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幸と恵の物語  作者: リンダ


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四枚目の切符

『幸と恵のものがたり』


第51話 四枚目の切符


昭和二十年八月下旬。


広島。


原子爆弾が投下されてから、町には何度も朝が訪れていた。


だが、朝が来るたびに、人々の暮らしが元へ戻るわけではなかった。


焼けた家。


崩れた学校。


線路の上へ倒れた電柱。


黒く焦げた路面電車。


川岸に残された、名前の分からない人々。


戦争は終わった。


それでも、広島では命が失われ続けていた。


爆発の瞬間を生き延びた人。


市外から救援に入った人。


家族を探すため、焼け跡を歩き続けた人。


大きな火傷も負わず、一度は助かったと思われた人が、数日後に突然高熱を出す。


歯茎から血が出る。


鼻血が止まらない。


皮膚に紫色の斑点が浮かぶ。


髪が抜ける。


傷口が塞がらない。


その原因を、当時の人々はまだ正しく理解できなかった。


藤原重治の妻・澄江も、その一人だった。


一 夫を探し続けた母


澄江は、三人の子どもを連れ、広島市内の救護所を回り続けていた。


長女・美代子、十二歳。


次女・啓子、九歳。


長男・正人、六歳。


そして澄江のお腹には、出産を二か月後に控えた子どもがいた。


夫の重治は、八月六日の朝、広島機関区にいた。


瀬野八の急勾配で、若い鉄道員たちを育ててきた機関士。


火室の扱いにも。


異常音にも。


安全確認にも厳しかった男。


家では、三人の子どもの頭を大きな手で撫で。


生まれてくる四人目の子どもを、誰よりも楽しみにしていた父親。


しかし。


広島機関区の生存者名簿に、重治の名はなかった。


亡くなったことが確認された者の名簿にも、ない。


遺体も見つからない。


だから澄江は、諦めなかった。


「別の救護所へ運ばれたんかもしれん」


「名前を言えん状態なんかもしれん」


「記憶を失っとるんかもしれん」


「どこかで、うちらを探しよるかもしれん」


そう言って。


身重の体で。


灰と瓦礫の町へ何度も入った。


二 お父ちゃんを迎える汽笛


正人は、父からもらった小さな笛を持っていた。


子どもの玩具だった。


重治が勤務のない日に、駅前の店で買ってきたもの。


「汽笛みたいじゃろ」


そう言って、正人へ渡した。


正人は、救護所へ着くたび、その笛を吹いた。


短く。


細い音。


「何しよるん?」


啓子が尋ねる。


「お父ちゃんに知らせるんよ」


「何を?」


「うちらがここにおるって」


正人は、もう一度吹いた。


「お父ちゃん、汽笛なら分かるけえ」


澄江は息子の姿を見つめた。


「そうじゃね」


声が震える。


「もっと大きゅう吹いたら、聞こえるかもしれんね」


正人は頬を膨らませ、力いっぱい笛を吹いた。


だが。


その音が重治へ届くことはなかった。


三 高熱


夫を探し始めて数日が過ぎた頃。


澄江の体に異変が現れた。


最初は、ただの疲れだと思った。


身重の体で。


焼け跡を歩き。


救護所を巡り。


少ない食べ物を三人の子どもへ分けている。


疲れない方がおかしい。


だが。


熱は日に日に高くなった。


朝は起き上がれても。


昼には足元がふらつく。


夕方には、座っていることさえ難しい。


鼻から血が出る。


歯茎からも血がにじむ。


ぶつけた覚えのない場所へ、紫色の斑点が浮かぶ。


それでも澄江は、子どもたちの前で笑おうとした。


「お母ちゃん、顔赤いよ」


啓子が言う。


「夏じゃけえね」


「嘘」


美代子の声は厳しかった。


「熱あるんじゃろ」


「少しだけよ」


「少しやない」


「美代子」


「お父ちゃんもおらんのに」


長女の声が震える。


「お母ちゃんまで隠したら、うちら誰を信じたらええん」


澄江は、返す言葉を失った。


四 育ち盛りの三人


救護所へ届く食料は、わずかだった。


薄い粥。


小さな芋。


時折、刻んだ野菜。


澄江は、自分の椀から三人へ少しずつ分けた。


「お母ちゃん、食べんといけんよ」


美代子が止める。


「お母ちゃんは、あんまり腹が減っとらんけえ」


「また嘘」


「ほんまよ」


正人が、自分の芋を見つめる。


そして半分に割り、母の椀へ入れた。


「これ、赤ちゃんの分」


澄江の手が止まる。


「正人が食べんさい」


「赤ちゃんも育ち盛りじゃろ?」


澄江は顔を伏せた。


涙が椀へ落ちそうになる。


「ありがとう」


この子たちを残して死ねない。


父親を失ったばかりの三人。


まだ食べて。


眠って。


学校へ通って。


誰かを好きになって。


大人にならなければならない。


お腹の子も。


この世界へ生まれ。


兄と姉に抱かれ。


父親の話を聞きながら育つはずだった。


「生きる」


澄江は、心の中で何度も繰り返した。


「絶対、生きる」


五 動かない命


その夜。


澄江は横になり、お腹へ手を当てた。


以前は、何度も動きを感じていた。


内側から蹴るような感触。


小さく押し返してくる力。


重治は、その動きを感じるたび、顔をほころばせた。


「今、動いた?」


「もう少し待って」


「こっちへ手を置いた方がええ?」


子どもたちよりも落ち着きがなかった。


だが。


数日前から。


お腹の動きが弱くなっていた。


そして、その夜。


どれだけ待っても。


何も感じなかった。


「ねえ」


澄江は、お腹へ呼びかける。


「寝とるん?」


返事はない。


「お父ちゃんに会うんじゃろ」


お腹を撫でる。


「美代子と啓子と正人が、待っとるよ」


何も動かない。


「ねえ」


声が震える。


「一回でええけえ」


「動いて」


六 聞こえない心音


翌朝。


医師が澄江を診察した。


脈。


熱。


腹部。


胎児の位置。


聴診器を当てる。


場所を変える。


また当てる。


何度も。


何度も。


医師は、なかなか顔を上げなかった。


その沈黙だけで。


澄江には分かってしまった。


「先生」


医師の手が止まる。


「赤ちゃん」


「……」


「生きとりますか」


少し離れた場所で。


美代子と啓子と正人が、母を見ている。


医師は、ゆっくり首を横へ振った。


「心音を確認できません」


澄江の表情が消えた。


「いつから」


「分かりません」


「何で」


「お母さんの高熱や、体の中で起きている異変が影響した可能性があります」


「爆弾ですか」


医師は答えられない。


「市内へ入ったけえですか」


「可能性はあります」


「夫を探しに行っただけです」


「分かっています」


「子どもの父親を探しただけです」


「はい」


「それで」


澄江は、お腹を両手で抱えた。


「この子まで死なんといけんかったんですか」


医師は、俯くことしかできなかった。


七 守れなかった命


「ごめんね」


澄江は、何度もお腹へ謝った。


「ごめん」


「守れんかった」


美代子が母へ駆け寄る。


「お母ちゃんのせいやない!」


「でも」


「爆弾が悪いんじゃ!」


啓子も泣きながら言う。


「お母ちゃんは悪くない!」


正人は、まだ状況を理解しきれない。


「赤ちゃん、寝とるだけじゃないん?」


誰も答えられない。


「起きんの?」


美代子が弟を抱き寄せる。


正人の目から涙がこぼれる。


「お父ちゃんにも会えんの?」


その言葉で。


澄江の中の何かが崩れた。


声を上げて泣いた。


夫を失い。


お腹の子も失った。


会わせたかった。


重治へ。


生まれてくる子どもの顔を見せたかった。


たった一度でよかった。


抱いてほしかった。


名前を呼んでほしかった。


「重治さん」


澄江は泣きながら呼んだ。


「ごめん」


八 三人を残せない


泣き続けたあと。


澄江は、三人の子どもの顔を見た。


美代子。


啓子。


正人。


父を失い。


まだ生まれていないきょうだいを失い。


母まで失うことを恐れている。


「お母ちゃんは、まだおる」


澄江は言った。


「うん」


「三人とも、お母ちゃんが守る」


美代子は、首を横に振った。


「今度は、うちらがお母ちゃんを守る」


「子どもが何言いよるん」


「子どもでもできる」


「水を運ぶ」


啓子が言う。


「布も替える」


正人が笛を持ち上げる。


「笛吹く」


三人が弟を見る。


「何で笛?」


「お母ちゃんが寝たら、起こすんよ」


澄江は、涙を流しながら笑った。


「寝とるときは、静かにして」


九 母の体を蝕むもの


だが。


澄江の体は、意志だけで持ち直せる状態ではなかった。


熱は下がらない。


出血も止まらない。


髪が、触れるだけで抜け落ちる。


食べ物を受けつけない。


水を飲んでも吐く。


意識が混濁し。


子どもの名前を間違えることも増えた。


「美代子」


呼ばれたのは啓子だった。


「お母ちゃん。うちは啓子よ」


「ごめんね」


少し後。


「啓子」


今度は美代子を見ていた。


「美代子よ」


澄江は混乱した。


「ごめん」


「謝らんで」


美代子は母の手を握る。


「三人ともここにおるけえ」


十 重治の姿


高熱に浮かされながら。


澄江は、夫の姿を見た。


広島機関区の作業着。


煤のついた顔。


厳しい目。


子どもを見るときだけ緩む口元。


「重治さん」


空中へ手を伸ばす。


「そこにおるん?」


返事をするように。


幻の中の重治が笑った。


『よう頑張ったのう』


「赤ちゃん」


澄江は泣く。


「会わせられんかった」


『お前のせいじゃない』


「美代子たちを残していけん」


『一人で背負わんでええ』


「でも」


『子どもたちは、お前が思うとるより強い』


「一人にせんで」


伸ばした手は。


何にも触れなかった。


十一 長崎へ届いた知らせ


長崎。


原田正勝のもとへ、広島から藤原家の情報が届いた。


藤原重治の妻・澄江。


重篤。


胎児の死亡が確認された。


三人の子どもが付き添っている。


原田は、報告書を握ったまま動けなかった。


「藤原さんの奥さんまで」


山崎信吾は目を閉じた。


「夫を探して、市内へ入り続けた」


「はい」


「助けに入った人間まで」


「はい」


原田の目から涙がこぼれる。


「どこまで奪えば気が済むとですか」


広島で。


勝男を育てた藤原。


その妻。


まだ生まれていない子ども。


三人の幼い子どもたち。


「戦争は終わったとに」


原田は呟いた。


「何で、まだ家族ば壊し続けるとですか」


十二 龍弥の熱


長崎の寺。


龍弥もまた、高熱に苦しんでいた。


恵の亡骸は。


丁寧に布で包まれている。


焦げた幸の手紙は、龍弥の胸元にあった。


「四人分」


熱に浮かされながら呟く。


「切符ば買わんば」


「船ば造らんば」


「伝えんば」


自分が生きる理由を。


一つずつ確認する。


恵の声が聞こえる。


『龍弥さん、生きて』


「生きる」


龍弥は答える。


「約束やけん」


十三 澄江の最後の朝


広島。


夜明け前。


澄江は、一度だけはっきりと意識を取り戻した。


三人の子どもが、そばで眠っている。


美代子は、母の手を握ったまま。


啓子は、母の足元へ丸くなっている。


正人は、父の小さな笛を胸に抱いている。


澄江は、一人ずつ顔を見た。


「美代子」


長女が目を覚ます。


「お母ちゃん?」


「啓子と正人を頼むね」


美代子の顔が強張った。


「嫌」


「まだ、何も言っとらんよ」


「分かる」


「そがんこと言わんで」


澄江は、弱く笑った。


「お姉ちゃんじゃけえって、何でも一人で抱えんでよか」


「でも」


「周りの大人を頼りなさい」


「助けてって言いなさい」


「一人で我慢したらいけん」


美代子は泣きながらうなずいた。


十四 啓子へ


「啓子」


次女が目を覚ます。


「お母ちゃん」


「泣きたいときは、泣いてええ」


「うん」


「無理に笑わんでええ」


「うん」


「でも、うれしいときは」


澄江は娘の髪へ手を伸ばした。


「ちゃんと笑いんさい」


啓子は、母の胸元へ顔を伏せる。


「お母ちゃんも笑って」


「笑っとるよ」


澄江は、かすかに微笑んだ。


十五 正人へ


「正人」


正人が目を開ける。


「お母ちゃん、笛吹く?」


「今は吹かんでええよ」


「お父ちゃん帰ってくる?」


澄江の目へ涙が浮かぶ。


「お父ちゃんは」


言葉が止まる。


それでも。


母親として答えた。


「正人の汽笛ば、ずっと聞いとるよ」


「どこで?」


「空の上」


正人は、少し考えた。


「赤ちゃんも?」


澄江は、動かなくなったお腹へ手を置いた。


「うん」


「お父ちゃんと一緒におる」


「寂しくない?」


「お父ちゃんがおるけえ」


正人は、涙をこぼしながらうなずいた。


十六 自分の分を生きて


澄江は、三人の手を集めた。


「生きて」


声は、もうほとんど息だった。


「三人とも」


「お父ちゃんと、お母ちゃんの分まで生きてとは言わん」


「そんな重たいもの、背負わんでええ」


美代子が泣く。


「なら、どうしたらええん」


澄江は、一人ずつ顔を見た。


「自分の分を生きて」


「自分が食べたいものを食べて」


「行きたいところへ行って」


「好きな人を大事にして」


「苦しいときは、助けてって言って」


「それでええ」


「お母ちゃんも一緒に」


澄江は、少しだけ笑った。


「うん」


「できるだけ」


十七 最後の汽笛


澄江の呼吸が、少しずつ弱くなる。


美代子が呼ぶ。


「お母ちゃん」


啓子も。


「お母ちゃん」


正人は、父の笛を握った。


「お母ちゃん、汽笛吹くよ」


細い音。


短い音。


正人は、何度も息を吹き込む。


「お父ちゃんにも、赤ちゃんにも聞こえるように」


澄江のまぶたが、わずかに動いた。


「重治さん」


最後に。


夫の名を呼んだ。


「子どもたち……頼むね……」


そして。


呼吸が止まった。


十八 起きて、お母ちゃん


「お母ちゃん?」


美代子が手を握る。


返事はない。


「お母ちゃん!」


啓子が、母の肩へ触れる。


「起きて!」


正人は、笛を吹き続けた。


「お母ちゃん!」


「汽笛、聞こえるやろ!」


「お父ちゃんにも聞こえたやろ!」


「起きて!」


だが。


澄江は戻らなかった。


父を失い。


母を失い。


まだ生まれていないきょうだいも失った。


三人は。


その朝。


子どもだけになった。


十九 四枚目の切符


長崎。


龍弥は、高熱の中で恵の願いを繰り返していた。


北海道行きの切符。


四枚。


幸。


勝男。


恵。


龍弥。


鉄道は壊れている。


長崎から北海道まで旅をする余裕など、今はない。


だが、いつか。


線路がつながり。


汽車が再び人を運び。


誰も出征を見送らなくてよい時代が来たら。


龍弥は四枚の切符を買う。


三枚は。


もうこの世にいない人のため。


四枚目は。


残された自分が、未来へ向かうための切符だった。


二十 歩き始める子どもたち


広島。


美代子は、母の体へ布をかけた。


涙で何も見えない。


それでも。


弟と妹の手を握った。


「行こう」


啓子が尋ねる。


「どこへ?」


「分からん」


「誰のところへ?」


「それも分からん」


正人は、父の笛を握りしめている。


美代子は、母の最後の言葉を思い出した。


助けてと言いなさい。


一人で抱え込まないで。


「誰かに助けてって言おう」


啓子がうなずく。


正人も。


三人は。


父と母と、まだ生まれていないきょうだいを失った広島で。


自分たちの足で。


一歩を踏み出した。


⸻


次回予告


藤原重治の妻・澄江。


夫を探して広島市内へ入り続けた彼女の体にも、見えない傷は容赦なく広がった。


出産を二か月後に控えていた胎児は、父の顔を見ることなく亡くなる。


そして澄江も。


三人の子どもへ、


「誰かの分ではなく、自分の分を生きて」


そう言い残し、息を引き取った。


父。


母。


まだ生まれていないきょうだい。


すべてを失った美代子、啓子、正人。


一方、長崎では。


龍弥も生死の境をさまよう。


伊藤も倒れ。


原田と山崎は、傷ついた家族や鉄道員を守りながら、広島と長崎で起きたことを記録し始める。


幸の手紙。


恵の最後の言葉。


勝男の勤務記録。


藤原家に残された、小さな汽笛。


次回、第52話。


「生き残った者たち」


生き残ることは。


亡くなった人の代わりになることではない。


自分の命を。


もう一度、自分のものとして生き直すことだった。

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