空の上から、あなたへ
スピンオフ
「空の上から、あなたへ」
夜明け前の長崎。
焼け跡の町へ、薄い光が差し始めていた。
崩れた家。
黒く焦げた柱。
割れた瓦。
まだ煙の匂いが残る道。
戦争は終わった。
けれど、町には終わっていない悲しみが残っていた。
寺の一角。
救護所として使われていた本堂の隣に、小さな仮小屋があった。
龍弥は、その中へ一人で座っていた。
熱は下がり始めていた。
だが、体にはまだ重い倦怠感が残っている。
鼻血が出ることもある。
立ち上がれば、視界が揺れる。
それでも。
龍弥は、両手で小さな箱を抱えていた。
箱は、焼け残った廃材を削り。
釘を打ち。
自分で作ったものだった。
形は整っていない。
木目もばらばら。
ところどころ焦げ跡もある。
けれど。
龍弥にとっては。
この世でたった一つの仏壇だった。
一 遺骨のない仏壇
恵は。
火葬された。
だが。
遺骨は、ほとんど残らなかった。
高熱。
火傷。
放射線によって深く傷ついた体。
残されたものは、あまりにも少なかった。
龍弥は。
火葬場で。
骨壺へ入れるものを探し続けた。
小さな欠片でもいい。
恵が生きていた証しを。
妻の一部を。
この手で持ち帰りたかった。
けれど。
見つけることはできなかった。
代わりに。
救護所から渡されたものがある。
恵の体へ巻かれていた包帯の一部。
血と煤で変色し。
端が焦げている。
そして。
恵が最後まで握っていた。
幸からの手紙。
紙の半分は焼け。
文字の一部も消えている。
それでも。
幸の癖のある字。
北海道の話。
勝男へのぼやき。
飛行機らしき絵。
恵が書き込んだツッコミ。
残された部分には。
姉妹が生きていた時間が確かにあった。
龍弥は。
包帯と手紙を、小さな箱の中央へ置いた。
遺影はない。
恵の写真は、一枚も残っていなかった。
篠田家も。
大村家も。
原爆によって失われた。
結婚式の写真も。
喫茶店で撮った写真も。
家族で写った写真も。
何もない。
だから。
仏壇には。
恵の顔を示すものがなかった。
龍弥は。
手紙の横へ、小さな白い布を置いた。
結婚式の日。
恵が身につけていた髪飾りと同じ形を思い出しながら。
自分で布を折った。
不器用な花。
少し歪んでいる。
「恵さん」
龍弥が、静かに呼びかける。
返事はない。
「写真も残らんかった」
声が震える。
「遺骨も」
「何も」
両手を膝の上へ置く。
「でも」
「俺は、恵さんの顔ば覚えとる」
「笑った顔も」
「怒った顔も」
「龍弥さんって呼んでくれた声も」
「全部」
龍弥は。
手を合わせた。
「忘れんけん」
二 空の上
その頃。
雲の上。
白い蒸気を吐きながら。
一両の蒸気機関車が、空の線路を走っていた。
客車の窓から。
地上の長崎が見える。
恵は。
窓際に立っていた。
隣には幸。
向かいには勝男。
三人とも。
あの日の傷はない。
煤も。
火傷も。
血も。
何もない。
幸は。
窓へ額を近づける。
「龍弥さん、また無理しよる」
恵は、黙って地上を見ていた。
小さな仮小屋。
廃材で作られた仏壇。
その前で手を合わせる龍弥。
幸が、少し心配そうに言う。
「恵」
「うん」
「龍弥さん、ずっとあんたに話しかけよるよ」
恵の目から、涙がこぼれた。
「聞こえとる」
「全部?」
「全部」
勝男は。
窓の外へ目を向けた。
「四人分の切符」
「まだ買えんよね」
恵は、ゆっくりうなずく。
「今は、汽車もちゃんと走っとらん」
「でも」
「龍弥さんは、いつか買ってくれる」
幸が口元を緩める。
「律儀な人やもんね」
恵も、少し笑った。
「頑固やけん」
三 幸せに暮らして
恵は。
窓辺へ両手を置いた。
「龍弥さん」
地上へ向かって呼びかける。
声は届かない。
それでも。
恵は続けた。
「うちのこと、忘れんでよか」
「でも」
「うちだけ見て生きんで」
幸が、静かに恵の肩へ手を置く。
恵は涙を拭わないまま話した。
「おいしいもの食べて」
「ちゃんと寝て」
「仕事して」
「笑って」
「誰かと話して」
「幸せに暮らして」
「うちができんかったこと」
「全部、してほしか」
勝男は。
黙って聞いていた。
恵の声が、少し震える。
「もし」
「いつか」
「うち以外の誰かを大事に思うことがあっても」
幸が、恵を見る。
恵は、地上から目を離さない。
「それでよか」
「寂しくはなるけど」
「でも」
「龍弥さんが一人で苦しみ続ける方が、嫌やけん」
幸は。
小さくうなずいた。
「恵らしかね」
恵が振り返る。
「何が?」
「最後まで、相手の心配しよる」
「お姉ちゃんは、自分の心配して」
「うちは天国でも元気たい」
勝男が、思わず笑った。
「二人とも、相変わらずですね」
幸
「勝男さんは黙っとって」
恵
「お姉ちゃん、何で急に怒ると」
幸
「何となく」
恵
「理不尽たい」
三人の間に。
ほんの少しだけ。
昔のような笑いが戻った。
四 龍弥の言葉
地上。
龍弥は。
仏壇の前から動かなかった。
「恵さん」
「俺」
「本当は」
言葉が詰まる。
「恵さんと暮らしたかった」
「朝、起きて」
「一緒に飯食って」
「仕事行って」
「帰ってきて」
「ただいまって言って」
「おかえりって言ってもらって」
「それだけでよかった」
涙が落ちる。
「夫婦喧嘩もしたかった」
「俺が靴下脱ぎっぱなしにして」
「恵さんに怒られて」
「謝って」
「でもまたやって」
「また怒られて」
龍弥は。
泣きながら、少し笑った。
「北海道も」
「まだ行ってない」
「羊蹄山も見てない」
「函館の夜景も」
「札幌も」
「旭川も」
「富良野も」
「稚内も」
手を強く合わせる。
「でも」
「生きるけん」
「約束したけん」
「船ば造る」
「人を運ぶ船」
「戦争ば伝える」
「広島と長崎に、普通の暮らしがあったこと」
「幸さんも」
「勝男さんも」
「恵さんも」
「みんな」
「数字やなかったって」
「ちゃんと伝える」
五 届かない返事
恵は。
空の上から。
必死に答えた。
「うん」
「聞こえとるよ」
「龍弥さん」
「ありがとう」
「うちも」
「一緒に暮らしたかった」
「朝ご飯も」
「夫婦喧嘩も」
「全部」
幸が。
恵の隣で泣いていた。
「恵」
「何?」
「うち、龍弥さんにちゃんとお礼言えてない」
「何の?」
「妹ば大事にしてくれて」
「最後まで探してくれて」
「ちゃんと見つけてくれて」
勝男も、静かにうなずく。
「僕もです」
「龍弥君が、恵さんを見つけてくれた」
「それだけで」
「救われました」
恵は。
二人の顔を見る。
そして。
地上の龍弥へ向けて。
三人で声をそろえた。
「ありがとう」
だが。
その声は。
地上へは届かない。
代わりに。
仮小屋の外で。
風が吹いた。
仏壇に置かれた手紙の端が。
かすかに揺れた。
龍弥が顔を上げる。
「恵さん?」
もちろん。
誰もいない。
それでも。
龍弥は。
少しだけ笑った。
「聞こえた気がした」
六 迎えに行こう
空の上。
恵は。
しばらく長崎を見つめていた。
やがて。
幸へ向き直る。
「お姉ちゃん」
「何?」
「お父さんとお母さん」
幸の表情が変わる。
恵は続ける。
「迎えに行こう」
幸は。
静かにうなずいた。
「そうやね」
「二人とも」
「まだ、うちら探しよるかもしれん」
勝男が立ち上がる。
「僕も行きます」
幸
「勝男さん、方向分かると?」
勝男
「線路があれば分かります」
恵
「天国でも線路基準なん」
勝男
「鉄道員ですから」
幸
「じゃあ、迷ったら恵がツッコんで」
恵
「なんでうちが案内役なん」
幸
「妹やけん」
恵
「理由になっとらん」
三人は。
客車の通路へ出た。
機関車は。
白い雲の中を走る。
遠く。
光の向こうに。
二人の姿が見える。
勝一。
節子。
大村家の食卓で。
何度も笑った父と母。
節子は。
あの日と同じように。
二人の娘を待っていた。
勝一は。
腕を組みながら。
目を赤くして立っている。
幸が。
最初に走り出す。
「お父さん!」
恵も続く。
「お母さん!」
節子の顔が崩れる。
「幸!」
「恵!」
勝一も。
娘たちへ向かって両腕を広げた。
四人は。
雲の上で抱き合った。
言葉にならない声。
涙。
笑い。
長い間。
会えなかった家族。
七 勝男の挨拶
少し離れたところで。
勝男は。
深く頭を下げた。
「勝一さん」
「節子さん」
「幸さんを」
「守れませんでした」
幸が振り返る。
「勝男さん」
節子が、勝男の前へ歩く。
そして。
頭を下げたままの勝男の肩へ。
やさしく手を置いた。
「あなたのせいやなか」
勝男の肩が震える。
勝一も言う。
「戦争が悪い」
「原爆が悪い」
「お前が悪いんやない」
勝男は。
ようやく顔を上げた。
涙を流していた。
節子は。
勝男を抱きしめる。
「幸と一緒におってくれて」
「ありがとう」
幸も。
勝男の背中へ手を回した。
「勝男さん」
「うちは、ちゃんと幸せやったよ」
勝男は。
何も言えなかった。
ただ。
何度も。
うなずいた。
八 龍弥のための席
家族が再会したあと。
恵は。
空の汽車へ戻った。
四人掛けの席。
幸。
勝男。
恵。
そして。
一つだけ空いた席。
勝一が尋ねる。
「ここは?」
恵は。
やさしく笑う。
「龍弥さんの席」
節子の目に涙が浮かぶ。
「まだ来させたらいかんね」
「うん」
恵は。
空席へ手を置く。
「まだ地上で、いっぱい生きてもらわんば」
「船も造ってもらう」
「北海道にも行ってもらう」
「幸せにもなってもらう」
幸が言う。
「恵、強がっとらん?」
恵は、少しだけ黙った。
「ちょっとは寂しかよ」
「でも」
「愛しとるけん」
「生きてほしか」
勝男は。
静かに空席を見た。
「いつか」
「四人そろう日まで」
恵
「うん」
「ここは空けとく」
九 朝
地上。
仮小屋の外に。
朝日が差し込む。
龍弥は。
ゆっくり立ち上がった。
足元はまだふらつく。
それでも。
仏壇の前へ一礼する。
「行ってきます」
包帯。
焦げた手紙。
白い布の花。
それしかない。
それでも。
龍弥にとっては。
恵がいる場所だった。
「また帰ってくるけん」
龍弥は。
小屋の戸を開ける。
外には。
復興へ向けて動き始めた人々がいる。
瓦礫を運ぶ者。
線路を直す者。
負傷者へ水を配る者。
子どもの手を引く者。
龍弥は。
一歩。
外へ踏み出した。
空の上で。
恵が見ている。
「龍弥さん」
「行ってらっしゃい」
もちろん。
その声は聞こえない。
けれど。
龍弥は。
ふと足を止める。
そして。
空を見上げた。
「行ってきます」
もう一度。
今度は少しだけ。
笑って言った。
エピローグ
空の汽車は。
雲の向こうへ走っていく。
幸と恵。
勝男。
勝一。
節子。
皆が。
地上を見守っている。
四人掛けの席の一つだけは。
まだ空いていた。
その席へ。
北海道行きの切符が一枚。
大切に置かれている。
恵は。
窓の外へ手を振った。
「龍弥さん」
「急がんでよか」
「ゆっくりでよかけん」
「幸せに暮らして」
「いつか」
「四枚目の切符ば持ってきて」
汽笛が。
空の彼方で鳴り響く。
長く。
やさしく。
地上では。
龍弥が。
人を運ぶ船を造るため。
新しい一日へ歩き始めていた。




