妻を探す夜
『幸と恵のものがたり』
第43話 妻を探す夜
昭和二十年八月九日。
夕方。
長崎の町は、まだ燃えていた。
空は黒い煙に覆われ、昼なのか夜なのかも分からない。
倒れた家。
折れた電柱。
焼けた路面電車。
瓦礫に埋もれた道路。
あちこちから聞こえる、助けを求める声。
「水を……」
「誰か……」
「子どもがおる……」
「母ちゃん……」
龍弥は、佐世保から来た救援班の一員として、負傷者を運んでいた。
戸板。
壊れた扉。
毛布。
使えるものは何でも担架の代わりにした。
一人を運ぶ。
救護所へ預ける。
また戻る。
その繰り返しだった。
だが龍弥は、負傷者を担ぎながら、一人ひとりの顔を確かめずにはいられなかった。
「恵さん……?」
違う。
「恵さん!」
返事はない。
火傷を負った女性。
頭から血を流す少女。
意識を失った母親。
どの人も。
誰かの大切な妻で。
誰かの娘で。
誰かの母親で。
誰かの姉や妹だった。
助けなければならない。
分かっている。
それでも龍弥の胸には、焦りが生まれていた。
目の前の人は大切な命だ。
だが。
自分が探している人ではない。
この世にたった一人。
心から愛した女性ではない。
その事実へ気づくたび、龍弥は自分を責めた。
「すみません……」
誰に謝っているのかも分からなかった。
一 一人ずつ確かめる
崩れた家の前で、数人の男性が瓦礫を持ち上げていた。
「中に人がおる!」
龍弥も駆け寄る。
「どこです!」
「この下じゃ!」
柱を動かす。
屋根瓦をどける。
土埃が舞う。
その下から、一人の女性が救い出された。
顔には煤。
腕に火傷。
年齢は、恵と同じくらいに見えた。
龍弥の心臓が強く鳴る。
「恵さん!」
女性の顔をのぞき込む。
違った。
見知らぬ女性だった。
意識はない。
それでも呼吸はある。
「担架!」
龍弥は叫ぶ。
女性を戸板へ載せる。
救護所へ運ぶ途中、龍弥は何度もその顔を見た。
恵ではない。
だが。
この女性を探している人も、どこかにいる。
夫がいるかもしれない。
両親がいるかもしれない。
小さな子どもがいるかもしれない。
「生きてください」
龍弥は、女性へ言った。
「誰かが待っとるけん」
それは恵へ届けたい言葉でもあった。
二 焦り
別の場所では、幼い男の子が道路脇へ座り込んでいた。
足に傷を負っている。
「お母ちゃんがおらん」
龍弥はしゃがみ込む。
「名前は?」
「正人」
「お母ちゃんの名前は?」
「分からん」
「家は?」
男の子は周囲を見る。
すべて壊れている。
どこが家だったのかも分からない。
龍弥は男の子を背負った。
「一緒に救護所へ行こう」
「お兄ちゃん、お母ちゃん探して」
「探す」
「本当?」
龍弥は答えた。
「本当」
だが。
自分の妻さえ見つけられていない。
その言葉が、胸へ刺さった。
救護所へ着く。
男の子を預ける。
龍弥は、また負傷者の列を見た。
「篠田恵さんという人は!」
声を張る。
「二十二歳!」
「長い黒髪!」
「大村加工所の家におった女性です!」
誰も答えない。
名前を書き留める者も。
名簿を整理する者も。
余裕などなかった。
負傷者が次々運び込まれ。
医師も看護師も疲れ切っている。
「次の人を運んで!」
龍弥は呼ばれる。
妻を探したい。
だが、目の前には助けを求める人がいる。
龍弥は歯を食いしばった。
「はい!」
三 名前のない負傷者
臨時救護所には、身元の分からない人が大勢いた。
意識を失っている者。
話すことができない者。
顔や衣服から本人を判別できない者。
龍弥は、一人ずつ顔を確認した。
「違う」
次。
「違う」
次。
「違う」
そのたび。
安堵と罪悪感が同時に押し寄せる。
恵ではなかった。
よかった。
だが、その人も重傷を負っている。
そんなふうに安堵してよいのか。
龍弥は自分の頬を叩いた。
「違うんやなか」
小さく言う。
「この人も助けんば」
それでも。
次の顔を見るときには、また恵であってほしいと思ってしまう。
見つけたい。
だが、重傷者の中で見つけることが怖い。
見つからないことも怖い。
見つかることも怖い。
龍弥は、出口へ向かいながら妻の名を叫んだ。
「恵さーん!」
煙の町へ声が消える。
四 大村家の跡
夜が近づく頃。
龍弥は、ようやく大村家のあった場所へたどり着いた。
だが。
そこに家はなかった。
加工場。
台所。
居間。
幸と恵が育った部屋。
勝一が旋盤を回していた場所。
節子が家族の食事を作っていた場所。
すべてが崩れている。
鉄骨。
工具。
瓦。
焦げた柱。
曲がった金属。
龍弥は立ち尽くした。
「恵さん」
返事はない。
瓦礫へ近づく。
「勝一さん!」
声を上げる。
「節子さん!」
何も返らない。
周囲には、救助の跡があった。
柱を動かした跡。
戸板を引きずった跡。
誰かが運び出された形跡。
龍弥は、地面へ膝をついた。
「恵さんはここにおった」
爆発の時。
恵はこの家にいたはずだ。
勝一も。
節子も。
「誰か!」
近くにいた住民へ駆け寄る。
「この家の人、知りませんか!」
男は煤だらけの顔で振り返る。
「女の人が一人、救い出された」
龍弥の息が止まる。
「若い人ですか!」
「たぶん」
「生きとった?」
「ああ。息はしとった」
「どこへ!」
男は頭を押さえた。
「分からん」
「どの救護所ですか!」
「運んだ者が別の場所へ行った」
「誰が運んだと!」
「分からん!」
龍弥は男の肩をつかみそうになり、思いとどまった。
男も負傷している。
「すみません」
手を下ろす。
「父親と母親は?」
男は、目を伏せた。
「二人とも……」
その先は言わなかった。
龍弥にも分かった。
五 勝一と節子
龍弥は、大村家の瓦礫の前へ座った。
勝一。
厳しい父親だった。
初めて大村家へ招かれた日。
仕事は何か。
夢は何か。
娘をどう思っているのか。
鋭い目で尋ねられた。
だが、最後には自分の言葉を認めてくれた。
節子。
いつも食事を出してくれた。
食べ物が減っても。
恵や龍弥が来れば、少しでも多くよそってくれた。
『国が何を言うても、人の命が軽うなることはなかよ』
その言葉が胸へ戻る。
「勝一さん」
龍弥は瓦礫へ頭を下げた。
「節子さん」
声が震える。
「恵さんば見つけます」
「必ず見つけます」
「俺が守ります」
その約束を。
二人が聞いているかは分からない。
六 篠田家へ
大村家を離れた龍弥は、自分の実家へ向かった。
篠田家。
海に近い家。
慶一と梅。
ワカメ養殖の道具。
漁船の部品。
龍弥が幼い頃から見てきた暮らし。
だが。
そこもまた、無残な姿をさらしていた。
屋根は落ち。
壁は倒れ。
漁具は焼け。
戸口がどこだったのかも分からない。
龍弥は足を止めた。
「父さん!」
瓦礫へ近づく。
「母さん!」
返事はない。
「父さーん!」
「母さーん!」
周囲を探す。
家の裏。
道。
近くの防空壕。
海へ続く道。
誰の姿もない。
血の跡。
引きずったような跡。
それが誰のものか分からない。
「どこにおると」
龍弥の声が崩れる。
「恵さんも」
「父さんも」
「母さんも」
誰もいない。
龍弥は、家の跡から小さな布を拾った。
梅が荷造りのときに入れてくれた、古い手拭いと同じ柄。
母のものかもしれない。
そうでないかもしれない。
「母さん」
龍弥は、それを握りしめた。
七 ひとりになる恐怖
大村家。
篠田家。
二つの家が消えていた。
恵の両親。
自分の両親。
幸と勝男。
広島と長崎。
大切な人たちが、一度に見えなくなった。
龍弥の胸へ、初めてはっきりとした恐怖が押し寄せた。
自分だけが残るのではないか。
妻も。
両親も。
家族も。
すべてを失い。
自分だけが生きるのではないか。
「嫌や」
龍弥は、瓦礫の中で首を振った。
「そがんの嫌や」
川瀬清一の言葉を思い出す。
消息不明。
生きているかもしれない。
死んでいるかもしれない。
その間を、何度も行き来する。
龍弥は今、その場所に立っていた。
八 造船所へ
救護所。
大村家。
篠田家。
どこにも確かな情報はない。
龍弥は、次に造船所へ向かった。
恵が運ばれた情報があるかもしれない。
伊藤なら。
職人たちの家族や、負傷者の動きを知っているかもしれない。
道中。
龍弥は負傷者を見つけるたび、立ち止まった。
背負う。
運ぶ。
水を渡す。
顔を確認する。
だが、恵ではない。
「すみません」
また謝る。
運ばれた老人が、かすかな声で言った。
「謝らんでよか」
龍弥が顔を上げる。
「助けてくれたやろ」
「でも」
「誰か探しよると?」
「妻です」
老人は、弱くうなずいた。
「見つかるとよかね」
龍弥の目から涙が落ちた。
「はい」
「あなたの家族も」
「もう分からん」
老人は答えた。
「それでも探す」
龍弥は老人を背負い直した。
九 壊れた造船所
造船所も、大きな被害を受けていた。
建物の一部は倒壊し。
足場は崩れ。
鋼材は曲がり。
火災の跡が残っている。
生き残った職人たちは、負傷者を運び、火を消し、使える設備を確認していた。
龍弥は構内へ入った。
「伊藤さん!」
返事はない。
「伊藤さーん!」
煙の向こう。
一人の男が振り返った。
頭に包帯。
左腕を布でつっている。
顔には傷。
それでも立っていた。
伊藤勝だった。
「篠田……?」
龍弥は走った。
「伊藤さん!」
伊藤も、信じられないような顔で龍弥を見る。
「佐世保におったんやなかったと」
「救援班で来ました」
「そうか」
伊藤の声が震える。
「生きとったか」
龍弥は伊藤の前へ立つ。
「恵さんを知りませんか!」
挨拶よりも先に。
それしか言えなかった。
十 伊藤の抱擁
伊藤は龍弥の顔を見た。
煤。
血。
涙。
走り続けてきた疲労。
「篠田」
「恵さんが見つからんとです!」
「うん」
「大村家は壊れとった!」
「うん」
「勝一さんと節子さんも」
声が崩れる。
「篠田の家も!」
「父さんと母さんもおらん!」
「どこにもおらん!」
龍弥は、子どものように泣いた。
伊藤は、動く右腕で龍弥を抱いた。
仕事中には、決して見せなかった姿だった。
「よう来た」
伊藤が言う。
「よう戻ってきた」
「恵さんが」
「分かっとる」
「見つけんば」
「分かっとる」
「妻なんです」
「分かっとる!」
伊藤の声も震えた。
「俺も探しよった」
龍弥が顔を上げる。
十一 伊藤が見たもの
「探したとですか」
「ああ」
「どこを?」
「大村家の方へ行った」
「なら」
「若い女の人が一人、救い出されたって聞いた」
龍弥の目が大きくなる。
「生きとった?」
「救出した時は」
「どこへ運ばれたとですか!」
「分からん」
龍弥の顔が崩れる。
伊藤が続ける。
「救護所へ運ばれた」
「どこです!」
「最初は近くの学校やったらしい」
「最初は?」
「負傷者が多すぎて、別の場所へ移された者もおる」
「名前は!」
「名簿がない」
「篠田恵って、誰も確認しとらんとですか!」
「龍弥!」
伊藤が強く呼ぶ。
「落ち着け!」
「落ち着けるわけなか!」
「分かっとる!」
伊藤は龍弥の胸元をつかんだ。
「じゃが、恵さんは生きて救い出された可能性が高い!」
龍弥の呼吸が止まる。
「生きとる?」
「ああ」
「本当に?」
「少なくとも、救い出された女性には息があった」
龍弥は、その場へ膝をついた。
「生きとる」
何度も繰り返す。
「恵さん、生きとる」
十二 慶一と梅の情報
伊藤は、さらに言った。
「篠田の父さんと母さんのことも調べた」
龍弥が顔を上げる。
「知っとるとですか」
「近所の人から聞いた」
「どこに?」
「爆発のあと、二人とも家から出たらしい」
「生きとった?」
「ああ」
龍弥の目に涙が浮かぶ。
「今は?」
「慶一さんは足を負傷しとる」
「母さんは?」
「梅さんも火傷をしとるが、生きとる」
「どこです!」
「海側の臨時救護所」
龍弥は立ち上がろうとする。
伊藤が止めた。
「待て」
「何で!」
「恵さんの情報を先に聞け」
「でも父さんと母さんも」
「二人は意識がある」
「……」
「お前が来たことを伝えられる」
伊藤は龍弥を見る。
「恵さんは、今どこにおるか分からん」
龍弥は迷った。
両親。
妻。
どちらも大切だ。
どちらへ先に行くべきか。
十三 父と母なら
「父さんと母さんなら」
龍弥は呟いた。
伊藤が待つ。
「恵さんを探せって言う」
「ああ」
「絶対そう言う」
「俺もそう思う」
龍弥は涙を拭った。
「救護所を回ります」
「一人でか」
「はい」
「俺も行く」
龍弥が伊藤の腕を見る。
「その怪我で?」
「口は動く」
「藤原さんみたいなこと言わんでください」
「誰ね、それ」
「勝男さんの指導員です」
一瞬。
勝男の名前で二人の表情が曇った。
広島からは、まだ何の知らせもない。
だが今は。
恵を探す。
十四 造船所の名簿
伊藤は、造船所で集めた負傷者情報を見せた。
紙は破れ。
文字も乱れている。
近隣の学校。
寺。
工場跡。
病院の庭。
臨時救護所の場所が書かれていた。
「ここ」
伊藤が指を置く。
「若い女性が多く運ばれたって情報がある」
「何で?」
「大村家周辺から救助された人が、最初に集められた場所じゃ」
「行きます」
「待て」
伊藤は、別の紙を見た。
「篠田恵という名前」
指を動かす。
「ここにはない」
龍弥の表情が曇る。
「でも」
伊藤が続ける。
「身元不明の女性、二十二歳前後」
龍弥の心臓が強く鳴る。
「火傷」
「左脚に重傷」
「右手に焦げた紙を握っとった」
龍弥は息をのんだ。
「手紙」
「幸さんからの」
龍弥の声が震える。
「恵さんです」
確信した。
「それ、恵さんです!」
十五 救護所の場所
伊藤は紙へ書かれた場所を読む。
「最初は学校の講堂」
「はい」
「じゃが、火が近づいて別の寺へ移された」
「どの寺です!」
伊藤が場所を説明する。
道路は壊れている。
橋も通れないところがある。
迂回が必要。
「夜になる」
「関係ありません」
「危険じゃ」
「恵さんがおる」
龍弥は、紙を握った。
「行きます」
伊藤もうなずく。
「俺も行く」
「伊藤さんは造船所に」
「お前一人にしたら、途中の救護所を全部ひっくり返すやろ」
「……」
「案内する」
龍弥は頭を下げた。
「ありがとうございます」
十六 負傷者を運びながら
二人は造船所を出た。
伊藤は負傷している。
速く歩けない。
龍弥は焦る。
だが、道中には負傷者がいる。
倒れている老人。
泣いている子ども。
母親を探す少女。
龍弥は立ち止まる。
「恵さんのところへ急がんば」
そう思う。
だが、通り過ぎることはできない。
老人を起こす。
子どもへ水を渡す。
少女を近くの救護所へ連れていく。
そのたび、時間が過ぎる。
「龍弥」
伊藤が言う。
「焦っとるか」
「はい」
「恵さんなら、どうする」
龍弥は答える。
「助ける」
「そうやろ」
「でも」
「助けながら行け」
伊藤は続けた。
「恵さんを探すために、恵さんらしさば捨てたらいかん」
龍弥は、強くうなずいた。
十七 誰かの大切な人
また一人。
若い男性が倒れていた。
胸元には、家族写真。
妻らしき女性。
幼い子ども。
龍弥はその男性を担いだ。
「この人も」
声が震える。
「誰かの大切な夫ですね」
伊藤が答える。
「ああ」
「俺が恵さんば探しよるように」
「ああ」
「この人を探しよる人もおる」
「そうたい」
龍弥は男性を救護所へ運んだ。
「名前、分かりますか」
係の女性が尋ねる。
龍弥は写真の裏を見る。
名前が書かれている。
「松永健一さん」
女性が記録する。
名簿が残る。
誰かが探しに来たとき。
名前で見つけられる。
龍弥は、初めてその意味を強く感じた。
「恵さんの名前も」
「きっと誰かが書いとる」
伊藤が言った。
十八 夜の町
日が落ちた。
町には電灯がない。
火災の赤い光。
煙。
暗闇。
瓦礫の影。
龍弥と伊藤は、手探りで進んだ。
「恵さん!」
龍弥は叫ぶ。
「恵さーん!」
遠くから、別の名を呼ぶ声が返る。
「清子ー!」
「正一ー!」
「母ちゃーん!」
町中で。
誰もが大切な人の名前を呼んでいた。
龍弥の声も、その中の一つだった。
だが龍弥にとっては。
世界でたった一つの名前だった。
十九 寺の救護所
ようやく。
二人は、負傷者が集められた寺へたどり着いた。
境内。
本堂。
廊下。
庭。
あらゆる場所に人が寝かされている。
うめき声。
咳。
水を求める声。
灯りはわずか。
龍弥は入口で叫ぶ。
「篠田恵さん!」
誰も答えない。
「二十二歳!」
「左脚に怪我!」
「右手に焦げた手紙を持っとる女性です!」
係の男性が振り返る。
「少し待ってください」
「待てません!」
伊藤が龍弥の肩をつかむ。
「待て」
係の男性は、紙の束をめくった。
「名前は、搬送時には分からなかった」
龍弥の顔が曇る。
「でも」
男性が続ける。
「意識が戻ったとき、自分で名乗った女性がおる」
「何て!」
男性は紙を見る。
「篠田……恵」
龍弥の全身から力が抜けそうになる。
「おりますか」
「はい」
「生きとる?」
「今は」
その言葉に、胸が凍る。
「今は?」
「生きています」
龍弥の目から涙があふれた。
二十 妻のいる場所
「どこです!」
男性が本堂の奥を示す。
「奥の右側」
龍弥は走ろうとする。
だが、足元には負傷者が横たわっている。
踏まないように。
一人ずつ避けながら進む。
遅い。
焦る。
「恵さん」
小さく呼ぶ。
「恵さん」
本堂の奥。
薄暗い場所。
布団ではない。
畳の上へ敷かれた薄い布。
そこに、一人の若い女性が横たわっていた。
頭に包帯。
顔に火傷。
左脚は固定されている。
右手には、焦げた紙。
龍弥は足を止めた。
痩せた顔。
傷。
煤。
それでも。
間違えるはずがない。
「恵さん」
声が震える。
女性のまぶたが、わずかに動いた。
龍弥は膝をつく。
「恵さん」
もう一度。
その声が届いたのか。
恵の目が、ゆっくり開いた。
⸻
次回予告
瓦礫の町を歩き。
救護所を巡り。
負傷者を運びながら。
龍弥は、ついに妻の名前へたどり着く。
寺の本堂。
薄暗い救護所。
重傷を負い、焦げた幸の手紙を握る恵。
「恵さん」
龍弥の声に、恵は目を開ける。
夢ではない。
聞き間違いでもない。
待ち続けた夫が、目の前にいる。
しかし、恵の傷は深く。
十分な薬も。
輸血も。
治療設備もない。
そして原田から、広島機関区と鉄道官舎の被害について、さらに厳しい情報が届く。
幸と勝男の生存者名簿に、二人の名はない。
次回、第44話。
「会えた」
もう一度、手を握れた。
もう一度、名前を呼べた。
だが、二人に残された時間は、あまりにも短かった。




