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幸と恵の物語  作者: リンダ


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名前に込められた人たち

 

「名前に込められた人たち」

 昭和四十年八月十五日


 昭和四十年、八月十五日。


 戦争が終わってから、二十年。


 そして、恵が二十二歳で生涯を閉じてから、まもなく二十年を迎える夏だった。


 午後の陽射しが、篠田家の縁側へ静かに差し込んでいた。


 庭からは、蝉の声が聞こえる。


 遠くでは、列車が鉄橋を渡っていく音がした。


 かつて焼け野原だった町には、新しい家が建ち、道路が整えられ、子どもたちの声が戻っている。


 龍弥も、四十二歳になっていた。


 長崎で被爆したあと、一時は命さえ危ぶまれた。


 それでも、恵の願いを胸に生き抜いた。


 造船技師として働き、人を運ぶ船を造りながら、機会があれば学校や集会へ出向き、あの日に見た長崎について語っている。


 その龍弥の隣には、妻の夏菜子がいた。


 昭和三十年。


 恵を失ってから十年が過ぎた年に、龍弥は夏菜子と結婚した。


 夏菜子は佐賀県佐賀市の出身。


 結婚した当時、三十二歳だった。


 偶然にも、もし恵が生きていれば同じ年齢だった。


 夏菜子は、龍弥の過去をすべて知っていた。


 恵という女性を深く愛していたこと。


 結婚後、ほとんど一緒に暮らせなかったこと。


 長崎の焼け跡を駆け回り、救護所でようやく再会したこと。


 そして、龍弥の腕の中で、恵が息を引き取ったこと。


 そのすべてを知ったうえで、夏菜子は龍弥と人生を歩くことを選んだ。


 二人の間には、三人の子どもがいた。


 七歳の長女・幸。


 五歳の次女・恵。


 三歳の長男・勝一。


 その日、三人は居間で麦茶を飲みながら、母が切ったスイカを食べていた。


 ラジオでは、正午に行われた全国戦没者追悼式について伝えている。


 龍弥は、部屋の隅に置かれた仏壇へ目を向けた。


 焼け残った廃材を使い、自分で作った小さな仏壇。


 年月が流れ、何度か補修を重ねていた。


 中央には、写真の代わりに白い布の花。


 その下には、きれいに洗い、大切に保管してきた包帯の切れ端。


 そして、幸が恵へ送った、焦げた最後の手紙が置かれていた。


 夏菜子は、龍弥の視線に気づいた。


「今日、話すと?」


 龍弥は、少し迷ってからうなずいた。


「ああ」


「そろそろ、ちゃんと話さんばと思う」


 夏菜子は何も言わず、麦茶の入った湯飲みを龍弥の前へ置いた。


「無理せんでよかよ」


「でも、隠したままにはしたくなか」


 龍弥は、三人の子どもたちへ顔を向けた。


「幸。恵。勝一」


 三人が一斉に振り返る。


「なあに?」


 長女の幸が答える。


「ちょっと、父ちゃんの話ば聞いてくれるか」


 いつもとは違う父の声に、幸は食べかけのスイカを皿へ戻した。


 次女の恵も、口元を拭く。


 三歳の勝一は、事情が分からないまま、夏菜子の膝へ寄り添った。


 龍弥は、子どもたちの前へ正座した。


 しばらく、何から話せばよいのか分からなかった。


 七歳の幸が、先に尋ねる。


「父ちゃん」


「うちの名前って、どうして幸なの?」


 龍弥の胸が、わずかに揺れた。


 いつかは聞かれると思っていた。


 けれど、その日が来ることを、どこかで恐れてもいた。


「父ちゃんが、好きな名前やったと?」


「ああ」


「大切な人の名前なん?」


 子どもの勘は鋭い。


 龍弥は、仏壇へ目を向けた。


「そうたい」


 次女の恵も、すぐに尋ねる。


「じゃあ、うちの名前も?」


「ああ」


「勝一も?」


 三歳の勝一が、自分の胸を指差す。


「かついち?」


「そう。勝一も、大切な人の名前たい」


 龍弥は一度、深く息を吸った。


「幸という人と」


「恵という人と」


「勝一という人がおった」


「父ちゃんにとって、絶対に忘れたらいかん人たちたい」


 一 幸という姉


 龍弥は、まず長女の幸を見た。


「幸はな」


「父ちゃんの最初の妻やった恵さんの、お姉さんたい」


 七歳の幸が目を丸くした。


「お姉さん?」


「双子のお姉さん」


「うちと恵みたいな?」


「そうやね。年は同じやったけど、幸さんがお姉ちゃんやった」


 次女の恵が、姉の幸を見る。


「お姉ちゃん、幸さんと同じ名前なん?」


「そうみたい」


 龍弥は、少しだけ笑った。


「幸さんは、よう笑う人やった」


「明るくて、思ったことばすぐ口にする人で」


「ときどき、恵さんが困るくらい、変なことば言う人やった」


 長女の幸が笑う。


「うちと同じ?」


 夏菜子が、横から静かに言う。


「よう似とるかもしれんね」


「母ちゃんまで」


 幸が頬を膨らませる。


 龍弥も、久しぶりに声を立てて笑った。


 だが、すぐにその笑顔は静かなものへ変わった。


「幸さんは、正しいと思ったことば、ちゃんと言える人やった」


「戦争中は、国の言うことに逆らったら、悪い人みたいに言われる時代やった」


「それでも幸さんは」


『人ば殺した数で英雄ば決めるなんて、おかしか』


「そう言える人やった」


 七歳の幸は、父の顔を見つめる。


「怖くなかったと?」


「怖かったと思う」


「怖くても言ったと?」


「ああ」


「黙った方が楽やったかもしれん。それでも、黙らんかった」


 龍弥は、少し誇らしそうに続けた。


「それから、幸さんは汽車が大好きやった」


「ほんとは、汽車より駅弁が好きやったかもしれんけど」


 次女の恵が、くすりと笑う。


「食いしん坊?」


「かなりのね」


「北海道へ行ったら、駅弁ば全部食べるって言いよった」


 長女の幸は、目を輝かせる。


「父ちゃん、北海道って遠いと?」


「遠かよ」


「汽車で何日もかかる」


「行ったことある?」


 龍弥の声が止まる。


「……まだ、なか」


 夏菜子がそっと龍弥を見る。


 龍弥は、仏壇へ置かれた四枚の切符を思い出すように続けた。


「いつか、行く約束ばしとった」


「幸さんと」


「幸さんの夫の勝男さんと」


「恵さんと」


「父ちゃんの四人で」


「でも、その約束は果たせんかった」


 二 勝男という鉄道員


「勝男さんって誰?」


 幸が尋ねた。


「幸さんの旦那さん」


「蒸気機関車ば運転する鉄道員やった」


「機関車?」


 三歳の勝一が反応する。


「ぽっぽ?」


「そう。煙ば出して走る、ぽっぽたい」


「父ちゃんより強かった?」


「機関車が?」


「うん」


「そりゃ機関車の方が強か」


 勝一は満足そうにうなずく。


 その無邪気な姿に、夏菜子が小さく笑った。


 龍弥は、勝男について語った。


 長崎機関区で原田から鉄道員の仕事を学んだこと。


 軍需列車であっても、安全を無視した命令には従わなかったこと。


 瀬野八の急勾配で、重量貨物列車を押し上げたこと。


 燃料列車を空襲から守るため、トンネルへ退避させたこと。


 そして、親元から離される子どもたちを三次や備後庄原へ運んだこと。


「勝男さんは、汽車ば動かす人やった」


「でも、本当に運んどったのは、荷物だけやなかった」


「人の命ば運びよった」


 幸は、静かに聞いている。


「その勝男さんと幸さんは、広島に住んどった」


「父ちゃんたちと離れとったと?」


「ああ」


「幸さんは、勝男さんの広島への転勤が決まったとき、妻になって一緒に行くことば選んだ」


「一人にしたくなかったんやろうね」


「好きやったから?」


「そうたい」


 龍弥はうなずいた。


「好きな人の隣で生きたかった」


「今の幸と同じくらいの頃には、そんな未来が来るなんて思ってもなかったやろうけど」


「大人になって恋ばして」


「結婚して」


「夫の帰ってくる家ば作った」


 三 恵という女性


 次女の恵は、ずっと黙っていた。


 自分と同じ名前の女性。


 父の最初の妻。


 母ではない。


 けれど、父にとって決して忘れることのできない人。


「父ちゃん」


「うん」


「恵さんって、どんな人やったと?」


 龍弥は、すぐには答えられなかった。


 胸の奥から、二十年前の声が戻ってくる。


『龍弥さん』


『だいすき』


『幸せに暮らして』


 龍弥の目に涙が浮かんだ。


「優しい人やった」


 声が震える。


「でも、ただおとなしい人やなかった」


「幸さんが変なこと言うたら、すぐツッコミ入れよった」


「父ちゃんが仕事ばかりしよったら、ちゃんと休まんねって怒ってくれた」


「困っとる人がおったら、自分もお腹すいとるのに、食べ物ば分けようとする人やった」


「自分が倒れたときも」


『うちだけ食べてもいいと? みんなもお腹すいとるやろ』


「そう言う人やった」


 次女の恵は、父の涙をじっと見ている。


「父ちゃん、恵さんのこと好きやったと?」


「ああ」


 龍弥は迷わず答えた。


「心から愛しとった」


 夏菜子の表情は変わらない。


 その言葉を否定する必要がないことを、彼女は分かっていた。


 龍弥は続ける。


「父ちゃんと恵さんは、結婚した」


「でも、一緒に暮らせた時間は、ほんの少しやった」


「父ちゃんが佐世保の方へ働きに行かされたけん」


「戦争のために?」


 七歳の幸が尋ねる。


「そうたい」


「父ちゃんは造船所で、軍艦を造る仕事ばしよった」


「本当は、人を乗せる船ば造りたかった」


「でも、戦争中は選べんかった」


 龍弥は、自分の両手を見る。


 もう若い頃ほど火傷の痕は目立たない。


 それでも、溶接の熱と長崎の熱線を、手は覚えているようだった。


「恵さんは、長崎で父ちゃんの手紙ば待ちよった」


「毎日、郵便受けば開けて」


「今日こそ来るって」


「でも、空襲や検閲で、手紙が届かん日も多かった」


「寂しかったやろうね」


 次女の恵が小さく言う。


「寂しかったと思う」


「それでも、父ちゃんば責めんかった」


 四 八月六日と八月九日


 蝉の声が、急に遠くなったように感じられた。


 龍弥は、膝の上で両手を組んだ。


「昭和二十年八月六日」


「広島に、大きな爆弾が落とされた」


「原子爆弾」


 幸は、学校で少し聞いたことがあった。


「一個の爆弾で、町が焼けたと?」


「ああ」


「幸さんと勝男さんは、その朝、広島におった」


「幸さんは、官舎から出る準備ばしよった」


「勝男さんは、広島機関区で働きよった」


 龍弥の声が、次第に細くなる。


「二人とも」


「互いの名前ば呼ぶ時間もなかった」


「強い光と熱で、命ば奪われた」


 七歳の幸が、息をのむ。


「幸さん、死んだと?」


「ああ」


「二十二歳やった」


「若かったと?」


「とても若かった」


「今の幸が、あと十五年生きたくらい」


 幸には、二十二歳という年齢がまだ遠く感じられた。


 だが、父が「若かった」と言う声から、その短さだけは伝わった。


「その三日後」


「八月九日」


「今度は長崎に、同じような爆弾が落とされた」


 次女の恵が、父の袖を握った。


「恵さんは?」


「長崎におった」


「恵さんのお父さんとお母さんも」


「二人とも亡くなった」


「恵さんは大けがばしたけど、すぐには亡くならんかった」


 龍弥の目から、涙が落ちる。


「父ちゃんは、そのとき佐世保におった」


「長崎の方に、大きな雲が上がるのば見た」


「その下に恵さんがおる」


「そう思った」


「父ちゃん、怖かった?」


 幸が尋ねる。


「怖かった」


「怖くて」


「恵さんの名前ば、何度も叫んだ」


「汽車も道路も壊れとった」


「それでも、歩いて長崎へ戻った」


「救護所を一つずつ探した」


「寝かされとる人の顔ば、一人ずつ見た」


「誰かの大切な家族やった」


「でも」


「恵さんやなかった」


 声が詰まる。


 夏菜子が、龍弥の背中へそっと手を置いた。


「ようやく」


「寺の本堂で、恵さんば見つけた」


 龍弥は、二十年前の薄暗い救護所を見ているようだった。


「父ちゃんが名前ば呼んだら」


「恵さんが、目ば開けた」


『た……つ……や……さん?』


 龍弥の口から、当時の恵の声がこぼれる。


「父ちゃんは」


『俺だよ。龍弥だよ。恵さんに会うために帰ってきた』


「そう言うた」


「そしたら恵さんが」


『あり……が……とう』


『だ……い……すき』


「そう言ってくれた」


 龍弥は、もう涙を止められなかった。


 七歳の幸も泣いていた。


 五歳の恵は、父の膝へ手を置いた。


 三歳の勝一は、母の膝から降り、父の隣へ座る。


 五 北海道へ行こう


「恵さんは、すぐ死んだと?」


 次女の恵が尋ねた。


「いや」


「終戦の日から、一週間、生きた」


「戦争が終わったあとも?」


「ああ」


「戦争が終わったからって、傷が消えるわけやなかった」


 龍弥は、恵と交わした最後の旅の話を子どもたちへ伝えた。


「父ちゃんたちは、救護所で北海道旅行の話ばした」


「北海道?」


 幸が涙を拭いながら聞く。


「長崎から夜汽車で大阪へ行って」


「大阪から日本海に沿って北へ向かって」


「青森から船に乗って函館へ渡る」


「函館で一泊して」


「羊蹄山ば見ながら札幌へ向かう」


「恵さんは」


『見てみたか』


「そう言った」


「行ったことなかったと?」


「一度も」


「でも、話しよる間だけは、もう汽車に乗っとるみたいやった」


 龍弥の声に、少しだけ温かさが戻る。


「幸さんと勝男さんの席も用意して」


「四人で旅行するつもりやった」


「その話ばしながら、恵さんは笑った」


 六 託された言葉


 龍弥は仏壇の前へ移動した。


 三人の子どもたちも、父の後ろへついていく。


 龍弥は、焦げた手紙を傷つけないよう、透明な覆いの上から指差した。


「これは、幸さんが恵さんへ送った最後の手紙」


「飛行機の絵が描いてある」


 幸が、涙の残る顔で覗き込む。


「これ、飛行機?」


 次女の恵が首を傾げる。


「魚みたい」


 龍弥は、泣きながら笑った。


「恵さんも、同じこと言うた」


「これは飛行機ではありません。姉の想像上の生き物ですって」


 子どもたちも、少しだけ笑った。


「原爆が落ちる前」


「二人が交わした最後の笑えるやり取りたい」


 龍弥は、今度は包帯の切れ端を指した。


「これは、恵さんが最後に身につけとった包帯」


「遺骨は、ほとんど残らんかった」


「写真も焼けて、一枚も残らんかった」


「だから父ちゃんは、この包帯ば洗った」


「きれいな水で」


『恵。きれいに洗ったよ』


「そう話しかけながら」


 夏菜子が、目元を押さえる。


 龍弥は子どもたちへ向き直った。


「恵さんは、亡くなる前に父ちゃんへ言った」


『生きて』


『戦争に、心まで持っていかれんで』


『人を運ぶ船ば造って』


『広島と長崎で起きたことば伝えて』


『北海道行きの切符は、四人分買って』


「そして」


 龍弥は、一度言葉を止めた。


『幸せに暮らして』


「そう言ってくれた」


 七歳の幸が、夏菜子を見る。


「だから、父ちゃんと母ちゃんは結婚したと?」


 部屋が静かになる。


 夏菜子は、幸の目を見てうなずいた。


「それだけが理由やないよ」


「母ちゃんは、父ちゃんを好きになった」


「父ちゃんも、母ちゃんと一緒に生きたいと思ってくれた」


「でもね」


「父ちゃんの心に、恵さんがおることも知っとった」


「それで嫌じゃなかったと?」


 五歳の恵が尋ねた。


 夏菜子は少し考える。


「最初は、怖かったよ」


「うちは、恵さんの代わりにはなれんって思った」


「でも、代わりにならんでよかった」


「母ちゃんは母ちゃん」


「恵さんは恵さん」


「どっちも、父ちゃんの人生に大切な人やけん」


 龍弥が、夏菜子の手を握った。


「夏菜子には、ほんまに感謝しとる」


 七 三つの名前


 龍弥は、まず長女の幸の肩へ手を置いた。


「幸」


「はい」


「幸さんみたいになれとは言わん」


「幸さんの代わりになれとも言わん」


「お前は、お前の人生ば生きてよか」


「ただ」


「誰かの言うことを、そのまま信じるんやなくて」


「自分で考えられる人になってほしかった」


「それから」


「人の幸せを願える人になってほしかった」


 幸は泣きながらうなずいた。


「うち、幸さんみたいに強くなれるかな」


「強くならんでもよか」


「怖いときは怖いって言ってよか」


「でも、人の命ば軽く扱う側には行かんでほしか」


 次に、龍弥は五歳の恵を見た。


「恵」


「うん」


「お前の名前には」


「人への思いやりば忘れんでほしいという願いば込めた」


「でも、恵さんみたいに我慢ばかりせんでよか」


「自分が苦しいときは、苦しいって言ってよか」


「自分の幸せも大事にしてよか」


 恵は、父へ抱きついた。


「父ちゃん、泣かんで」


 その言葉に、龍弥はさらに泣いた。


 最後に、三歳の勝一を膝へ抱き上げる。


「勝一」


「うん」


「お前は、恵さんと幸さんのお父さんの名前ばもらった」


「家族を大切にする人やった」


「でも、名前が同じでも、お前はお前たい」


「誰かに勝つ強さより」


「誰かを守れる強さば持ってほしか」


 勝一はよく分からないまま、父の涙を小さな手で拭いた。


「父ちゃん、いたい?」


「痛くなかよ」


「じゃあ、なんで泣くと?」


 龍弥は、息子を抱きしめる。


「大切な人ば思い出しよるけん」


 八 夏菜子の願い


 夏菜子は、三人の子どもたちを見渡した。


「幸も」


「恵も」


「勝一も」


「名前の人の代わりに生きんでよかよ」


「亡くなった人の分まで頑張らんば、なんて思わんでよか」


「それぞれ、自分の分ば生きるとよ」


 その言葉は、かつて澄江が子どもたちへ残した願いとも重なっていた。


 龍弥は、夏菜子の横顔を見つめた。


「夏菜子」


「何ね」


「結婚してくれて、ありがとう」


「今ごろ言うと?」


「毎日言うても足りん」


 夏菜子は涙をぬぐいながら笑った。


「なら、明日も言ってもらおうかね」


「明後日も言う」


「忘れたら?」


「幸と恵に叱ってもらう」


 七歳の幸が、すぐに言う。


「一回十円ね」


 五歳の恵も続ける。


「うちは五円でよかよ」


「安売りせんで」


 幸が妹へツッコミを入れる。


 その瞬間。


 龍弥は、かつての幸と恵を見た気がした。


 明るく前へ出る姉。


 少し冷静に返す妹。


 けれど、この子たちは過去の二人ではない。


 自分たちの未来を生きる、新しい幸と恵だった。


 九 四人分の切符


 夕方。


 龍弥は仏壇の引き出しから、四枚の切符を取り出した。


 実際に列車へ乗るためのものではない。


 毎年、北海道への旅を思いながら、自分で用意してきた記念の切符だった。


「四枚ある」


 幸が数える。


「幸さん」


「勝男さん」


「恵さん」


 次女の恵が、最後の一枚を指差す。


「父ちゃん?」


「ああ」


「いつ使うと?」


「ずっと先たい」


「父ちゃんが、ちゃんと生き終わってから」


 幸が心配そうに龍弥を見る。


「まだ行かんでよ」


「行かんよ」


「まだ造らんばいかん船もある」


「話さんばいかんこともある」


「お前たちが大きくなるのも見らんば」


 三人の子どもたちは、安心したように父へ寄り添った。


 十 家族五人の黙祷


 夕方六時。


 家族五人は仏壇の前へ並んだ。


 龍弥。


 夏菜子。


 幸。


 恵。


 勝一。


 仏壇には、幸の焦げた手紙。


 恵の包帯。


 白い布の花。


 四枚の切符。


 龍弥は手を合わせる。


「幸さん」


「恵さん」


「勝一さん」


「節子さん」


「勝男さん」


「今日、子どもたちに話したよ」


「みんなのこと」


「どんなふうに生きたか」


「どんな夢ば持っとったか」


「名前だけやなく」


「笑っとったことも」


「恋ばしたことも」


「未来ば語っとったことも」


 長女の幸が、手を合わせたまま言う。


「幸さん」


「うち、あなたの代わりやないけど」


「名前、大切にします」


 次女の恵も続く。


「恵さん」


「父ちゃんば好きでいてくれて、ありがとう」


 幼い勝一は、夏菜子に教えられながら小さな手を合わせる。


「かついちさん」


「こんにちは」


 それまで泣いていた龍弥が、思わず笑った。


「こんにちはでよかと?」


 幸が尋ねる。


「よかよ」


 龍弥は答えた。


「堅苦しい挨拶より、きっと喜ぶ」


 夏菜子も手を合わせる。


「皆さん」


「龍弥さんは、ちゃんと生きています」


「子どもたちも元気です」


「これからも、見守ってください」


 十一 空の上


 雲の上。


 白い蒸気機関車の客車。


 窓際に、幸と恵が並んで座っていた。


 その向かいには勝男。


 少し離れた席には、勝一と節子。


 地上の篠田家を、皆で見守っている。


 幸が、涙を拭いながら言う。


「うちと同じ名前の子、やっぱり食いしん坊になりそうやね」


 恵がすかさず返す。


「そこまで引き継がんでよか」


「でも、ようしゃべるよ」


「お姉ちゃんの名前やけん」


「名前に責任押しつけんで」


 勝男が微笑む。


「龍弥君、立派なお父さんになりましたね」


 恵は、地上にいる龍弥と夏菜子を見つめた。


「夏菜子さん」


「ありがとう」


「龍弥さんと一緒に生きてくれて」


「子どもたちば産んでくれて」


「うちの名前ば、大切にしてくれて」


 幸が、恵の肩へ寄りかかる。


「恵」


「何?」


「龍弥さん、幸せそうやね」


「うん」


 恵は、涙を流しながら笑った。


「うちの願い、ちゃんと届いとった」


 十二 それぞれの人生へ


 夜。


 三人の子どもたちは、一つの布団に並んで横になっていた。


 幸が天井を見つめながら言う。


「恵」


「何?」


「幸さんと恵さん、会いたかったね」


「うん」


「でも、ちょっと似とる気がする」


「誰が?」


「うちら」


 次女の恵が、すぐに返す。


「お姉ちゃんほど食いしん坊やないもん」


「そこ?」


「大事やろ」


 隣で勝一が眠そうに呟く。


「ぽっぽ、のる」


 姉二人が同時に笑った。


 廊下の向こうで、龍弥と夏菜子がその声を聞いていた。


 夏菜子が小さく言う。


「話してよかったね」


「ああ」


 龍弥は、目を閉じる。


「名前だけ背負わせるんやなくて」


「ちゃんと、生きた人として知ってもらいたかった」


「この子たちは、幸さんでも恵さんでも勝一さんでもなか」


「でも、あの人たちが生きたことば知って」


「自分の人生ば生きてくれたら、それでよか」


 夏菜子は、龍弥の手を握った。


「うちらも、まだまだ生きんばね」


「ああ」


「三人とも、これから手がかかる」


「特に幸」


 子ども部屋から声が飛んできた。


「聞こえとるよ!」


 龍弥と夏菜子は顔を見合わせた。


「耳まで幸さんそっくりやね」


「そこは似らんでよかったのに」


 夫婦は声を抑えながら笑った。


 窓の外。


 遠くを走る夜汽車の汽笛が、一度だけ響く。


 龍弥は、その音へ静かに耳を澄ませた。


「恵さん」


「今日も、みんな元気やったよ」


 それは、過去だけへ向けた言葉ではなかった。


 これから続いていく、家族の未来へ向けた言葉でもあった。

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