もう帰らない人たち
『幸と恵のものがたり』
第45話 もう帰らない人たち
昭和二十年八月十五日。
長崎へ原子爆弾が投下されてから六日。
広島へ投下されてから九日。
二つの町では、今なお被害の全容さえ分かっていなかった。
誰が生きているのか。
誰がどの救護所へ運ばれたのか。
誰が川辺で力尽きたのか。
誰が瓦礫の下へ残されているのか。
名簿は焼けた。
通信網は途絶えた。
病院は患者であふれ、医師も看護師も傷ついている。
亡くなった人の数を数えることさえできないまま。
日本は、終戦の日を迎えた。
一 広島の八月十五日
広島。
壊れた町のあちこちに、夏の日差しが降り注いでいた。
焼け野原。
崩れた建物。
倒れた電柱。
黒く焼けた路面電車。
瓦礫の間から伸び始めた、わずかな草。
川辺には、今も身元の分からない人々の姿があった。
救護所では。
高熱。
嘔吐。
出血。
髪が抜ける症状。
火傷の傷が治らない者。
一度は歩けるようになったのに、急に容体を悪化させる者。
誰も、その原因を正確に理解していなかった。
「新型爆弾」
そう呼ばれた兵器が。
熱線と爆風だけでなく。
目に見えない何かを、人々の体へ残したことを。
現場にいる者たちは、まだ知らなかった。
二 藤原重治の家族
広島市の外れ。
比較的被害の小さかった場所へ設けられた救護所。
そこへ、一人の妊婦が三人の子どもを連れて訪れていた。
藤原重治の妻。
藤原澄子。
出産予定まで、あと二か月。
大きくなった腹を両手で支えながら。
澄子は、広島機関区で働いていた夫を探し続けていた。
長女の美代子、十二歳。
次女の啓子、九歳。
長男の正人、六歳。
三人とも、父親の写真を持っている。
煤で汚れた作業着。
少し怖そうな顔。
だが家へ帰れば、子どもたちの頭を大きな手で撫でる父親。
「お父ちゃん、どこにおるん?」
正人が尋ねる。
澄子は、写真を握りしめた。
「機関区から、どこかの救護所へ運ばれたんかもしれん」
「今日も探すん?」
美代子が聞く。
「探す」
「お腹、大丈夫?」
澄子は、ほんの少し笑った。
「この子も、お父ちゃんに会いたがっとるけえ」
腹へ手を置く。
まだ生まれていない子ども。
重治は、その誕生を楽しみにしていた。
「今度は男か女かのう」
そう言いながら。
どちらでもええ。
無事に生まれてくれれば。
と、何度も話していた。
「もうすぐ生まれるんよ」
澄子は、夫の写真へ語りかけた。
「この子に会わんで、どこへ行っとるん」
三 機関区跡
澄子たちは、何度も広島機関区の跡へ足を運んだ。
だが。
そこは、以前の機関区ではなかった。
修繕庫。
詰所。
事務所。
線路。
職員が休憩した建物。
多くが壊れ。
焼け。
原形を失っていた。
生存者名簿。
負傷者名簿。
遺体が確認された者の名簿。
どれも完全ではない。
紙に書かれた名前は、一部だけ。
藤原重治。
その名は、どこにもなかった。
「名前がないなら、生きとるかもしれん」
澄子は言った。
何度も。
自分へ言い聞かせるように。
「身元が分からんだけかもしれん」
「別の救護所におるかもしれん」
「記憶をなくしとるかもしれん」
「誰かに運ばれたかもしれん」
子どもたちは、母の言葉を信じようとした。
だが。
日に日に。
澄子の声には、無理が混じるようになっていた。
四 木村修司の消息
木村修司についても。
確かな情報はなかった。
火傷を負った両手で。
若い見習いたちへ火床の見方を教え始めた青年。
八月六日の朝。
修司は、広島機関区にいた。
修繕庫近く。
見習いへ指導中だった。
それ以降。
誰も姿を確認していない。
修司の母と妹も、岡山から広島方面へ問い合わせを続けていた。
だが。
返ってくる答えは同じだった。
「確認中です」
「名簿にありません」
「別の救護所かもしれません」
生きているとは言えない。
亡くなったとも言えない。
その間に残された家族は。
ただ、待ち続けた。
五 正午の放送
八月十五日。
正午。
日本全国で。
人々がラジオの前へ集まった。
長崎の救護所。
広島の焼け跡。
軍需工場。
鉄道機関区。
病院。
寺。
学校。
壊れた家。
電気が通らない場所では、使えるラジオのあるところへ人が集められた。
雑音。
聞き慣れない声。
難しい言葉。
音質は悪く。
何を言っているのか、すぐには分からなかった者も多かった。
だが。
放送が進むにつれ。
戦争が終わった。
日本がポツダム宣言を受け入れた。
その事実が、少しずつ広がっていった。
六 長崎機関区の沈黙
長崎機関区。
壊れた建物の一角。
使えるラジオの周囲に。
原田正勝。
山崎信吾。
生き残った鉄道員たち。
負傷者。
その家族が集まっていた。
放送が終わる。
誰も、すぐには声を出さなかった。
遠くで。
負傷者のうめき声。
壊れた配管から水が落ちる音。
瓦礫を動かす音。
それだけが聞こえた。
「……終わったとですか」
一人の若い鉄道員が言った。
山崎は、ゆっくりうなずく。
「終わった」
「本当に?」
「ああ」
その瞬間。
原田の顔が歪んだ。
七 もっと早く
「何で」
原田が呟く。
最初は、小さな声だった。
「何で今なんですか」
誰も答えない。
「ドイツが降伏したときに」
声が大きくなる。
「イタリアが戦争をやめたときに」
「ポツダム宣言が出されたときに」
拳を握る。
「何で終わらせんかったとですか!」
原田の声が、壊れた建物へ響いた。
「勝男は広島で死んだかもしれん!」
「幸さんも!」
「勝一さんも節子さんも!」
「恵さんは、あんな傷ば負った!」
涙があふれる。
「俺の妻も!」
「子どもたちも!」
原田は、膝をついた。
「もっと早くやめとけば」
声が崩れる。
「誰も、こがん傷つかんで済んだんやないですか!」
八 原田家
原田の妻・紀江。
長男の英二。
次男の正三郎。
三人もまた、長崎の爆発で大怪我を負っていた。
紀江は、倒壊した家屋の下敷きになり。
胸と腰を強く傷めていた。
英二は腕を骨折。
顔にも火傷。
正三郎は頭部を負傷し、高熱が続いていた。
三人は、それぞれ別々の場所へ運ばれ。
ようやく同じ救護所で所在が確認されたばかりだった。
十分な薬はない。
消毒液も。
包帯も。
輸血も。
それでも医師と看護師は、懸命に治療を続けていた。
原田は、自分も負傷しながら。
家族の救護所と機関区を行き来していた。
妻が目を開けるたび。
紀江は尋ねた。
「勝男君は?」
原田は答えられない。
「幸さんは?」
答えられない。
「恵さんは?」
「見つかった」
それだけは言えた。
「龍弥君が、そばにおる」
紀江は、苦しそうに息をしながら。
「よかった」
と呟いた。
自分も重傷なのに。
恵の無事を喜んだ。
九 山崎の怒り
山崎は。
ラジオ放送のあとも、しばらく立ったままだった。
「終わることができた」
低い声。
「もっと前に」
原田が顔を上げる。
山崎は続ける。
「軍は、まだ戦えると言った」
「政府は、黙殺すると言った」
「国民には、正しい情報を知らせなかった」
「その結果が」
周囲を見る。
壊れた機関区。
負傷した鉄道員。
連絡の取れない家族。
「これだ」
山崎は、机の残骸へ拳を打ちつけた。
「列車ば止めるときは」
声が震える。
「危険を見つけた時点で止めろと教えた」
「水位に異常があれば止める」
「部品が壊れたら止める」
「線路が危なければ止める」
原田が涙を流しながら聞く。
「なのに」
山崎は叫んだ。
「国は、壊れても止まらんかった!」
「人が死んでも!」
「町が焼かれても!」
「子どもが泣いても!」
「最後まで止まらんかった!」
十 伊藤の涙
寺の救護所。
伊藤勝も、玉音放送を聞いていた。
左腕を負傷し。
頭に包帯を巻いたまま。
恵のそばにいる龍弥と。
少し離れた場所で、放送を聞いた。
「戦争、終わったとですか」
龍弥が尋ねる。
伊藤はうなずく。
「ああ」
「終わった」
恵は、薄く目を開けた。
「終わった……?」
龍弥が手を握る。
「うん」
「もう、戦争は終わった」
恵の唇が、わずかに動く。
「なら……」
息を整える。
「幸姉ちゃん……帰って……くる?」
龍弥は答えられなかった。
伊藤が顔をそむける。
その問いへ答えることができない。
戦争は終わった。
だが。
終わったからといって。
死んだ人が帰ってくるわけではない。
壊れた家が戻るわけでも。
失われた手足が戻るわけでもない。
「もっと早く」
伊藤が呟いた。
「もっと早く終わっとれば」
涙が落ちる。
「篠田を佐世保へ送らんで済んだ」
「恵さんも、家族と一緒におれた」
「勝一さんも節子さんも」
「幸さんと勝男も」
声が崩れる。
「皆、生きとったかもしれん」
十一 龍弥の怒り
龍弥は、恵の手を握りながらラジオを見た。
「今さら」
低い声。
「今さら、終わりましたって」
「恵さんの体は、戻らん」
「勝一さんと節子さんも戻らん」
「広島の幸さんと勝男さんも」
言葉が止まる。
まだ、正式な死亡確認はない。
だが。
生きている可能性が、日に日に失われている。
「終われるなら」
龍弥の目から涙が落ちる。
「何で、広島に落とされる前に終わらんかった」
「広島のあとでも」
「何で長崎に落とされる前に終わらんかった」
「三日あったやろ!」
声が震える。
「三日もあったやろ!」
本堂へ、龍弥の叫びが響いた。
十二 恵の言葉
恵が、かすかに龍弥の手を握り返した。
「龍弥……さん」
龍弥は、すぐに顔を近づける。
「ここにおるよ」
「怒らん……で……」
「でも」
「龍弥さんが……壊れる……」
恵は、息を整える。
「戦争に……龍弥さんの……心まで……取られたら……嫌……」
龍弥は唇を噛んだ。
「でも、悔しか」
「うん……」
「悔しくて、たまらん」
「うん……」
恵は、目を閉じた。
「うちも……」
小さな声。
「悔しか……」
十三 広島の藤原家
広島。
藤原澄子たちも。
焼け残った建物のそばで、玉音放送を聞いていた。
放送が終わる。
長女・美代子が、母へ尋ねた。
「戦争、終わったん?」
「そうみたいじゃ」
「ほいじゃ、お父ちゃん帰ってくる?」
澄子は、答えようとした。
だが、声が出ない。
次女・啓子も言う。
「お父ちゃん、機関区の仕事終わったら帰ってくるんじゃろ?」
正人は、父の写真を抱いている。
「赤ちゃん生まれる前に帰る?」
澄子は、三人の顔を見る。
そして。
大きくなった腹へ手を置く。
「帰ってくる」
そう言いたかった。
だが。
もう、簡単に嘘は言えなかった。
「探す」
澄子は答えた。
「お母ちゃんが、絶対探す」
十四 夫の名前を呼ぶ妻
玉音放送のあと。
澄子は、また救護所を回った。
「藤原重治という鉄道員を探しとります」
「四十一歳です」
「広島機関区の機関士です」
「瀬野八の補機に長く乗っとりました」
「八月六日の朝、機関区におったはずです」
一か所。
二か所。
三か所。
返事は同じ。
「分かりません」
「その名前はありません」
「身元不明者が多くて」
それでも。
澄子は諦めなかった。
「もうすぐ、子どもが生まれるんです」
誰に訴えるでもなく言う。
「夫に会わせたいんです」
「ただ、それだけなんです」
涙が流れる。
「一回でええ」
「この子の顔ば見せたいんです」
十五 長男・正人の汽笛
正人は。
父が使っていた小さな笛を持っていた。
本物の機関車の汽笛ではない。
子どもの遊び用の小さな笛。
重治が、勤務のない日に買ってきたものだった。
正人は、救護所の外で笛を吹いた。
短く。
細い音。
「何しよるん?」
啓子が尋ねる。
「お父ちゃんに知らせる」
「何を?」
「ここにおるって」
正人は、もう一度吹く。
「お父ちゃん、汽笛なら分かるけえ」
美代子は、涙をこらえた。
「もっと大きく吹いたら?」
正人は、力いっぱい息を吹き込んだ。
小さな笛の音。
壊れた広島の町へ響く。
重治が、その音を聞くことはなかった。
十六 終戦を知らない人々
広島と長崎には。
終戦を知らないまま亡くなった人々も大勢いた。
八月六日に即死した者。
八月九日に命を失った者。
救護所へ運ばれ。
八月十五日を迎える前に息を引き取った者。
戦争が終わったと聞くこともなく。
ただ、家族の名を呼びながら亡くなった。
そして。
玉音放送を聞いたあとに。
傷や放射線の影響で亡くなる者も増えていった。
戦争は終わった。
だが。
死は、終戦の日を境に止まらなかった。
十七 原田家の病室
原田は、家族のいる救護所へ戻った。
紀江は、高熱を出していた。
英二は腕を固定され。
正三郎は、母の隣で眠っている。
原田が入ると。
英二が父を見る。
「父ちゃん」
「うん」
「戦争、終わったん?」
「ああ」
「ほいじゃ、旅行行ける?」
かつて。
英二は父へ尋ねた。
戦争が終わったら、父ちゃんの汽車で旅行できる?
原田は約束した。
終わったら、みんなで遠くへ行こう。
その約束を。
息子は覚えていた。
原田の顔が崩れる。
「ああ」
声が震える。
「行こう」
「どこへ?」
「どこでも」
原田は、息子の無事な方の手を握る。
「お前たちが元気になったら」
「皆で汽車に乗ろう」
紀江が薄く目を開ける。
「勝男君たちも……」
原田は答えられない。
「一緒に……行けたら……よかね」
原田は、妻の手を握った。
「うん」
それしか言えなかった。
十八 もう帰らない人たち
戦争は終わった。
だが。
もう帰らない人がいる。
広島の幸。
勝男。
藤原重治。
木村修司。
大村家の勝一。
節子。
ほかにも。
数え切れない人々。
家族は、まだ待っている。
名簿に名前がない。
遺体も確認できない。
だから。
帰ってくるかもしれない。
そう思わなければ、生きていけない。
しかし。
汽車は戻ってきても。
人は戻らない。
駅のホームへ立っても。
降りてこない。
戸口を開けても。
「ただいま」は聞こえない。
終戦の日は。
帰還の日ではなかった。
帰らない人たちがいることを。
少しずつ受け入れ始める日でもあった。
十九 恵へ伝える時
寺の救護所。
原田は、恵のそばへ来た。
手には。
広島から届いた、さらに新しい報告。
広島機関区。
鉄道官舎。
生存確認者。
負傷者。
避難者。
亡くなったと確認された者。
そして。
依然として所在不明の者。
平戸勝男。
平戸幸。
二人の名は。
生存者の中にはなかった。
原田は、紙を握ったまま立っていた。
龍弥が顔を見る。
「原田さん」
「……」
「広島から?」
原田はうなずく。
恵も、その気配を感じる。
「幸姉ちゃん……?」
原田の目から涙が落ちた。
まだ。
確定とは言えない。
だが。
もう希望だけを伝えることはできなかった。
二十 汽車の来ない夜
八月十五日の夜。
広島でも。
長崎でも。
汽笛はほとんど聞こえなかった。
線路は壊れ。
機関車は傷つき。
鉄道員も倒れている。
藤原家の子どもたちは。
父の帰りを待った。
原田家では。
傷ついた家族が、いつかの旅行を夢見た。
寺の救護所では。
恵が、姉の手紙を胸へ抱いている。
戦争は終わった。
だが。
帰ってくるはずだった人たちを乗せた汽車は。
どの駅にも到着しなかった。
⸻
次回予告
昭和二十年八月十五日。
戦争は終わった。
だが、広島と長崎では、負傷者が次々と容体を悪化させていく。
高熱。
出血。
髪が抜ける症状。
傷口が治らない。
原因の分からない病に、人々は苦しみ続ける。
恵の体にも、異変が現れ始める。
火傷や骨折だけではない。
熱が下がらない。
歯茎から血が出る。
皮膚へ紫色の斑点が浮かぶ。
龍弥は医師へ尋ねる。
「何が起きとるとですか」
だが、医師にも分からない。
一方。
原田は、広島から届いた生存者名簿を恵へ見せる決意をする。
そこに。
幸と勝男の名前はない。
恵は、焦げた姉の手紙を握りながら呟く。
「幸姉ちゃんは、まだ汽車で帰ってくるよね」
誰も答えられない。
次回、第46話。
「見えない傷」
爆風にも。
熱線にも。
瓦礫にも耐えた体を。
目に見えない力が、内側から壊し始める。




