表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸と恵の物語  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/18

双子の春

『幸と恵のものがたり』


第1話 双子の春


昭和十一年、夏。


長崎の町には、朝から焼けつくような日差しが降り注いでいた。


港には大小さまざまな船が浮かび、造船所の方角からは、鉄を打つ乾いた音が絶え間なく聞こえてくる。


坂の多い町を、路面電車が鈴を鳴らしながらゆっくりと走っていた。


窓を開け放した大村家の居間では、古いラジオが、今にも壊れそうな雑音を立てていた。


そのラジオの前に、二人の少女が並んで座っていた。


大村幸。


大村恵。


十三歳になる双子の姉妹だった。


同じ日に生まれ、同じ顔立ちをしていたが、家族であれば見分けるのは難しくなかった。


姉の幸は、感情がすぐ顔に出る。


うれしいときは声を上げて笑い、悔しいときは頬を膨らませ、誰かを応援するときは自分まで競技をしているように体を動かす。


妹の恵は、幸よりも少しおとなしかった。


けれど、決して気が弱いわけではない。


普段は静かでも、ここぞという場面では姉以上に熱くなる。


その日の二人は、ラジオから一歩も離れようとしなかった。


遠いドイツのベルリンで開かれているオリンピック。


その競泳会場で、日本の前畑秀子選手が女子二百メートル平泳ぎの決勝を泳いでいた。


ラジオから、興奮した実況の声が流れてくる。


電波は遠く、ときおり雑音にかき消された。


それでも、聞き逃すまいと、幸と恵はラジオへ顔を近づけていた。


「前畑、頑張れ!」


実況の声が響く。


幸が畳を両手でたたいた。


「いけーっ! 前畑さん、頑張れーっ!」


隣の恵も、いつもの落ち着いた表情を忘れて叫んだ。


「負けたらいかんよ! もうちょっとやけん!」


まるで二人の声が、海を越えてベルリンまで届くと信じているようだった。


幸は両手を握りしめ、上半身を前へ倒した。


「あとどれくらいね? 恵、見える?」


「ラジオで見えるわけなかやろ!」


「でも、なんか見える気がすると!」


「うちにも見える! 前畑さんが先頭ば泳ぎよる!」


「見えとるやないね!」


二人は叫びながらも、一瞬たりとも実況を聞き逃さなかった。


台所から、母の節子が顔を出した。


「二人とも、少し静かにせんね。近所中に聞こえよるよ」


「今、静かにできるわけなかよ!」


幸が振り返りもせず答える。


「日本の大事な勝負たい!」


恵も続いた。


「お母さんも応援せんね! 前畑さんが泳ぎよるとよ!」


節子は困ったように笑った。


「泳ぎよることくらい、お母さんも知っとるよ」


そう言いながら、手にしていた布巾を置き、二人の後ろに腰を下ろした。


しばらくすると、仕事へ出かける支度をしていた父の勝一も居間へ入ってきた。


「まだ決着はつかんとか」


「お父さん、そこ立ったら音が聞こえん!」


幸が手を振る。


「座って! 早う!」


一家の主である勝一に対しても遠慮はない。


勝一は眉を上げた。


「お前は父親に向かって、ずいぶんな言い方ばするな」


「今だけは前畑さんが一番偉かと!」


「俺は前畑選手より下か」


「今はね!」


恵が吹き出し、節子も口元を押さえて笑った。


勝一は何か言い返そうとしたが、ラジオから再び緊迫した実況が流れ始めると、結局、幸の隣へ座った。


四人の視線が、一台のラジオへ集まった。


遠いベルリンで、一人の日本人女性が必死に水をかいている。


その姿を直接見ることはできない。


けれど、実況の声と会場のざわめきだけで、家族には情景が見えるようだった。


前畑選手とドイツの選手が競り合っている。


どちらが先なのか。


差はほとんどない。


実況の声が、さらに熱を帯びる。


「頑張れ!」


幸が叫ぶ。


「前畑さん、頑張って!」


恵も両手を胸の前で握った。


「前畑、頑張れ!」


父の勝一まで声を上げる。


節子も、祈るように手を合わせた。


「どうか、どうか……」


ラジオの向こうで、最後の力を振り絞る泳ぎが続いていた。


幸は、まるで自分が水の中にいるように腕を動かした。


「もう少し! もう少したい!」


恵も隣で体を揺らす。


「いけーっ! 前畑さん、いけーっ!」


そして――


実況の声が大きく跳ね上がった。


前畑選手が、先頭でゴールへ飛び込んだ。


金メダル。


日本の女性として、オリンピック競泳史上初となる金メダルだった。


一瞬、幸と恵は動かなかった。


本当に勝ったのか。


雑音に紛れて、聞き間違えたのではないか。


二人は顔を見合わせた。


「……勝ったと?」


幸が小さく尋ねる。


恵の目には、もう涙が浮かんでいた。


「勝った……前畑さん、勝ったとよ!」


次の瞬間、二人は飛び上がった。


「やったーっ!」


「前畑さん、勝ったーっ!」


抱き合い、跳びはね、畳の上をぐるぐる回る。


幸は恵の手をつかみ、勝手に踊り始めた。


「金メダルたい! 世界一たい!」


「姉ちゃん、足踏んどる!」


「今は痛くなかやろ!」


「痛いもんは痛い!」


それでも恵は笑っていた。


節子は涙をぬぐいながら手をたたき、勝一は何度もうなずいていた。


「たいしたもんだ。世界一か」


幸は興奮したまま、父を振り返った。


「女の人でも世界一になれるとね!」


「当たり前だ。男も女も関係なか」


勝一が答える。


幸は目を輝かせた。


「じゃあ、うちらも何かで世界一になれるかもしれんね!」


「姉ちゃんは何で世界一になると?」


恵が尋ねる。


幸は腕を組み、真剣な顔で考えた。


「うーん……大声」


「それは、もう長崎一くらいにはなっとる」


「恵は何で世界一になると?」


「姉ちゃんの世話」


「なんね、それ!」


居間に笑い声が広がった。


ラジオからは、まだベルリンの歓声が流れていた。


遠い国で上がった日の丸。


世界一になった日本人女性。


その出来事は、長崎に暮らす十三歳の双子に、未来というものを強く意識させた。


女だからできない。


長崎にいるから届かない。


貧しい家だから夢を見てはいけない。


そんな決まりは、どこにもないのかもしれない。


幸は窓の外を見た。


青い空の下を、白い雲がゆっくりと流れていた。


「ねえ、恵」


「何ね」


「うちら、大人になったら、どがん暮らしばしよると思う?」


突然の問いに、恵は首を傾げた。


「まだ分からんよ」


「結婚しとるかな」


「姉ちゃんは、すぐしそう」


「なんでね」


「惚れっぽそうやけん」


「まだ誰にも惚れたことなかよ!」


幸が抗議すると、恵はくすくす笑った。


「でも、姉ちゃんが結婚しても、近くに住んでね」


「恵もたい」


「うちは姉ちゃんほど早う結婚せんもん」


「分からんよ。ものすごく格好よか人が現れるかもしれん」


「そがん人、長崎におると?」


「おるかもしれんたい。駅とか、港とか」


「なんで駅ね」


「汽車に乗って、遠くから来るかもしれんやろ」


その言葉が、後に現実になることを、二人はまだ知らなかった。


長崎駅。


蒸気機関車。


煤にまみれながら働く、一人の青年。


幸の人生を大きく変える平戸勝男との出会いは、まだ少し先のことだった。


節子が台所へ戻りながら言った。


「さあ、応援が終わったなら、二人とも手伝ってちょうだい」


幸が露骨に肩を落とす。


「金メダルのお祝いはせんと?」


「前畑選手のお祝いなのに、どうして幸がごちそうを食べるとね」


「一生懸命応援したけん!」


「声を出しただけやろ」


恵が冷静に突っ込む。


「声援も力になるとよ!」


「ベルリンまでは届かんと思う」


「届いとる。絶対、届いとる!」


幸は自信満々に言い切った。


勝一が立ち上がり、仕事道具を持った。


「幸の声なら、ベルリンどころかアメリカまで聞こえそうだ」


「お父さんまで何ね!」


再び家族の笑い声が上がった。


それは、どこにでもある夏の日だった。


父がいて、母がいて、双子の姉妹がいて。


ラジオから聞こえる競技に夢中になり、くだらないことで言い争い、同じことで笑った。


誰も、その暮らしが失われるとは思っていなかった。


誰も、数年後に世界が大きな戦争へ突き進み、この青空から爆弾が落ちてくるとは想像していなかった。


この日の幸と恵にとって、空はただ広く、明るく、未来へ続いていた。


その夜。


二人は並んだ布団に入り、暗い天井を見つめていた。


「恵」


「まだ起きとったと?」


「前畑さん、すごかったね」


「うん」


「きっと、苦しかったよね。それでも最後まで泳いだとよね」


「そうやね」


幸は少し黙った。


「うちも、何があっても最後まで諦めん人になりたい」


恵は姉の横顔を見た。


いつもの調子のよい顔ではなかった。


十三歳なりに、自分の未来を真剣に考えている顔だった。


「姉ちゃんは大丈夫よ」


恵が言った。


「どうして?」


「姉ちゃん、しつこいけん」


「そこは根性があるって言ってよ」


「同じようなもんたい」


「全然違う!」


二人は布団の中で笑った。


しばらくして、幸が手を伸ばした。


恵もその手を握る。


子どもの頃から、不安な夜にはいつもそうしてきた。


「恵」


「何?」


「うちら、ずっと一緒におろうね」


「当たり前やろ。双子なんやけん」


「おばあちゃんになっても?」


「なっても」


「結婚しても?」


「近くに住む」


「子どもができても?」


「一緒に遊ばせる」


「約束ね」


「約束」


小指と小指を絡ませた。


窓の外では、夏の虫が鳴いていた。


遠くから、夜汽車の汽笛が聞こえた。


幸はその音に耳を澄ませた。


「汽車って、どこまで行くんやろうね」


「ずっと遠くまでやろ」


「いつか二人で乗りたいね」


「うん。戦争とか何もない、平和なときに」


恵はそう答えた。


それは、何気なく口にした言葉だった。


しかし、夜の闇の向こうでは、すでに世界を覆う大きな影が、ゆっくりと近づいていた。


二人が交わした約束を引き裂く影が。


姉を広島へ。


妹を長崎へ。


別々の空の下へ連れていく影が。


それでも、この夜の二人はまだ知らない。


ただ手をつなぎ、同じ未来を夢見ながら眠りについた。


昭和十一年の夏。


大村幸と大村恵、十三歳。


双子の姉妹の物語は、ラジオから響く歓声と、遠い汽笛の音から始まった。



次回予告


金メダルの熱狂が過ぎ、長崎には再び穏やかな日々が戻ってくる。


学校へ向かう坂道。


港を走る路面電車。


家族四人で囲む夕食。


幸と恵は、同じ顔で笑いながらも、少しずつ異なる夢を抱き始めていた。


幸は、長崎駅を発つ蒸気機関車に心を奪われる。


恵は、そんな姉を誰より近くで見つめていた。


次回、第2話。


「港町の朝」


まだ戦争が、遠くにあると思われていた頃。


双子の日常は、汽笛とともに動き始める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ