最後のお願い
『幸と恵のものがたり』
第49話 最後のお願い
昭和二十年八月十八日。
夜明け前。
寺の本堂には、まだ深い闇が残っていた。
窓の外から、かすかな虫の声が聞こえる。
遠くでは、瓦礫を動かす音が続いていた。
町が破壊されても。
人々が力尽きても。
朝だけは、何事もなかったように近づいてくる。
恵は、薄い布の上に横たわっていた。
高熱は下がらない。
呼吸は浅く、胸が上下するたびに苦しそうな音が漏れる。
傷口からの出血も止まらない。
その隣では、龍弥も横になっていた。
長崎へ入ったあとに始まった高熱。
止まりにくい鼻血。
皮膚に浮かんだ紫色の斑点。
全身を押し潰すような倦怠感。
龍弥もまた、起き上がることさえ難しくなっていた。
それでも二人の手は、離れていなかった。
北海道へ向かう夢の列車は、札幌を過ぎたところで止まっている。
だが、二人の旅は、まだ終わっていなかった。
一 夜明け前の目覚め
恵のまぶたが、ゆっくり開いた。
隣を見る。
龍弥は目を閉じている。
頬は熱で赤く。
呼吸も苦しそうだった。
「龍弥……さん……」
声は、ほとんど息だった。
それでも龍弥は、すぐに目を開いた。
「ここにおるよ」
恵の指が、わずかに動く。
龍弥は、その手を握り直した。
「北海道の続き、話そうか」
恵は小さく首を横へ振った。
「もう……着いた……」
「札幌に?」
「うん……」
「なら、次は旭川たい」
「その前に……」
恵は息を整えようとした。
だが、うまく吸えない。
胸が痛む。
「龍弥さん……」
「うん」
「お願いが……あると……」
龍弥の表情が変わった。
「最後のお願いみたいに言わんで」
恵は、ほんの少し笑った。
「最後とは……言っとらん……」
「なら聞く」
「何でも言って」
二 生きてほしい
恵は龍弥の手へ、残された力を込めた。
「龍弥さん……」
「うん」
「生きて……」
龍弥は、すぐに答えた。
「一緒に生きる」
「二人で治るって約束したやろ」
恵は首を横へ振る。
「もし……」
「もしは言わん」
「聞いて……」
龍弥の目に涙が浮かぶ。
恵は、途切れ途切れに続けた。
「もし……うちが……先に……行っても……」
「言わんで!」
龍弥の声が、本堂に響いた。
周囲の負傷者が、わずかに顔を向ける。
伊藤も原田も、少し離れた場所から二人を見守っていた。
龍弥は声を落とす。
「先に行かん」
「北海道へ行くんやろ」
「羊蹄山を見るんやろ」
「函館でチーズケーキ食べるんやろ」
「約束したやろ!」
恵の目から涙が流れた。
「うん……」
「なら、そがん話はせんで」
恵は、龍弥の手を自分の胸元へ引き寄せた。
「でも……お願い……」
龍弥は、唇を強くかんだ。
三 戦争を憎んでも
「戦争を……憎んで……よか……」
恵が言う。
「うん」
「悔しがって……よか……」
「うん」
「怒っても……よか……」
龍弥の涙が、恵の手へ落ちる。
「俺は、ずっと怒っとる」
「幸さんも、勝男さんも」
「勝一さんも、節子さんも」
「皆ば奪った戦争が許せん」
恵は、ゆっくりうなずいた。
「でも……」
言葉が途切れる。
龍弥が顔を近づける。
「でも?」
「龍弥さんの……心まで……」
「うん」
「戦争に……持っていかれんで……」
龍弥は答えられなかった。
憎しみ。
怒り。
後悔。
もっと早く戦争を終わらせていれば。
自分が佐世保へ移されていなければ。
もっと早く長崎へ戻れていれば。
何度も同じことを考えてきた。
「恵さん」
「うん……」
「俺、忘れたくない」
「忘れんで……よか……」
「でも……」
恵は弱い声で言った。
「笑うことまで……やめんで……」
四 また誰かを大切に
恵は、長い時間をかけて息を吸った。
「龍弥さんは……優しか人やけん……」
「そんなことなか」
「ある……」
「負傷した人……運んだ……」
「子ども……背負った……」
「恵さんを探す途中やったけん」
「それでも……助けた……」
龍弥は目を伏せる。
恵は続けた。
「これからも……誰かを……助けて……」
「でも、俺は恵さんだけで」
「分かっとる……」
「恵さん以外の人なんて」
「恋の話や……なか……」
恵の唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
「龍弥さん……すぐ……そっちに考える……」
「だって」
「うちは……龍弥さんの妻たい……」
「うん」
「ずっと……」
「うん」
「でも……龍弥さんが……誰かに水を渡して……」
「誰かの荷物を持って……」
「困っとる人の……そばにおる……」
恵は目を閉じた。
「そがん人で……おって……」
五 造船技師の夢
「それから……」
恵が言う。
「船……」
龍弥は顔を上げる。
「船?」
「造船技師に……なるとやろ……」
「うん」
「戦争の船やなくて……」
その言葉に、龍弥の胸が締めつけられた。
少年の頃。
安全な船を造りたいと語った。
だが、現実に造らされたのは軍艦だった。
人を守るためではなく。
戦地へ向かわせる船。
武器を運ぶ船。
「人を……運ぶ船……」
恵が続ける。
「家族ば……会わせる船……」
「うん」
「青函連絡船みたいな?」
恵の唇が、少し動く。
「そう……」
「旅する人を乗せて」
「大切な人のところへ帰る人を乗せて」
「沈まん船ば造る」
龍弥は涙を拭った。
「絶対に」
「恵さんと一緒に設計する」
「うちは……船……分からん……」
「横でツッコミ入れてくれればよか」
「それなら……できる……」
二人は、ほんの少しだけ笑った。
六 幸の手紙を残して
恵は、胸元に置かれた焦げた手紙へ目を向けた。
「これ……」
龍弥が手に取る。
幸から届いた最後の手紙。
焼け。
破れ。
一部の文字は失われている。
それでも、確かに姉が書いたものだった。
「幸姉ちゃんの……手紙……」
「うん」
「捨てんで……」
「捨てるわけなか」
「絵も……」
「あの魚みたいな飛行機?」
恵が、ほんの少し眉を動かす。
「飛行機……」
「はい」
「姉の想像上の生き物では?」
「もう……言わんで……」
「恵さんが言い始めたとですよ」
「お姉ちゃん……怒る……」
龍弥は、手紙を丁寧に畳んだ。
「大事に持っとく」
「いつか」
「うん」
「戦争が終わって何年たっても」
「幸さんと勝男さんが生きとったことを、誰かに話す」
「勝一さんと節子さんのことも」
「恵さんのことも」
恵の目が龍弥へ向いた。
「うちのこと……?」
「当たり前たい」
七 誰かに伝えて
「お願い……」
恵が、もう一度言った。
「うん」
「何年たっても……」
「うん」
「この町で……起きたこと……」
「うん」
「広島で……起きたことも……」
龍弥は、強くうなずく。
「伝える」
「爆弾が……落ちたって……だけやなくて……」
「うん」
「そこに……人が暮らしとったって……」
恵の声が震える。
「御飯作って……」
「仕事して……」
「恋して……」
「家族で……笑って……」
「汽車で……旅したいって……」
龍弥の涙が止まらない。
「全部伝える」
「約束する」
「幸姉ちゃんが……音痴やったことも……」
龍弥は、泣きながら笑った。
「それも伝えると?」
「大事……」
「分かりました」
「でも、幸さん本人が聞いたら怒りますよ」
「そのときは……うちが……ツッコむ……」
八 父と母のこと
恵は、目を閉じた。
「お父さん……」
「うん」
「機関車の部品……作りよった……」
「うん」
「人ば安全に運ぶための……ボルト……」
「うん」
「お母さん……」
声が弱くなる。
「食べるもの……なかとに……」
「うん」
「うちに……食べさせてくれた……」
龍弥は、恵の手を握り直した。
「二人のことも伝える」
「勝一さんが、軍需品を作ることに悩んどったこと」
「節子さんが、人の命は軽うならんって言ったこと」
「全部」
恵は、安心したように息を吐いた。
「よかった……」
九 北海道の切符
「もう一つ……」
「まだあると?」
「ある……」
龍弥は、涙を拭いながら身を寄せた。
「何でも言って」
「北海道の……切符……」
「切符?」
「いつか……買って……」
龍弥の顔が歪む。
「二人で行くけん、二枚買う」
恵は、ゆっくり首を横へ振った。
「四枚……」
龍弥は言葉を失う。
「うちと……龍弥さん……」
「幸姉ちゃんと……勝男さん……」
「四人分……」
「うん」
「四枚買う」
「席も四人掛け」
「幸さんの席は窓側?」
「お姉ちゃん……勝手に取る……」
「なら、勝男さんが隣」
「うちは?」
「俺の隣」
恵の唇が、わずかに笑う。
「よか……」
「絶対買う」
「列車が走るようになったら」
「北海道まで行けるようになったら」
「四人分の切符ば買う」
十 羊蹄山を見たら
「羊蹄山……」
恵が言う。
「うん」
「見たら……」
龍弥は待つ。
「きれいやったって……」
「誰に言うと?」
「うちに……」
龍弥は、もう涙を隠さなかった。
「隣で一緒に見る」
「だから、恵さんが自分で言う」
「もし……言えんかったら……」
「言える」
「聞いて……」
龍弥は唇を震わせた。
恵は、穏やかな声で続ける。
「羊蹄山ば見たら……」
「うん」
「恵さん……きれいやったよって……」
「うん」
「空に……言って……」
龍弥は何度もうなずいた。
「言う」
「何回でも」
「大きな声で言う」
「山がびっくりするくらい」
恵が、かすかに笑った。
「山は……逃げん……」
「恵さんのツッコミ、まだ元気たい」
十一 龍弥の拒絶
静かな時間が流れた。
龍弥は、恵の顔を見つめる。
「でも」
声が震える。
「俺は、そがんお願い聞きたくなか」
恵が目を開く。
「北海道も」
「船の夢も」
「手紙を残すことも」
「全部、二人でやる」
「龍弥さん……」
「嫌です」
龍弥は、恵の手へ額をつけた。
「最後のお願いになんかせん」
「恵さんが治って、自分で全部やる」
「俺は補助するだけ」
「北海道の切符も、自分で買って」
「羊蹄山を見て、自分でツッコミ入れて」
恵は、龍弥の髪へ触れようとした。
腕はほとんど上がらない。
龍弥が自分から頭を近づける。
指先が髪へ触れた。
「龍弥さん……」
「うん」
「怖かと……?」
「あぁ」
龍弥は正直に答えた。
「怖くてたまらん」
「恵さんがおらん世界なんて」
「考えたくもなか」
十二 怖くても
恵は、ゆっくり息を吸った。
「うちも……怖か……」
「うん」
「死にたく……なか……」
龍弥は、さらに強く手を握る。
「死なん」
「北海道……行きたか……」
「行こう」
「子どもも……」
声が止まる。
龍弥の表情が固まる。
「子ども?」
恵の目に涙が浮かぶ。
「龍弥さんとの……子ども……欲しかった……」
龍弥は、何も言えなくなった。
小さな家。
食卓。
子どもの笑い声。
漁船と造船所。
恵が縫った服。
龍弥が作った木製の船。
あり得たかもしれない暮らし。
「俺も」
ようやく答える。
「欲しかった」
「女の子やったら」
「恵さんに似た子」
「男の子やったら」
「龍弥さんみたいに……頑固……」
「俺は頑固やなか」
恵の目が、わずかに笑う。
「頑固……」
「なら、恵さんに似てツッコミが強い子」
「大変……」
「幸せな大変さたい」
十三 命の話
「龍弥さん」
「うん」
「うちらの……子どもは……おらんけど……」
「うん」
「これから……生まれる子どもたちが……」
「うん」
「同じ目に……遭わんごと……」
龍弥は、息をのんだ。
「戦争ば、二度と起こさんように」
「うん」
「爆弾ば、二度と町へ落とさんように」
「うん」
「伝えて」
龍弥は、恵の手を自分の胸へ当てた。
「伝える」
「俺の命が続く限り」
「恵さんの言葉を伝える」
「誰が笑っても」
「誰が聞こうとせんでも」
「何度でも」
恵は、ゆっくりうなずいた。
十四 伊藤と原田
少し離れた場所で。
伊藤と原田は、二人の会話を聞いていた。
伊藤の熱も高い。
紫色の斑点は増えている。
原田も、家族の救護所と寺を往復し、限界に近づいていた。
「聞いたな」
伊藤が小さく言う。
原田はうなずく。
「ああ」
「俺たちも伝えんば」
「はい」
「生き残った者が」
伊藤は咳き込む。
布へ血がつく。
「この子たちだけに背負わせたらいかん」
原田は、涙をぬぐった。
「勝男のことも」
「幸さんのことも」
「恵さんと龍弥君のことも」
「鉄道員として」
「一人の人間として」
「俺も伝えます」
十五 書き留める
原田は、紙と鉛筆を用意した。
紙は貴重だった。
端が焦げた帳簿の裏側。
そこへ、恵の言葉を書き留めていく。
戦争に心まで奪われないで。
人を運ぶ船を造って。
広島と長崎で、人が暮らしていたことを伝えて。
四人分の北海道行きの切符を買って。
同じ惨劇を、子どもたちに繰り返させないで。
龍弥が尋ねる。
「何しよるとですか」
原田は答えた。
「忘れんためです」
恵が、かすかに笑う。
「原田さん……字……きれい……?」
「勝男よりは」
「勝男さん……怒る……」
「なら、あの世から文句を言いに来てもらいます」
恵の目から涙がこぼれた。
だが、少しだけ笑った。
十六 空が明るくなる
本堂の外。
空が少しずつ明るくなっていた。
夜明け。
新しい一日。
恵は、その光へ顔を向けようとした。
龍弥が体を少し支える。
「朝……?」
「うん」
「きれい?」
龍弥は、壊れた町の向こうを見る。
煙。
瓦礫。
焦げた木々。
それでも。
東の空は淡い色へ変わっている。
「きれいです」
「ほんと……?」
「嘘やなか」
「北海道の……空みたい……?」
「もっときれい」
恵は、薄く目を開いた。
「見えん……」
「俺が見とる」
「恵さんの分も」
十七 最後ではなく
「龍弥さん」
「うん」
「お願い……覚えた……?」
「全部」
「船……」
「人ば安全に運ぶ船を造る」
「手紙……」
「幸さんの手紙を残す」
「北海道……」
「四人分の切符を買う」
「羊蹄山……」
「きれいやったと、恵さんに言う」
「戦争……」
龍弥は、はっきり答えた。
「二度と起こさんように伝える」
恵は、安心したように目を閉じた。
「よかった……」
龍弥は、恵の手を頬へ当てた。
「でも、最後のお願いとは呼ばん」
「これは」
声が震える。
「二人のこれからの約束たい」
恵の指先が、わずかに頬を撫でる。
「うん……」
十八 眠る前に
「少し……眠る……」
恵が言った。
「うん」
「俺がおる」
「起きたら……?」
「ここにおる」
「北海道の……続き……」
「旭川から話そう」
「動物……おる……?」
「たくさんおる」
「熊も?」
「汽車の中から見る」
「降りたら……いかん……」
「分かりました」
恵の唇に、わずかな笑み。
「おやすみ……」
「おやすみなさい」
龍弥は、手を離さない。
恵は浅い眠りへ入った。
十九 眠れない龍弥
だが。
龍弥は眠れなかった。
妻の呼吸を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
次の呼吸までが長い。
「恵さん」
呼ぶ。
まぶたが少し動く。
まだ生きている。
胸が上下する。
そのたび、龍弥は息を吐いた。
自分の熱も高い。
視界も揺れる。
それでも。
妻の呼吸が続く限り。
眠ることはできなかった。
二十 最後のお願い
恵が龍弥へ託した願い。
それは、自分のためだけのものではなかった。
生きて。
人を助けて。
人を運ぶ船を造って。
失われた人々の暮らしを伝えて。
四人分の切符を買って。
羊蹄山を見て。
そして。
二度と戦争を繰り返さないで。
一人の若い女性が、命の終わりへ近づきながら託した願い。
それは。
未来へ向けた、小さくも重い手紙だった。
⸻
次回予告
「生きて」
「戦争に、心まで持っていかれんで」
「人を運ぶ船ば造って」
「広島と長崎に、人が暮らしとったことば伝えて」
「北海道行きの切符は、四人分買って」
恵は、龍弥へ願いを託す。
原田は、その言葉を焦げた帳簿の裏へ書き留める。
夜が明け。
長崎の町へ、再び朝が来る。
しかし。
恵の呼吸は、さらに弱くなっていく。
医師は龍弥へ告げる。
「今夜を越えられるか、分かりません」
龍弥は妻の手を握り、北海道の旅の続きを語り続ける。
旭川。
富良野。
稚内。
雪原を走る汽車。
そして恵は、最後に姉・幸へ呼びかける。
「……もし、もう会えんのやったら……」
次回、第50話。
「空の上の汽車」
四人で乗れなかった汽車。
その汽笛は、地上ではなく。
雲の向こうから聞こえ始める。




