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幸と恵の物語  作者: リンダ


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長崎に残った足跡

十四 長崎に残った足跡


 大村鐵工所の跡地をあとにした龍弥たちは、そのまま長崎の町を巡ることにした。


 幸。


 恵。


 勝男。


 勝一。


 節子。


 そして、あの日までこの町で暮らしていた人々。


 建物が失われても。


 道の形が変わっても。


 そこで生きた時間までは消えない。


 龍弥は、三人の子どもたちへ、そのことを伝えたかった。


女学校のあった場所


 最初に向かったのは、幸と恵が通っていた女学校の跡だった。


 かつて校舎が建っていた場所には、新しい建物が建っている。


 門柱の一部だけが、当時の面影を残していた。


 龍弥は、その前で足を止める。


「ここが、幸さんと恵さんの学校たい」


 七歳の幸が、門柱を見上げる。


「二人とも、ここに通いよったと?」


「ああ」


「路面電車に乗って、毎朝ここまで来よった」


「遅刻したことある?」


 五歳の恵が尋ねる。


「幸さんは、何回か危なかったらしか」


「やっぱり」


 長女の幸が頬を膨らませる。


「なんで、やっぱりって言うと」


「幸って名前の人は、朝が弱いと?」


「名前のせいにせんで」


 龍弥は、思わず笑った。


「幸さんはな、朝が弱いというより」


「出かける前に、余計なことばしよったらしか」


「どんなこと?」


「勝男さんに渡す手紙ば書き直したり」


「髪形ば何回も直したり」


「お姉ちゃん、恋しとったと?」


 幸が目を輝かせる。


「ああ」


「かなりね」


 夏菜子が、子どもたちの肩へ手を置いた。


「ここで、いろんなことば学んだんやろうね」


 龍弥は、静かにうなずく。


「勉強だけやなか」


「戦争のことも」


「国の言うことも」


「自分で考えることも」


「幸さんは、ここで初めて」


『おかしいことは、おかしい』


「そう言った」


 長女の幸は、門柱へ手を触れる。


「怖くても言ったと?」


「そうたい」


「でも」


 龍弥は続けた。


「強い人やったから、何でも平気やったわけやなか」


「怖くても」


「震えても」


「それでも黙らんかった」


 五歳の恵も、門柱へ小さな手を置いた。


「恵さんは?」


「幸さんの隣におった」


「お姉ちゃんが何か言うたら、心配しながら見とった」


「でも、最後にはちゃんと味方した」


 幸が妹を見る。


「うちらと似とるね」


「お姉ちゃんが勝手なこと言って、うちが困るところ?」


「そこまで似んでよか」


 二人の声が、校門跡に響く。


 龍弥には。


 その向こうから、もう一組の姉妹の笑い声が聞こえるような気がした。


坂の上の喫茶店跡


 次に向かったのは、坂の上にあった喫茶店の跡だった。


 かつては、窓から長崎の港が見えた。


 紅茶の香り。


 焼きたての菓子。


 古い蓄音機。


 そして、老婆の穏やかな声。


 あの店で。


 幸と勝男。


 恵と龍弥。


 四人は初めて、同じテーブルを囲んだ。


 しかし、店は原爆で倒壊し、その後再建されなかった。


 跡地には、小さな家が建っている。


 周囲の道も変わっていた。


 それでも龍弥は、迷わず足を止めた。


「ここたい」


 夏菜子が辺りを見渡す。


「ここに、喫茶店があったと?」


「ああ」


「坂の上にあったけん、窓から港がよう見えた」


 幸が尋ねる。


「ここで、みんな会ったと?」


「そう」


「幸さんが勝男さんと」


「恵さんが父ちゃんと」


「最初にゆっくり話した場所たい」


 恵が龍弥の顔を覗き込む。


「父ちゃん、緊張した?」


「した」


「声、裏返った?」


「それは恵さん」


 幸が笑う。


「恵さん、龍弥さんの前で声裏返ったと?」


「ああ」


「父ちゃんの名前ば聞いただけで」


『し、篠田……龍弥さんですか?』


「って」


 五歳の恵が、顔を真っ赤にする。


「うちも恵やけん、恥ずかしか」


「お前が恥ずかしがることやなか」


 夏菜子も笑う。


 龍弥は、坂の向こうへ目を向けた。


「ここで、紅茶とチーズケーキば食べた」


「幸さんは、勝男さんの分まで狙いよった」


「また食べ物の話」


 長女の幸が不満そうに言う。


「事実やけんね」


「みんな、幸さんのこと食いしん坊として覚えすぎ」


「でも、楽しかったと?」


 恵の問いに。


 龍弥は、ゆっくりうなずいた。


「ああ」


「とても」


「戦争が始まる前の」


「一番幸せな時間の一つやった」


長崎駅


 坂を下り。


 路面電車に乗り。


 五人は長崎駅へ向かった。


 駅舎は新しくなっていた。


 ホームには列車が入り。


 乗客が行き交い。


 売店から弁当の匂いが漂っている。


 三歳の勝一は、目を輝かせた。


「ぽっぽ!」


「今日は蒸気機関車やなかよ」


 幸が弟へ教える。


「でも汽車たい」


 龍弥が答える。


「昔はな」


「ここから蒸気機関車が煙ば上げて走りよった」


 長女の幸は、ホームの先を見つめる。


「幸さんと勝男さんも、ここから広島へ行ったと?」


「ああ」


「結婚式の二日後」


「握り飯と白菜の煮物ば持って」


「丸一日かけて広島へ向かった」


「恵さん、見送りに来た?」


「来た」


「最後まで、姉の手ば離さんかった」


 龍弥は、あの日のホームを思い出していた。


 汽笛。


 蒸気。


 別れを惜しむ家族。


 幸は明るく笑っていた。


 けれど、列車が動き始めると。


 恵の顔を見つめながら、何度も手を振った。


「また帰ってくるけん」


「四人で北海道行こう」


 そう言って。


 幸は広島へ旅立った。


 それが。


 姉妹が直接顔を合わせた、最後の日になった。


「父ちゃん」


 幸が小さな声で尋ねる。


「幸さん、広島に行ってよかったと?」


 龍弥は、しばらく答えなかった。


「分からん」


「長崎に残っとれば、生きとったかもしれん」


「でも」


「長崎におっても、八月九日があった」


 龍弥は線路を見つめる。


「幸さんは、自分で選んだ」


「勝男さんの妻になって」


「一緒に広島へ行くって」


「その選択が正しかったか、間違っとったか」


「誰にも決められん」


「ただ」


「幸さんは、勝男さんの隣で生きたかった」


「それは本当たい」


 夏菜子が、静かに言う。


「選んだ人生が短かったからって、その選択が間違いになるわけやないね」


 龍弥は、夏菜子を見た。


「ああ」


「そう思う」


造船所


 長崎駅を出たあと。


 家族は、龍弥が働く造船所へ向かった。


 巨大なクレーン。


 ドック。


 鉄板を叩く音。


 溶接の火花。


 建造中の船。


 三人の子どもたちは、初めて間近で見る巨大な船体に圧倒されていた。


「父ちゃん、ここで働いとると?」


 幸が尋ねる。


「ああ」


「毎日?」


「毎日」


「この船、海に浮くと?」


「ちゃんと浮くように造るのが、父ちゃんたちの仕事たい」


 三歳の勝一が、龍弥の手を引く。


「ぽっぽより大きい」


「大きかね」


 夏菜子が笑う。


 龍弥は、建造中の客船を指差した。


「今造りよるのは、人を運ぶ船たい」


「戦争の船やなかと?」


 五歳の恵が尋ねる。


「違う」


 龍弥は、はっきり答えた。


「家族ば乗せて」


「仕事で遠くへ行く人ば乗せて」


「旅行する人ば乗せて」


「無事に帰ってくるための船たい」


 その言葉に。


 龍弥自身の声が少し震えた。


「恵さんが、父ちゃんに言った」


『人を運ぶ船ば造って』


「父ちゃんは、その約束ば守りよる」


 幸は、父の手を見る。


「恵さん、見とるかな」


「見とると思う」


「ちゃんとできとるって、言ってくれるかな」


 龍弥は、建造中の船を見上げた。


「たぶん」


『もっと丁寧に溶接せんね』


「って言う」


 夏菜子が笑う。


「恵さん、厳しか人やね」


「人の命ば乗せる船やけん」


「妥協せん人やった」


郊外の新しい喫茶店


 造船所を出たあと。


 家族は、市の郊外へ向かった。


 そこには、小さな喫茶店があった。


 白い壁。


 濃い木の扉。


 窓辺には花が飾られている。


 入口の看板には、


「喫茶みのり」


 と書かれていた。


「ここ?」


 幸が尋ねる。


「ああ」


 龍弥は扉の前で、少し緊張したように立ち止まった。


 扉を開けると。


 紅茶の香りと、焼き菓子の甘い匂いが広がった。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から、一人の女性が姿を見せる。


 三十代半ばほど。


 穏やかな笑顔。


 どこか、あの老婆を思わせる目元。


「篠田さんですね」


「ああ」


「ご無沙汰しとります」


 女性は、深く頭を下げた。


「井山実里です」


 彼女は。


 あの坂の上の喫茶店を営んでいた老婆の孫だった。


祖母から聞いた四人


 実里は、五人を窓際の大きなテーブルへ案内した。


「祖母から、何度も聞いとりました」


「若い男女四人が」


「紅茶とチーズケーキば囲んで」


「ものすごくにぎやかに話しよったって」


 龍弥は苦笑する。


「幸さんが、特ににぎやかやったでしょう」


「はい」


 実里は笑う。


「祖母は」


『あの幸ちゃんは、店のチーズケーキば全部食べる勢いやった』


「そう言いよりました」


 長女の幸が、頭を抱える。


「ここでも食いしん坊情報」


 恵がすかさず返す。


「もう世界共通認識やね」


「世界まで広げんで」


 実里は、二人のやり取りを見て、目を潤ませた。


「似とりますね」


「祖母が話してくれた、幸さんと恵さんに」


 夏菜子が静かに答える。


「名前も、二人からいただきました」


「そうでしたか」


 実里は、龍弥へ目を向けた。


「篠田さん」


「よう来てくださいました」


 龍弥は、店内を見渡す。


「昔の店と、雰囲気が似とる」


「祖母が使っていた椅子と、カップを一部残しとります」


 実里は、棚を指した。


 そこには、古いティーカップが四客並んでいた。


「四つ」


 幸が数える。


「祖母が、最後まで大事にしとったものです」


 実里の声が静かになる。


「原爆で店は壊れました」


「祖母もけがばしました」


「それでも生き延びて」


『いつか、あの四人がまた店に来るかもしれん』


「そう言って、残ったカップば手放さんかったそうです」


 龍弥は、何も言えなかった。


 四人は。


 もう二度とそろって地上の店へ来ることはない。


 それでも。


 老婆は待っていた。


思い出のチーズケーキ


 実里は、厨房へ戻った。


 しばらくすると。


 大きな皿に載せたチーズケーキと、紅茶を運んできた。


「祖母のレシピを、できるだけ再現しました」


 淡い焼き色。


 ふっくらした生地。


 甘さは控えめ。


 紅茶の香りが、静かに立ち上る。


 龍弥は、ケーキを見つめたまま動かなかった。


 二十年前。


 あの日。


 同じような皿を囲んだ。


 幸は勝男の分を狙い。


 恵は姉へツッコミを入れ。


 勝男は汽車の話を始め。


 龍弥は、恵の横顔ばかり見ていた。


「父ちゃん?」


 次女の恵が呼びかける。


「ああ」


 龍弥は我に返る。


「食べようか」


 五人は、手を合わせた。


「いただきます」


 幸が一口食べる。


 目を大きく見開く。


「おいしか!」


 恵も口へ運ぶ。


「ほんとやね」


 勝一は、口の周りへクリームをつけながら夢中で食べている。


 夏菜子も、ゆっくり味わう。


「優しい味やね」


 龍弥は。


 最後に一口食べた。


 味が。


 記憶を一気に連れ戻した。


 あの日の店。


 窓から見えた港。


 恵の笑い声。


 幸の大きな声。


 勝男の汽車話。


 老婆の穏やかな眼差し。


 龍弥の目から、涙が落ちた。


「父ちゃん」


 幸が心配そうに見る。


「大丈夫」


 龍弥は、涙を拭きながら笑った。


「懐かしかだけたい」


五人と、もう四人


 実里は、少し離れたところから家族を見守っていた。


 龍弥が、空いている席へ目を向ける。


 四人掛けの隣のテーブル。


 そこに。


 幸。


 恵。


 勝男。


 そして、若い自分がいるように見えた。


『龍弥さん、紅茶冷めるよ』


『勝男さん、また汽車の話しよる』


『幸さん、僕のケーキ取らないでください』


『一口だけたい』


『一口が大きすぎると!』


 龍弥は、心の中で呼びかける。


「みんな」


「また来たよ」


「今度は、家族五人で」


 夏菜子が、そっと龍弥の手へ触れる。


「一緒に食べよるよ」


「うん」


 龍弥はうなずいた。


「きっと」


実里の願い


 食事を終えたあと。


 実里は、祖母が残した小さな手帳を持ってきた。


 そこには。


 客の名前。


 好きだった菓子。


 印象に残った会話。


 店で起きた出来事。


 短い記録が書かれていた。


 あるページに。


『幸ちゃん、恵ちゃん。勝男さん、龍弥さん』


 とある。


 その下に。


『四人で北海道へ行くと言う。帰ってきたら旅の話を聞かせてもらうこと』


 そう書かれていた。


 龍弥は、手帳へ触れることもできず、ただ見つめた。


「祖母は」


 実里が言う。


「最後まで、旅の話ば聞くのを楽しみにしとりました」


「すみません」


 龍弥の口から、思わず言葉が出た。


「謝らんでください」


 実里は首を横に振る。


「篠田さんが生きて来てくださった」


「今日、子どもさんたちと来てくださった」


「それで、祖母との約束も、少し続いたと思います」


 実里は、幸と恵へ微笑む。


「いつか、北海道へ行ったら」


「旅の話ば聞かせてください」


 長女の幸がすぐに答える。


「うん!」


 次女の恵も続く。


「でも、お姉ちゃんが駅弁ば全部食べるかもしれん」


「まだ決まっとらんやろ!」


「名前が幸やけん」


「名前のせいにせんで!」


 店の中に、笑い声が広がる。


 実里は、その声を聞きながら。


 目元を押さえた。


「祖母が聞いたら、喜ぶと思います」


帰る前に


 店を出る前。


 龍弥は、四客の古いティーカップの前で静かに頭を下げた。


「おばあさん」


「遅くなりました」


「旅の話は、まだできんけど」


「子どもたちば連れて来ました」


「幸さんと恵さんの名前ばもらった子たちです」


「勝男さんや勝一さんのことも」


「ちゃんと伝えていきます」


 実里も、隣で手を合わせた。


「おばあちゃん」


「また、にぎやかな人たちが来てくれたよ」


 店の外では。


 夕方の風が吹いている。


 五人が外へ出る。


 坂の向こうへ、長崎の町が広がっていた。


 幸が言う。


「父ちゃん」


「また来ようね」


「ああ」


「次はチーズケーキ二個食べてよか?」


 恵がすぐに返す。


「一個にしとき。幸さんと同じ道進みよるよ」


「幸さんの名ば継ぐ責任たい」


「食いしん坊まで継がんでよか!」


 龍弥と夏菜子は。


 顔を見合わせて笑った。


 喫茶店の窓辺で。


 実里も、五人の背中を見送りながら笑っていた。


空の喫茶店


 雲の上。


 小さな喫茶店。


 窓の外には、白い雲と青い空。


 テーブルには紅茶とチーズケーキ。


 幸。


 恵。


 勝男。


 そして、老婆が座っていた。


 老婆は地上を眺めながら、満足そうに笑う。


「やっと来てくれたね」


 幸は、チーズケーキへ手を伸ばす。


「おばあちゃん、うちの分大きくない?」


 恵が横から皿を確認する。


「同じ大きさたい」


「いや、勝男さんの方が少し大きい」


「気のせいです」


 勝男が皿を遠ざける。


「幸さん、これは僕のです」


「一口だけ」


「一口が半分やろ」


 老婆が声を立てて笑う。


「相変わらずやねぇ」


 恵は、地上の喫茶店を見つめる。


「実里さん」


「お店、守ってくれてありがとう」


 勝男も、静かにうなずく。


 幸は。


 新しい幸と恵が、坂道を下っていく姿を見て笑った。


「うちらより、にぎやかになるかもしれんね」


 恵が返す。


「お姉ちゃん一人分の火力で、十分にぎやかやったけど」


「まだ言う?」


「天国でも言う」


 四人の笑い声と。


 老婆の笑い声が。


 空の喫茶店へ響く。


 地上でも。


 新しい姉妹の笑い声が、長崎の夕暮れへ溶けていった。

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