大村鐵工所の跡地
十三 大村鐵工所の跡地
翌朝。
龍弥たち家族五人は、長崎市内を歩いていた。
八月の陽射しが、路面を白く照らしている。
電車が走り。
商店の前には商品が並び。
子どもたちの声が通りへ響く。
二十年前。
焼け跡と瓦礫に覆われていた町には、再び人々の暮らしが戻っていた。
それでも龍弥には、現在の町並みの向こうへ、あの日の長崎が重なって見えることがあった。
「父ちゃん、どこ行くと?」
七歳の幸が尋ねる。
「もう少し先たい」
「何があると?」
今度は五歳の恵が聞いた。
龍弥は、少し間を置いて答えた。
「お前たちの名前の人が育った家族の仕事場」
「仕事場?」
「ああ」
「大村鐵工所があったところたい」
その名前を聞いて、幸と恵は顔を見合わせた。
前日の夜。
父から聞いた話。
幸と恵の父・大村勝一。
母・節子。
双子の娘たち。
そして、家族の暮らしを支えていた鐵工所。
子どもたちは、昨日まで知らなかった人々の名前を、胸の中で何度も繰り返していた。
焼け跡の上の町
やがて龍弥は、通りの一角で足を止めた。
そこには、新しい建物が並んでいた。
小さな商店。
自転車修理店。
倉庫。
人々が働き、荷物を運び、声を掛け合っている。
大村鐵工所の建物は、もう残っていない。
看板も。
炉も。
工具台も。
鉄を叩く音も。
何一つなかった。
龍弥は、歩道の端へ立った。
「ここたい」
幸が周囲を見回す。
「どこにあったと?」
「この辺り一帯」
龍弥は、道路の向こうを指した。
「昔は、あそこに作業場があって」
「入口に大村鐵工所って書いた看板が掛かっとった」
「勝一さんが、毎朝一番に戸ば開けよった」
「鉄ば切ったり、曲げたりする音が、通りまで聞こえよった」
三歳の勝一が、龍弥の手を握る。
「かついちさん、ここ?」
「ああ」
「お前と同じ名前の勝一さんが、ここで働いとった」
「つよかった?」
「強かったよ」
「でも、一番強かったのは腕やなくて」
龍弥は息子の小さな手を包む。
「家族ば守ろうとする心やった」
思い出の鐵工所
龍弥は、かつて何度も訪れた鐵工所を思い出していた。
油の匂い。
鉄粉のついた床。
真夏には息苦しいほど熱くなった作業場。
勝一は、汗を拭いながらも、職人たちへ声を掛け続けていた。
『急いでも、指一本失うたら終わりたい』
『仕事は納期より、まず人の命ばい』
戦争が激しくなると、鐵工所には軍需部品の注文が増えた。
勝一は、その部品がどこで使われるのかを知ろうとした。
知らないまま作ることに、苦しんでいた。
『うちが作った鉄が、誰かば傷つけるかもしれん』
そう呟いた夜もあった。
それでも仕事を断れば、職人たちとその家族が生きていけない。
自分たちも、戦争を支える仕組みの中へ組み込まれていた。
龍弥は、子どもたちへそのことも話した。
「勝一さんはな」
「軍需の仕事ば喜んでしよったわけやなか」
「働かんば、家族も職人さんたちも食べていけん」
「でも、作ったものが誰かば傷つけることも分かっとった」
幸が尋ねる。
「やめられんかったと?」
「簡単には、やめられんかった」
「戦争はな」
「戦地に行った人だけやなくて」
「町で普通に働いとる人まで、戦争の一部にしてしまうとよ」
幸は、新しい建物が並ぶ通りを見つめた。
「勝一さん、苦しかったやろうね」
「ああ」
「それでも、ここで働く人の安全だけは、最後まで守ろうとしよった」
節子の弁当
夏菜子が、静かに龍弥へ尋ねる。
「節子さんも、ここへ来よったと?」
「よう来よった」
龍弥の表情が、少しだけ和らぐ。
「昼になったら、勝一さんの弁当ば持ってきて」
「ついでに職人さんたちへも、漬物や芋ば分けよった」
「自分の家の分も少なかったやろうにね」
「あの人は、そういう人やった」
龍弥は笑う。
「勝一さんが弁当箱ば開ける前に、幸さんが中身ば確認しに来ることもあった」
長女の幸が反応する。
「食べたと?」
「食べようとした」
「お姉ちゃんと一緒やね」
五歳の恵が言う。
「まだ食べてないやろ!」
「昨日、勝一のスイカ取ろうとした」
「一口だけたい」
「一口が大きすぎると」
姉妹の掛け合いに、龍弥は思わず笑った。
夏菜子も笑いながら、二人の肩へ手を置く。
「ここで姉妹喧嘩せんの」
「喧嘩やなか。話し合いたい」
「食べ物をめぐる話し合いは、だいたい喧嘩になるとよ」
龍弥の耳に、二十年前の幸と恵の声が重なる。
まったく同じではない。
けれど、どこか似ている。
過去がそのまま戻ってきたのではなく。
新しい時代に、新しい姉妹の笑い声が生まれていた。
花を置く
夏菜子は、持ってきた小さな包みを開いた。
中には、白い花と、黄色い花があった。
「ここへ置いてよかと?」
「ああ」
龍弥は、通行の邪魔にならない歩道脇の一角へ、花を静かに置いた。
そこに墓標はない。
慰霊碑もない。
大村鐵工所が存在したことを示す札さえなかった。
町は復興し、土地の姿は変わった。
だが龍弥の中には、あの日までここで働き、笑い、悩んだ人々が残っている。
龍弥は、その場へ膝をついた。
夏菜子も隣に座る。
幸。
恵。
勝一。
三人の子どもたちも、両親のまねをして静かに並んだ。
「手ば合わせよう」
龍弥が言う。
五人は、そっと両手を合わせた。
龍弥の祈り
「勝一さん」
「節子さん」
龍弥は、目を閉じたまま語りかける。
「二十年たちました」
「町は、ここまで戻りました」
「鐵工所は残っとらんけど」
「ここで皆が働いとったことは、俺が覚えとります」
「勝一さんが」
『安全ば後回しにする仕事は仕事やなか』
「そう言いよったことも」
「節子さんが、少ない食べ物ば皆へ分けよったことも」
「幸さんと恵さんが、ここへ来て笑いよったことも」
龍弥の声が震える。
「昨日」
「子どもたちへ話しました」
「皆さんが、どんな人やったか」
「どんなふうに生きたか」
「どんな未来ば願っとったか」
「この子たちは」
「皆さんの代わりやありません」
「自分たちの人生ば生きていきます」
「でも」
「皆さんの名前と、生きたことば」
「これからも伝えていきます」
子どもたちの言葉
長女の幸が、目を閉じたまま口を開いた。
「幸さん」
「うちは、まだ七歳やけん」
「難しいことは、よう分からんけど」
「おかしいことを、おかしいって言える人になりたいです」
「でも、父ちゃんが言うように」
「怖いときは、怖いって言います」
龍弥の頬を涙が伝った。
次女の恵も続ける。
「恵さん」
「うちは、父ちゃんと母ちゃんと、お姉ちゃんと勝一が大好きです」
「恵さんも、家族が大好きやったって聞きました」
「うちも、優しくします」
少し考えてから付け加える。
「でも、お姉ちゃんが勝一のお菓子取ったら、ちゃんと怒ります」
幸が目を開く。
「今ここで言うこと?」
「大事なことやろ」
夏菜子が、笑いをこらえながら二人の背中を撫でる。
三歳の勝一も、姉たちを見てから、手を合わせた。
「かついちさん」
「ぼく、ぽっぽにのる」
龍弥は、涙を流しながら笑った。
「それでよかよ」
「勝一さんも、きっと笑いよる」
夏菜子から大村家へ
最後に、夏菜子が目を閉じた。
「勝一さん」
「節子さん」
「幸さん」
「恵さん」
「はじめまして、と言うには」
「もう二十年も、龍弥さんから皆さんのお話ば聞いてきました」
「龍弥さんは」
「皆さんを忘れた日は、一日もありません」
「でも」
「私と子どもたちのことも、大切にしてくれています」
「私は、恵さんの代わりにはなれません」
「なるつもりもありません」
「ただ」
「恵さんが生きてほしいと願った龍弥さんと」
「これからも一緒に暮らしていきます」
「皆さん」
「どうか、見守ってください」
夏菜子は、深く頭を下げた。
龍弥は、彼女の横顔を見つめた。
恵を愛した過去。
夏菜子と生きる現在。
どちらも嘘ではない。
どちらかを消す必要もない。
龍弥は、夏菜子の手をそっと握った。
工場の音
しばらく五人は、その場に立っていた。
近くの建物から、金属を叩く音が聞こえてきた。
カン。
カン。
カン。
三歳の勝一が顔を上げる。
「音する」
「ああ」
「鉄ば叩きよる音たい」
「大村鐵工所も、こんな音?」
「そうたい」
龍弥は耳を澄ませた。
二十年前。
この場所に響いていた音。
働く人の声。
炉の熱。
工具の音。
幸と恵の笑い声。
今は別の人々が、別の仕事をし、別の暮らしを支えている。
町は同じ姿には戻らない。
亡くなった人も戻らない。
それでも、人はまた働き。
家族を養い。
誰かの帰りを待つ。
「父ちゃん」
幸が尋ねる。
「大村鐵工所って、もうないと?」
「建物は、もうなか」
「じゃあ、なくなったと?」
龍弥は首を横に振った。
「いや」
「ここにあったって覚えとる人がおる限り」
「完全には、なくならん」
幸は、花が風に揺れるのを見つめた。
「うちも覚えとく」
「うちも」
恵も答える。
「ぼくも」
勝一も姉たちに続いた。
帰り道
五人は、もう一度静かに頭を下げた。
龍弥が立ち上がる。
「行こうか」
幸が父の手を握る。
反対側では、恵が夏菜子の手を握った。
勝一は、姉二人の間を歩く。
少し進んだところで、長女の幸が振り返った。
「父ちゃん」
「何ね」
「今度来るとき、お菓子持ってきてよか?」
「何で?」
「幸さん、食いしん坊やったんやろ?」
「お姉ちゃんが食べたいだけやん」
恵のツッコミが飛ぶ。
「違うよ。お供えたい」
「半分は自分で食べるつもりやろ」
「残したらもったいなかやん」
「もう残す前提やん」
龍弥と夏菜子は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
大村鐵工所があった場所から、姉妹の声が遠ざかっていく。
かつて幸と恵も、こうして笑いながら帰ったのかもしれない。
花の横を、夏の風が通り抜けた。
白い花と黄色い花が、小さく揺れる。
その向こうで。
鉄を叩く音が、いつまでも響いていた。
空の上から
雲の上。
幸と恵は、地上の家族を見つめていた。
幸は目を潤ませながらも、どこか不満そうに口を尖らせる。
「うち、食いしん坊として紹介されすぎやない?」
恵がすぐに返す。
「事実やけん、しょうがなか」
「ほかにも、もっとええところあったやろ」
「ちゃんと強くて優しい人って言われとったやん」
「そのあと全部、駅弁に持っていかれた」
勝男が隣で笑う。
「幸さんらしくていいと思いますよ」
「勝男さんまで!」
少し離れた場所には、勝一と節子がいた。
勝一は、大村鐵工所の跡地へ置かれた花を見つめている。
「新しい勝一は、蒸気機関車が好きか」
節子が微笑む。
「あなたと気が合いそうね」
「俺は鉄道員じゃなかぞ」
「でも、男の子と乗り物の話するの好きやったでしょう」
恵は、地上を歩く龍弥と夏菜子を見つめた。
「龍弥さん」
「連れてきてくれて、ありがとう」
そして、自分と同じ名前を持つ五歳の少女を見る。
「恵ちゃん」
「うちの代わりにならんでよかよ」
「お姉ちゃんといっぱい喧嘩して」
「いっぱい笑って」
「自分の人生ば生きてね」
幸も、七歳の少女へ向かって言う。
「幸ちゃん」
「食べ物だけは、妹の分まで取ったらいかんよ」
恵が振り向く。
「お姉ちゃんが言う?」
「反省ば生かした助言たい」
「天国に来てから反省したと?」
「今した」
「遅か」
空の上に、姉妹の笑い声が響く。
地上では。
新しい幸と恵の笑い声が、長崎の町を歩いていた。
過去は戻らない。
けれど。
生きた人の名前と、笑いと、願いは。
新しい時代へ、静かに受け渡されていた。




