四枚目の切符 その先へ
完全エピローグ
「四枚目の切符、その先へ」
龍弥は、百歳を超えていた。
若い頃に浴びた放射線の影響。
長く続いた倦怠感。
幾度もの入院。
それでも龍弥は、生き抜いた。
恵と交わした約束を守るため。
人を運ぶ船を造り。
広島と長崎で起きたことを語り。
海外へも足を運び。
原子爆弾を投下した国の人々へも、自分の言葉で伝えた。
「憎しみを渡したいのではありません」
「同じ思いを、誰にもしてほしくないのです」
そして。
夏菜子と出会い。
新しい家庭を築いた。
娘の幸。
娘の恵。
息子の勝一。
八人の孫。
四人のひ孫。
龍弥の人生には、失ったものだけではなく、受け取った愛も増えていった。
一 最後の朝
その朝。
龍弥は、自宅の布団へ横になっていた。
枕元には、家族が集まっている。
長女の幸。
次女の恵。
長男の勝一。
孫たち。
ひ孫たち。
そして、先に旅立った夏菜子の写真。
仏壇には。
焦げた幸の手紙。
長い年月を経て、柔らかな色へ変わった包帯の切れ端。
四人分の北海道行きの切符。
龍弥は、ゆっくり目を開いた。
「みんな、おるね」
長女の幸が、父の手を握る。
「おるよ。みんなおる」
「そうか」
龍弥は、小さく笑った。
「にぎやかやね」
ひ孫の一人が、枕元へ顔を近づける。
「ひいじいちゃん、どこか行くと?」
龍弥は、しばらくその子の顔を見た。
「うん」
「汽車に乗る」
「どこまで?」
龍弥は、目を細める。
「北海道」
家族の目から涙がこぼれた。
二 約束を果たした人生
龍弥は。
一人ずつ家族の顔を見た。
「幸」
「はい」
「名前、大事にしてくれてありがとう」
長女は泣きながらうなずく。
「恵」
「うん」
「優しい人になったね」
次女は父の手へ頬を寄せた。
「勝一」
「父さん」
「家族、守ってくれてありがとう」
息子は何度もうなずいた。
龍弥は、さらに続ける。
「みんな」
「俺は」
「幸せやったよ」
家族の誰もが。
その言葉を聞きたかった。
恵を失った龍弥。
原爆を生き延びた龍弥。
長く苦しんだ龍弥。
その人生を。
悲しみだけで終わらせたくなかった。
「夏菜子にも」
龍弥は、写真へ目を向ける。
「ありがとうって、よう言うとって」
長女の幸が答える。
「自分で言いなさい」
龍弥は、少し笑った。
「そうやね」
三 聞こえてきた汽笛
昼前。
窓の外から、風が入った。
カーテンが揺れる。
龍弥の耳に。
遠くから、汽笛が聞こえた。
長く。
やさしい音。
「来た」
龍弥が呟く。
「何が?」
ひ孫が尋ねる。
「迎えの汽車」
龍弥は。
胸元へ置かれた四枚の切符に触れた。
「やっと」
「四枚目、使えるね」
呼吸が。
少しずつ静かになる。
長女の幸が叫ぶ。
「お父さん」
次女の恵も。
「お父さん」
息子の勝一が、父の手を強く握る。
龍弥は。
最後に。
ほんのわずか、唇を動かした。
「行ってきます」
そして。
百歳を超える長い人生を。
静かに終えた。
四 白い駅
龍弥が目を開くと。
そこは、白い駅のホームだった。
柱時計。
木製のベンチ。
赤いランプ。
遠くには。
白い蒸気を上げる蒸気機関車。
制服姿の駅員が、帽子へ手を添える。
「お待ちしておりました」
龍弥は、自分の手を見る。
皺がない。
紫斑も。
傷も。
痛みもない。
若い頃の体へ戻っていた。
「ここは」
「終着駅ではありません」
駅員は笑う。
「乗り換え駅です」
そのとき。
ホームの向こうから。
一人の女性が走ってきた。
「龍弥さん!」
龍弥の体が固まる。
声。
歩き方。
笑顔。
二十二歳のままの恵だった。
五 再会
「恵さん」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
恵は、そのまま龍弥の胸へ飛び込んだ。
「遅か!」
泣きながら笑う。
「何年待たせると!」
龍弥は、恵を強く抱きしめた。
「あれから、七十五年」
「長すぎたい!」
「ごめん」
「でも」
恵は、龍弥の胸へ顔を埋める。
「ちゃんと生きてくれて、ありがとう」
龍弥の目から涙があふれた。
「約束、守ったよ」
「知っとる」
「船も造った」
「知っとる」
「話もした」
「全部見とった」
「北海道の切符も」
「毎年買いよったね」
龍弥は、恵の顔を見つめた。
「幸せに暮らしてって」
「聞こえとった気がした」
恵は笑う。
「言いよったもん」
「ずっと」
六 幸と勝男
その後ろから。
「やっと来たね」
聞き覚えのある声。
振り向くと。
幸が立っていた。
隣には勝男。
二人とも、若い姿。
幸は腕を組む。
「龍弥さん、うちの妹ば七十五年も待たせた罰として、荷物全部持ってね」
龍弥は、涙を拭いながら笑う。
「相変わらずですね、幸さん」
勝男が手を差し出す。
「お疲れさまでした」
龍弥は、その手を強く握った。
「勝男さん」
「ありがとう」
「何がですか」
「恵さんの姉さんと一緒にいてくれて」
勝男は、静かにうなずいた。
「こちらこそ」
「恵さんの願いを守ってくれて、ありがとう」
七 勝一と節子
さらに。
ホームのベンチの前には。
勝一と節子がいた。
二人とも、龍弥を見るなり立ち上がる。
「龍弥」
勝一が、低い声で呼ぶ。
龍弥は、二人の前へ立ち。
深く頭を下げた。
「お父さん」
「お母さん」
「恵さんを、守れませんでした」
節子は。
ゆっくり龍弥へ近づいた。
そして。
その頬を両手で包む。
「何言いよると」
「あなたは、最後まで恵のそばにおった」
「それから七十五年」
「恵の願いを守って生きた」
勝一も、龍弥の肩へ手を置いた。
「よう生きた」
「ほんまに」
「よう生き抜いた」
龍弥は。
義父母の前で。
ようやく子どものように泣いた。
八 空いていた席
ホームへ、列車が入ってくる。
白い蒸気。
大きな動輪。
黒く輝く車体。
客車の扉が開く。
四人掛けの席。
幸。
勝男。
恵。
そして。
七十五年間、空けられていた一席。
恵が、その席を指差す。
「龍弥さんの席」
龍弥は、そっと腰を下ろした。
恵が隣へ座る。
向かいには幸と勝男。
「四人そろったね」
恵が言う。
龍弥は、震える声で答えた。
「やっと」
九 もう一人の大切な人
列車が動き出そうとしたとき。
龍弥は。
ふと振り返った。
「でも」
恵が尋ねる。
「どうしたと?」
龍弥は。
ホームの方を見る。
「夏菜子が」
恵は、静かにうなずいた。
「分かっとる」
「俺は」
「夏菜子とも」
「家族として生きた」
「幸せやった」
恵は。
龍弥の手を握った。
「それでよか」
「うちがお願いしたんやけん」
「幸せに暮らしてって」
幸も言う。
「夏菜子さんがおらんかったら」
「龍弥さんの子どもたちも」
「孫たちも」
「ひ孫たちもおらん」
勝男もうなずく。
「大切な家族です」
恵は、窓の外を見る。
「夏菜子さんが来たら」
「皆で迎えに行こう」
龍弥の目に。
また涙が浮かんだ。
「ありがとう」
十 天国の北海道
蒸気機関車は。
雲の上の線路を走り始めた。
車窓の外。
函館の夜景。
青函連絡船。
雪を抱いた羊蹄山。
札幌の町。
旭川。
富良野の花畑。
稚内の海。
地上で行けなかった場所。
龍弥が一人で見た景色。
今度は、四人で見る。
幸が窓へ身を乗り出す。
「見て! 羊蹄山!」
恵がすかさず返す。
「今度はちゃんと山たい」
「前は雲やったけどね」
「それ、まだ言う?」
勝男は、機関車の音へ耳を澄ませている。
龍弥は、その三人を見て笑った。
あの日。
救護所で描いた旅が。
七十五年の時を越えて。
ようやく現実になった。
十一 数年後
天国の時間が。
どれほど流れたのか。
地上の時間とは違う。
ある日。
白い駅のホームに。
新しい列車が入ってきた。
恵は、真っ先に立ち上がる。
「来たよ」
龍弥も。
幸も。
勝男も。
勝一も。
節子も。
皆がホームへ向かう。
列車の扉が開く。
一人の女性が降りてくる。
夏菜子だった。
若い頃の姿。
少し戸惑いながら。
周囲を見回している。
「龍弥さん?」
龍弥は、ゆっくり歩み寄った。
「夏菜子」
二人は。
静かに抱き合った。
「遅かったね」
「ごめんなさい」
「子どもたちは?」
「みんな元気」
「孫も、ひ孫も」
「そうか」
その様子を。
恵が少し離れたところから見つめていた。
十二 恵と夏菜子
夏菜子は。
龍弥の向こうにいる恵へ気づいた。
二人は。
初めて顔を合わせる。
長い沈黙。
夏菜子が、先に頭を下げた。
「恵さん」
「はじめまして」
恵も、静かに頭を下げる。
「はじめまして」
夏菜子の目に涙が浮かぶ。
「龍弥さんを」
「お返しします」
恵は。
その言葉を聞いて。
首を横に振った。
「返すとか、そんなんやなかよ」
夏菜子が顔を上げる。
恵は、やさしく笑った。
「龍弥さんと一緒に生きてくれて」
「ありがとう」
「一人にせんでくれて」
「子どもを三人も」
「孫も」
「ひ孫も」
「家族ばいっぱい増やしてくれて」
夏菜子は泣き崩れた。
「私」
「恵さんに申し訳ないと思ったこともありました」
「龍弥さんの心には、ずっとあなたがいるって分かっていたから」
恵は、夏菜子の手を握る。
「うちもね」
「寂しくなかったって言ったら嘘になる」
「でも」
「龍弥さんが幸せに暮らすことが、うちの願いやった」
「夏菜子さんが、その願いを叶えてくれた」
夏菜子は。
泣きながら。
恵の手を握り返した。
「ありがとう」
「こちらこそ」
十三 新しい切符
駅員が。
切符を差し出す。
今度は。
五枚。
龍弥。
恵。
幸。
勝男。
夏菜子。
勝一と節子は、次の列車で向かうと言って笑っている。
幸が、夏菜子へ尋ねる。
「北海道、行ったことある?」
「あります」
「なら案内役ね」
恵がツッコむ。
「お姉ちゃんが案内される側やろ」
勝男が荷物を持つ。
龍弥も手を伸ばす。
夏菜子が笑う。
「二人とも無理しなくていいですよ」
幸が言う。
「龍弥さんは七十五年分、荷物持ってもらわんば」
龍弥
「まだ罰続いとるんですか」
恵
「天国に時効はなかよ」
十四 最後の旅
五人は。
蒸気機関車へ乗り込んだ。
客車の窓から。
白い雲。
青い空。
遠くに雪を抱いた山。
汽車は、ゆっくりと走り始める。
恵は龍弥の隣。
夏菜子は向かい。
幸と勝男も一緒。
誰かが誰かを奪うことはない。
誰かが誰かの代わりになることもない。
それぞれが。
龍弥の人生を支えた大切な人。
それぞれが。
自分の人生を生きた人。
汽車は。
羊蹄山の麓へ向かって走る。
幸が駅弁を開ける。
「まだ出発したばっかりやのに」
恵が呆れる。
「天国では腹減らんやろ」
「気分たい」
夏菜子が笑う。
「龍弥さんから聞いていた通りですね」
龍弥
「何を聞いたんですか」
夏菜子
「幸さんは、まず食べるって」
幸
「龍弥さん!」
勝男
「事実です」
車内に。
笑い声が響く。
十五 完全な終わり
車窓の向こう。
羊蹄山。
雪原。
青い空。
龍弥は。
恵と夏菜子。
二人の手を、そっと握った。
「ありがとう」
「俺は」
「幸せな人生やった」
恵が答える。
「知っとる」
夏菜子も。
「私も幸せでした」
幸が、窓の外を指差す。
「ほら、見て!」
「山がきれい!」
恵が笑う。
「今度はほんまに羊蹄山たい」
勝男は。
静かにうなずく。
蒸気機関車の汽笛が。
長く鳴り響く。
ボォーーーーーー……。
白い煙が。
空へ昇る。
列車は。
北へ向かう光の中へ。
ゆっくりと消えていく。
画面には。
五人が笑う車内。
その向こう。
勝一と節子。
原田。
伊藤。
澄江。
重治。
千代の家族。
多くの人々が。
駅のホームから手を振っている。
最後に。
黒い画面へ。
白い文字が浮かぶ。
戦争によって奪われた人生にも、
叶えたかった夢と、愛した人がいた。
生き残った人々にも、
その後を生きる長い人生があった。
すべての命が、
数字ではなく、一人の人生として記憶されますように。
文字が消える。
静寂。
そして。
もう一度だけ。
遠くから汽笛が鳴る。
ボォーーーーーー……。
画面は完全に暗転する。




