北海道へ行こう
『幸と恵のものがたり』
第48話 北海道へ行こう
寺の本堂。
夜。
外では、焼けた町の匂いがまだ風に混じっていた。
本堂の中には、負傷者の浅い呼吸と、ときおり漏れるうめき声。
わずかな灯り。
乾いた咳。
水を求める声。
龍弥と恵は、手をつないだまま横たわっていた。
恵の熱は高い。
呼吸は弱く。
言葉を口にするたびに、長い間が必要だった。
龍弥もまた、高熱に苦しんでいた。
鼻血。
紫色の斑点。
体の奥から押し寄せる、説明できないだるさ。
それでも、二人は手を離さなかった。
離せば。
どちらかが、この世界から遠ざかってしまう気がした。
一 北海道への切符
「恵さん」
龍弥が、かすれた声で言った。
「旅行の話、続けようか」
恵のまぶたが、わずかに動く。
「北海道……?」
「あぁ」
「新婚旅行」
恵の唇が、ほんの少し笑みの形になる。
「どがん……行くと……?」
龍弥は目を閉じた。
頭の中へ、まだ壊れていない日本の線路を思い浮かべる。
「まず、長崎から汽車に乗る」
「うん……」
「何回か乗り換えて、大阪まで」
「夜汽車……?」
「あぁ。夜汽車たい」
龍弥は、少しだけ声を明るくした。
「夜の長崎駅から出発して」
「恵さんは窓側」
「何で……?」
「景色ば見たいやろ」
「夜やけん……見えん……」
龍弥は弱く笑った。
「なら、駅の灯りば見る」
「眠ってもよか」
「俺が起こすけん」
「ちゃんと……起こして……」
「もちろん」
二人の心の中で。
壊れた長崎駅のホームに。
もう一度、蒸気機関車が入ってきた。
白い蒸気。
汽笛。
荷物を持った旅人。
戦地へ向かう兵士はいない。
泣きながら見送る家族もいない。
乗っているのは。
旅へ出る二人だけだった。
二 夜汽車の中
「客車は」
龍弥が続ける。
「少し古いけど、座席はふかふか」
恵が、かすかに首を振る。
「うそ……」
「夢の中やけん、よかやろ」
「なら……もっと……ふかふか……」
「分かりました」
龍弥は目を閉じたまま、空想の客車を作っていく。
広い座席。
大きな窓。
網棚には小さな鞄。
膝の上には、節子が作ってくれた握り飯。
勝一が持たせてくれた工具ではなく。
旅先で買う土産を入れるための空の袋。
「お母さんの……おにぎり……」
恵の声が震える。
龍弥は一度、言葉を止めた。
それでも。
夢の中だけは。
節子も生きている。
「うん」
「梅干し入り」
「お父さんは……?」
「駅まで見送りに来る」
「また……厳しか顔……?」
「俺に、恵ば頼むぞって」
「もう……結婚しとるとに……」
「何回でも言う人たい」
恵が、少しだけ笑った。
龍弥の目から涙が流れた。
だが声は、明るいまま保った。
三 大阪の朝
「夜汽車が走って」
「朝になったら、大阪」
恵が、ゆっくり目を開ける。
「大阪……大きか町……?」
「あぁ」
「人も多い」
「汽車もいっぱい」
「どがん汽車……?」
「長崎では見たことのない機関車もおるかもしれん」
「勝男さん……喜ぶ……」
龍弥の声が止まる。
恵も気づいたのか。
目を伏せる。
「お姉ちゃんも……」
「うん」
「絶対……騒ぐ……」
龍弥は、恵の手を握り直した。
「四人で大阪駅のホームに立とう」
「勝男さんは、機関車ば見て仕事の顔になる」
「幸さんは、早く行くよって引っ張る」
「恵さんは、二人にツッコミ」
「龍弥さんは……?」
「俺は荷物持ち」
「それだけ……?」
「船の話をする」
「大阪駅で……?」
「港町やけん、よかでしょう」
恵は、苦しそうに息をしながら。
それでも、少し笑った。
四 日本海に沿って
「大阪からは」
龍弥が言う。
「日本海側へ出る」
「うん……」
「日本海に沿って、北へ北へ」
恵の目に、かすかな光が戻る。
「海……見える……?」
「あぁ」
「窓の向こうに、ずっと海」
「波がきらきらして」
「小さな漁村が見えて」
「港に船が並んどる」
「龍弥さん……船ばっかり見る……」
「恵さんは景色」
「俺は船」
「汽車も……見て……」
「もちろん」
龍弥は続けた。
「途中の駅で、温かい茶ば買って」
「弁当も」
「何の……弁当……?」
「魚」
「また魚……」
「日本海やけん」
「野菜も……」
「平戸家の野菜みたいにうまいやつ」
恵の瞳が揺れた。
和徳と真子。
野菜を持ってきてくれた人たち。
もう、その名を口にするだけで胸が痛む。
それでも、夢の旅の中では。
平戸家の畑も残っていた。
五 雪国へ
列車は北へ進む。
龍弥の言葉に合わせて。
恵の心は、見たことのない土地へ飛んでいく。
山。
海。
長いトンネル。
鉄橋。
小さな駅。
北へ行くほど。
風景には雪が増えていった。
「寒か……」
恵が呟く。
「厚い服着るけん」
「龍弥さん……似合わん……」
「前にも言われた」
「漁師の子……」
「北海道も海があるって言うたでしょう」
「なら……許す……」
「ありがとうございます」
龍弥の声は、次第に弱くなっていた。
それでも話し続ける。
恵の目が閉じないように。
未来を見失わないように。
六 青森駅
「そして」
龍弥は息を整えた。
「列車は青森に着く」
「青森……」
「本州の一番北」
「駅を出たら、海の匂い」
「長崎と……同じ……?」
「少し違うかもしれん」
「寒い海の匂い」
「どがん匂い……?」
龍弥は、少し考えた。
「冷たい風に、塩の匂いが混じっとる」
「想像……?」
「想像です」
「役に立たん……」
「勝男さんみたいに言わんでください」
恵の唇が、わずかに動く。
笑っている。
その笑顔を見て。
龍弥も泣きながら笑った。
七 青函連絡船
「青森からは」
龍弥が言う。
「汽車を降りて、船に乗る」
恵の目が少し開く。
「船……?」
「青函連絡船」
「青森と函館を結ぶ船」
「汽車の次は、船」
「龍弥さんの……出番……」
「あぁ」
「勝男さんには負けん」
「何を……競うと……」
「汽車と船、どっちが早いか」
「海と陸で……競えん……」
「恵さんのツッコミは、北海道まで元気ですね」
龍弥は続ける。
「船が港を出る」
「夜かもしれん」
「朝かもしれん」
「甲板へ出たら、風が強い」
「寒か……」
「俺の上着ば貸す」
「龍弥さんが……寒か……」
「夫やけん、よか」
「一緒に……着る……」
その一言に。
龍弥の目から、また涙が流れた。
「うん」
「二人で入ろう」
「大きな上着ば買おう」
八 津軽海峡
船は津軽海峡へ出る。
二人の心の中で。
長崎の焼けた町も。
救護所の暗い本堂も。
高熱も。
傷も。
すべてが遠ざかっていく。
海。
どこまでも続く水面。
空。
風。
白い波。
「海、広かね」
恵が呟く。
本当に見ているかのような声だった。
「うん」
「長崎の海と……つながっとる……?」
「全部つながっとるよ」
「広島とも……?」
龍弥の胸が痛む。
「うん」
「幸さんたちのところとも」
「つながっとる」
恵は、目を閉じた。
「なら……お姉ちゃんも……見よるかな……」
龍弥は答えた。
「見よるよ」
「きっと」
九 函館へ
「そして」
龍弥は言う。
「海の向こうに、北海道が見えてくる」
「函館……?」
「あぁ」
「着いたら、まず港」
「赤い屋根の倉庫」
「坂道」
「夜になったら、町の灯りがきれい」
「長崎と……似とる……?」
「坂と港は似とるかもしれん」
「なら……好きになる……」
「うん」
「絶対好きになる」
恵の心は。
もう函館の町へ到着していた。
港に降り立つ。
風は冷たい。
だが、龍弥が隣にいる。
幸と勝男も。
少し先で手を振っている。
「お姉ちゃん……待って……」
恵が、かすかに言った。
龍弥は息をのんだ。
「幸さん、何しよる?」
「先に……行きよる……」
「やっぱり」
「勝男さんが……荷物持っとる……」
「俺と同じですね」
「男は……大変……」
二人は、また少し笑った。
十 函館の夜
「函館で一泊しよう」
龍弥が言う。
「旅館?」
「あぁ」
「温かい布団」
「広い部屋」
「御飯もいっぱい」
「何が……出る……?」
「魚」
「また……」
「今度はイカ」
「イカ……?」
「函館はイカがうまいらしい」
「誰に……聞いたと……」
「想像」
「また……」
「夢の旅やけん、何でもよかでしょう」
「なら……チーズケーキも……」
「もちろん」
「紅茶も」
「甘いやつ」
「砂糖をいっぱい入れる」
「贅沢……」
「戦争は終わったけん」
龍弥は言った。
「もう、少しずつ贅沢してよか」
その言葉に。
二人はしばらく黙った。
戦争は終わった。
だが。
二人の体は。
終戦より早く壊されていた。
十一 翌朝の函館
「次の日の朝」
龍弥は、再び話し始める。
「函館駅へ行く」
「また汽車……」
「あぁ」
「今度は札幌へ」
「北海道の中を走る」
「窓の外には、見たことのない山」
「広い畑」
「牧場」
「牛」
「牛……?」
「いっぱいおる」
「怖くない……?」
「汽車の中やけん」
「なら……見る……」
龍弥の呼吸が、少し乱れる。
恵が気づく。
「龍弥さん……休んで……」
「まだ札幌まで行っとらん」
「ゆっくり……行けばよか……」
「うん」
「旅行やけん」
「急がんでよか」
その言葉に。
龍弥は目を閉じた。
何でも急がされた時代。
工期。
輸送。
軍需。
命令。
今度の旅だけは。
急がなくてよい。
十二 羊蹄山
少し休んだあと。
龍弥が、また口を開いた。
「札幌へ向かう途中」
「うん……」
「羊蹄山っていう、きれいな山があるらしい」
恵の目が、ほんの少し開く。
「ようてい……ざん……?」
「あぁ」
「形が富士山みたいにきれいで」
「北海道の富士って呼ばれることもあるらしい」
「見てみたか……」
その声は。
今までより、少しだけはっきりしていた。
「うん」
龍弥は笑う。
「見よう」
「窓側の席に座って」
「雪の残った山ば見る」
「朝の光が当たって」
「白く光って」
「きれいやろうね」
恵は目を閉じた。
心の中には。
もう羊蹄山が見えていた。
青い空。
白い雪。
広い大地。
汽車の窓。
隣には龍弥。
向かいの席には、幸と勝男。
姉は、山を見て大騒ぎしている。
勝男は、汽車の揺れを気にしている。
「お姉ちゃん……山ば見て……歌い出す……」
恵が呟く。
龍弥は、笑いながら答える。
「羊蹄山が逃げるかもしれん」
「山は……逃げん……」
「恵さんのツッコミが入りました」
十三 札幌へ
「羊蹄山ば見たあと」
龍弥が続ける。
「札幌へ着く」
「大きな町?」
「あぁ」
「広い道」
「市場」
「時計台」
「おいしいものもいっぱい」
「何……食べる……?」
「じゃがいも」
「とうもろこし」
「牛乳」
「バター」
「甘い菓子」
「全部……食べる……?」
「少しずつ」
「龍弥さんが……太る……」
「恵さんも」
「二人で……太る……」
「そう約束したやろ」
恵は。
ほんのわずかに笑った。
その顔は。
救護所ではなく。
札幌の食堂にいるようだった。
十四 心の中の新婚旅行
恵の呼吸は。
少しずつ浅くなっていた。
だが。
その心は。
もう救護所にはいなかった。
汽車の窓。
津軽海峡。
函館の夜景。
羊蹄山。
札幌の町。
まだ見たことのない北海道を。
龍弥の言葉と一緒に旅していた。
「楽しか……」
恵が言う。
「まだ途中たい」
「うん……」
「このあと旭川」
「稚内」
「もっと北まで行く」
「遠か……」
「ゆっくり行けばよか」
「急がんで」
龍弥は、恵の手を握る。
「二人で行こう」
「約束やけん」
十五 四人の席
「恵さん」
「うん……」
「汽車の座席は、四人掛けにしよう」
恵の目が揺れる。
「四人……?」
「あぁ」
「俺と恵さん」
「幸さんと勝男さん」
恵の唇が震える。
「お姉ちゃん……おる……?」
龍弥は、涙をこらえながら答えた。
「おるよ」
「心の中に」
「ずっと一緒に乗っとる」
恵の目から涙が落ちた。
「なら……よか……」
「席……空けんで……」
「空けん」
「絶対」
龍弥は、強く言った。
「幸さんと勝男さんの席も、ちゃんとある」
十六 汽笛
遠くで。
かすかに汽笛のような音が聞こえた。
本当に列車だったのか。
誰かの声だったのか。
分からない。
恵は、その音へ耳を傾けた。
「汽車……?」
「うん」
龍弥は答えた。
「北海道行きの汽車」
「来た……?」
「来たよ」
「乗ろう」
「うん……」
恵の指が、わずかに動く。
龍弥の手を握ろうとする。
「切符……持った……?」
「持っとる」
「二人分」
「四人分」
恵が、ほんの少し笑った。
十七 窓の外
「窓の外」
龍弥は話し続ける。
「海が見える」
「山も」
「雪も」
「駅に止まるたび、知らない町」
「食堂の匂い」
「子どもの声」
「誰も戦地へ行かん」
「誰も泣きながら見送らん」
「兵員列車もない」
「軍需貨物もない」
「ただ、旅する人だけ」
恵の頬を涙が伝う。
「そんな……汽車……乗りたかった……」
「乗れる」
龍弥は言う。
「俺たち、今乗っとる」
恵は目を閉じた。
「うん……」
十八 見てみたかった景色
「羊蹄山」
恵が、もう一度言った。
「うん」
「きれい……?」
「きれい」
「雪……ある……?」
「ある」
「空……青い……?」
「真っ青」
「お姉ちゃんの……飛行機の絵……飛んどる……?」
龍弥は、泣きながら笑った。
「魚みたいなやつ?」
「うん……」
「北海道まで来たとですね」
「迷子……」
「幸さんらしい」
恵の唇が。
わずかに笑みの形を作った。
「見てみたか……」
その言葉は。
夢を語る少女のようだった。
二十二歳。
戦争に奪われるには。
あまりにも若かった。
十九 龍弥の約束
龍弥は、恵の手を自分の頬へ当てた。
「見るよ」
「必ず」
「羊蹄山も」
「函館の夜景も」
「札幌の町も」
「全部」
「俺が連れていく」
「龍弥さんも……治って……」
「治る」
「恵さんも」
「二人で」
「約束……?」
「約束」
恵の指先が。
かすかに龍弥の頬を撫でた。
二十 旅は続く
本堂の外。
夜は深まっていた。
救護所。
傷ついた町。
見えない放射線。
失われた家族。
すべては、そこにある。
だが。
二人の心は。
北海道行きの列車に乗っていた。
大阪を過ぎ。
日本海沿いを北へ進み。
青森から連絡船へ乗り。
函館へ着き。
羊蹄山を眺めながら。
札幌へ向かっていた。
叶わないかもしれない夢。
それでも。
語る間だけは。
二人は戦争のない未来を旅することができた。
次回予告
長崎から夜汽車へ乗り。
大阪から日本海沿いを北上し。
青森から青函連絡船で函館へ。
函館で一泊したあと。
羊蹄山を眺めながら札幌へ向かう。
龍弥が語る新婚旅行。
恵の心は、すでに北海道の線路を走っていた。
「見てみたか」
雪を抱いた羊蹄山。
青い空。
四人掛けの座席。
そこには、幸と勝男の席もある。
しかし。
現実の恵の呼吸は、次第に弱くなっていく。
龍弥も高熱に苦しみながら。
妻の手を離さない。
そして夜明け前。
恵は、北海道行きの汽車の夢から戻るように目を開く。
「龍弥さん」
「うん」
「お願いがあると」
次回、第49話。
「最後のお願い」
未来へ連れていく約束。
過去へ残した言葉。
そして。
愛する人へ託す、最後の願い。




