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幸と恵の物語  作者: リンダ


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生き残った者たち

『幸と恵のものがたり』

 第52話 生き残った者たち


 昭和二十年八月下旬。


 戦争は終わった。


 しかし、広島と長崎では。


 終戦という言葉よりも先に、死者の名前が増え続けていた。


 救護所。


 焼け跡。


 寺。


 学校。


 壊れた駅舎。


 生き残った人々は、亡くなった者を悼む暇さえ十分に与えられないまま、次の命を助けようとしていた。


 高熱に苦しむ者へ水を運び。


 親を失った子どもの手を握り。


 身元の分からない遺体を記録し。


 焼け残った紙へ、知っている名前を書き続けた。


 死んだ人。


 行方の分からない人。


 生きていると確認された人。


 町全体が。


 巨大な名簿へ変わろうとしていた。


 一 龍弥の生死


 長崎。


 寺の救護所。


 龍弥は、何日も高熱にうなされていた。


 鼻血。


 紫色の斑点。


 激しい倦怠感。


 意識は何度も遠のいた。


 眠るたび。


 恵の声が聞こえた。


『龍弥さん、生きて』


『北海道行きの切符、四枚買って』


『人ば運ぶ船ば造って』


『戦争ば、二度と来させんで』


 龍弥は、そのたびに答えた。


「分かっとる」


「生きる」


「まだ死なん」


 だが、声になっていたかは分からない。


 原田が濡らした布を額へ置く。


「篠田君」


 返事はない。


「恵さんの頼み、忘れたらいかんぞ」


 龍弥の指が、わずかに動いた。


 胸元には。


 焦げた幸の手紙。


 その上には、原田が書き留めた恵の最後の言葉。


「まだ、四枚目が残っとる」


 原田は、龍弥の手を握った。


「お前の切符たい」


 二 伊藤勝


 伊藤勝もまた、高熱と出血に苦しんでいた。


 造船所の指導員。


 仕事には厳しく。


 龍弥を、実の息子のように可愛がった男。


 救援のため。


 家族を探すため。


 何度も長崎市内を歩いた。


 その体へも、見えない傷は広がっていた。


「伊藤さん」


 山崎が呼びかける。


 伊藤は、薄く目を開けた。


「篠田は」


「生きとる」


「そうか」


「まだ油断できんが」


 伊藤は、小さく笑った。


「しぶとか男たい」


「誰に似たんでしょうね」


「俺やろ」


 原田が横から言う。


「そこは龍弥君の父親でしょう」


 伊藤は咳き込んだ。


 布へ血がつく。


 それでも。


「篠田が生きたら」


「はい」


「船ば造らせろ」


「はい」


「人ば殺す船やない」


「はい」


「人ば運ぶ船」


 原田は、強くうなずいた。


 三 原田家


 原田の妻・紀江。


 長男・英二。


 次男・正三郎。


 三人の治療も続いていた。


 紀江は胸と腰を傷め。


 英二は腕を骨折。


 正三郎は頭部の傷と高熱に苦しんでいる。


 原田は、機関区と家族の救護所を何度も往復した。


 体は限界に近い。


 それでも。


 倒れることはできなかった。


「父ちゃん」


 英二が声をかける。


「何ね」


「勝男兄ちゃん、見つかった?」


 原田は足を止めた。


「まだ」


「幸姉ちゃんも?」


「まだ」


 英二は、父の顔を見る。


 もう子どもにも分かっている。


 見つからないのではない。


 帰ってこない可能性が高いことを。


「父ちゃん」


「うん」


「旅行、行ける?」


 原田は息子の手を握った。


「行く」


「いつ?」


「皆が元気になったら」


「勝男兄ちゃんたちも?」


 原田は、長い間答えられなかった。


 やがて。


「心の中で一緒に行く」


 英二は目を伏せた。


「それって、死んだってこと?」


 原田の目から涙が落ちた。


 四 山崎の記録


 山崎信吾は。


 長崎機関区に残った記録を集め始めていた。


 軍需列車の運行記録。


 空襲警報の記録。


 損傷した機関車。


 亡くなった職員。


 行方不明者。


 救援に入った鉄道員。


 そして。


 一人一人の名前。


 数字だけにはしない。


「職員多数死亡」


 その言葉だけでは。


 勝男の人生は残らない。


「官舎家族多数死亡」


 それだけでは。


 幸の笑い声は残らない。


「重傷者多数」


 それだけでは。


 恵の最後の願いは残らない。


 山崎は、名前の横へ書き加えた。


 平戸勝男。


 安全を最優先し、軍需列車を止めた機関助手。


 平戸幸。


 長崎から広島へ嫁ぎ、双子の妹へ手紙を書き続けた女性。


 篠田恵。


 原爆で家族を失い、最後まで戦争のない未来を願った女性。


 藤原重治。


 瀬野八で若い鉄道員を育てた機関士。


 藤原澄江。


 夫を探し続け、三人の子どもへ自分の人生を生きるよう託した母。


「名前ば残さんば」


 山崎は呟いた。


「数字だけにしたらいかん」


 五 広島の子どもたち


 広島。


 父と母を失った美代子、啓子、正人は。


 親戚の家へ引き取られることになった。


 三人が離れ離れにならないよう。


 周囲の大人たちは、できる限りの調整をしていた。


 美代子は、母から言われた言葉を胸へ刻んでいた。


『一人で抱え込まんで』


『助けてって言いなさい』


 十二歳。


 本来なら。


 大人に守られる年齢だった。


 だが。


 美代子は弟と妹の手を握る。


「三人でおろう」


 啓子がうなずく。


 正人は、父の笛を握っている。


「お父ちゃんとお母ちゃんも一緒?」


 美代子は答えた。


「一緒よ」


「どこに?」


「うちらが覚えとるけえ」


 正人は笛を吹いた。


 細い汽笛の音。


 今度は。


 父を呼び戻すためではない。


 忘れないための音だった。


 六 三次へ届いた新聞


 広島県三次。


 疎開先の学校。


 そこには。


 勝男がC11形蒸気機関車の列車で送り届けた子どもたちがいた。


 広島市内から。


 家族と引き離され。


 泣きながら列車へ乗った子どもたち。


 勝男は。


 一人一人を安全に三次や備後庄原へ届けることへ、強い責任を感じていた。


『戦争が終わったら、お父ちゃんとお母ちゃんと、また一緒に暮らせるん?』


 千代が幸へ尋ねた。


 幸は。


 きっと暮らせる。


 そう信じたいと思った。


 疎開した子どもたちも。


 戦争さえ終われば。


 広島へ帰れる。


 家族が迎えに来る。


 そう信じていた。


 だが。


 八月下旬。


 疎開先へ、広島の被害を伝える新聞と名簿が届いた。


 七 先生の手


 教室。


 教師は、一枚の紙を握っていた。


 手が震えている。


 教壇の前には。


 広島市内から疎開してきた子どもたちが座っていた。


「皆さん」


 声が出ない。


 一度、息を吸う。


「広島から」


 子どもたちの顔が上がる。


「家族についての知らせが、少しずつ届いています」


 教室がざわめく。


「お母ちゃん迎えに来る?」


「父ちゃんは?」


「家、残っとる?」


「いつ帰れるん?」


 教師は。


 何から伝えればよいのか分からなかった。


 帰る家そのものがない子。


 両親が行方不明の子。


 父だけ亡くなった子。


 母だけ亡くなった子。


 兄弟が全員亡くなった子。


 家族の誰一人として生存が確認できない子。


 あまりにも多かった。


 八 千代の名前


 三宅千代。


 鉄道官舎で幸と出会った少女。


 三次へ疎開したあと。


 三宅の母親、澄江へ手紙を書き続けていた。


『うちは大丈夫じゃないです』


 幼い心で。


 初めて本当の気持ちを書いた。


 その千代のもとにも。


 広島の知らせが届いた。


 教師が呼ぶ。


「三宅千代さん」


 千代は立ち上がる。


「はい」


「お母さんについて」


 教師の声が震えた。


「八月六日以降、所在が確認できていません」


 千代は、しばらく動かなかった。


「確認できてないって」


 声が小さい。


「死んだと?」


「まだ、そうとは」


「生きとると?」


 教師は答えられない。


「どっちなん」


「今、調べています」


 千代の顔が歪んだ。


「また、それ」


「分からんって」


「皆、分からんばっかり」


 涙が落ちる。


「うち、帰るって約束したんよ」


 九 泣き崩れる子どもたち


 別の子どもへ。


 父親の死亡が伝えられた。


「嘘じゃ!」


 少年が叫ぶ。


「父ちゃんは迎えに来るって言うた!」


 机を叩く。


「嘘つきじゃ!」


 だが。


 嘘をついたのは父親ではない。


 父は、本当に迎えに行くつもりだった。


 別の少女は。


 母と弟の死を聞いた瞬間。


 声も出さずに倒れた。


 別の兄弟は。


 家族全員の消息が分からないと告げられ。


 互いにしがみついた。


「僕らだけ?」


「兄ちゃん、置いていかんで」


「置いていかん」


「絶対?」


「絶対」


 教室のあちこちで。


 泣き声が上がった。


 教師たちも。


 涙をこらえられなかった。


 十 帰る場所がない


 子どもたちは。


 疎開を。


 一時的な別れだと思っていた。


 戦争が終わるまで。


 空襲がなくなるまで。


 少しの間だけ。


 だから。


 寂しくても耐えた。


 田舎の食事が口に合わなくても。


 知らない土地で眠れなくても。


 家族からの手紙が遅れても。


 帰る場所がある。


 その一つだけを信じていた。


 だが。


 広島は焼けた。


 家も。


 学校も。


 家族も。


 迎えに来るはずだった人も。


 失われた。


「戦争、終わったんやろ」


 一人の少年が言った。


「何で帰れんの」


 誰も答えられなかった。


 十一 勝男の汽車


 疎開先の教師が。


 子どもたちへ話した。


「皆をここまで運んでくれた鉄道員さんのこと、覚えとる?」


 千代が顔を上げる。


「勝男さん?」


「そう」


 C11形蒸気機関車。


 三次。


 備後庄原。


 子どもたちを安全に送り届けた列車。


 勝男は。


 親子の別れに胸を痛めながら。


 一人でも多くの子どもを守ろうとした。


「勝男さんも」


 教師は言葉を詰まらせた。


「八月六日の朝、広島機関区にいました」


 千代の顔が青ざめる。


「なら」


「生存は確認されていません」


 教室が静まり返った。


「勝男さんまで?」


 子どもの一人が呟く。


「汽車ば動かす人やろ」


「危なかったら逃げられるやろ」


「汽車で逃げればよかったやん」


 教師は、涙を流した。


「町ごと襲われたんです」


 十二 守られた命


 子どもたちは。


 初めて理解した。


 自分たちは。


 勝男たちに守られた命だった。


 あの日。


 列車が事故を起こしていたら。


 空襲へ巻き込まれていたら。


 線路の異常を見落としていたら。


 自分たちも。


 ここにはいない。


 勝男は。


 子どもたちを広島から遠ざける列車に乗務した。


 その結果。


 子どもたちは生き残った。


 そして勝男自身は。


 広島で亡くなった。


「勝男さん」


 千代は、泣きながら言った。


「うちらば逃がして」


「自分は死んだと?」


 教師は答えられなかった。


 十三 小さな手紙


 その夜。


 千代は。


 幸へ手紙を書いた。


 幸が亡くなっている可能性を聞いたあとも。


 書かずにはいられなかった。


『幸さんへ。


 うちは三次で生きています。


 勝男さんが汽車で連れてきてくれたけえです。


 お母ちゃんのことは、まだ分かりません。


 幸さんも勝男さんも、帰ってこんかもしれんと聞きました。


 でも、うちは待ちます。


 前に、うちは大丈夫じゃないですって書きました。


 今も大丈夫じゃないです。


 でも、生きています。


 勝男さんが運んでくれた命じゃけえ。


 生きます。


 千代』


 その手紙を。


 どこへ送ればよいのか。


 分からない。


 それでも千代は封筒へ入れた。


 宛名には。


『空の上の幸さんと勝男さんへ』


 と書いた。


 十四 備後庄原でも


 備後庄原の疎開先でも。


 同じように。


 残酷な知らせが子どもたちへ伝えられた。


 兄を失った子。


 祖父母だけが生き残った子。


 家族全員が行方不明の子。


 知らせを聞いたあと。


 校庭へ飛び出し。


 広島の方角へ走ろうとする子もいた。


「帰る!」


 教師が抱き止める。


「お母ちゃんがおる!」


「今は行けん!」


「離して!」


「迎えに来るって言うた!」


 教師も泣きながら抱きしめた。


「分かっとる」


「分かっとるよ」


 だが。


 分かっているだけで。


 家族を返すことはできない。


 十五 子どもたちの汽笛


 疎開先の駅。


 子どもたちは。


 ホームへ集まった。


 勝男が運転に関わった汽車が。


 再び来ることはない。


 それでも。


 一人の少年が。


 口で汽笛の音を真似た。


「ぽーっ」


 別の子も。


「ぽーっ」


 千代も。


 涙をぬぐいながら。


「ぽーっ」


 子どもたちは。


 汽笛を真似た。


 勝男へ届くように。


 広島で亡くなった家族へ届くように。


 細く。


 弱く。


 だが。


 何度も。


 何度も。


 十六 生き残ったことへの罪


 中には。


 自分だけが生き残ったことへ、罪を感じる子もいた。


「僕が疎開せんかったら」


 少年が言う。


「母ちゃんと一緒に死ねた」


 教師が、肩をつかむ。


「そがんこと言うたらいけん」


「でも、一人になった」


「一人やない」


「誰がおるん」


 答えが出ない。


 教師は、少年を抱きしめた。


「今は、ここにおる」


「皆がおる」


「それで足りんのは分かっとる」


「でも」


 声が震える。


「生きてよかんよ」


 その言葉は。


 木村修司へ勝男が伝えた言葉と同じだった。


 役目がなくても。


 何もできなくても。


 ただ生きてよい。


 十七 龍弥の目覚め


 長崎。


 龍弥は。


 長い高熱のあと。


 一度、はっきりと目を開いた。


 天井。


 寺の柱。


 原田の顔。


「篠田君」


 龍弥は、唇を動かした。


「恵さんは」


 原田は答えられない。


 龍弥は、すぐに思い出した。


 妻の最期。


 北海道。


 四枚の切符。


 涙が流れた。


「生きとるとですね、俺」


「はい」


「伊藤さんは」


「まだ治療中です」


「父さんと母さんは」


「生きとる。別の救護所におる」


 龍弥は目を閉じた。


「なら」


 かすかな声。


「生きんば」


 十八 生き残った者の役目


 原田が言う。


「役目やない」


 龍弥が目を開ける。


「何がですか」


「亡くなった人の分まで生きろとは言わん」


「……」


「お前は、お前の分を生きろ」


 藤原澄江の言葉。


『自分の分を生きて』


 広島と長崎。


 離れた二人が。


 同じ願いを残していた。


「でも」


 龍弥は胸元の手紙へ触れる。


「恵さんのお願いは守ります」


「それは守れ」


「人ば運ぶ船を造る」


「はい」


「伝える」


「はい」


「四枚の切符」


 原田は、うなずいた。


「いつか買おう」


 十九 子どもたちの名簿


 山崎は。


 疎開した子どもたちの名簿も集めるよう命じた。


 生き残った子。


 家族を失った子。


 親戚へ引き取られる子。


 疎開先へ残る子。


「この子たちも」


 山崎は言う。


「戦争の被害者です」


「はい」


「生きとるから、被害が軽いんやない」


 原田がうなずく。


「帰る場所を失った」


「家族を失った」


「子どものまま、人生を立て直させられる」


 名簿の中に。


 三宅千代の名があった。


 山崎は、その横へ書いた。


『勝男が乗務した疎開列車で三次へ移動。生存』


 一人の鉄道員が守った命。


 それは。


 未来へ残った小さな証しだった。


 二十 生き残った者たち


 生き残った者たちは。


 幸せだったわけではない。


 選ばれたわけでもない。


 強かったから生き残ったわけでもない。


 偶然。


 壁の陰にいた。


 瓦礫に隙間があった。


 疎開列車へ乗った。


 救援が間に合った。


 生と死を分けたのは。


 ほんのわずかな違いだった。


 だから。


 生き残った者たちは。


 何度も問う。


 なぜ自分だけ。


 だが。


 答えは出ない。


 答えがなくても。


 朝は来る。


 腹は減る。


 子どもは育つ。


 列車を走らせる人が必要になる。


 船を造る人が必要になる。


 語る人が必要になる。


 生き残ることは。


 亡くなった人の代わりになることではない。


 自分自身の命を。


 もう一度。


 自分のものとして生き直すことだった。


 次回予告


 広島から疎開し。


 三次や備後庄原で終戦を迎えた子どもたち。


 戦争が終われば。


 家族のもとへ帰れる。


 そう信じていた。


 だが届いたのは。


 父の死。


 母の死。


 家族全員の消息不明。


 そして、帰る家そのものが失われたという知らせだった。


 泣き崩れる子どもたち。


「戦争は終わったんやろ」


「何で帰れんの」


 誰にも答えられない。


 それでも。


 勝男が疎開列車で送り届けた子どもたちは、生きていた。


「勝男さんが運んでくれた命じゃけえ」


 千代は、空の上の幸と勝男へ手紙を書く。


 一方。


 長崎では龍弥が、ようやく意識を取り戻す。


 生きること。


 船を造ること。


 伝えること。


 そして四人分の北海道行きの切符を買うこと。


 物語は、最後の駅へ向かう。


 次回、最終話。


 第53話。


「四人分の切符」


 乗れなかった三人の席を空けて。


 生き残った一人は。


 北へ向かう汽車へ乗る。

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