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幸と恵の物語  作者: リンダ


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会えた

『幸と恵のものがたり』

 第44話 会えた


 寺の本堂。


 夜。


 わずかな灯りの下に、多くの負傷者が横たわっていた。


 畳の上。


 廊下。


 柱のそば。


 庭へ続く縁側。


 水を求める声。


 苦しげな呼吸。


 家族の名を呼ぶ声。


 龍弥は、その中を一歩ずつ進んだ。


 本堂の奥。


 薄い布の上に、一人の女性が横たわっている。


 頭には包帯。


 顔には火傷。


 左脚は固定され。


 右手には、焦げた紙が握られていた。


 顔は煤と傷で変わっている。


 それでも。


 龍弥には分かった。


 間違えるはずがなかった。


「恵さん」


 声が震えた。


 返事はない。


 龍弥は、その場へ膝をついた。


「恵さん」


 もう一度。


「俺です」


 恵のまぶたが、わずかに動く。


 龍弥は、身を乗り出した。


「恵さん!」


 周囲の人が振り返る。


 だが、龍弥にはもう何も見えていなかった。


 妻の顔だけ。


 その呼吸だけ。


「帰ってきました」


 龍弥は必死に呼びかけた。


「佐世保から帰ってきた」


「恵さんに会うために」


「ずっと探しよった」


「救護所を全部回って」


「大村家にも行った」


「篠田家にも行った」


「造船所にも行った」


 声が崩れる。


「やっと会えた」


 一 開く目


 恵の唇が、かすかに動いた。


 龍弥は顔を近づける。


「恵さん?」


 呼吸。


 小さな息。


 そして。


 途切れ途切れの声。


「た……た……」


 龍弥は、さらに耳を近づけた。


「つ……や……さ……ん?」


 その瞬間。


 龍弥の目から涙があふれた。


「あぁ」


 声を抑えられなかった。


「あぁ、俺だよ」


 龍弥は、恵の手を両手で包んだ。


「龍弥だよ」


「恵さんに会うために帰ってきた」


「遅くなって、ごめん」


「ずっと探しよった」


 恵の目が、ほんの少し開く。


 焦点が合うまで時間がかかる。


 それでも。


 目の前の男が誰なのか。


 恵には分かった。


 二 ありがとう


 恵の唇が、また動いた。


「あり……が……とう……」


 小さな声だった。


 息に近い。


 それでも、はっきり聞こえた。


 龍弥は首を横に振った。


「ありがとうは、俺の方たい」


 涙が止まらない。


「待ってくれて、ありがとう」


「妻になってくれて、ありがとう」


「手紙を書いてくれて、ありがとう」


「帰る場所になってくれて、ありがとう」


 恵の目からも涙が流れた。


 頬の傷へ沿って。


 ゆっくり落ちる。


 龍弥は、その涙を拭こうとした。


 だが、手が震えてうまく動かない。


「ごめん」


 また謝る。


「もう謝らんって決めとったのに」


 恵は、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


 三 頬へ伸びる手


 恵の右手が、わずかに動いた。


 焦げた幸の手紙を握っていた手。


 力はほとんど残っていない。


 龍弥は、その動きに気づく。


「どうしたと?」


 恵は、指先を龍弥の方へ伸ばした。


 龍弥は身を低くする。


「ここ?」


 恵の手が、龍弥の頬へ触れた。


 かすかに。


 本当に触れたのか分からないほど弱く。


 それでも。


 龍弥には、はっきり分かった。


 妻が、自分の頬を撫でている。


 その手は冷たかった。


 だが、触れ方は。


 結婚式の日と同じだった。


 長崎駅で別れた朝と同じだった。


 手紙の中で何度も思い浮かべた、恵の手だった。


 龍弥は、その手へ自分の手を重ねた。


「恵さん」


 声が震える。


「俺、ここにおるよ」


 四 大好き


 恵の唇が動いた。


「だ……い……」


 龍弥は息を止める。


「す……き……」


 途切れ途切れ。


 それでも。


 その言葉だけは、はっきり届いた。


「大好き」


 龍弥の顔が崩れた。


「俺も」


 すぐに答える。


「俺も大好きです」


「ずっと」


「これからも」


「何があっても」


「恵さんだけです」


 龍弥は、頬に触れる恵の手へ顔を寄せた。


「この世に一人しかおらん」


「俺が心から愛した人です」


 恵の目から、また涙が流れた。


 五 会えた


 しばらく。


 二人は何も言わなかった。


 言葉を使わなくても。


 手が触れている。


 声が届いた。


 顔を見ることができた。


 それだけで。


 奇跡のようだった。


 広島では。


 幸と勝男は、互いの名を呼ぶ時間すら与えられなかった。


 父・勝一と母・節子も。


 恵へ最後の言葉を残せなかった。


 だが。


 龍弥と恵には。


 ほんのわずかでも。


 もう一度会う時間が残された。


「会えたね」


 龍弥が言う。


 恵のまぶたが少し動く。


「うん」と答えたように見えた。


「本当に会えた」


 龍弥は、何度も繰り返した。


「もう、夢やなか」


 六 離れた日のこと


 龍弥は、恵の手を握ったまま話し続けた。


「佐世保へ行った日」


「長崎駅で、恵さんがずっと手ば振りよった」


「列車が見えんようになっても」


「まだ立っとったやろ」


 恵の目が、わずかに揺れる。


「俺も、ずっと見よった」


「本当は、飛び降りたかった」


「戻りたかった」


「でも、できんかった」


 龍弥は涙を拭う。


「手紙だけでも書こうって」


「毎日、恵さんのこと考えよった」


「御飯食べたかな」


「体、また悪うしてないかな」


「幸さんから手紙来たかな」


「全部、考えよった」


 恵は、かすかに息を吐いた。


 安心したようにも見えた。


 七 幸の手紙


 龍弥は、恵の右手に握られた紙へ気づいた。


「それ」


 恵が、ほんの少し手を開く。


 焦げた手紙。


 幸から届いた最後の言葉。


 龍弥は紙をそっと支えた。


「幸さんの?」


 恵が、かすかにうなずく。


「四人で……」


 声が弱い。


「汽車……」


 龍弥の胸が締めつけられる。


「うん」


「四人で乗る約束」


「覚えとる」


「北海道まで」


「勝男さんが遠すぎるって言いよった」


「幸さんは絶対行くって」


 恵の唇が、わずかに笑みの形を作る。


「お姉ちゃん……」


 その名を口にしたあと。


 笑みが消える。


「返事……ない……」


 龍弥は答えられなかった。


 広島の被害。


 生存者名簿。


 幸と勝男の名前がないこと。


 まだ、恵へ伝えられなかった。


 八 父と母


「お父さん……」


 恵が言う。


「お母さん……」


 龍弥は、恵の手を強く握った。


「大村家へ行った」


 恵の目が開く。


「……いた?」


 龍弥は言葉を失う。


 嘘をつくことはできない。


 だが、今。


 すべてを伝えることもできない。


「恵さんは」


 龍弥は言葉を選ぶ。


「瓦礫から助け出された」


「うん」


「勝一さんと節子さんも、探しよる」


 それ以上は言えなかった。


 恵は龍弥の顔を見る。


 すべてを悟ったような。


 まだ信じたくないような。


 そんな目だった。


「返事……ない……」


 龍弥は首を振る。


「今は、恵さんが休まんば」


「俺が探す」


「全部、俺が探すけん」


 九 原田の到着


 本堂の入口。


 原田正勝が、山崎に支えられながら入ってきた。


 足には包帯。


 顔にも傷。


 それでも来た。


「篠田君」


 龍弥が振り返る。


「原田さん」


「見つかったか」


 龍弥は、涙を流しながらうなずく。


「はい」


「会えました」


 原田は恵のそばへ座った。


「恵さん」


 恵の目が、わずかに動く。


「原田……さん……」


「うん」


 原田の声も震えた。


「よう頑張った」


「龍弥君、帰ってきたよ」


「もう一人やなか」


 恵の目から、また涙が落ちる。


 十 広島からの報告


 原田は、一枚の紙を持っていた。


 広島地区から届いた、断片的な生存者情報。


 広島機関区。


 鉄道官舎。


 救護所。


 一部の職員名。


 一部の家族名。


 だが。


 平戸勝男。


 平戸幸。


 二人の名は、どこにもない。


 原田は、その紙を龍弥へ見せた。


 恵から見えないように。


 龍弥は、すぐに意味を理解した。


 目を閉じる。


「やっぱり」


 声が漏れる。


 原田が首を横に振る。


「確定ではない」


「でも」


「まだ、確認中です」


 同じ言葉。


 だが。


 今度ばかりは。


 希望を守るための言葉というより。


 現実を伝えられない言葉に聞こえた。


 十一 龍弥の決意


 龍弥は、恵のそばへ戻った。


「俺、ここにおるけん」


「どこにも行かん」


 恵が、かすかに言う。


「仕事……」


「知らん」


 龍弥は即座に答えた。


「今は知らん」


「船も」


「知らん」


「命令も」


「知らん」


 涙を流しながら。


 龍弥は、初めて戦争の命令より妻を選ぶと、はっきり口にした。


「恵さんのそばにおる」


「誰が何を言っても」


「もう離れん」


 十二 夫婦の時間


 救護所には、時計がなかった。


 今が何時なのか。


 夜がどこまで深まったのか。


 分からない。


 それでも。


 二人には、少しだけ時間があった。


 龍弥は、恵の髪をそっと整えた。


「覚えとる?」


「何……」


「最初に会った坂道」


 恵の目が少し動く。


「老婆の荷物ば、一緒に押した」


「紅茶……」


「うん」


「チーズケーキ」


「戦争が終わったら、また食べる約束」


 恵の唇が動く。


「食べた……かった……」


「食べよう」


 龍弥は言う。


「戦争が終わったら」


「また店に行こう」


「ちゃんとしたチーズケーキば食べよう」


 恵は、ほんの少しだけ笑った。


 十三 結婚式


「結婚式」


 龍弥が話す。


「覚えとる?」


 恵が、かすかにうなずく。


「大丈夫って言ったら怒るって」


「言った……」


「うん」


「ちゃんと怒られました」


「まだ……怒る……」


 龍弥は泣きながら笑う。


「分かりました」


「大丈夫って言いません」


「怖いです」


「恵さんが死んだらって思うと」


「怖くてたまらん」


 恵の手が、もう一度龍弥の頬へ触れようとする。


 今度は、ほとんど上がらない。


 龍弥が自分から頬を近づけた。


「ここ」


 恵の指先が触れる。


「だい……じょうぶ……」


 龍弥は首を横に振る。


「それ、恵さんが言うと?」


「今は……言って……よか……」


 十四 愛する人の顔


 龍弥は、恵の顔を見つめた。


 火傷。


 傷。


 包帯。


 やせた頬。


 以前とは違う。


 それでも。


 龍弥にとっては、何も変わらなかった。


「きれいです」


 恵が、わずかに眉を動かす。


「嘘……」


「嘘やなか」


「今も」


「最初に会ったときも」


「結婚式の日も」


「ずっと」


「恵さんが一番きれいです」


 恵の目から涙が流れた。


「ばか……」


「はい」


「ほんと……ばか……」


「それでも好きでしょう」


 恵が、かすかにうなずく。


 十五 会えたこと


 原田と伊藤は、少し離れた場所から二人を見守っていた。


 伊藤が小さく言う。


「間に合ったな」


 原田が答える。


「ああ」


「会えた」


「うん」


 それだけ。


 その事実だけが。


 この夜の中で、唯一の救いだった。


 戦争は。


 家を壊し。


 親を奪い。


 姉を奪い。


 町を奪った。


 だが。


 最後の最後まで。


 二人がもう一度、互いの名を呼ぶ時間までは奪えなかった。


 十六 眠り


 恵の呼吸が、少しずつ弱くなる。


 龍弥が気づく。


「恵さん」


 返事はある。


 だが、遅い。


「眠い……」


「寝てよか」


「俺がおる」


「起きたときも、ここにおる」


 恵が、かすかに笑う。


「ほんと……?」


「本当」


「絶対?」


「絶対」


 恵は、目を閉じた。


 龍弥は手を握ったまま離さない。


「おやすみ」


 かすかな声。


「おやすみなさい」


 龍弥が答える。


 それは。


 八月五日の夜。


 広島で幸と勝男が交わしたのと同じ言葉だった。


 十七 短い安らぎ


 恵は、浅い眠りへ入った。


 呼吸は弱い。


 それでも続いている。


 龍弥は、じっと見守る。


 頬に触れた感触。


「大好き」


 と聞こえた声。


 それを何度も心の中で繰り返す。


 原田が隣へ座る。


「篠田君」


「はい」


「少し休め」


「嫌です」


「倒れるぞ」


「倒れても、手は離しません」


 原田は、それ以上言わなかった。


 十八 残された夜


 本堂の外。


 長崎の町は暗かった。


 火災の赤い光。


 煙。


 遠くのうめき声。


 だが。


 本堂の奥。


 龍弥と恵の間には。


 小さな静けさがあった。


 二人が出会った坂道。


 喫茶店。


 紅茶。


 チーズケーキ。


 婚約。


 結婚式。


 佐世保への別れ。


 手紙。


 再会。


 短い人生の中で。


 二人が積み重ねてきたすべてが。


 その握った手の中にあった。


 次回予告


「た……つ……や……さん?」


「俺だよ。龍弥だよ」


「あり……が……とう……」


「だ……い……すき……」


 瓦礫の町を探し続けた龍弥は、ついに恵と再会する。


 もう一度。


 名前を呼べた。


 手を握れた。


 愛していると伝えられた。


 しかし、恵の体は深刻な傷を負っている。


 熱。


 出血。


 放射線による症状。


 薬も輸血もなく、医師はできる限りの処置を続ける。


 そして翌朝。


 恵は父・勝一と母・節子の死を知る。


 さらに原田から、広島機関区と鉄道官舎で幸と勝男の生存が確認できていないことを告げられる。


 四人で汽車へ乗る約束。


 長崎へ帰る約束。


 北海道へ行く夢。


 それらが一つずつ、現実の前で崩れていく。


 次回、第45話。


「もう帰らない人たち」


 父も。


 母も。


 姉も。


 義兄も。


 帰ってくると信じた人たちは、もうどの汽車にも乗っていなかった。

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