三つの返事
『幸と恵のものがたり』
第42話 三つの返事
昭和二十年八月九日。
長崎へ原子爆弾が投下されてから、まだ数時間しかたっていなかった。
佐世保の空からも、長崎方面へ立ち上る異様な雲が見えた。
黒く。
白く。
灰色に膨らみ。
空を押し上げるように、途方もない高さまで伸びていく。
通常の爆撃で生まれる煙ではない。
広島の知らせを聞いたばかりの人々には、それが何を意味するのか、説明されなくても分かり始めていた。
龍弥は、作業場の外へ飛び出していた。
溶接面も。
工具も。
手袋も。
すべて置いたまま。
ただ、長崎の方角を見た。
「恵さん……」
声が漏れた。
返事はない。
当たり前だった。
長崎は遠い。
それでも、龍弥は叫んだ。
「恵さーん!」
周囲の工員たちが振り返る。
「恵さーん!」
もう一度。
さらに大きな声で。
「恵さーん!」
その名を呼べば、長崎まで届くような気がした。
あの雲の下に。
自分の妻がいる。
この世にたった一人。
自分が心から愛した女性。
泣くときも。
怒るときも。
無理して笑うときも。
自分の帰りを待つと約束してくれた人。
その人が、あの雲の下にいる。
一 帰らせてください
龍弥は、そのまま事務所へ走った。
「長崎へ帰らせてください!」
上役が机から顔を上げる。
「何を言っとる」
「今の爆発、長崎です!」
「まだ確かな情報はない」
「恵さんがおるとです!」
龍弥は机へ両手をついた。
「妻がおるんです!」
「篠田、落ち着け」
「落ち着けるわけなかでしょう!」
声が部屋へ響いた。
「広島と同じ爆弾かもしれん!」
「恵さんは、やっと体が戻ってきたばかりなんです!」
「勝一さんも節子さんもおる!」
「俺の父さんも母さんもおる!」
「帰らせてください!」
上役は苦い顔をした。
「鉄道が止まっとる」
「歩きます」
「道路も寸断されとる可能性がある」
「船でも何でも!」
「今は軍港の警戒もある」
「そんなもん知るか!」
部屋が静まり返った。
軍需施設で。
上官を前に。
決して口にしてはいけない言葉だった。
それでも、龍弥は止まらなかった。
「妻が死ぬかもしれんとに!」
「ここで船ば直せって言うとですか!」
二 止める手
中村浩一が、龍弥の肩をつかんだ。
「龍弥さん!」
「離して!」
「このままじゃ、拘束されます!」
「恵さんがおると!」
「分かっとります!」
中村も叫んだ。
「俺の家族も長崎です!」
龍弥の動きが止まる。
中村の目にも涙が浮かんでいた。
「でも、今ここで龍弥さんが捕まったら」
「長崎へ行けんままです」
龍弥は息を荒くする。
拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
「なら、どうしたらよかと」
声が小さくなる。
「何もできん」
「……」
「妻があの雲の下におるのに」
龍弥は、その場へ膝をついた。
「何もできん」
三 名前を叫ぶ
作業場の外。
龍弥は再び長崎の方角を見た。
雲は、まだ空に残っている。
「恵さん」
一度。
「恵さん」
二度。
「恵さん!」
三度。
声がかれる。
それでも呼ぶ。
「聞こえとるなら、返事して!」
「恵さん!」
「頼むけん!」
「返事して!」
答えるのは。
遠くの警報。
工場の金属音。
人々のざわめき。
それだけだった。
龍弥の中には、恵の声が残っていた。
『大丈夫って書かんで』
『毎日手紙書いて』
『帰ってきたら、夫婦になろう』
『うちは待っとるけんね』
『必ず帰ってきて』
「俺が帰るって約束したとに」
龍弥は呟いた。
「待つって言ってくれたとに」
「何で」
涙が落ちる。
「何で、そばにおれんと」
四 救護所の恵
長崎。
臨時の救護所。
恵は、戸板の上へ寝かされていた。
衣服は破れ。
皮膚には火傷。
左脚には深い傷。
頭には布が巻かれている。
呼吸は浅い。
周囲には、大勢の負傷者。
泣き声。
うめき声。
水を求める声。
家族の名を呼ぶ声。
「お父さん……」
恵が目を開けた。
「お母さん……」
返事はない。
焦げた幸の手紙が、右手の中にある。
救護に当たる女性が、恵の顔をのぞき込む。
「聞こえますか」
「はい……」
「名前は?」
「篠田……恵……」
「家族は?」
「お父さんと……お母さん」
女性は言葉に詰まった。
恵は続ける。
「幸姉ちゃんから……返事は?」
その問いにも。
誰も答えられなかった。
五 父の返事
恵は目を閉じた。
加工場で働く父・勝一の姿を思い浮かべる。
工具。
鉄。
ボルト。
ナット。
機関車を支える部品。
「お父さん」
心の中で呼ぶ。
『やってみるか? 難しいぞ』
幼い頃。
加工場を手伝った日。
父はそう言って笑った。
戦争が始まり。
軍需部品を作らされ。
自分の仕事が人を殺すものへつながるのではないかと悩んだ父。
それでも家族を守るために働いた。
「お父さん」
もう一度。
返事はない。
加工場の瓦礫の下。
勝一の声は、もう戻らなかった。
六 母の返事
「お母さん」
節子の声を探す。
薄い粥。
野菜雑炊。
メイボの煮物。
食べ物がない中で。
娘を生かそうとした母。
『今日は、恵が食べる日たい』
そう言って。
自分の分まで差し出した。
国が何を言っても。
人の命が軽くなることはない。
そう教えた母。
「お母さん」
返事はない。
台所の方角。
崩れた梁の下。
節子もまた、戻ってこない。
七 姉の返事
「幸姉ちゃん」
恵は、焦げた手紙を胸へ寄せた。
文字の一部が消えている。
『四人で汽車に乗ろう』
その一文だけは、まだ読めた。
「幸姉ちゃん」
『これは飛行機ではありません。姉の想像上の生き物です』
自分が書き加えたツッコミ。
あのとき。
二人は離れた町で笑った。
幸の大きな声。
少し調子外れの歌。
勢いで押し切るボケ。
それへ恵が突っ込む。
「お姉ちゃん」
返事はない。
広島。
鉄道官舎。
八月六日。
幸の声も、もうこの世にはなかった。
だが、恵はまだ知らない。
八 龍弥の手紙
佐世保。
龍弥は、手紙を書こうとしていた。
だが、鉛筆を持つ手が震える。
『恵さんへ』
そこまで書いて止まる。
何を書けばいいのか。
『無事ですか』
分からない。
『生きていますか』
答えは来ないかもしれない。
『すぐ帰ります』
帰れない。
『待っていてください』
待つ力が残っているかも分からない。
龍弥は紙へ涙を落とした。
「何て書けばよかと」
中村が隣へ座る。
「名前だけでも」
「名前?」
「恵さんの名前」
龍弥は、紙へ書く。
『恵さん』
もう一度。
『恵さん』
さらに。
『恵さん』
手紙いっぱいに。
妻の名前を書く。
それしかできなかった。
九 原田と山崎
長崎機関区。
原田と山崎は、負傷しながらも救護に回っていた。
線路は寸断され。
建物は壊れ。
職員も倒れている。
「原田!」
山崎が呼ぶ。
「こっちの人ば運べ!」
「はい!」
原田は、血のついた顔で応える。
だが、頭の中には大村家がある。
恵。
勝一。
節子。
そして広島の幸と勝男。
「区長」
「何だ!」
「大村家へ行きたい」
「今は無理だ!」
「でも」
「ここにも人が倒れとる!」
原田は歯を食いしばった。
目の前の命。
離れた場所の大切な人。
どちらかを選ばなければならない。
「勝男」
原田は呟いた。
「お前なら、どうする」
答えは分かっていた。
目の前の人を助ける。
勝男なら、そうする。
原田は負傷者を抱え上げた。
十 長崎へ向かう決意
佐世保では。
ようやく一部の職員へ、救援要員として長崎方面へ向かう可能性が伝えられた。
龍弥は真っ先に名乗り出る。
「俺が行きます」
上役が言う。
「救援班は、負傷者搬送と施設確認が優先だ」
「分かっとります」
「家族探しだけはできんぞ」
「分かっとります」
「命令に従えるか」
龍弥は、拳を握った。
「従います」
「本当か」
「でも」
龍弥は顔を上げた。
「妻ば見つけたら、助けます」
上役は、しばらく龍弥を見る。
やがて。
「準備しろ」
龍弥は走った。
十一 遠い道
鉄道は使えない。
道路も、ところどころ寸断されている。
救援車両。
徒歩。
使える手段をつなぎながら。
龍弥たちは長崎へ向かうことになった。
「恵さん」
移動中も、龍弥は名前を呼ぶ。
「待っとって」
「今、行くけん」
「絶対、死なんで」
「俺が行くまで」
祈りではない。
命令でもない。
ただ、愛する人へ届いてほしい言葉。
「生きとって」
十二 三つの返事
救護所。
恵は再び目を開けた。
周囲の声が遠い。
「お父さん」
返事はない。
「お母さん」
返事はない。
「幸姉ちゃん」
返事はない。
三つの声。
幼い頃から。
いつも自分へ返ってきた声。
父の低い声。
母の優しい声。
姉の大きくて騒がしい声。
その三つが。
もう、どこからも返らない。
恵の目から、涙が流れた。
「一人になったと?」
かすかな声。
救護の女性が手を握る。
「一人やなかよ」
だが。
恵が求めているのは。
その言葉ではなかった。
十三 もう一つの名前
「龍弥さん」
恵が呼ぶ。
その名前だけは。
まだ、この世のどこかにいる。
佐世保。
長崎へ向かう途中。
妻の名を叫び続ける男。
「龍弥さん」
恵の唇が動く。
「来て」
声は小さい。
だが。
その願いは確かだった。
十四 焦げた手紙
恵は、幸の手紙を開こうとした。
指に力が入らない。
救護の女性が手伝う。
破れた紙。
消えた文字。
それでも残った一文。
『四人で汽車に乗ろう』
恵は、そこへ指を置いた。
「お姉ちゃん」
涙が落ちる。
「先に行ったら、怒るよ」
まだ。
幸の死を知らない。
だから。
姉が生きていることへ、言葉を投げる。
「返事して」
「またボケてよ」
「うちがツッコミ入れるけん」
返事はない。
十五 龍弥の走る姿
長崎へ向かう救援車両が、途中で止まった。
道が崩れている。
「ここから歩く!」
龍弥は荷物を背負い、走り出した。
瓦礫。
煙。
負傷者。
倒れた電柱。
壊れた家。
長崎へ近づくほど、景色が変わっていく。
「恵さん!」
走りながら叫ぶ。
「恵さん!」
声がかれる。
足が重い。
それでも止まらない。
「恵さーん!」
自分の愛する人の名前。
この世にたった一人。
妻。
未来を約束した人。
帰る場所。
生きる理由。
「待っとって!」
龍弥は走る。
「今、行くけん!」
十六 届かない距離
だが。
長崎の町は広い。
救護所も無数にある。
負傷者は数え切れない。
名簿はない。
住所も分からない。
大村家は崩壊している。
恵がどこへ運ばれたのか。
誰にも分からない。
龍弥は、まず大村家跡を目指す。
そこに恵がいると信じて。
だが。
恵はすでに別の救護所へ運ばれていた。
二人の距離は。
数キロかもしれない。
それでも。
壊れた町では。
果てしなく遠かった。
十七 愛する人の名前
夕暮れ。
長崎の空は、煙に覆われていた。
龍弥は瓦礫の中で叫ぶ。
「恵さん!」
救護所で。
恵も呼ぶ。
「龍弥さん……」
互いの声は届かない。
だが。
同じ町で。
同じ時刻に。
二人は相手の名前を呼んでいた。
戦争は。
家を壊し。
線路を壊し。
電話を壊し。
道を壊した。
それでも。
愛する人の名前まで。
奪うことはできなかった。
十八 三つの声と一つの声
恵が待っている返事は、四つあった。
父。
母。
姉。
夫。
三つの声は。
もう返ってこない。
だが。
一つだけ。
まだ近づいている声がある。
瓦礫の町を走り。
煙の中で叫び。
何度も。
何度も。
妻の名を呼ぶ。
「恵さーん!」
その声は。
まだ遠い。
だが確かに。
恵のいる町へ向かっていた。
⸻
次回予告
父・勝一。
母・節子。
姉・幸。
三つの返事を待つ恵。
だが、その声はもう戻らない。
一方、龍弥は佐世保から救援班へ加わり、寸断された道を歩いて長崎へ入る。
大村家の跡。
崩れた加工場。
焼けた台所。
妻の姿はない。
「恵さん!」
龍弥は瓦礫の町を走り、臨時救護所を一つずつ探し始める。
そして夜。
原田から、一人の若い女性が救護所へ運ばれたという情報が入る。
名前は――篠田恵。
次回、第43話。
「妻を探す夜」
町が消えても。
道がなくなっても。
名簿がなくても。
龍弥は、愛する人の名を呼び続ける。




