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幸と恵の物語  作者: リンダ


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夢の中の姉妹

十六 夢の中の姉妹


 その夜。


 佐世保から持ち帰った卒業写真は、仏壇の前へ大切に置かれていた。


 制服姿の幸と恵。


 肩を寄せ。


 互いの方へ少しだけ顔を傾け。


 卒業後も、未来がずっと続いていくと信じているように笑っている。


 七歳の幸と五歳の恵は、布団へ入ったあとも、なかなか眠ろうとしなかった。


「ねえ、恵」


「何?」


「写真の幸さん、うちに似とった?」


「ちょっとだけ」


「ちょっとだけ?」


「でも、幸さんの方が髪きれいやった」


「そこ比べる?」


「お姉ちゃん、写真見て最初に髪の話しよったやん」


「幸さんも天国で気にしよるかもしれん」


「二十年たっても?」


「女の子やけん」


「雑な理屈たい」


 二人は小さく笑った。


 隣の布団では、三歳の勝一が、もう眠っている。


「ぽっぽ……」


 寝言を言いながら、小さな手を動かしていた。


 襖の向こうから、龍弥と夏菜子の話し声がかすかに聞こえる。


 やがて。


 姉妹のまぶたも、少しずつ重くなっていった。


白い坂道


 幸が目を開けると。


 そこは、見知らぬ坂道だった。


 けれど。


 初めて来た場所とは思えなかった。


 石畳。


 坂の下を走る路面電車。


 遠くに見える港。


 潮の匂い。


 夏の陽射し。


 隣には、妹の恵が立っている。


「ここ、どこ?」


「長崎やない?」


「うちらの長崎と、ちょっと違う」


 道を歩く人々は、どこか昔の服装をしていた。


 男たちは帽子をかぶり。


 女学生たちは制服姿。


 荷車を引く人。


 風呂敷包みを抱えた人。


 遠くでは、蒸気機関車の汽笛が鳴っている。


「昔の長崎?」


 幸が呟く。


 そのとき。


 坂の上から、二人の少女が歩いてきた。


 卒業写真と同じ制服。


 一人は楽しそうに大きく手を振っている。


 もう一人は、その横で少し恥ずかしそうに笑っていた。


「あっ!」


 幸が声を上げる。


 写真の中にいた二人。


 幸。


 そして恵。


 大人になる前の。


 まだ女学生だった頃の二人だった。


はじめまして


 昔の幸が、二人の前まで走ってくる。


「もしかして、あんたたちが新しい幸と恵?」


 七歳の幸が驚く。


「新しいって何?」


「うちらの名前ばもろうた子たちやろ?」


 昔の恵が、姉の袖を引く。


「お姉ちゃん、いきなり近すぎ」


「だって、会ってみたかったっちゃもん」


 昔の幸は、七歳の幸の顔をじっと覗き込んだ。


「うん」


「似とる」


「どこが?」


「目」


「それから、なんか食べ物見つけたらすぐ走っていきそうなところ」


「まだ何も食べてないやろ!」


 昔の恵が吹き出す。


「そこまで似とる」


 五歳の恵も、昔の恵へ近づく。


「あなたが、恵さん?」


「そうたい」


「父ちゃんの最初のお嫁さん?」


 昔の恵は、一瞬だけ目を見開いた。


 それから、やさしく笑う。


「そう」


「龍弥さんと夫婦やった」


「父ちゃん、今でもあなたのこと話すよ」


「知っとる」


「どうして?」


「ずっと見とるけん」


 七歳の幸が、空を見上げる。


「天国から?」


「うん」


 昔の幸が胸を張る。


「うちら、地上監視隊たい」


 昔の恵がすぐに返す。


「勝手に変な部隊作らんで」


「監視やなくて、見守りやろ」


「意味は似たようなもんやん」


「全然違う」


 二組の姉妹の間に、笑いが広がった。


写真より、にぎやか


 四人は、坂道の途中にある石段へ腰を下ろした。


 昔の幸は、七歳の幸を見ながら言う。


「写真で見たうち、どうやった?」


「きれいやった」


「ほんと?」


「でも、髪ふくらんどった」


 昔の幸の顔が固まる。


「やっぱり気づいた?」


 昔の恵が呆れる。


「卒業写真戻ってきたときも、最初に髪の話しよったよ」


「だって大事やろ」


「二十年後の子どもにも言われるくらいやけん、もう諦めんね」


 七歳の幸は、昔の恵を指差す。


「恵さんは、写真より笑うんやね」


「そう?」


「もっと静かな人かと思った」


「お姉ちゃんの相手しよったら、静かではおられんとよ」


「うちの恵も同じこと言う」


 五歳の恵がうなずく。


「お姉ちゃんが、ずっとしゃべるけん」


「二人ともひどくない?」


 新旧二人の幸が、同時に抗議する。


 昔の恵と新しい恵が、顔を見合わせる。


「似とるね」


「かなりね」


父ちゃんのこと


 五歳の恵が、昔の恵へ尋ねる。


「父ちゃん、あなたのこと話すとき、いつも泣くよ」


 昔の恵の表情が、少しだけ曇る。


「まだ泣くと?」


「うん」


「でも、母ちゃんと笑っとるときもある」


「そっか」


「母ちゃんのこと、知っとる?」


「夏菜子さんやろ?」


「うん」


 昔の恵は、遠くの港を見る。


「とても優しい人」


「父ちゃんのこと好き?」


「大好き」


「あなたは?」


 昔の恵は、静かに答えた。


「うちも、今でも大好き」


「じゃあ、けんかせんと?」


 昔の幸が、横から口を挟む。


「その質問、ものすごく直球やね」


 昔の恵は、少し考えてから答えた。


「せんよ」


「夏菜子さんは、うちの代わりやないけん」


「夏菜子さんは夏菜子さん」


「うちは、うち」


「龍弥さんの人生には、どっちも大切たい」


 五歳の恵は、少し安心したように笑った。


「母ちゃんも同じこと言いよった」


「夏菜子さんらしかね」


「父ちゃん、幸せそう?」


 昔の恵は、うれしそうにうなずいた。


「うん」


「子どもが三人おって」


「家に笑い声があって」


「船ば造って」


「うちらのことも忘れんで」


「ちゃんと幸せに暮らしよる」


 七歳の幸が言う。


「でも、父ちゃん、まだ北海道行ってないよ」


 昔の幸が、勢いよく立ち上がる。


「それはいかん!」


 昔の恵が姉の服を引っ張る。


「お姉ちゃん、急に立たんで」


「龍弥さん、約束忘れとるんやない?」


「忘れとらんよ。四枚の切符、ずっと持っとる」


「ならよし」


「何でお姉ちゃんが審査すると」


亡くなった日のこと


 七歳の幸は、しばらく迷ってから尋ねた。


「幸さん」


「何?」


「怖かった?」


 昔の幸の笑顔が、静かになる。


「八月六日のこと?」


「うん」


 幸は、石段の隙間へ目を落とす。


「怖いと思う時間もなかった」


「光ったと思ったら」


「もう、こっちにおった」


「勝男さんも?」


「うん」


「一緒やった?」


「すぐ会えた」


「よかった」


 七歳の幸の目に涙が浮かぶ。


「よくはなかよ」


 昔の幸は、やさしく言う。


「ほんとは、もっと生きたかった」


「勝男さんと暮らして」


「恵とまた会って」


「北海道行って」


「おばあちゃんになるまでしゃべりたかった」


 七歳の幸は、黙ってうなずく。


「でも」


 昔の幸は続ける。


「うちの人生、かわいそうなことだけやなかったよ」


「家族がおって」


「恵がおって」


「勝男さんに恋して」


「結婚して」


「笑った」


「短かったけど」


「ちゃんと、うちの人生やった」


 今度は、五歳の恵が昔の恵へ尋ねる。


「恵さんは、痛かった?」


 昔の恵は、しばらく答えなかった。


「痛かった」


「苦しかった」


「でも」


「最後に龍弥さんが来てくれた」


「名前ば呼んでくれた」


「手ば握ってくれた」


「だから、一人やなかった」


 五歳の恵は、昔の恵の手を握る。


「今は痛くない?」


「全然」


「走れるし」


「食べられるし」


「お姉ちゃんにツッコミも入れられる」


 昔の幸が笑う。


「天国に来てツッコミ強くなったよね」


「お姉ちゃんのボケが悪化したけん」


名前を背負わなくていい


 昔の幸は、七歳の幸の肩へ手を置いた。


「幸ちゃん」


「うん」


「うちみたいにならんでよかよ」


「でも父ちゃん、幸さんみたいに、自分で考えられる人になってほしいって」


「それはうれしか」


「でも、うちの人生ば背負わんでよか」


「名前は同じでも」


「あんたは、あんた」


「うちができんかったことまで、せんばいかんと思わんでよか」


「好きなことして」


「笑って」


「失敗して」


「長生きして」


 昔の恵も、五歳の恵へ向き直る。


「恵ちゃんも」


「うちみたいに我慢せんでよか」


「人に優しくするのは大事やけど」


「自分が苦しいときは、ちゃんと助けてって言うとよ」


「うち、言えるよ」


「ほんと?」


「お姉ちゃんにお菓子取られたら、大きな声で言う」


「それはすぐ言いよる」


 七歳の幸が抗議する。


「一口やん!」


「一口が大きいと!」


 昔の幸が、新しい幸へそっと近づく。


「分かるよ」


「幸さんまで味方せんで!」


 昔の恵が頭を抱えた。


「食いしん坊の名前まで受け継がれた」


四人で喫茶店へ


 そのとき。


 坂の上から、紅茶の香りが漂ってきた。


 昔の幸が立ち上がる。


「せっかく会えたんやけん、喫茶店行こう」


「どこの?」


「おばあちゃんの店」


「まだあると?」


「夢の中やけん、何でもある」


 昔の恵が呆れる。


「便利な説明」


 四人は坂道を上った。


 そこには、原爆で失われる前の喫茶店があった。


 木の扉。


 港が見える窓。


 蓄音機。


 カウンターの向こうには、あの老婆がいる。


「いらっしゃい」


 老婆は、新しい幸と恵を見る。


「まあ」


「よう来たね」


「この子たちが?」


 昔の幸が得意げに答える。


「うちらの名前ば受け継いだ姉妹」


「お姉ちゃんの子どもみたいに言わんで」


 四人は、同じテーブルを囲んだ。


 チーズケーキが四つ。


 紅茶が四つ。


 昔の幸が、隣の皿へ手を伸ばす。


 新しい幸も、同時に手を伸ばす。


 二人の手が重なる。


「それ、うちの」


 二人が同時に言う。


 昔の恵と新しい恵が、同時にため息をつく。


「幸が二人おったら、食費が倍たい」


 四人は顔を見合わせた。


 そして。


 大きな声で笑った。


夢の終わり


 窓の外から、蒸気機関車の汽笛が聞こえた。


 昔の恵が、窓を見る。


「そろそろ帰らんば」


 五歳の恵が、昔の恵の袖を握る。


「また会える?」


「夢で会えるかもしれん」


「ほんと?」


「でも、毎日会おうとせんでよかよ」


「どうして?」


「地上で遊ぶ方が忙しかやろ」


 昔の幸も、新しい幸の頭を撫でる。


「学校行って」


「友達作って」


「好きな人できて」


「北海道にも行って」


「うちらが行けんかった場所、いっぱい見てきて」


「それから」


「何?」


「チーズケーキは妹の分まで取らんごと」


「幸さんに言われたくない」


 昔の幸が笑う。


「それでよか」


 昔の恵は、二人へ語りかける。


「父ちゃんと母ちゃんば、大事にしてね」


「父ちゃん、時々無理するけん」


「ちゃんと休ませて」


「分かった」


 新しい姉妹がうなずく。


 昔の幸と恵は、二人で手を振った。


「じゃあね」


「またね」


 白い蒸気が、店の中へ流れ込む。


 視界が、ゆっくり白くなっていった。


朝


 朝。


 七歳の幸が、勢いよく起き上がった。


「恵!」


 隣で眠る妹の肩を揺らす。


「何……」


「夢見た!」


「うちも」


 二人は同時に顔を見合わせる。


「幸さんと」


「恵さんに」


「会った!」


 二人の声が重なった。


 隣で寝ていた勝一が、驚いて目を覚ます。


「ぽっぽ?」


「汽車も出たよ」


 幸が答える。


 そこへ、夏菜子が襖を開ける。


「朝から何の騒ぎね」


「母ちゃん!」


「幸さんと恵さんに会った!」


 龍弥も廊下から姿を見せる。


「二人とも?」


「うん」


 幸は、夢で聞いた言葉を父へ伝えた。


「父ちゃん、幸せそうやって」


 龍弥の表情が止まる。


 恵も続ける。


「恵さんが」


『龍弥さん、ちゃんと幸せに暮らしよる』


「って」


 龍弥は、その場へ座り込んだ。


 目に涙が浮かぶ。


「そっか」


 それしか言えなかった。


 夏菜子は、龍弥の肩へ手を置く。


 幸が続ける。


「あと、北海道行く約束、忘れたらいかんって」


 龍弥は、泣きながら笑った。


「忘れとらんよ」


 恵が、少し得意そうに言う。


「それから、父ちゃんは時々無理するけん、ちゃんと休ませてって頼まれた」


 夏菜子が腕を組む。


「それは、しっかり守らんばね」


「監視が増えた」


 龍弥がぼやく。


 幸が首を横に振る。


「監視やなくて、見守り」


 その言葉に。


 龍弥は、ふと空を見上げた。


 仏壇の卒業写真では。


 幸と恵が。


 昨日と同じように笑っている。


 けれど。


 その笑顔が少しだけ、近くなったように見えた。


「幸さん」


「恵さん」


 龍弥は静かに呟く。


「子どもたちと話してくれて、ありがとう」


 朝の光が、写真の上へ差し込む。


 その日。


 篠田家の食卓には。


 昨夜の夢の話と。


 二組の幸と恵の笑い声が。


 いつまでも響いていた。

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