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幸と恵の物語  作者: リンダ


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姉は帰ってこない

『幸と恵のものがたり』


第47話 姉は帰ってこない


昭和二十年八月十七日。


長崎の臨時救護所。


寺の本堂には、朝になっても夜のような重苦しさが残っていた。


十分な灯りはない。


窓の外には、まだ煙の匂いが漂っている。


畳の上には、負傷者が隙間なく横たわっていた。


高熱にうなされる者。


火傷の痛みに耐える者。


家族の名を呼び続ける者。


前日まで言葉を交わしていた人が、朝には動かなくなっている。


戦争は終わった。


それでも、この場所では死が止まらなかった。


恵は薄い布の上へ横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。


そのそばには龍弥がいる。


妻の手を握り続けていた男。


佐世保から長崎へ入り、瓦礫の町を走り回り、ようやく恵を見つけた男。


だが今。


龍弥自身の体にも、異変が現れ始めていた。


一 龍弥の熱


龍弥は、朝から何度も額の汗を拭っていた。


夏の暑さだけではない。


体の内側から、強い熱が上がっている。


頭が重い。


喉が渇く。


立ち上がろうとすると、視界が揺れる。


「龍弥さん」


恵のかすかな声。


龍弥はすぐに顔を近づけた。


「ここにおるよ」


「顔……赤か……」


「暑いけん」


「嘘……」


恵は、弱いながらも龍弥を見つめた。


「熱……あるやろ……」


龍弥は笑おうとした。


「少しだけ」


「大丈夫って……言わんで……」


「言っとらんよ」


「同じ……顔……しとる……」


「何の顔?」


「無理しよる……顔……」


龍弥は答えられなかった。


妻には、すべて分かってしまう。


二 立てない


救護所の女性が、水桶を運ぼうとしていた。


龍弥は手伝おうと立ち上がる。


その瞬間。


足元が大きく揺れた。


柱が傾いたように見える。


「篠田君!」


原田が支える。


龍弥は、その場へ膝をついた。


「すみません」


「横になれ」


「恵さんのそばに」


「その恵さんが心配しとる!」


龍弥は恵を見る。


恵の目には、はっきりとした不安が浮かんでいた。


「龍弥さん……寝て……」


「でも」


「怒るよ……」


龍弥は、力なく笑った。


「分かりました」


恵の隣へ薄い布を敷く。


手が届く距離。


二人は横になったまま、互いの指を重ねた。


三 原因の分からない熱


医師が龍弥の脈を取った。


額。


目。


歯茎。


皮膚。


「高い熱です」


原田が尋ねる。


「傷からですか」


「大きな外傷はありません」


「なら、何で」


医師は首を横に振る。


「市内へ入った救援者に、同じ症状が増えています」


「龍弥君は爆発のとき、佐世保におったんです」


「分かっています」


「なら、爆弾には遭うとらん」


「それでもです」


鼻血。


歯茎からの出血。


皮膚の紫色の斑点。


激しい疲労。


龍弥にも、少しずつ同じ症状が現れていた。


「町へ入ったことが関係しとるとですか」


原田が尋ねる。


医師は答えられない。


「まだ、分かりません」


また、その言葉。


分からない。


この戦争の中で。


何度も人々を苦しめた言葉。


四 恵の手


龍弥は、横になったまま恵の手を握った。


「冷たかね」


恵が言う。


「恵さんの手?」


「龍弥さんの……」


「熱があるけん、そう感じるとよ」


「ほんと……?」


「ほんと」


恵は、龍弥の指を弱く握り返した。


「治る……?」


龍弥は、迷わず答えた。


「治ります」


「約束……?」


「約束です」


「うちも……?」


「あぁ」


龍弥は、恵の目を見た。


「恵さんも、必ず治る」


恵の唇が少し動く。


「ほんと……?」


「ほんとです」


「絶対……?」


「絶対」


その言葉に、医学的な根拠はなかった。


だが。


今の二人には。


未来を信じるための約束が必要だった。


五 汽車が走ったら


龍弥は、ゆっくり話し始めた。


「恵さん」


「うん……」


「汽車がまた走るようになったら」


恵の目が、少し開く。


「新婚旅行へ行こう」


「新婚……旅行……?」


「あぁ」


「結婚してすぐ、俺は佐世保へ行ったやろ」


「うん……」


「夫婦になったのに、一緒に暮らす時間もなかった」


「うん……」


「だから」


龍弥は、熱に苦しみながらも笑った。


「やり直そう」


「戦争が終わった今から」


「俺たちの夫婦の時間ば、最初からやり直そう」


恵の目から涙が流れた。


六 北海道へ


「どこ……行くと……?」


恵が尋ねる。


龍弥は少し笑う。


「恵さんが行きたいって話しよった場所」


「うち……?」


「幸さんと手紙で話しよったやろ」


恵の表情が揺れる。


「北海道」


「……」


「函館へ行って」


「札幌へ行って」


「旭川へ行って」


「最後は稚内まで」


恵の唇が、ほんの少し笑みの形になる。


「遠すぎ……」


「幸さんみたいなこと言いよる」


「お姉ちゃんは……行くって……言う……」


「なら、俺たちも行こう」


龍弥は続けた。


「長崎から汽車に乗って」


「何回も乗り換えて」


「何日かかるか分からんけど」


「ゆっくり行こう」


七 おいしいもの


「北海道で」


龍弥は話す。


「うまいものを、いっぱい食べよう」


「何……?」


「白い御飯」


恵の目が少し動く。


「魚」


「野菜」


「牛乳」


「甘いもの」


「チーズケーキも」


恵が、かすかに笑う。


「喫茶店……」


「うん」


「最初に会った店のチーズケーキも食べんば」


「二回……食べると……?」


「何回でも」


「太る……」


「今は、少し太るくらいがよか」


恵は、弱い声で言った。


「龍弥さんも……痩せとる……」


「なら二人で太ろう」


二人は、ほんの少し笑った。


周囲には苦しむ人々がいる。


未来を語ることさえ、申し訳なく感じる場所。


それでも。


二人の笑いは、生きようとする力だった。


八 きれいな景色


「きれいな景色も見よう」


龍弥が言う。


「雪?」


「雪も」


「海も」


「山も」


「広い畑も」


「汽車の窓から、ずっと眺めよう」


恵は、目を閉じた。


頭の中で。


見たことのない北海道を思い浮かべる。


白い雪。


青い空。


遠くへ続く線路。


煙を上げて走る蒸気機関車。


四人で乗るはずだった汽車。


「幸姉ちゃんも……」


恵が呟く。


龍弥の表情が止まる。


「うん」


「勝男さんも……一緒……」


龍弥は、すぐに答えられなかった。


恵は、まだ知らない。


姉と義兄が。


もう帰らない可能性が極めて高いことを。


「そうやね」


龍弥は、涙をこらえた。


「一緒に行けるとよかね」


九 原田の紙


本堂の外。


原田は、一枚の報告書を握っていた。


広島機関区。


鉄道官舎。


八月六日の勤務記録。


職員の配置。


被害の位置。


生存者の証言。


平戸勝男。


早番。


午前八時十五分、広島機関区構内にいた可能性が高い。


平戸幸。


鉄道官舎にいた可能性が高い。


両地点とも、爆心地に近く。


生還の可能性は極めて低い。


正式な遺体確認はできない。


しかし。


もう希望だけを語れる段階ではなかった。


伊藤が隣へ立つ。


「伝えるとですか」


原田は、紙を見る。


「伝えんばならん」


「今の恵さんに?」


「……」


「龍弥も高熱です」


「分かっとる」


「なら」


原田の声が震える。


「いつまで待てばよかとですか」


伊藤は答えられない。


十 父と母の死


先に。


勝一と節子のことを伝えることになった。


龍弥は恵の隣で手を握る。


原田が膝をつく。


「恵さん」


恵が目を開ける。


「お父さんと……お母さん……?」


原田は、息を整えた。


「大村家へ行きました」


「うん……」


「勝一さんと節子さんは」


言葉が止まる。


龍弥の手に力が入る。


「二人とも」


原田は頭を下げた。


「亡くなっとりました」


恵の顔から、表情が消えた。


しばらく。


何の反応もない。


聞こえなかったのかと思うほど。


静かだった。


「……そう」


やがて。


小さな声。


「そう……なんや……」


十一 泣けない涙


恵の目から涙が流れた。


だが、声は出ない。


叫ぶ力も。


泣き崩れる体力も残っていない。


「お父さん……」


加工場。


工具。


大きな背中。


「お母さん……」


食卓。


雑炊。


やさしい手。


「二人とも……」


龍弥が、恵の手を両手で包む。


「俺がおる」


恵の目が龍弥へ向く。


「龍弥さんも……熱……」


「治る」


「ほんと……?」


「治るけん」


龍弥は繰り返した。


自分にも言い聞かせるように。


「二人で治る」


「二人で生きる」


十二 姉の名前


恵は、焦げた手紙を胸へ寄せた。


「幸姉ちゃんは……?」


原田の表情が凍る。


龍弥も目を閉じる。


「広島から」


原田が言う。


「新しい報告が来ました」


「返事……?」


「手紙ではありません」


「生きとるって……?」


原田は、もう嘘をつけなかった。


「広島機関区と官舎の記録を調べました」


恵は、じっと原田を見る。


「勝男さんは」


「八月六日の朝、機関区におった可能性が高い」


「うん……」


「幸さんも」


「官舎におった可能性が高い」


恵の指が、手紙を強く握った。


十三 帰ってこない


「二人の名前は」


原田の声が震える。


「生存者の名簿にはありませんでした」


恵は何も言わない。


「遺体の確認はできていません」


「……」


「でも」


原田の目から涙が落ちる。


「二人とも、亡くなった可能性が極めて高いです」


本堂の音が遠くなる。


負傷者の声。


水を運ぶ足音。


咳。


すべてが、恵から離れていく。


「幸姉ちゃん……」


かすかな声。


「帰って……こんと……?」


誰も答えられない。


「汽車で……」


恵は続ける。


「帰ってくるって……」


「四人で……」


「北海道……」


龍弥の涙が、恵の手へ落ちた。


十四 最後の手紙


恵は、焦げた紙を開こうとした。


龍弥が手伝う。


焼け。


破れ。


文字の消えた部分。


それでも読める。


『四人で汽車に乗ろう』


『明日の夜、また続きを書きます』


恵は、その一文へ触れた。


「続き……」


声が震える。


「書いてない……」


「うん」


「お姉ちゃん……約束破った……」


龍弥は泣いた。


「破りたくて破ったんやない」


「分かっとる……」


「分かっとるけど……」


恵の目から、また涙が流れる。


「怒りたか……」


「怒ってよか」


「ボケてって……言いたか……」


「うん」


「ツッコミ……入れたか……」


龍弥は、ただ手を握ることしかできなかった。


十五 姉は帰ってこない


恵は、長い間。


手紙を見つめていた。


やがて。


小さく呟いた。


「幸姉ちゃんは……もう……帰ってこんとね」


龍弥は、答えられなかった。


その沈黙が。


何よりもはっきりした答えだった。


「勝男さんも……」


「……」


「お父さんも」


「……」


「お母さんも」


「……」


「皆……帰ってこん……」


恵は目を閉じた。


「うちだけ……残ったと……?」


龍弥は、すぐに言った。


「一人やなか」


「俺がおる」


「でも……龍弥さんも……」


「治る」


龍弥は強く言う。


「必ず治るから」


十六 約束


龍弥は、恵の手を自分の胸へ当てた。


心臓の鼓動。


熱。


弱ってはいるが、まだ動いている。


「聞こえる?」


恵が、かすかにうなずく。


「まだ生きとる」


「うん……」


「恵さんの心臓も動いとる」


「うん……」


「だから」


龍弥は涙を流しながら笑った。


「二人とも治る」


「汽車がまた走るようになったら、新婚旅行へ行こう」


「北海道へ」


「おいしいもの食べて」


「きれいな景色見て」


「雪も見よう」


「海も見よう」


「恵さんが行きたいところ、全部行こう」


恵は、龍弥の顔を見た。


「約束……?」


「約束です」


「破らん……?」


「絶対破らん」


「お姉ちゃん……みたいに……」


龍弥は首を横に振る。


「幸さんは、破ったんやない」


「戦争に奪われた」


「だから俺たちは」


声が震える。


「戦争に奪わせん」


十七 恵の願い


恵は、少しだけ笑った。


「北海道……寒かよ……」


「厚い服着ればよか」


「服……ない……」


「戦争が終わったけん、少しずつ作れるようになる」


「龍弥さん……似合わん……」


「何が?」


「厚い服……」


「何で」


「漁師の子やけん……海の服しか……似合わん……」


龍弥は泣きながら笑う。


「北海道も海があります」


「なら……よか……」


そのやり取りは。


かつての二人に少しだけ戻ったようだった。


十八 伊藤の熱


少し離れた場所で。


伊藤も座り込んでいた。


紫色の斑点。


高熱。


血の混じった咳。


原田が支える。


「伊藤さん」


「まだ動ける」


「もう横になってください」


「篠田が」


「龍弥君も寝とります」


伊藤は、二人を見る。


妻の手を握る龍弥。


龍弥の胸元へ手を置く恵。


「若い二人ば」


伊藤が呟く。


「何でこがん目に遭わせるとやろな」


原田は答えられない。


十九 広島の澄子


広島でも。


藤原澄子の高熱は続いていた。


三人の子どもたちが、母のそばにいる。


美代子が濡れた布を替える。


啓子が水を運ぶ。


正人が父の小さな笛を握る。


澄子は、大きな腹へ手を置いた。


「この子……動いとる……」


美代子が笑う。


「元気なんよ」


「お父ちゃんに……会わせたかった……」


「まだ探そう」


娘は言った。


だが。


藤原重治の死亡推定を伝える報告は。


すでに原田の手元へ届いていた。


広島の家族へ伝わるのも、時間の問題だった。


二十 空いた席


幸。


勝男。


勝一。


節子。


四人の席は、もう空いたままになる。


大村家の食卓。


平戸家のすき焼き。


加工場。


鉄道官舎。


長崎駅のホーム。


四人で汽車へ乗るはずだった座席。


すべて。


もう元には戻らない。


だが。


恵と龍弥は。


まだ手を握っていた。


高熱。


出血。


見えない傷。


それでも。


二人は、北海道へ行く約束を交わした。


未来があると信じるために。


失われた四人の分まで。


生きようとするために。


⸻


次回予告


父。


母。


姉。


義兄。


帰ってくると信じた人々が、もう帰らないことを知った恵。


「うちだけ残ったと?」


その言葉に、龍弥は答える。


「一人やなか。俺がおる」


しかし、その龍弥も高熱を出し始める。


爆発時には佐世保にいた。


火傷も負っていない。


それでも、鼻血と紫色の斑点が増えていく。


医師は、長崎市内へ入った救援者に同じ症状が広がっていることへ気づき始める。


一方、恵の体も急速に弱っていく。


熱は下がらず。


傷口からの出血も止まらない。


それでも二人は、北海道への新婚旅行を語る。


「汽車が走ったら行こう」


「おいしいものを食べよう」


「きれいな景色を見よう」


だが夜。


恵の呼吸が、さらに浅くなる。


そして、焦げた幸の手紙を胸へ抱きながら、静かに龍弥へ語り始める。


次回、第48話。


「北海道へ行こう」


叶わないかもしれない夢でも。


語る間だけは。


二人は戦争のない未来を旅することができた。

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