
やっと出た言葉は、それだけだった。
少年は軽く頭を下げた。
「いえ。それじゃ」
「待って――」
幸の口から、思わず声が出た。
少年が足を止める。
恵も姉を見る。
幸は自分で呼び止めたものの、次の言葉が見つからなかった。
「あの……」
少年は待っている。
「その……」
恵が小声で言う。
「姉ちゃん、何か言わんね」
「分かっとる」
幸はさらに焦った。
ようやく口から出たのは、
「顔、黒うなっとりますよ」
という言葉だった。
一瞬の沈黙。
少年は目を丸くした。
恵は隣で顔を覆った。
「姉ちゃん……」
幸も、自分が何を言ったのか理解して青ざめる。
「違うと! 悪口じゃなくて!」
少年は自分の頬を手で拭った。
しかし、煤はさらに広がった。
「こっちですか」
「いや、反対……あっ、そこも黒うなった」
少年は困ったように笑った。
「仕事のあとなんで、いつものことです」
その笑顔を見た瞬間、幸の緊張が少しだけほどけた。
「汽車の仕事って、大変なんですね」
「はい。でも、好きですけん」
「汽車が?」
「汽車もですし、人を乗せて走る仕事も」
少年の声には、迷いがなかった。
幸は、長崎駅で自分が感じたことを思い出した。
一生懸命な目。
あの巨大な機関車を、いつか自分で動かしたいと願っているような目。
「格好よかですね」
幸が言った。
少年が少し驚く。
「何がですか」
「汽車を動かす人です」
幸は駅で恵に話したことを、そのまま口にした。
「あんなに重たいものに、荷物ばたくさん積んで、大勢の人ば乗せて走るんでしょう。たくさんの人が待っとるところへ運ぶ仕事って、格好よかと思います」
少年はしばらく幸を見つめていた。
やがて、照れたように目を伏せる。
「俺は、まだ汽車を動かせません」
「でも、いつか動かすんでしょう?」
「それが夢です」
「なら、もう途中まで来とるやないですか」
少年は顔を上げた。
幸の言葉が意外だったようだった。
その目に、少しだけうれしそうな光が浮かんだ。
けれど、遠くから駅の方向を知らせる鐘の音が聞こえた。
少年ははっとする。
「いかん。戻らんば」
「あの――」
幸が再び声をかけようとした。
だが、少年は頭を下げると、駅の方向へ駆け出した。
「それじゃ、失礼します!」
煤のついた作業着の背中が、人々の間へ消えていく。
幸は、その姿を追いかけるように一歩前へ出た。
「名前……」
聞けなかった。
前回と同じだった。
ただ今回は、少しだけ言葉を交わした。
彼が汽車の仕事を好きなこと。
いつか機関車を動かすことが夢であること。
それだけは分かった。
恵が隣へ並ぶ。
「行ってしもうたね」
「うん」
「名前、聞かんでよかったと?」
幸は答えなかった。
「姉ちゃんから呼び止めたくせに、顔が黒いって」
「だって、本当に黒かったやろ」
「ほかに言うことがあったやろ」
「急に聞かれたら、頭が真っ白になったとよ」
「顔は真っ赤やったけどね」
「恵!」
恵は楽しそうに笑いながら、地面へ置いていた買い物籠を持ち上げた。
「夢見る乙女さん。味噌と豆ば買いに行くよ」
「その呼び方やめて!」
「梨を見つけた買い物の天才から、夢見る乙女に昇格たい」
「昇格しとらん!」
二人は言い合いながら商店へ向かった。
幸は何度か後ろを振り返った。
だが、見習い鉄道員の姿はもう見えなかった。
買い物を終え、二人は帰りの路面電車へ乗った。
夕方の車内は混み合っていた。
幸と恵は、買い物籠を足元へ置き、並んでつり革につかまった。
路面電車が動き始める。
ゴトゴトと車体が揺れる。
幸は窓の外を眺めていた。
「姉ちゃん」
「何ね」
「また会えると思う?」
幸は少し黙ってから答えた。
「分からん」
「会いたいと?」
「……分からん」
「そればっかり」
幸は恵の方を向かずに言った。
「ただ、もう少し話してみたかった」
恵は姉をからかうのをやめた。
「なら、また会えるとよ」
「どうして?」
「長崎におるんやろ。汽車の仕事ばしよるんやろ。姉ちゃんも汽車ば見るのが好きなんやろ」
恵は少し笑った。
「いつか、どこかで会うたい」
幸は窓へ映る自分の顔を見た。
確かに、少し夢見る乙女のような顔をしていた。
「会えたら、今度こそ名前を聞く」
「先に自分から名乗らんば」
「分かっとる」
「本当に?」
「今度は大丈夫」
「姉ちゃんの“大丈夫”は信用できん」
「恵は何年それば言い続けるとね」
「信用できるようになるまで」
二人は顔を見合わせて笑った。
路面電車のモーター音に重なって、遠くから汽笛が聞こえた。
幸は静かに、その音へ耳を澄ませた。
二度目の出会い。
今度は言葉を交わした。
けれど、まだ互いの名を知らない。
少年は、大村幸という名前を知らない。
幸も、少年が平戸勝男であることを知らない。
それでも二人の間には、汽車という一本の線路が伸び始めていた。
まだ細く、頼りない線路。
けれどその先には、恋があった。
約束があった。
広島へ向かう旅があった。
そして、あまりにも短い二人の未来が待っていた。
汽笛は、人と人を結ぶ。
ときに遠くへ運び。
ときに再び引き合わせる。
幸と勝男の人生は、少しずつ、同じ線路の上へ近づいていた。
次回予告
煤のついた見習い鉄道員と、初めて言葉を交わした幸。
名前さえ聞けなかったことを悔やみながらも、彼の夢を語るまなざしが胸から離れない。
数日後、女学校の授業で将来の夢について作文を書くことになる。
恵が堅実な未来を綴る一方、幸の筆はなかなか進まない。
自分は、何をしたいのか。
どこで、誰と生きたいのか。
放課後、二人が長崎駅近くを通りかかると、見習い鉄道員が先輩から厳しく叱られていた。
次回、第5話。
「長崎駅の待ち合わせ」
夢は、憧れるだけでは届かない。
少年は汽車を動かすために。
少女は自分の未来を見つけるために。
それぞれの一歩を踏み出していく。




