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幸と恵の物語  作者: リンダ


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2/22

港町の朝

『幸と恵のものがたり』

 第2話 港町の朝


 昭和十一年、初秋。


 ベルリンオリンピックで前畑秀子選手が金メダルを獲得した興奮は、しばらく長崎の町にも残っていた。


 学校でも、商店でも、路面電車の中でも、顔を合わせた人々が前畑選手の泳ぎについて話していた。


「最後までよう頑張ったねえ」


「日本の女子が世界一たい」


「ラジオの実況ば聞きながら、うちも声の枯れるまで応援したよ」


 そんな会話が、町のあちこちから聞こえてきた。


 大村家でも、あの日以来、幸が前畑選手の泳ぎを何度も再現していた。


 畳の上に腹ばいになり、両腕を大きく広げる。


「こうやって、ぐーっと水ばかいて――」


 その横で、恵が冷静に言う。


「姉ちゃん、それ平泳ぎやなくて、畳の掃除になっとるよ」


「雰囲気たい、雰囲気」


「ほんなら、終わったらちゃんと雑巾がけしてね」


「なんでそうなると?」


 そのやり取りを聞きながら、母の節子は笑い、父の勝一は新聞の陰で肩を揺らしていた。


 だが、いつまでもオリンピックの余韻に浸っているわけにはいかなかった。


 幸と恵には、女学校の勉強があった。


 朝。


 台所では、節子が早くから朝食の支度をしていた。


 釜から立ち上る湯気。


 味噌汁の匂い。


 焼いた小さな魚。


 窓の外では、坂道を上っていく人々の足音が聞こえていた。


 長崎の朝は早い。


 港へ向かう人。


 造船所へ向かう人。


 店の戸を開ける人。


 学校へ急ぐ子どもたち。


 町は、太陽が高く昇る前から動き始めていた。


「幸、恵。起きんね。遅れるよ」


 節子の声が家の中へ響く。


 布団の中から、恵が返事をした。


「もう起きとるよ」


 その隣では、幸が布団を頭までかぶっていた。


「姉ちゃん、朝よ」


「あと少し……」


「少しって、どれくらい」


「次のオリンピックまで」


「四年寝る気ね」


 恵が掛け布団を引っ張る。


 幸は布団の端を両手でつかんで抵抗した。


「やめて。世界一の睡眠記録ば作りよる途中やけん」


「女学校に遅刻した記録しか残らんよ」


「恵は朝から厳しかねえ」


「姉ちゃんが朝からだらしなかと」


 しばらく布団をめぐる攻防が続いたが、台所から節子の声が飛んできた。


「幸。三つ数える間に起きんかったら、朝御飯は恵に全部食べてもらいます」


 幸の目が開いた。


「それはいかん!」


 勢いよく起き上がった拍子に、隣にいた恵と額をぶつける。


「痛っ!」


「姉ちゃん、何しよると!」


「恵が近くにおるけんたい!」


「起こしてやった人に言う言葉ね、それ!」


 二人の声で、静かだった大村家の朝が一気ににぎやかになった。


 身支度を終えた二人は、そろいの制服姿で食卓についた。


 よく似た顔。


 同じ形の鞄。


 同じ髪の長さ。


 だが、幸の襟元は少し曲がっており、恵の制服はきちんと整っている。


 節子が幸の襟を直した。


「もう十三歳なんやけん、自分できれいにしなさい」


「ちゃんとしたつもりやったとよ」


「姉ちゃんの“ちゃんと”は信用できん」


 恵が味噌汁をすすりながら言う。


 幸は箸を止めた。


「朝から人の悪口ば言うたら、罰が当たるよ」


「事実は悪口やなか」


「お母さん、恵がいじめる」


「はいはい。食べ終わってから喧嘩しなさい」


 勝一は新聞を畳み、壁の時計を見た。


「もう七時十五分だぞ」


 その言葉に、二人の箸が急に速くなる。


「七時半には出らんば!」


 恵が残りの御飯を口に入れる。


 幸も味噌汁を一気に飲もうとした。


「熱っ!」


「そりゃ熱かよ。今まで何ばしよったと」


 節子はあきれながら、二人の弁当を風呂敷に包んだ。


「慌てて転ばんごとね。坂道では走ったらいかんよ」


「分かっとる」


「幸、本当に分かっとるね」


「なんでうちだけ念押しすると?」


「昨日、坂道で勢いつきすぎて、八百屋の前まで止まれんかったやろ」


 恵が答える。


「あれは走ったんやなくて、足が勝手に進んだと」


「それを転びかけたって言うとよ」


 午前七時半。


 幸と恵は、そろって大村家を出た。


「行ってきます!」


「行ってまいります」


 幸は元気よく、恵は少し丁寧に頭を下げる。


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 節子が玄関から二人を見送った。


 朝の光が、長崎の屋根を照らしていた。


 家々は坂に沿うように建ち並んでいる。


 石段。


 細い道。


 軒先に干された洗濯物。


 遠くには港の水面が見え、その向こうには山の稜線が広がっていた。


 幸と恵は鞄を持ち、近くの電停へ向かって坂道を下りていった。


 朝とはいえ、すでに空気は蒸し暑かった。


 幸は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。


「はあ……暑いねえ。朝から汗だくたい」


「まだ家を出て五分もたっとらんよ」


「長崎は坂が多すぎるとよ。平らな道ば作れんかったとかな」


「昔の人に言って」


「学校が坂の上じゃなかだけ、まだましか」


「電停まで下りた分、帰りは上らんばよ」


 幸の表情が曇る。


「今、その話はせんで」


「帰りになったら坂が消えるわけやなかよ」


「恵は夢がなかねえ」


「姉ちゃんは現実を見なさすぎ」


 道の途中で、近所の女性が箒を動かしていた。


「おはよう、幸ちゃん、恵ちゃん。今日も二人そろって学校ね」


「おはようございます!」


 二人は同時に頭を下げた。


 女性は二人の顔を交互に見た。


「相変わらず、よう似とるねえ。どっちが幸ちゃんやったかね」


 幸が胸を張る。


「元気がある方が幸です」


 恵がすぐに続ける。


「落ち着きがない方が幸です」


「恵!」


 女性は声を上げて笑った。


「朝から仲のよかこと」


「今のどこが仲よく見えたと?」


 幸が言い返しているうちに、遠くから路面電車の音が聞こえてきた。


 線路と車輪が触れ合う乾いた響き。


 電車の接近を知らせるベル。


 そして低く唸るようなモーター音。


 恵が振り返った。


「姉ちゃん、電車来よるよ!」


「待って! 置いていかんで!」


 二人は坂道を駆け下りた。


「走ったらいかんって、お母さんが言うとったよ!」


「電車に置いていかれるよりよか!」


「転んだら学校にも行けんやろ!」


「そしたら休める!」


「そういう問題やなか!」


 息を切らしながら電停へ着くと、ちょうど路面電車がゆっくりと停車した。


 木製の扉が開く。


 二人は乗り込み、乗客の邪魔にならないよう奥へ進んだ。


 朝の車内には、仕事へ向かう男性や買い物籠を持った女性、同じように学校へ通う生徒たちが乗っていた。


 座席はほとんど埋まっていた。


 幸と恵は、つり革につかまって並んで立った。


 やがて車掌の合図が響き、電車が動き始める。


 モーターが低く唸る。


 ゴトゴトと車体を揺らしながら、路面電車は長崎の町を進んでいった。


 坂の下を抜け、通りを曲がり、いくつもの電停に止まる。


 乗客が降りる。


 新しい乗客が乗る。


 車掌が声を張る。


 窓の外には、朝の町が次々と流れていった。


 商店の戸を開ける店主。


 魚を並べる女性。


 荷車を引く男性。


 道端で話し込む人々。


 港の方角へ向かう作業着姿の若者たち。


 幸は窓の外へ顔を向けた。


「毎朝乗っとるのに、電車から見ると町が違って見えるね」


「昨日も同じこと言うとったよ」


「昨日と今日では、人も空も違うやろ」


「たまには姉ちゃんも、よかこと言うね」


「たまには余計たい」


 路面電車が緩やかな勾配へ差しかかる。


 モーター音が少し高くなった。


 車体が前後に揺れ、幸の体が大きく傾く。


「あっ」


 幸は隣の恵につかまった。


「姉ちゃん、ちゃんとつり革ば持っとき!」


「持っとったよ。手が滑ったと」


「朝から汗だくやけんたい」


「誰が汗だくね!」


 近くに座っていた年配の女性が笑った。


「双子さんね」


「はい」


 恵が答える。


「学校まで一緒とは、心強かねえ」


 幸は少し考えてから答えた。


「心強いというか、毎朝注意されながら通いよります」


「姉ちゃんが注意されるようなことばするけんよ」


「ほら、今も」


「言われんようにしたらよかやろ」


 年配の女性は、さらに楽しそうに笑った。


 路面電車はいくつかの電停を通り、出島の近くへ近づいていく。


 窓の向こうに、港町らしい建物や倉庫が見えた。


 異国との交易で栄えた長崎の歴史が、町のあちこちに残っていた。


 幸は出島の方向を眺めながら言った。


「昔は、あそこに外国の人がたくさんおったとやろ」


「学校で習ったやろ」


「習ったけど、実際に見たら不思議やね」


「今は島みたいには見えんけどね」


「昔の人も、ここから海ば見よったとかな」


 恵も窓の外を見た。


「きっと見よったやろ。どがん気持ちやったんやろうね」


「遠くの国に帰りたかったかもしれん」


「それとも、長崎が好きになっとったかもしれんよ」


 姉妹はしばらく黙って、朝の町を眺めた。


 やがて路面電車は出島電停へ着いた。


 二人は乗客の間を抜け、電車を降りる。


 背後でベルが鳴る。


 扉が閉まり、路面電車は再びモーター音を響かせながら走り去っていった。


「今日も間に合ったね」


 恵が言った。


 幸は額の汗を拭った。


「電車に乗っただけで疲れた」


「坂道ば走ったけんやろ」


「帰りはゆっくり歩こう」


「お母さんのお使いがあるけん、寄り道したらいかんよ」


「分かっとるって」


「姉ちゃんの“分かっとる”は――」


「信用できん、やろ。もう覚えた」


 二人は顔を見合わせ、笑った。


 そこから女学校までは歩いてすぐだった。


 校門をくぐると、同級生たちが次々と登校してくる。


「おはよう、幸さん、恵さん」


「おはよう」


 挨拶を返しながら、二人は教室へ向かった。


 授業では国語、算術、歴史、裁縫などを学んだ。


 幸は国語や歴史が好きだった。


 物語を読んだり、遠い土地の出来事を想像したりすることが好きだった。


 だが、算術になると、急に眉間にしわが寄った。


 教師が黒板へ問題を書く。


「では、大村幸さん。この問題を解いてください」


 幸はゆっくり立ち上がった。


 黒板を見る。


 教科書を見る。


 もう一度黒板を見る。


 そして、斜め前に座る恵の方を見る。


 恵は小さく首を横へ振った。


 自分で考えなさい、という合図だった。


「先生」


「何ですか」


「数字にも、人と同じように相性があると思います」


 教室に小さな笑いが起きた。


 教師は表情を変えない。


「それで?」


「この問題の数字とは、どうも相性が悪いようです」


 今度は教室中に笑いが広がった。


 恵は机に額をつけた。


「姉ちゃん……」


 教師はため息をついた。


「相性をよくするために、放課後に残って練習しますか」


「急に仲良くなれそうな気がしてきました」


 幸は慌てて黒板へ向かった。


 休み時間になると、恵が姉の席へ来た。


「何が数字との相性ね」


「でも、みんな笑っとったやろ」


「学校は笑わせに来る場所やなかよ」


「楽しく勉強した方が頭に入ると」


「なら、さっきの問題の答えは?」


 幸は黙った。


「入っとらんやない」


「昼御飯ば食べたら入るかもしれん」


「それは頭やなくて、お腹に入るとよ」


 学校生活では、恵の方が何事も丁寧だった。


 授業中の字も整っており、裁縫も上手だった。


 幸は器用ではなかったが、人前で話すことを恐れなかった。


 級友が落ち込んでいれば、すぐに声をかけた。


 教室が静まり返っていれば、冗談を言って空気を変えた。


 同じ顔をしていても、二人は少しずつ違っていた。


 そして、その違いを誰より理解していたのも、互いだった。


 放課後。


 授業を終えた幸と恵は、そろって学校を出た。


 空はまだ明るかったが、朝よりも雲が増えていた。


「今日は寄り道せず、お使いば済ませるよ」


 恵が念を押す。


「分かっとるよ」


 幸は鞄から、節子に渡された紙を取り出した。


 そこには、買う物が書かれていた。


 大根。


 茄子。


 南瓜。


 葱。


 できれば安い果物。


 幸は紙を眺めた。


「できれば安い果物って、難しかね」


「店の人に聞けばよかよ」


「うちが値切ってみようか」


「姉ちゃんが値切ったら、余計なものまで買いそう」


「交渉は得意よ」


「前に豆ば買いに行って、なぜか煎餅まで買うてきたやろ」


「あれは店のおばちゃんが勧めるけん」


「その分、豆が少なくなったとよ」


「でも煎餅、おいしかったやろ」


「お母さんに怒られたやろ」


 幸は口を閉じた。


 二人は出島近くの商店が並ぶ通りへ向かった。


 店先には、季節の野菜が籠に入れて並べられていた。


 大根の白。


 茄子の紫。


 南瓜の深い緑。


 赤みを帯びた小さな果物。


 魚屋からは威勢のよい声が飛び、乾物屋の軒先には昆布や干物が並んでいる。


 人々の話し声。


 店主が客を呼び込む声。


 荷車の車輪の音。


 商店街には、学校の教室とは違う活気があった。


 二人は、節子がよく利用する八百屋へ入った。


「こんにちは」


「おや、幸ちゃんと恵ちゃん。学校の帰りね」


 店を切り盛りする女性が、二人に笑いかけた。


「お母さんのお使いです」


 恵が紙を差し出す。


「大根と茄子と南瓜と葱。それと、安か果物があればお願いします」


 女性は紙を見ながらうなずいた。


「しっかりしとるねえ。どっちが恵ちゃんやったかね」


 幸が先に答える。


「しっかりしとる方が恵です」


 恵も負けずに言う。


「余計なものを買おうとする方が幸です」


「今日は買わんよ!」


 幸がすぐに抗議する。


 店の女性は笑いながら、野菜を選び始めた。


「大根はこれがよか。茄子も今朝入ったばかりよ」


 恵は一本ずつ状態を確かめる。


 幸は果物の籠をのぞき込んだ。


「これは何ですか」


「梨たい。少し傷があるけん、安うしとるよ」


 幸の目が輝いた。


「梨!」


「姉ちゃん、勝手に決めたらいかんよ」


「安いって言いよるやろ。お母さんの条件にぴったりたい」


 恵も梨を手に取って確認した。


 傷は表面に少しあるだけだった。


「これならよかかもね」


「やろ?」


 幸は胸を張った。


「うちにも買い物の才能があるとよ」


「梨を見つけただけやろ」


「才能の始まりは、小さな発見からたい」


 野菜と梨を包んでもらい、代金を払う。


 幸は店の女性から荷物を受け取ろうとした。


「うちが持つ」


「本当に大丈夫?」


 恵が尋ねる。


「大丈夫。姉やけんね」


 幸は大根や南瓜の入った袋を抱えた。


 持ち上げた瞬間、その重さに顔が引きつる。


「……重か」


「さっきまでの勢いはどこに行ったと」


「南瓜が予想以上に、どっしりした性格しとる」


「南瓜のせいにせんの」


「半分持って」


「姉やけん持つって言ったやろ」


「姉妹は助け合いが大事たい」


「都合のよかときだけ姉妹を使うね」


 文句を言いながらも、恵は袋の中から大根と葱を受け取った。


 二人で荷物を分け、再び路面電車の電停へ向かう。


 途中、幸は果物の包みを何度も見た。


「家に着くまで食べたらいかんよ」


 恵が言う。


「まだ何も言っとらん」


「顔に書いてある」


「一つくらい味見しても――」


「お母さんが四人分に分けるとよ」


「四つ入っとる?」


「ちょうど四つ」


「ほんなら食べたら、お父さんの分がなくなるね」


「どうしてお父さんの分からなくすと?」


「うちは育ち盛りやけん」


「お父さんは働き盛りたい」


 幸はしぶしぶ果物の包みから目を離した。


 帰りの路面電車は、朝よりも少し空いていた。


 二人は並んで座ることができた。


 膝の上には、買った野菜や果物。


 窓からは、傾き始めた日の光が差し込んでいる。


 電車が動き出す。


 モーター音を響かせ、夕方の町を進んでいく。


 幸は窓にもたれかかり、流れていく景色を眺めた。


 港では、仕事を終えた人々が行き交っていた。


 船の煙。


 倉庫の屋根。


 遠くの山。


 線路の先へ続く道。


「恵」


「何ね」


「毎日こうやって、学校に行って、帰りに買い物して、家に帰るやろ」


「うん」


「大人になっても、あんまり変わらんのかな」


 恵は少し考えた。


「変わるんやない?」


「どう変わると?」


「仕事したり、結婚したり、別の家で暮らしたり」


「うちらも別の家に住むとかな」


「いつかはね」


 幸の表情が少し寂しそうになった。


「恵、遠くに行ったらいかんよ」


「まだ何年も先の話やろ」


「約束たい」


「姉ちゃんの方が先に、どこか行きそうやけど」


「うちは長崎が好きやけん、ここにおるよ」


 幸は窓の外へ目を向けた。


 そのとき、遠くから蒸気機関車の汽笛が聞こえた。


 低く、長く響く音。


 幸は体を起こした。


「汽車!」


 路面電車の窓から見える遠い線路を、黒い煙が横切っていく。


 蒸気機関車が客車を引き、長崎駅の方向へ進んでいた。


 幸は窓へ顔を近づけた。


「格好よかねえ」


「また始まった」


「何が?」


「姉ちゃん、汽車を見るたびに同じ顔するとよ」


「どがん顔ね」


「どこか遠くへ行きたそうな顔」


 幸は黙った。


 煙を上げて進む蒸気機関車。


 その先に、どんな町があるのか。


 どんな人々が暮らしているのか。


 幸にはまだ分からなかった。


 ただ、汽笛を聞くと、胸の奥が少し騒いだ。


「いつか乗ってみたいね」


 幸が言った。


「どこまで?」


「ずっと遠くまで」


「帰ってくるとね」


「もちろん。恵も一緒たい」


 恵は小さく笑った。


「荷物は姉ちゃんが持ってね」


「半分ずつたい」


「姉やけん持つんやなかったと?」


「旅行のときは平等」


「都合よかねえ」


 二人を乗せた路面電車は、夕暮れの長崎を走り続けた。


 家の近くの電停で降りると、待っているのは朝に下った坂道だった。


 幸は坂を見上げた。


「……帰りは坂が消えるかもしれんと思ったのに」


「朝、消えんって言うたやろ」


「人間には希望が必要たい」


「希望では野菜は軽うならんよ」


 二人は荷物を抱え、ゆっくり坂道を上っていった。


 途中で何度も立ち止まり、汗を拭う。


 幸が大根を杖のように持とうとして、恵に叱られる。


 南瓜を転がした方が早いと言って、また叱られる。


 それでも二人の笑い声は、坂道に長く響いていた。


 大村家へ着くと、節子が玄関へ出てきた。


「お帰り。ちゃんと買えたね」


「ただいま。見て、お母さん。梨も安う買えたよ」


 幸が誇らしげに包みを見せる。


 節子は中を確かめた。


「よか梨ね。二人で選んだと?」


「うちが見つけました」


 幸が答える。


「うちが傷みすぎとらんか確かめました」


 恵が続ける。


「つまり、二人で選んだとね」


 節子は笑った。


 台所では、買ってきた野菜を使って夕食の支度が始まった。


 恵は葱を洗い、幸は茄子を運ぶ。


 節子が包丁で大根を切る。


 やがて仕事から戻った勝一も加わり、家族四人で食卓を囲んだ。


「今日、学校はどうだった」


 勝一が尋ねる。


 恵は姉を見た。


「幸姉ちゃんが、数字にも相性があるって先生に言いました」


 勝一の箸が止まる。


「何の話だ」


「算術の問題が解けんかった言い訳たい」


「恵、言わんでよかことを!」


 幸が慌てる。


 節子はため息をついた。


「幸、明日はちゃんと勉強しなさい」


「はい……」


「相性ばよくせんばね」


 恵が小声で言う。


「あとで覚えときなさい」


「姉ちゃんに教えようと思っとるとよ」


「……それならお願いします」


 幸の態度が急に変わり、家族の間に笑いが起きた。


 食後には、四つの梨が一つずつ配られた。


 幸は自分の梨を大事そうに両手で持った。


「やっぱり買ってよかったね」


「幸が見つけたおかげだな」


 勝一が言う。


 幸はうれしそうに笑った。


「うち、買い物の才能があるかもしれん」


 恵がすぐに返す。


「今日一日だけで決めたらいかんよ」


「恵は厳しかねえ」


 家族の笑い声が、小さな家の中に広がった。


 女学校へ通い。


 路面電車に揺られ。


 母に頼まれた野菜を買い。


 坂道を汗だくになって上り。


 家族四人で同じ食卓を囲む。


 特別な出来事など、何もない一日だった。


 けれど後になれば、幸と恵にとって、そうした一日こそが何より大切な時間だったと分かる。


 事件もない。


 警報もない。


 誰かの帰りを、命がけで待つ必要もない。


 明日の朝も同じように目を覚まし、同じ路面電車で学校へ行ける。


 二人は、それを疑っていなかった。


 夜。


 並んだ布団の中で、幸が尋ねた。


「恵。今日の梨、おいしかったね」


「おいしかったね」


「もう一個買えばよかった」


「また食べ物の話ね」


「明日もお使いがあったらよかね」


「勉強より買い物の方が好きやろ」


「買い物では数字も使うけん、勉強になるとよ」


「それなら、今日のお釣りはいくらやった?」


 幸は黙った。


「……恵が持っとったやろ」


「やっぱり勉強になっとらん」


 幸は布団を頭までかぶった。


「もう寝る」


 恵は小さく笑い、明かりを消した。


 窓の外から、港町の夜の音が聞こえてきた。


 路面電車の遠い走行音。


 坂道を歩く人の足音。


 港から響く汽笛。


 幸は暗闇の中で、その音に耳を澄ませた。


 まだ見ぬ遠い町へ向かう汽車。


 そこに乗る人々。


 それを動かす鉄道員。


 その一人と、数年後に出会うことになるとは知らずに。


 昭和十一年。


 戦争は、まだ遠くにあるように思われていた。


 双子の朝は路面電車のモーター音で始まり、家族の笑い声の中で終わった。


 それは、いつまでも続くはずの日常だった。


 次回予告


 休日の朝。


 幸と恵は、父・勝一に連れられて長崎駅へ向かう。


 ホームを包む白い蒸気。


 石炭の匂い。


 重たい車輪の音。


 幸は目の前で動く巨大な蒸気機関車に、ますます心を奪われていく。


 一方の恵は、姉が汽車に夢中になる理由をまだ理解できずにいた。


 しかし、ホームで働く鉄道員たちの姿を見たことで、二人は初めて、汽車を動かす人々の仕事を知る。


 次回、第3話。


「蒸気機関車の青年」


 汽車は、人と人を結びながら走る。


 幸と勝男の人生が交わるまで、あと少し。

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