双子の春
『幸と恵のものがたり』
第1話 双子の春
昭和十一年、夏。
長崎の町には、朝から焼けつくような日差しが降り注いでいた。
港には大小さまざまな船が浮かび、造船所の方角からは、鉄を打つ乾いた音が絶え間なく聞こえてくる。
坂の多い町を、路面電車が鈴を鳴らしながらゆっくりと走っていた。
窓を開け放した大村家の居間では、古いラジオが、今にも壊れそうな雑音を立てていた。
そのラジオの前に、二人の少女が並んで座っていた。
大村幸。
大村恵。
十三歳になる双子の姉妹だった。
同じ日に生まれ、同じ顔立ちをしていたが、家族であれば見分けるのは難しくなかった。
姉の幸は、感情がすぐ顔に出る。
うれしいときは声を上げて笑い、悔しいときは頬を膨らませ、誰かを応援するときは自分まで競技をしているように体を動かす。
妹の恵は、幸よりも少しおとなしかった。
けれど、決して気が弱いわけではない。
普段は静かでも、ここぞという場面では姉以上に熱くなる。
その日の二人は、ラジオから一歩も離れようとしなかった。
遠いドイツのベルリンで開かれているオリンピック。
その競泳会場で、日本の前畑秀子選手が女子二百メートル平泳ぎの決勝を泳いでいた。
ラジオから、興奮した実況の声が流れてくる。
電波は遠く、ときおり雑音にかき消された。
それでも、聞き逃すまいと、幸と恵はラジオへ顔を近づけていた。
「前畑、頑張れ!」
実況の声が響く。
幸が畳を両手でたたいた。
「いけーっ! 前畑さん、頑張れーっ!」
隣の恵も、いつもの落ち着いた表情を忘れて叫んだ。
「負けたらいかんよ! もうちょっとやけん!」
まるで二人の声が、海を越えてベルリンまで届くと信じているようだった。
幸は両手を握りしめ、上半身を前へ倒した。
「あとどれくらいね? 恵、見える?」
「ラジオで見えるわけなかやろ!」
「でも、なんか見える気がすると!」
「うちにも見える! 前畑さんが先頭ば泳ぎよる!」
「見えとるやないね!」
二人は叫びながらも、一瞬たりとも実況を聞き逃さなかった。
台所から、母の節子が顔を出した。
「二人とも、少し静かにせんね。近所中に聞こえよるよ」
「今、静かにできるわけなかよ!」
幸が振り返りもせず答える。
「日本の大事な勝負たい!」
恵も続いた。
「お母さんも応援せんね! 前畑さんが泳ぎよるとよ!」
節子は困ったように笑った。
「泳ぎよることくらい、お母さんも知っとるよ」
そう言いながら、手にしていた布巾を置き、二人の後ろに腰を下ろした。
しばらくすると、仕事へ出かける支度をしていた父の勝一も居間へ入ってきた。
「まだ決着はつかんとか」
「お父さん、そこ立ったら音が聞こえん!」
幸が手を振る。
「座って! 早う!」
一家の主である勝一に対しても遠慮はない。
勝一は眉を上げた。
「お前は父親に向かって、ずいぶんな言い方ばするな」
「今だけは前畑さんが一番偉かと!」
「俺は前畑選手より下か」
「今はね!」
恵が吹き出し、節子も口元を押さえて笑った。
勝一は何か言い返そうとしたが、ラジオから再び緊迫した実況が流れ始めると、結局、幸の隣へ座った。
四人の視線が、一台のラジオへ集まった。
遠いベルリンで、一人の日本人女性が必死に水をかいている。
その姿を直接見ることはできない。
けれど、実況の声と会場のざわめきだけで、家族には情景が見えるようだった。
前畑選手とドイツの選手が競り合っている。
どちらが先なのか。
差はほとんどない。
実況の声が、さらに熱を帯びる。
「頑張れ!」
幸が叫ぶ。
「前畑さん、頑張って!」
恵も両手を胸の前で握った。
「前畑、頑張れ!」
父の勝一まで声を上げる。
節子も、祈るように手を合わせた。
「どうか、どうか……」
ラジオの向こうで、最後の力を振り絞る泳ぎが続いていた。
幸は、まるで自分が水の中にいるように腕を動かした。
「もう少し! もう少したい!」
恵も隣で体を揺らす。
「いけーっ! 前畑さん、いけーっ!」
そして――
実況の声が大きく跳ね上がった。
前畑選手が、先頭でゴールへ飛び込んだ。
金メダル。
日本の女性として、オリンピック競泳史上初となる金メダルだった。
一瞬、幸と恵は動かなかった。
本当に勝ったのか。
雑音に紛れて、聞き間違えたのではないか。
二人は顔を見合わせた。
「……勝ったと?」
幸が小さく尋ねる。
恵の目には、もう涙が浮かんでいた。
「勝った……前畑さん、勝ったとよ!」
次の瞬間、二人は飛び上がった。
「やったーっ!」
「前畑さん、勝ったーっ!」
抱き合い、跳びはね、畳の上をぐるぐる回る。
幸は恵の手をつかみ、勝手に踊り始めた。
「金メダルたい! 世界一たい!」
「姉ちゃん、足踏んどる!」
「今は痛くなかやろ!」
「痛いもんは痛い!」
それでも恵は笑っていた。
節子は涙をぬぐいながら手をたたき、勝一は何度もうなずいていた。
「たいしたもんだ。世界一か」
幸は興奮したまま、父を振り返った。
「女の人でも世界一になれるとね!」
「当たり前だ。男も女も関係なか」
勝一が答える。
幸は目を輝かせた。
「じゃあ、うちらも何かで世界一になれるかもしれんね!」
「姉ちゃんは何で世界一になると?」
恵が尋ねる。
幸は腕を組み、真剣な顔で考えた。
「うーん……大声」
「それは、もう長崎一くらいにはなっとる」
「恵は何で世界一になると?」
「姉ちゃんの世話」
「なんね、それ!」
居間に笑い声が広がった。
ラジオからは、まだベルリンの歓声が流れていた。
遠い国で上がった日の丸。
世界一になった日本人女性。
その出来事は、長崎に暮らす十三歳の双子に、未来というものを強く意識させた。
女だからできない。
長崎にいるから届かない。
貧しい家だから夢を見てはいけない。
そんな決まりは、どこにもないのかもしれない。
幸は窓の外を見た。
青い空の下を、白い雲がゆっくりと流れていた。
「ねえ、恵」
「何ね」
「うちら、大人になったら、どがん暮らしばしよると思う?」
突然の問いに、恵は首を傾げた。
「まだ分からんよ」
「結婚しとるかな」
「姉ちゃんは、すぐしそう」
「なんでね」
「惚れっぽそうやけん」
「まだ誰にも惚れたことなかよ!」
幸が抗議すると、恵はくすくす笑った。
「でも、姉ちゃんが結婚しても、近くに住んでね」
「恵もたい」
「うちは姉ちゃんほど早う結婚せんもん」
「分からんよ。ものすごく格好よか人が現れるかもしれん」
「そがん人、長崎におると?」
「おるかもしれんたい。駅とか、港とか」
「なんで駅ね」
「汽車に乗って、遠くから来るかもしれんやろ」
その言葉が、後に現実になることを、二人はまだ知らなかった。
長崎駅。
蒸気機関車。
煤にまみれながら働く、一人の青年。
幸の人生を大きく変える平戸勝男との出会いは、まだ少し先のことだった。
節子が台所へ戻りながら言った。
「さあ、応援が終わったなら、二人とも手伝ってちょうだい」
幸が露骨に肩を落とす。
「金メダルのお祝いはせんと?」
「前畑選手のお祝いなのに、どうして幸がごちそうを食べるとね」
「一生懸命応援したけん!」
「声を出しただけやろ」
恵が冷静に突っ込む。
「声援も力になるとよ!」
「ベルリンまでは届かんと思う」
「届いとる。絶対、届いとる!」
幸は自信満々に言い切った。
勝一が立ち上がり、仕事道具を持った。
「幸の声なら、ベルリンどころかアメリカまで聞こえそうだ」
「お父さんまで何ね!」
再び家族の笑い声が上がった。
それは、どこにでもある夏の日だった。
父がいて、母がいて、双子の姉妹がいて。
ラジオから聞こえる競技に夢中になり、くだらないことで言い争い、同じことで笑った。
誰も、その暮らしが失われるとは思っていなかった。
誰も、数年後に世界が大きな戦争へ突き進み、この青空から爆弾が落ちてくるとは想像していなかった。
この日の幸と恵にとって、空はただ広く、明るく、未来へ続いていた。
その夜。
二人は並んだ布団に入り、暗い天井を見つめていた。
「恵」
「まだ起きとったと?」
「前畑さん、すごかったね」
「うん」
「きっと、苦しかったよね。それでも最後まで泳いだとよね」
「そうやね」
幸は少し黙った。
「うちも、何があっても最後まで諦めん人になりたい」
恵は姉の横顔を見た。
いつもの調子のよい顔ではなかった。
十三歳なりに、自分の未来を真剣に考えている顔だった。
「姉ちゃんは大丈夫よ」
恵が言った。
「どうして?」
「姉ちゃん、しつこいけん」
「そこは根性があるって言ってよ」
「同じようなもんたい」
「全然違う!」
二人は布団の中で笑った。
しばらくして、幸が手を伸ばした。
恵もその手を握る。
子どもの頃から、不安な夜にはいつもそうしてきた。
「恵」
「何?」
「うちら、ずっと一緒におろうね」
「当たり前やろ。双子なんやけん」
「おばあちゃんになっても?」
「なっても」
「結婚しても?」
「近くに住む」
「子どもができても?」
「一緒に遊ばせる」
「約束ね」
「約束」
小指と小指を絡ませた。
窓の外では、夏の虫が鳴いていた。
遠くから、夜汽車の汽笛が聞こえた。
幸はその音に耳を澄ませた。
「汽車って、どこまで行くんやろうね」
「ずっと遠くまでやろ」
「いつか二人で乗りたいね」
「うん。戦争とか何もない、平和なときに」
恵はそう答えた。
それは、何気なく口にした言葉だった。
しかし、夜の闇の向こうでは、すでに世界を覆う大きな影が、ゆっくりと近づいていた。
二人が交わした約束を引き裂く影が。
姉を広島へ。
妹を長崎へ。
別々の空の下へ連れていく影が。
それでも、この夜の二人はまだ知らない。
ただ手をつなぎ、同じ未来を夢見ながら眠りについた。
昭和十一年の夏。
大村幸と大村恵、十三歳。
双子の姉妹の物語は、ラジオから響く歓声と、遠い汽笛の音から始まった。
⸻
次回予告
金メダルの熱狂が過ぎ、長崎には再び穏やかな日々が戻ってくる。
学校へ向かう坂道。
港を走る路面電車。
家族四人で囲む夕食。
幸と恵は、同じ顔で笑いながらも、少しずつ異なる夢を抱き始めていた。
幸は、長崎駅を発つ蒸気機関車に心を奪われる。
恵は、そんな姉を誰より近くで見つめていた。
次回、第2話。
「港町の朝」
まだ戦争が、遠くにあると思われていた頃。
双子の日常は、汽笛とともに動き始める。




