表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸と恵の物語  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/18

蒸気機関車の青年

『幸と恵のものがたり』


第3話 蒸気機関車の青年


昭和十一年、秋。


ベルリンオリンピックの熱狂が少しずつ落ち着き、長崎の町には普段の暮らしが戻っていた。


朝晩には、夏とは違う涼しい風が吹くようになった。


坂道の家々では、開け放していた窓を早めに閉めるようになり、港の空には、秋らしい高い雲が浮かんでいた。


その日は、女学校のない休日だった。


大村家では、朝から父の勝一が珍しく機嫌よく身支度をしていた。


「幸、恵。今日は長崎駅まで行くぞ」


朝食の席でそう告げられた瞬間、幸の箸が止まった。


「長崎駅?」


「ああ」


「汽車ば見に行くと?」


「仕事の用事がある。ついでに、お前たちも連れていってやる」


幸の顔がぱっと明るくなった。


「行く! 絶対行く!」


隣に座る恵は、味噌汁をすすりながら姉を横目で見た。


「まだ誰も行くなとは言うとらんよ」


「念のためたい。お父さんの気が変わるかもしれんやろ」


勝一は苦笑した。


「人を気まぐれみたいに言うな」


母の節子が、二人の食器へ漬物を分けながら尋ねた。


「駅には何の用ね」


「知り合いに荷物を渡すだけだ。昼前には戻る」


「それなら、帰りに少し買い物も頼んでよかね」


幸の表情がわずかに曇った。


「また野菜?」


「今日は乾物屋さんで昆布を買ってきて。お金はあとで渡すけん」


「汽車を見たあとに昆布……」


「何が不満ね」


「夢のある話から急に生活感が出た」


恵が笑った。


「汽車を見ても、お腹はいっぱいにならんけんね」


「分かっとるけど、余韻というものがあるやろ」


「昆布にも味があるよ」


「恵は朝からうまいこと言ったつもりね」


幸と恵のやり取りに、勝一と節子は顔を見合わせて笑った。


食事を終えると、二人は急いで身支度を整えた。


幸は何度も鏡をのぞき込み、髪を直している。


恵はその様子を不思議そうに見た。


「汽車に会うだけなのに、なんでそがん髪ば気にしよると?」


「長崎駅には人がたくさんおるやろ」


「人に会いに行くんやなくて、汽車ば見に行くんやろ」


「どちらもたい」


「誰か格好よか人がおるかもしれんと思っとるね」


「そがんこと考えとらん!」


幸は慌てて否定した。


だが、鏡を見る手は止まらなかった。


恵は小さく笑った。


「図星みたいね」


「恵、置いていくよ」


「うちがおらんかったら、帰りの昆布ば忘れるやろ」


幸は何も言い返せなかった。


三人は家を出て、長崎駅へ向かった。


休日の町には、平日とは少し違う空気が流れていた。


商店の前で立ち話をする人々。


家族連れ。


荷物を抱え、駅へ急ぐ旅人。


路面電車のベルが鳴り、通りをゆっくりと進んでいく。


幸は歩きながらも、駅の方向を何度も見た。


「まだ見えんよ」


恵が言った。


「分かっとる」


「さっきから五回くらい背伸びしとるやろ」


「煙が見えるかと思って」


「背が急に伸びるわけやなかよ」


「恵は夢のないことばっかり言うね」


勝一が振り返った。


「二人とも、はぐれるなよ」


「はい」


返事だけは、ぴたりと重なった。


やがて長崎駅の建物が見えてきた。


駅前には、人力車や荷車が行き交っていた。


大きな荷物を抱えた旅人が足早に出入りし、駅員たちの声が響いている。


幸は一歩、駅の中へ入っただけで目を輝かせた。


天井の高い空間。


切符を求める人々。


改札を通り抜けていく乗客。


それぞれの旅へ向かう人たちの声。


幸にとって駅は、町の中にありながら、どこか別の世界へ続く入り口のように見えた。


勝一は知人へ荷物を渡すため、駅員に声をかけた。


しばらく話したあと、二人を振り返る。


「ホームの端まで行くぞ。ただし、勝手に線路へ近づくな」


「分かっとる!」


幸の返事だけが妙に大きかった。


「そういう人が一番心配なんだ」


勝一が言う。


恵は深くうなずいた。


「うちが見張っとく」


「恵までお父さん側につくと?」


「姉ちゃんは、汽車を見たら周りが見えんようになるけん」


三人がホームへ入ると、空気が一変した。


まず鼻に届いたのは、石炭と油の匂いだった。


決してきれいな匂いではない。


だが、幸は嫌がらなかった。


むしろ深く息を吸い込んだ。


「これが汽車の匂いね」


「煙ば吸い込みすぎたら、むせるよ」


恵が注意する。


線路の向こうには、黒い蒸気機関車が止まっていた。


巨大な車体。


太い煙突。


いくつも並んだ大きな動輪。


鋼鉄の棒が複雑に組み合わされ、車輪と車体をつないでいる。


機関車の周りでは、作業着姿の鉄道員たちが忙しそうに動いていた。


一人は足回りを確かめ、一人は連結器を点検し、別の者は機関車の下へ身をかがめている。


やがて、機関車の奥から低いうなりが響いた。


シューッ。


白い蒸気が、勢いよく吹き出す。


幸は驚いて一歩下がった。


「わっ!」


恵も肩をすくめた。


「びっくりした……」


勝一は笑った。


「汽車は生き物みたいだろう」


幸はすぐに前へ戻り、機関車を見上げた。


「うん。息ば吐いとるみたい」


黒い車体の表面は、ところどころ油で光っている。


運転室では、機関士らしい男性が計器を確認していた。


その下では、若い鉄道員が石炭を運んでいる。


幸は、その一つ一つを見逃すまいとしていた。


「大きかねえ……」


小さくつぶやく。


その直後、機関車が短く汽笛を鳴らした。


甲高くも力強い音が、駅全体へ広がった。


ホームにいた鳩が一斉に飛び立つ。


幼い子どもが驚いて母親へしがみつき、旅人たちが線路の方を振り返る。


幸は両手を胸元で握りしめた。


「格好よか……」


恵は姉の顔を見た。


「そんなに好きね」


「うん」


幸の返事には、いつもの冗談っぽさがなかった。


「汽車を動かす人、格好いいな」


幸は、機関車のそばで働く人々へ視線を移した。


「こがん重たいものに、荷物ばたくさん積んで、大勢の人ば乗せて走るんだもんね」


恵も改めて機関車を見上げた。


「一人で動かしよるわけやなかやろ」


「だから格好よかとよ。みんなで働いて、汽車ば走らせるんやろ」


幸は鉄道員たちを目で追った。


「一人が間違えたら、大勢の人が困るかもしれん。それでも毎日、時間どおりに動かしよる」


「姉ちゃん、意外とちゃんと見とるね」


「意外とは何ね」


「ただ、大きくて格好よかって言うだけかと思った」


「うちだって考えるとよ」


「算術以外はね」


「そこは今、関係なか!」


勝一が二人の後ろで笑っていた。


「汽車を走らせるのは、見た目ほど華やかな仕事じゃないぞ」


父は線路の方を見ながら話した。


「石炭を運び、火を絶やさんようにして、機関車の具合を確かめる。夏は焼けるように暑く、冬は風にさらされる。夜中も走らんばならん」


幸は父の話を真剣に聞いた。


「それでも、みんな働いとるとね」


「汽車を待っとる人がおるからだろう」


その言葉を聞いて、幸は再び機関車を見つめた。


ホームでは、これから列車へ乗り込む人々が別れを惜しんでいた。


母親が息子の服の襟を直している。


年老いた夫婦が、窓越しに家族と話している。


小さな子どもが、父親に抱き上げられて手を振っている。


汽車は、ただ鉄のかたまりが走るだけではない。


人を遠い町へ運ぶ。


誰かとの別れを乗せる。


そして、誰かとの再会を連れてくる。


幸は、初めてそれをはっきり感じた。


「汽車って、人の気持ちも乗せて走るとね」


恵が姉を見る。


「今日の姉ちゃん、やけに詩人やね」


「何ね。せっかくよかこと言うたのに」


「でも、本当にそうかもしれんね」


恵も、列車へ乗り込んでいく人々を眺めた。


そのときだった。


幸の視線が、機関車の近くで働く一人の青年に止まった。


まだ若い。


年齢は十代後半くらいだろうか。


作業着を着て、頭には帽子をかぶっている。


袖や頬には黒い煤がついていた。


先輩らしい鉄道員から指示を受け、石炭を運んでは、機関車の足回りを確認している。


動きにはまだ少しぎこちなさがあった。


先輩に注意されると、すぐに背筋を伸ばして頭を下げる。


見習いなのだろう。


幸は、なぜかその青年から目を離せなかった。


「どうしたと?」


恵が尋ねた。


「ううん」


幸は慌てて首を振った。


「何でもなか」


そう言いながら、もう一度そちらを見る。


青年は重そうな道具を両手で抱え、機関車の脇を歩いていた。


額には汗が浮かんでいる。


それを袖で拭ったため、頬の煤がさらに広がった。


幸は思わず小さく笑った。


「顔、真っ黒」


「誰のこと?」


恵が幸の視線を追おうとする。


「何でもなかって」


幸は少し体の向きを変えた。


そのとき、青年がふと顔を上げた。


二人の目が合った。


ほんの一瞬だった。


幸は息を止めた。


青年も少し驚いたような表情をした。


だが、すぐに先輩の声が飛んできた。


「平戸! そっちの確認は終わったか!」


青年は振り返った。


「はい! 今、終わります!」


よく通る、まっすぐな声だった。


青年は幸の方へもう一度だけ目を向けたようにも見えた。


だが、それが本当に自分を見たのか、幸には分からなかった。


すぐに作業へ戻り、機関車の陰へ姿を消した。


「姉ちゃん?」


恵の声で、幸は我に返った。


「何ね」


「ぼうっとしとったよ」


「汽車ば見よっただけ」


「汽車は、そっちにはおらんかったけど」


「端っこが見えとったと」


「どう見ても、人ば見よったやろ」


幸の頬が少し熱くなる。


「見よらん!」


「また格好よか人でも見つけたと?」


「違うって!」


「声が大きかよ」


恵は姉の顔をじっと見つめた。


幸はごまかすように機関車の方を向いた。


「ただ……」


「ただ?」


「見習いの人みたいやったけど、一生懸命働いとったけん」


「それで?」


「それだけたい」


幸はそう答えた。


しかし、胸の中には、あの青年のまなざしが残っていた。


短い時間だった。


笑いかけられたわけでもない。


言葉を交わしたわけでもない。


名前さえ知らない。


ただ、目が合っただけだった。


それなのに、不思議と忘れにくい目だった。


まっすぐでありながら、少し不器用そうなまなざし。


真面目に仕事を覚えようとする若者の目。


あの巨大な機関車を、いつか自分の手で動かしたいと願っているような目だった。


幸は、自分でも理由が分からないまま、青年が消えた機関車の陰を見つめていた。


やがて、出発の時刻が近づいた。


駅員の笛が鳴る。


乗客が次々と車内へ乗り込んでいく。


扉が閉められた。


機関車が大きく息を吐く。


白い蒸気がホームを包んだ。


動輪がゆっくりと回り始める。


ギシッ。


ガタン。


鋼鉄の連結器が引っ張られ、客車が一両ずつ動き出した。


汽車は重たそうに、それでも確実に速度を上げていく。


幸は思わず手を振った。


誰に向けた手なのか、自分でも分からなかった。


列車の窓から、乗客たちが見送りの人々へ手を振っている。


黒い煙が空へ流れていく。


汽笛が長く響いた。


やがて列車はホームの端を過ぎ、遠くへ走り去っていった。


幸は、汽車が見えなくなっても、しばらく線路の先を見つめていた。


「行ってしもうたね」


恵が言う。


「うん」


「姉ちゃん、本当に汽車が好きなんやね」


「好きよ」


幸は静かに答えた。


「どこまでも走っていけそうやろ」


「線路があるところまでやろ」


「恵はすぐ現実に戻すね」


「でも、線路は遠くまで続いとるよ」


恵は姉と同じ方向を見た。


「長崎の外まで。もっとずっと遠くまで」


幸はうなずいた。


「いつか乗ろうね」


「二人で?」


「うん。お父さんとお母さんも一緒に」


「家族四人でね」


二人は笑った。


勝一が用事を終えて戻ってきた。


「そろそろ帰るぞ」


「もう?」


幸が不満そうに言う。


「もう一時間近く見ていただろう」


「まだ見足りん」


「汽車は今日だけ走るわけじゃない。また来ればいい」


勝一はそう言って歩き始めた。


幸は最後にもう一度、機関車が止まっていた場所を振り返った。


そこには白い蒸気の名残が漂っていた。


先ほどの見習い鉄道員の姿は、もうなかった。


「平戸……」


幸は、先輩が呼んでいた名前を小さく口にした。


恵が振り返る。


「何か言うた?」


「何も言っとらんよ」


幸はすぐに父のあとを追った。


駅を出た三人は、節子に頼まれた昆布を買うため、乾物屋へ向かった。


しかし幸は、店先に並ぶ昆布を見ながらも、どこか上の空だった。


「姉ちゃん、どれがよかと思う?」


恵が尋ねる。


「うん」


「うんやなくて、どれね」


「ああ……これでよかんやない?」


幸が指さしたのは、昆布ではなく隣に置かれた干し椎茸だった。


恵はじっと姉を見る。


「やっぱり誰か見よったね」


「見よらんって!」


「じゃあ、なんで昆布と椎茸ば間違えると?」


「似とるやろ!」


「どこがね!」


乾物屋の主人が、二人の会話を聞いて笑った。


結局、恵が昆布を選び、幸が荷物を持つことになった。


帰り道。


二人は父の後ろを歩きながら、長崎の坂道を上っていった。


恵は何度か姉を横目で見た。


幸はいつもどおりよくしゃべっていた。


機関車の大きさ。


汽笛の音。


車輪の仕組み。


煙の匂い。


けれど、見習い鉄道員のことだけは話さなかった。


恵もそれ以上は聞かなかった。


姉が自分から話したくなるまで待とうと思った。


大村家へ戻ると、節子が玄関で三人を迎えた。


「お帰りなさい。昆布は買えたね」


恵が包みを差し出す。


「ちゃんと買えたよ。姉ちゃんは椎茸ば買おうとしたけど」


「恵!」


節子は幸を見る。


「どうして椎茸ね」


「ちょっと考え事ばしとっただけ」


「何ば考えよったと?」


「汽車のこと」


「幸は本当に汽車が好きねえ」


節子は笑った。


幸もつられて笑った。


だが、その日の夜。


布団に入ってからも、幸の頭には蒸気機関車の姿が浮かんでいた。


白い蒸気。


黒い煙。


大きな車輪。


そして、そのそばで働いていた一人の青年。


煤のついた頬。


汗を拭う仕草。


一瞬だけ重なった視線。


「姉ちゃん」


隣の布団から恵の声がした。


「何ね」


「まだ起きとる?」


「起きとるよ」


「今日、駅で誰ば見よったと?」


幸は少し黙った。


「だから、汽車たい」


「人やろ」


「恵はしつこかねえ」


「姉ちゃんが分かりやすすぎるとよ」


幸は暗闇の中で、恵に背を向けた。


「知らん人よ」


ようやく、それだけ答えた。


「鉄道員さん?」


「たぶん、見習い」


「格好よかったと?」


幸はまた黙った。


そして、小さな声で言った。


「目が、印象に残っただけ」


「どがん目?」


「一生懸命な目」


恵は少し笑った。


「姉ちゃん、やっぱり見とったやない」


「もう寝る!」


幸は布団を頭までかぶった。


恵はそれ以上からかわなかった。


「おやすみ、姉ちゃん」


「……おやすみ」


しばらくして、幸は布団から顔を出した。


遠くから、夜汽車の汽笛が聞こえてきた。


長く、低く、闇の向こうへ消えていく音。


幸は目を閉じた。


あの見習い鉄道員も、今頃どこかで汽車の仕事をしているのだろうか。


また会うことはあるのだろうか。


そんなことを考えた自分が恥ずかしくなり、幸はもう一度布団をかぶった。


この日、二人はまだ言葉を交わさなかった。


幸は、青年の名前さえ正確には知らなかった。


青年も、ホームに立っていた少女が誰なのか知らなかった。


それでも二人の人生は、この日初めて、同じ場所を通り過ぎた。


大村幸、十三歳。


平戸勝男、十五歳。


それは恋と呼ぶには、あまりに小さな出来事だった。


だが、汽笛の響く長崎駅で交わされた一瞬のまなざしは、幸の胸に静かに残った。


やがて、戦争の時代をともに生きることになる二人。


結婚を約束することになる二人。


そして、広島の空の下で同じ最期を迎えることになる二人。


その始まりは、言葉ではなかった。


白い蒸気の向こうで交わした、ほんの一瞬のまなざしだった。



次回予告


長崎駅で蒸気機関車を見た日から、幸は汽笛の音を聞くたび、あの見習い鉄道員を思い出すようになる。


しかし、名前も知らなければ、再び会える保証もない。


そんなある日、幸と恵は学校の帰り道で、重い荷車を押す老人と出会う。


二人が手を貸そうとしたそのとき、背後から一人の少年が駆け寄ってくる。


煤のついた作業着。


どこかで見た、まっすぐな目。


けれど、幸と勝男が言葉を交わすのは、まだ少し先。


次回、第4話。


「汽笛が結んだ縁」


偶然は、一度なら偶然のまま。


二度重なったとき、運命は静かに動き始める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ